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2011年5月 3日 (火)

三品和広「戦略不全の論理」(2)

3.なぜ日本企業なのか

日本企業と米国企業を概念モデルとして比較しながら、なぜ慢性の戦略不全が日本型企業に起こりやすく、逆に日本型企業のアキレス腱が戦略の慢性不全になりやすいのかを整理する。その答えは、企業という制度のきわめて根源的な設計思想の中に存在すると著者はいう。

人が自分の幸せだけを追求して利己的に行動するとき、需要と供給はあたかも“神の見えざる手”に導かれるようにして一致し、社会全体の秩序は政府の指揮なくして保たれる。アダム・スミスが『国富論』で論じた有名な命題である。しかし、近代的な大企業は、スミスの命題に反する存在となっている。実際に、大企業が業務を推考するうえで必要とするモノやサービスを自社内で調達するとき、スミスが必要と論じた指揮権が発動されている。これは、市場を介した交換を置き換える行為となっている。これが市場と違うのは、大企業の中では、指揮を受ける側も、指揮を発動する側も、市場経済の原動力たる利己心を一時的にサスペンド、または保留している。企業内でみんなが利己心に基づく行動を維持するならば、指揮というものが成り立たなくなる。このようにして、大企業は、利害を一にしない多数の人の間の、利己心を保留した継続的な協業の上に初めて成立する。そうであるがゆえに、ここには宿命的な問題がついて回る。「人を動かすうえで何が利己心にとって代わるのか」「利害を一にしない構成員をいかに動機づけ、共通の目標に導くのか」という問題がそれである。この二重の問題の前の部分が企業のモチベーションの問題、後の部分が企業のコーディネーションの問題である。この二つの問題は、協業の成果を決定的に左右する。協業の成果の大きさは、それを構成する要素ベクトルの大きさと、要素ベクトルの方向が一致する度合いで決まってくる。いくら要素ベクトルが大きくても、お互いに逆方向を向いていれば、協業の成果は上がらない。また、いくら方向が一致していても、各々の要素ベクトルが小さければ協業の成果は上がらない。企業はこういうモチベーション問題とコーディネーション問題を同時に解くことを迫られている。コーディネーションは一般に指揮官が持つ権限とともに強化されるが、モチベーションは各構成員が持つ権限とともに強化される。ここに、限られた権限、または決定の自由度の配分をめぐるトレードオフが生まれるのである。特に規模が大きく複雑を極める大企業ともなると、これはかなり深刻な難題としてのしかかってくる。

日本型の企業モデルと米国型の企業モデルを比較すると、企業の根元的なトレードオフに対してとりうるアプローチが両極といえるほど対照的だ。日本型企業モデルは、2つの問題のうち、モチベーション問題に対して最強の解を用意するものと見ることができる。長期にわたって関連性のある仕事、または技能蓄積やキャリアパスを構成員に提供し、その中で構成員が自らの仕事の意味を深く理解、さらには創造することを尊重する。そして、本来は生活の顧客や仲間の評価を判断基準にして構成員が仕事に立ち向かう後押しをする。金銭報酬が伴わないのに仕事に没頭するのは、仕事に内在する喜びが心的報酬として機能している証であろう。これに対して米国型企業モデルは、コーディネーション問題に対して最強の解を用意することができる。そのために、最上位指揮者の育成と選任に多大なコストをかけ、いったん指名した指揮者には絶対的な権限を与える組織間のコーディネーションにおいても、資本の論理を貫徹するため、誰が決定権を握るのかは絶えず明確であり、疑問の余地は残さない。こうした米国型の企業モデルでは、絶大な権限を握る最上位指揮者をいかに統制するのかというガバナンスの問題に加えて、本質的に置き換え可能と位置づけられる構成員をいかに動機づけるかというやっかいな課題が残る。米国企業の特徴として衆目を引く高額の金銭報酬は、このようなモチベーション問題への苦肉の対応策という可能性がある。金銭報酬が強調されるのは、それだけ押し付けられてする仕事が面白くないからであろう。

これに対して日本型企業モデルにも、とくにコーディネーション問題に固有の課題がある。深く同じ方向にコミットしている構成員を上から一方的に押さえつけることなく、如何に同じ方向に向かわせるのか、である。これは一つの職場の内部に限らず、使命と機能を異にする部門・部署間でも持ち上がる。日本企業が和やコンセンサスを重視するのは、米国企業にとって金銭報酬と同じ意味で、突き付けられた課題への後ろ向きの対応と見るのが妥当かもしれない。

