三品和広「戦略不全の論理」(8)
第六章 大局的判断の戦略論
戦略の要諦の一つは、構造に恵まれた市場で事業を構築することである。これが経済学の教える戦略である。一言でいえば差別化を生かした事業を造りなさいということに尽きる。技術の開発や市場の発見で他社に先行することがその前提となっている。実際には難しい。実は、そういう戦略論につながる経済学には大きな欠陥があると、著者は言う。経済学はモデル分析のための単純化の過程で現実のきわめて重要な側面を切り捨ててしまっているというのだ。経済学の教科書はどれも財がm個存在すると仮定して、市場に1からmまで通し番号をつけるところから出発するが、市場はこのようにディスクリートなのか。このフレームワークの中に収まる概念として、製品の差別化という発想がある。これは、すでにm個の市場があるときに、m+1番目の市場を創造するということに他ならない。経済学から導かれる戦略論は、この意味での差別化を奨励するのである。平易に言えば、モノとタイミングとロケーションの新しい組み合わせを生み出して、さらには参入障壁を周りに築いてそれを守りなさいというわけである。ただし、既知の方法で創造できる市場はあらかじめm個の中に含まれている。差別化ができれば理想的なことは分かっていても、どうすればそれが実現するのかは決して自明ではないし、技術その他の要素におけるブレークスルーなくして実現するものでもないであろう。しかし、実際の戦略の成功事例は、差別化を伴うものではない。ディスクリートな市場という捉え方をする限り、既存の市場の中で成功を収める事例が後を絶たないのである。物理的な視点からは競合相手がいるのだけれども、なぜか泥沼の競争にはならないのである。「似て非なるもの」、鍵はここにある。成功事例を繙くと、顧客と接する市場の側では差別化になっていなくても、言うなれば舞台裏で差別化を成し遂げているような場合が多い。個々の市場では同じでも、全体としての事業の構えが微妙に異なるのである。この違いのために、もしも競合相手が模倣をしようとすれば、総コストが高すぎて勝負にならない。だから競合相手がいても宿敵にはならないのである。異質化と呼ぶ現象がここにある。こうした異質化を成功裏に遂げると、収益力が劇的に向上する。これは経済学が教える差別化の威力とまさに同じである。ただし、異質化と差別化では、それを遂げるための手段が異なるのである。「異質化」とは「似て非なるもの」を作り出すことである。経営戦略の真の要諦は、ここにある。必ずしも物理的にモノを変える必要はない。むしろ物理的なものは忘れて、その背後に控える全体の合理性や全体の合目的性を見直すことこそが成否の鍵を握る。
企業が異質化を遂げるプロセスを追いかける。まず、その主体として、戦略を担うのは経営トップに限られる(Who)。異質化の発想は、成否を論じることができるものでもなければ、合議で決められるものでもない。些細な優劣を正すことに比べれば、全体の統合性を保つことの方がけた違いに重要である。であるが故に、異質化の発想は一人の人間の頭の中で生み出されるべきものなのである。ここで、前章でとりあげた長期の高利益を実現している企業を見てみると、立役者のような経営者が存在する。高収益企業が高収益たるゆえんは、戦略を担いうる強い経営者の存在を抜きに語ることはできない。
次に、異質化を遂げるタイミング(When)を考えてみる。まず、予め戦略という大きな塊があって、その通りにトップダウンで動くという構図は現実的ではない。経営者の机の上にあるディスプレイには日々刻々と現場から営業日報が集まってくる一方で、部屋の外には決裁を求める社員たちが行列をなす。そして、数ある会議の最中にすべての予定を吹き飛ばすような緊急案件もたまに飛び込んでくる。戦略の実体とは、こうして無秩序にやってくる、1つ1つの小さな判断の、長い期間にわたる積み重ねに他ならない。だから、戦略は事後的に浮かび上がるものであって、事前に鎮座するものではないのである。特に異質化は事業の構えに関わることであるが故に、第一歩が肝心であることは間違いない。ただし、いつ、どこからでも、それは容易に風化する。せっかく築いた土手が、そこに開いた小さな穴からやがて決壊するのと事情は変わらない。築いたらおしまいではなく、むしろその後が勝負とすら言ってよい。
所在(Where)の意味でも、これとよく似ている。戦略は、よく知られたPDCAのサイクルのようなフィードバックループを持つものである。そうなるのは、ひとつにはすべてを最初からみ切ることは不可能だという事情が関係している、さらには、すべてが最初から思い通りに運ぶとは限らないという事情もある。いずれにせよ、戦略とは事後的な微調整を必要とするものであり、そのためには経営者がフィードバックのかかる現場にいなければうまくいくものでない。
戦略の営為(What)は、経営者が能動的に仕掛けるループと経営者が受動的に迫られる一連の判断の組み合わせと考えるのが良い。戦略とは、能動的に構えることであり、受動的に判断することである。勿論、より具体的なレベルに降りていくと、核心や判断が何に作用するか、また作用すべきなのかという問題に直面する。収束不能なくらいに、具体的な決定事項は多岐にわたる。
次に戦略の論理(Why)と手法(How)を考える前に、戦略プロセスにおいて変わらないものは、戦略の主体である経営者の頭の中にあって、彼が個々の判断を下すにあたって参照する、判断の拠り所のようなものである。個別判断の中身は時と状況に応じていようにも変わるものであるが、その背後に控える判断の拠り所のほうはそう簡単に大きく変わるものではない。しかも、それは1つの塊として存在する。ここではそこに注目して、個々の判断を間接的に規定する準拠枠のことを広く「事業観」と呼ぶことにする。事業観とは、人が頭の中に持つ基本辞書のようなものである。この辞書が、情報から判断へり「翻訳」を司る。我々の周囲に存在する事物や、我々の周囲で起きる様々の出来事は、それ自体意味を持たない客観情報として頭の中に飛び込んでくる。それに主観的な意味を付与するのが基本辞書で、意味がいったん定まるとそこから半ば自動的に判断が導かれる。だとすると、問うべきは個別の判断よりも基本辞書ということになる。例えば、工場の床に落ちているボルトを見て、ただのボルトと受け止めるのか、清掃の不行き届きと見るのか、ボルトが抜け落ちたはずの機械の故障を心配するのか、は人が持つ基本辞書次第である。元は同じ情報でも、翻訳次第で大きく判断が変わりうることは、これらの例から明らかである。基本辞書が人によって異なるのは、それが「意訳」を含むからである。そして、単なる意味解釈の体系から始まる基本辞書が膨らんで、何をどうするとどうなるという因果関係の体系を含むようになり、そして何は何より大事かという優先順位の体系を含むところまで拡大すると、翻訳は深い理由に裏付けされた判断、そして行動に直結する。さらに優先順位の体系が頭の中で充実して来ると、その上に自らが携わる事業の見方とでも言うべき基本認識が成立する。これが更に強くなると「この事業はかくあるべし」という核心に最後は発展するのである。事業観とは、このような体系の階層を網羅する概念に他ならない。基本辞書の中にこういう体系の階層がどこまで積み重なっているかは、人によって様々であろう。そういう中で経営者を経営者たらしめるのは、基本辞書の厚みになければならない。この体系の階層の積み重ねが稠密で、かつ厚い時、そこから生まれる判断は大局的と呼ぶにふさわしくなる。
議論はこの後、企業戦略論の系譜と事業戦略論の系譜として戦略論の系譜を振り返りますが、興味ある方は本書を参照願います。
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