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2011年5月24日 (火)

濱野智史「アーキテクチャの生態系」(10)

第8章 日本に自生するアーキテクチャをどう捉えるか?

最後に著者は今後の指針について考える。但し未来予測はできないと言う。それは、生態系や進化といった概念モデルを採用した時点で、おのずから要請される立場といえる。進化論というフレームワークは、ある複雑な現象を目の前にしたとき、その変動を動かしている原動力を、偶然的なものに認める。そこでは、時代や世代を切り取って観察してみれば、優れたものが生き残っているように見えるが、それはあくまで事後的に見いだされたものにすぎず、偶然何が起こるか分からない以上、次の世帯゛に当てはまるとは限らない。さらに、生態系は相互依存的であり、何か一つでも欠けてしまえば、予想もしなかったような変化を全体に齎すこともある。

その一方で、生命現象の比喩というものは、そのような得体のしれない現象の全体性を把握するために用いられてきた。例えば、我々はウェブやグーグルの急速な成長を、進化論や生態系の比喩で認識しつつ、旧来型の企業組織やメディアといったものが機能不全に陥っていると論じている。しかし、かつての大企業組織や産業社会やメディアといったものが出現したとき、我々は、それを生命の比喩で捉えていた。さらにいえば、そもそも自然現象や生命現象の中に、ある種の「分業」を見出すという発想自体が、実は人間社会の認識を通じて出てきたものともいえるわけだ。このように考えれば、ウェブに生態系を見出すという認識自体が、二重三重の反復と転倒を重ねた上にあるのは明らかだ。これは、今ではインターネットやウェブが急速に成長しつつあり、我々はその得体のしれない巨大なシステムを。なんらかの予定調和的な秩序として捉えようとするニーズを抱えているということを意味する。

ウェブ上で行われている分業と協働の力は、少なくともこれまでのインターネットの歴史においては、偉大なる先人たちによって自由意志的に行われていた。しかし、あまりにもインターネットが大衆的に普及した現在、それはもはやいつの間にか巨大に蠢き続ける、自然成長的なものとして立ち現われている。これは、我々がウェブを便利なものとして使っている間は、取り立てて問題にならない。しかし、ウェブ上のソーシャルウェアは、しばしば既存の社会や個人に対して牙をむける。つまり、ウェブを生態系として看做すということは、片方ではその成長と進化をオプティミスティックに捉えることに繋がると同時に、自分たちで作ったはずのものが。自分たちではコントロールできない外的な強制力として現れるということを意味している。

しかし、問題はインターネットの自由の本質は、そのアーキテクチャが自然成長性に開かれているという点にあった。だからこそ、その自由で自然な生態系のあり方護持する必要があった。そして、このようなインターネットの拓かれた性質、例えばアプリケーション層に新たなアプリケーションを構築する自由、によって、この日本という場所には2ちゃんねるやニコニコ動画、ミクシィといった日本特殊型のソーシャルウェアが次々と生み出されるにいたった。しかし、その多くはインターネットの自由や理念を信奉する人々にとって正面から肯定的できる代物ではないという扱いを受けてきた。一言でいえば、インターネットが自由で多様な生態系であるからこそ、この日本という場所には、反理想的ともいえるようなアーキテクチャが自然発生してしまうということだ。そして、問題は、そのように我々に感じさせているものこそが、少なくともこの日本という場所でウェブやソーシャルウェアについて考える際、生態系や自然成長性といった認識モデルを中半端なものにしてしまうということだ

このように、日本に自生するアーキテクチャを真正面から捉えることはできないのか、ということに対して、著者は二つの回答を提示する。その一つは、米国的なインターネット社会のあり方を唯一普遍のものとみなす必要はないというものだ。インターネットの自治的で開かれたあり方は、そもそも米国社会の自治社会と契約社会と共和制の伝統の上に成り立っている。つまり、インターネットが登場する前に、まさに自治・分散・協働的で個人主義的な社会のあり方が先に存在していた。つまり、技術が社会を変えるのではなく、社会が技術のあり方を決めると言える。だとすると、日本社会にインターネットという通信技術を移植することで、ただちに日本社会のあり方が米国社会のようなものに突如として変わるということはあり得ない。むしろ、日本という場所に、日本的なソーシャルウェアが自生的に現われてくるプロセスは正しいとすら言える。その進化の過程を、我々は、ウェブの多様な生態系のあり方の一つとしてみなすことができる。少なくともグーグルを中心としたウェブの姿だけを唯一の生態系と看做す必要はない。

もう一つは、一方で日本社会という性質も確固たる実在ではなく、例えば、社会が技術のあり方を決める、について、技術決定論がおかしければ、社会決定論も同様におかしい。つまり、社会と技術が明確に切り分けられ、確固とはしていない。ということだ。本書の中でも、技術(アーキテクチャ)と社会(集団行動)が密接に連動するかたちで変容していくプロセスを見てきた。ソーシャルウェアの進化プロセスは、前世代や別環境のソーシャルウェアにおいて、規範や慣習のレベルで実現されていた社会的な振る舞いが、アーキテクチャによる規制に置き換えられていく過程として考えられた。社会が技術を形作り、技術がまた社会をつくる。アーキテクチャと社会との間には、こえしたフィードバック・ループが複雑に絡み合って存在している。これまで、本書では、規範・法・市場・そして文化といった他の要素との相互影響の中で、アーキテクチャの進化プロセスが進んだ過程だ。今後も、我々の社会は、このようなアーキテクチャと社会の諸システムとの共進化的現象を目の当たりにすることになる。

ということで、ネットの動きに対して、アーキテクチャという切り口での議論をして見せたものというなのでしょうけれど、これを読んでいて、ビジネス書の戦略論とか組織論に置き終えてもいいような議論に思われました。2ちゃんねるの特徴を分析する際に、日本のユーザーの特殊事情やら、その相関関係で偶然も重なってスキームが確立していくということなど、経営学で日本的経営が戦後の日本社会での復興(=成長)をしていく中で、社会との相関関係で出来上がってきたことに通じるのではないか。対象がネットでアーキテクチャというようなカタカナ語を使っていて、東浩紀が推薦文なんかを書いているので、ゼロ年代とか最先端とかというようなイメージで受け取られてしまいがちだろうけれど、題材から切り離して、議論の展開だけを追いかければ、オーソドックスな経営書とかなり重なるので、私のような中年サラリーマンには読みやすいものだった。題材は別として、議論の内容は特に目新しいというものでなく、著者には社会科学系の古典をもっと読みなさい、あなたの言っていることは、ほとんど全部書かれてありますよといいたい。だから、この方の売りとしては、オジさんにも分かるように、2ちゃんねるやニコニコ動画やミクシィや初音ミクのことを、その内容というよりも、効果というのか、提供者の戦略というオジさんのボキャブラリーで説明してくれている入門書といったものではないだろうか。著者に対しては、よくお勉強しましたね、褒めてあげるというような、学生のレポート程度のものだと思う。とくに著者の独自の思考とか、そういうものは感じられなかった。

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