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2011年5月 1日 (日)

三品和広「戦略不全の論理」(1)

Rori 日本企業の多くは、製品開発や大量生産の実務能力に長ける一方で、その力を収益に結びつけるに至っていない。戦略が機能しない「戦略不全」の状態に陥っているからである。と著者は言い、そういう戦略不全の実態と戦略不全を患う理由を解き明かし、その上で問題を超克するための道筋を示そうとする。ただし、本書が出版されたのは、2004年であり、具体的な事例が示されるが、当時の状況を勘案して本書を読むべきである。

日本企業は、長い時間をかけて地に足のついた実務能力を形成するキャリアのシステムを築き上げてきた。それがゆえに最強と目される実務的な組織能力を有している。ところが、このキャリア・システムの中からは戦略を司るべき経営者が出てこない。実務技能と経営技能が本質的に異なるからである。その結果、経営の実権が創業経営者から操業経営者の手に移るにつれ、日本企業の経営は戦略性を失うに至っている。日本企業が本格的な戦略を持って競争に臨むためには、戦略のできる経営者を造るところから始めなければならない。

第一部 戦略不全の実態

第一章 日本企業の戦略不全性

1.戦略を何とみるのか

戦略という言葉の語源は、軍事用語で2500年前の古代ギリシャまで遡る。ところが、戦略が独自の概念として生まれるのは18世紀から19世紀初頭にかけてのことだという。武力衝突は人類の長い歴史と不可分であったにもかかわらず、近代に入って初めて戦略という概念を要するに至った変化とは何か。この戦略ということと表裏一体にあるのは、大規模複雑性である。近代以前の紛争では敵対する武力衝突に突入し、どちらかが勝利を収めた時点で終結するのが常であったが、動員兵力が大規模化した近代戦は1回の交戦で簡単に終わるものではなくなった。そこで、交戦における軍隊の使い方を戦術と呼び、戦争目的の遂行に向けた個別交戦の用い方を戦略という区別が生ずる。ここに来て、局所的な武力衝突に勝つことよりも、継続性を帯びる戦争の中で上位の目的を満たすことが関心の焦点に浮上した。

経営の場合も、軍事の場合と事情はかわらないだろう。商業や工業は本源的に戦略を必要とするものではなく。供給のあるところから需要のあるところへ機敏にモノを運ぶ、または安く上手にモノを造る。そういったことさえ確実にこなしていれば、本来はそれでよかったのである。そこに戦略の必要はないし、戦略がオペレーションの失敗を救うわけでもない。経営の問題の大半は、オペレーションの管理、すなわち出来て当たり前のことをいかにきちんとやり遂げるかにある。経営学も、ヒトとモノとカネの管理手法から出発している。オペレーションが工夫を要するのは確かだが、頭を使うことがすべて戦略ということではないのである。経営の世界に戦略というものが導入されたのは、巨大企業の多角化と、それに伴う事業部制組織の導入である。新しい市場を科学技術の力で作り出した企業は、新規需要が一巡するまで半ば必然的に成長と繁栄を約束されたが、市場は遅かれ早かれ飽和に向かい、大型発明も枯渇する。そこで潤沢な資金を持て余す巨大企業は多角化に打って出た。その結果として複数の事業を統括する本社機能が生まれ、経営は初めてオペレーション以外の課題に直面するに至った。ここでも鍵は大規模複雑性にある。多角化の矛先をどこに向けるべきか、事業間の資源配分をどうすべきか、こういった本社機構に固有の新しい課題が、戦略という概念を新たに呼び込んだ。そして、戦略という概念がいったん生まれると、同じく大規模複雑性を増していった個別の事業でもそれが用いられるにいたったのである。

戦略というと、「戦いに勝つ」という目的か想起されやすいが、それは誤解である。目の前の敵にいかに勝つのかという関心は、時間の流れの下流である戦術の領域である。戦略固有の領域は、同じ時間の流れの上流のほうに位置する。そこでは戦う相手を選ぶ選択肢もあれば、戦いを回避する選択肢もある。戦うことなく相手を屈服させる可能性すら視野に入ってくる。軍事戦略の場合、戦略を要する主体は国家にあり、その国家の目的、すなわち国の繁栄に資することが国家戦略の機能と広く解釈すればよいであろう。

経営戦略の場合、戦略を要する主体は企業であり、企業が内包するところの事業である。企業や事業の目的は、長期の視点から最大限の利益を確保することにある。したがって、長期収益の最大化に資することが企業戦略、または事業戦略の固有事業ということになる。例えば、売上、またはその成長が重視されることもあるが、それは売上を拡大すれば利益も拡大するという暗黙の前提があってのことである、究極の目的は、あくまでも収益である。いくら単年度の収益が巨額にのぼろうが、それが爆発的な現象にすぎず、将来の収益を犠牲にしたものであれば、戦略性を認めるわけにはいかない。逆に、今の収益を削って投資に回し、それ以上の収益を後で刈り取るという行動は、戦略的と言える。戦略が見据えるべきは、長期にわたって実現する収益の実質総額なのである。

ところで、戦略と経営はどう違うのか、企業は、長期収益の最大化を図る前に自社の存続を保障しなければならず、そのためにはやって当たり前という業務を無視するわけにはいかない。こうした業務は、うまくやらなければ企業の存亡にかかわるかもしれないが、うまくやっても長期収益の増大に積極的につながることはない。企業の中で執り行われる日常業務の大半は、そういうものである。経営とは後ろ向きの営為も含めてすべての業務を対象とするものである。それに対して戦略とは、長期収益の最大化に直接関与する営為だけを切り離したものと考えればよい。

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