コーディネーションとモチベーションのうち、慢性戦略不全に関係するのは前者の方である。コーディネーションがうきくいかないので、チグハグとバラバラが起こるというのが、慢性戦略不全の徴候にほかならない。コーディネーションを第一義とする米国型企業モデルは、こうした慢性戦略不全を未然に防ぐことを主目的として設計されている。だから、慢性の戦略不全には陥りにくい。反面、モチベーションに弱点があるので、戦略の決定に必要な情報が下部階層から上がってこない可能性や、策定された戦略が下部階層によって狙い通りに遂行されない可能性に悩まされるのである。モチベーションを第一義とする日本型企業モデルでは、慢性戦略不全のリスクを甘受して、構成員の技能の蓄積と活用を最大限に促進するという別の目的のために設計されていることになる。慢性戦略不全が日本型企業モデルにおいて多発するのはそのためである。平易に表現すれば、日本の企業はエンジンは強力だけれどもハンドルのきかない自動車のようで、米国の企業はハンドルは精巧だけれどもエンジンの馬力が足りない自動車のようなものだ。どちらがいいかは一概に言えるものではない。

こうした特性の相違が現実にどのように投影されているかを見てみる。日本では、まるで四季に合わせるように新製品が登場して、派手な広告宣伝合戦を繰り広げる。新商品が次々と生まれは消えていくというのは、米国では考えられない。このような新商品を投入し続ける企業に目を向けると低収益に喘いでいるところが多い。ヒット商品に恵まれている企業ですら、高収益と呼ぶのにふさわしい水準に業績が全く届かないことも珍しいことではない。翻って米国を見ると、成熟分野には大型の長寿定番商品が存在する。バドワイザー、クリネックス、コーク、といったどれも商品名が辞書に掲載されるほどの存在感を持っている。米国の企業は、こういう大型定番商品を大事に育て、そのマーケティングに力を注ぐのが一般的である。そういう企業は持続的に高収益を上げていることが多い。日本企業の商品企画志向と米国企業のマーケティング志向、収益という視点から見れば、軍配が上がるのは米国企業のほうであろう。新商品は固定投資を必要とする分だけ収益上は不利にならざるを得ない。枯れた商品の方でも収益に貢献するのは、プロダクト・ポートフォリオの理論が教えるところでもある。製造や物流や販売促進策をコーディネートして、また商品を群れとしてコーディネートして、そして市場をグローバルにコーディネートして、枯れた商品を収益源に仕立てていくのは米国企業が得意とする技である。

ところが視点を変えて仕事の面白さを競うならば。軍配の上がるのは日本企業の方になる。新規に商品を企画して、市場に投入するともなると、多くの社員が開発、製造、営業の実務部隊から動員され、具体的な目標と明確な終わりを持つ仕事に従事することになる。この仕事は商品という目に見える形に結実し、うまくいけばその成果は社会的にも評価される。日本企業が収益を犠牲にしてでもヒット商品作りに明け暮れるのは、その設計思想によるものと考えられる。モチベーションを第一義に据えるため、実務を司る課やチームレベルの集団が主体性を持って仕事に取り組めるように組織全体ができている。しかし、彼らには担当する商品しか見えず、隣の商品や事業は見えない。会社のために良かれと思って、彼らにできるのは、その商品を成功させるだけで、その結果、個別商品レベルの企画が独り歩きすることになる。

マーケティングの本質は、こういう課やチーム単位の活動をいかに水平横断的に、そして人の異動を越えた異時点間で、うまくコーディネートするかにかかっている。これができて初めて商品間の統一性や、進化を遂げる商品の一貫性が生まれ、買い手の信頼を集めるブランドの育成も可能になる。これはコーディネーションを第一義に据える米国企業が得意とするところである。

要するに日本型企業モデルでは、現場の独走を防ぐのが難しいのである。営業や開発では、これが収益を軽視した新商品の過剰投入に現われる。製造や開発では、同じ傾向が収益を軽視した過剰品質、過剰機能に現われる。製品機能や品質を造り込む力では国際的に注目される日本企業が低収益に甘んじるのは、ここに原因がある。まさに慢性戦略不全である。

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