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2011年5月10日 (火)

三品和広「戦略不全の論理」(9)

第三部 戦略不全の背景と処方箋

第七章 経営戦略の3要件

戦略不全はなぜ起こるのか。端的な答えは、「戦略が難しいから」である。戦略が難しい理由は、大きく分けて3つある。善良な社員が会社のために良かれと思ってすることが、結果として会社の戦略に逆行するというのがまず1つ。情報や知識が集中する部課レベルの組織に委ねるのでは、そもそも戦略にはならないというのがもう1つ。そして、戦略はマラソンであって駅伝にあらず、すなわち経営者から経営者へバトンを渡すリレー方式ではうまくいかないというのが最後に1つ。この3つが絡み合うから、戦略は本当に難しいのである。

1.非合理性

戦略は、ある種の非合理性を必要とする。どういう事業に魅力を感じ取るのか、事業のどこに広がりを見出すのか、事業の収益構造をどう読み取るのか、事業を左右する組織能力をどう見るのか。こういう天下分け目の判断を、単純な理に照らし下してはならない。これが、戦略に課せられた要件の1つであり、戦略を難しくするもっとも高いハードルである。

経営で迫られる判断は、純粋に数理でも道理でも割り切れるものではない。カネとヒトの両方をインプットとして用いる以上、経営はむしろ数理と道理の間で折り合いをつけるように宿命づけられている。絶対性を帯びる真理はここでは判断の基準にはならないのである。だとすれば、人はどこに理を求めるのであろうか。これを読み解く鍵は人間社会性という原理にある。人間は一般に人の同意や共感をえること、社会に広く受容されることに価値を見出す。だから、それなりに筋道を立てて物事を判断しようとする。人に受容されたければ、人に理解されやすい筋道を立てるのが一番の早道であろう。ここで心理に代わって判断の基準となるのは情理であろう。しかし、情理そうものを合理的とは言わない。情理の問題は筋道を取り違えている点と、ローカル性の組み合わせにある。経営のコンテクストに限って言えば、企業や事業の長期収益が最優先されてしかるべきなのに、情理を理とすると、一事業所や一個人の利益を守るために大本の目的が犠牲にされかねない。また、他方では、全体の長期収益につながるとされる筋道は、それを受け入れる人が自ら検証する心理ではなく、世間一般で受け入れられているから自分も受け入れるという類のものが多いはずである。これは一般常識を重んじることから常理と言ってよい。このような常理はたしかに真理を含むこともある。逆に真理の顔をした嘘もそこに紛れ込んでいる。たとえば、規模の経済の関する通説がそうである。我々が合理というとき、実はこういう常理にかなうことを指している場合が多い。合理がこのような常理にかなうことを意味するのであれば、戦略はそれを否定する非合理でなければならないということである。戦略を司る人間には、少なくとも合理を部分否定することが求められている。理由は2つある。1つは常理が常に正しいとは限らないからである。もう1つは、常理がまさに大方の人の判断を形成するからである。戦略は、どこかで多数との同質競争を回避しなければならない。常理が良しとすることは他社も良しとする可能性が極めて高いということ自体に、すでに致命的な問題があるとしるべきで、戦略は、どこかでもっともらしい嘘の虚を衝くときに、最大の威力を発揮するものなのである。ここで常理に代わる理が「理外の理」、すなわち常識に潜む嘘の虚を衝く妙理に他ならない。良い戦略とは、常理に照らせば非合理であると同時に、理外の理に照らせば合理でなければならないのである。これが戦略に課せられた最大の要件である。このハードルは難関である。理外の理は、それを見抜くこと自体が難しいうえに、死優位の理解を得るとなるとさらに難しい。それに対して多くの人が知的理解を共有する常理に基づく判断は、社内でも合意を取り付けやすい。しかし、社内で合意を取り付けやすいということは、他社でも事情は同じと知るべきであろう。とういうやすき判断につけば、結局は多数による同質競争に陥るだけである。ただし、その悲惨な帰結が露呈するのはずっと後になってからのことなので、常理は無傷で生き延びるのである。

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