無料ブログはココログ

« 濱野智史「アーキテクチャの生態系」(3) | トップページ | 濱野智史「アーキテクチャの生態系」(5) »

2011年5月17日 (火)

濱野智史「アーキテクチャの生態系」(4)

第三章 どのようにグーグルなきウェブは進化するか?

ここでは「2ちゃんねる」について見ていく。これを内容如何とは別個に生態系としてみると、グーグルのような検索エンジンとは無関係に成長し、運営されてきたという特徴が見える。これは前章の議論、大量の人々が社会的と言える規模で集まるソーシャルウェアは、たくさんのユーザーが集まると、有益な情報とそうでないノイズとの混在率が大きくなり、自分が目的としている情報に辿り着きにくくなると言う状態になる。これはある種のトレードオフのようなもので、ソーシャルウェアが不可避に孕む問題と言える。これに対して、グーグルは、ウェブのハイパーリンクというアーキテクチャの特性をうまく活かすことで、優れているといわれる情報を的確に検索するシステムを構築した。

「2ちゃんねる」は、「dat落ち」といって、1つのスレッドに1000以上の書き込みが入ると、自動的に書き込めなくなり、過去ログを参照することができなくなる。つまり、ハイパーリンクに相当するものが時限つきでしか存在していない。さらに、コミュニケーションが盛り上がり書き込みが増えれば、それだけ既定のスレッド制限を早く受け、そのスレッドがウェブ上に存在している寿命も短くなる。これでは、検索エンジンが巡回して来る前に。そのスレッドは事実上消えてしまい、検索の対象になり得ない。

では、ユーザーたちは、自分の求める情報やコミュニケーションをどのように探し求めるのだろうか。「スレッドフロー式」という仕組みがある。「2ちゃんねる」のトップページには特定の分野(話題)ごとにスレットが分類されていて、ここを訪れるユーザーは関心のある分野のスレッド一覧を探す。スレッドフロー式はその表示されるスレッドの順序に特徴がある。そこでは、基本的に何らかの書き込みがあったスレッドから順に並べられている。もともとスレッドの表示順序は固定しておらず、絶えず書き込みの状態で流動している。このようなアーキテクチャにより、活発なスレッドは一覧表示の上位にあり、ユーザーの目に留まりやすくなる。このように「2ちゃんねる」のコミュニケーション・メカニズムの特性はフローという点にある。「dat落ち」もそのひとつ。スレッドには書き込み数の制限という規制が設けられているため、ある特定のトピックに対するスレッドが寿命を迎えた場合、そのトピックについての議論を続けたいと願うのであれば、新たに誰かが同一のトピックを立ち上げることになる。この時、暗黙の慣習で続きのスレッドには連番が付されます。それで盛り上がっているスレッドは一目でわかるようになっていて、このように、書き込み制限というスレッドの寿命に関する情報は、スレッドの熱狂度や勢いを計測するためのバロメーターとしても使われます。対して盛り上がらないスレッドは、ここでも差別化され徐々に淘汰されていく。

さらに、「2ちゃんねる」の情報流通メカニズムで重要な役割を果たすのは、「コピペ」です。実は、「2ちゃんねる」上の書き込みというのは、ほとんどがどこかで見たことのあるようなものばかりで、ユーザーたちが「2ちゃんねる」上の別の場所で見かけたネタ的に面白いと思った文章やグっときた文章を、そのまま「コピペ」(転載)したか、あるいは文章の一部だけを改変したものであることが多い。それはまた、しばしばお約束的な流れに従ってコピペされることが多いのも特徴と言える。こうして、「2ちゃんねる」上で流通する情報の多くは、莫大に存在するユーザーたちのコピペによって伝達・伝播されていく。こうした総コピペ主義の背景には、匿名掲示板という性質も大きく関係しているものと考えられる。なぜなら「2ちゃんねる」では、そもそも誰が書き込んだのかを認識できないから、そこでは著作者という概念そのものが機能し得ない。それが逆に、自由な著作物のコピペによる伝播と流通を促しているとも言える。

このように「2ちゃんねる」の情報流通の特性は、情報が残らず常に流動し消えていく「フロー」と、一般的には許容されないような大胆な転載の連鎖によって情報が伝播していく「コピペ」の2点に認められる。こうした「2ちゃんねる」の生態系の特徴は、決してアーキテクチャそれ自体が機能しているとは言い難い、つまりシステムの「利便性」や「自動性」が大きく働いているのではなく、ユーザーの莫大な手動による協力によって成り立っていることだ。アーキテクチャ自体が生態系を運営するよりも、ユーザーたちが進んでソフトウェアのように作動することで、そこでの情報流通メカニズムが全体的に機能している。このような特性について、次の2点を論点として考察してみる。ひとつは、なぜ2ちゃんねるはわざわざフローの度合いが高くなるように設計されているのか、ふたつに、なぜ2ちゃんねるでは、あえて協力するユーザーが次々と現われてくるのか。

まず、一つ目の点について、2ちゃんねるの管理人である西村博之氏の語ったところによると、コミュニティ運営の大前提になるのが、コミュニティがどれだけ盛り上がっていったとしても、数年も経過すれば衰退していくという事実で、その理由は、一度形成されたコミュニティは、その内部における結束を高めれば高めるほど、新たに外部からやって来る新参者からみれば、その結果が逆に障害となってしまうからである。噛み砕いていえば、コミュニティが成熟すると常連が幅を利かすようになり、初心者が発言しづらくなるということに端的に現われる。この問題に対して。2ちゃんねるはシステム的な対策を打っている。例えば匿名性である。そもそも名前と言う手がかりがウェブ上に残らなければ、常連と呼ばれる人々は知覚され得ない。さらに「dat落ち」のようなフロー的性質は常連たちを排除するのに役立つ。しばしば、常連と呼ばれる人々は初歩的な質問をするような新参者に対して、過去ログをよめというような高圧的なもの言いをするが、過去ログが消失してしまうようなアーキテクチャになっていると、このような高圧的発言を行う権利そのものを予め抹消しているのだ。このような常連を排除するという設計思想は、他の一般的なネットコミュニティの運営とは正反対の方向にある。ちょうどこれは、伝統的な村落共同体に対して、近代的な都市空間は顔の見えない、匿名的な人々が集まる空間であり、だからこそ多様な人々を抱えることができる。かつ絶えず成員の出入りが生じている。これは「2ちゃんねる」のような雑多で猥雑なウェブ上の巨大空間を形容するにふさわしい。

ただし、このような「2ちゃんねる」のアーキテクチャの特性は、初めから常連を排除する目的のために設計されたと言うよりも、dat落ちはサーバーの容量という物理的な制約のため設定され、それが結果的には常連を排除すると言う効果を生んだと言うような、進化論的なものの見方に一致する。

では、2点めの検討に入る。まず、「2ちゃんねる」のユーザーは「2ちゃんねらー」として理解される必要がある。これは、「2ちゃんねる」のユーザーは「2ちゃんねらー」としてウェブ上で振る舞うが、これは「2ちゃんねらー」という一つの壮大なキャラになりきっていることだ。だからこそ、互いに誰だかわからないような匿名的存在であっても、互いに協力することができる。どういうことかというと、「2ちゃんねる」のようなデジタル・コミュニケーションでは、送信者と受信者の間で何らかの内容(メッセージ)がやり取りされると言うところから、やり取りが成立している、つまり、繋がっているという事実の次元に主目的が移っている。そこでは、コミュニケーションしている事実を確認すること自体が自己目的化していると言える。しかし、「2ちゃんねる」は単に自己目的的なおしゃべりを続けるにはあまりに巨大すぎる。そこでの空転しがちなコミュニケーションを可能な限り持続させ、繋がりの強度を強めていくためには、定期的にネタが必要になる。「2ちゃんねらー」にとって内容はさしたる重要性を持たない。これはより集合的なレベルにおいて同様なことが言える。野次馬感覚やお祭り感覚のような盛り上がりに参加しているという事実が重要なのだ。そこで、そのような空間で「2ちゃんねらー」が協力し合うのは、彼らが互いを内輪として認識しているということになる。しかも「2ちゃんねる」の内輪は、いわゆる内輪プロパーが持つイメージを遥かに超えて巨大だ。その集合意識ないしは帰属意識が、互いに顔も見えないウェブ上での協働を支える信頼財(社会関係資本)として機能していると考えられる。例えば、彼らは同じ「2ちゃんねらー」でとみなしうる相手に対しては。そこで生み出されたAAやキャラクターという創作物を自由に再利用することを許容する。つまり、自分たちにとっての共有物であるとみなしたうえで、コピペの自由を認めるわけだ。

このように、「2ちゃんねる」という空間は、ある種不思議な二面性を抱えている。一方で互いの顔も見えない匿名的な都市空間でもあり、また一方では、「2ちゃんねらー」という名の一つのキャラたちが集まった巨大な内輪空間でもある。この二つの性質は相反するようだが、ここでは両立している。ただ内輪を形成するだけでは新参者を排除する方向に向かうが、匿名であるが故に新参者も気楽に参加できるけれど、そこで共有されているリテラシーやカルチャーを体得しなければ盛り上がり的な集合的協働現象が生まれない。

さて、ここで前章で扱ったブログとの比較を試みる。ブログは基本的に、自分が誰なのかをウェブ上で明らかにしたうえで情報を発信していくというツールと言える。既存の組織や権威のゲタを履くことなく、自分の書く文章一つで数十万といった読者に向けて自分の考えを表明できる。こうした『個』を強化するブログの普及的浸透は、マスメディアだけが表現することができた時代に終わりを告げ「総表現社会」をもたらすという論者もいる。これに対して「2ちゃんねる」は匿名性を基本としたアーキテクチャとして設計されており、「個として発言する」というアーキテクチャ的な基盤を有していない。これを対照的に扱うときに、個人主義と集団主義という欧米の個人主義と日本の集団主義になぞらえて議論が可能だと議論が展開される。そこで「2ちゃんねる」にも日本社会論にあるような否定、肯定の両側面でかたられると著者は指摘する。

« 濱野智史「アーキテクチャの生態系」(3) | トップページ | 濱野智史「アーキテクチャの生態系」(5) »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 濱野智史「アーキテクチャの生態系」(4):

« 濱野智史「アーキテクチャの生態系」(3) | トップページ | 濱野智史「アーキテクチャの生態系」(5) »