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2011年6月21日 (火)

苅部直「光の帝国 和辻哲郎」(10)

第3章 倫理学と政治

1.倫理学体系の形成

(1)人格より人間へ

1934年の『人間の学としての倫理学』、1937年の『倫理学』などで表明された和辻の倫理学体系の基本的特徴は、従来の人格の立場の根本否定として、独自の意味を帯びた人間の立場への移行がなされている。これまで、見てきたような人格主義から人間への移行はどのように行われたのか。

実は、1921年の『原始基督教の文化的意義』にも、その兆候が見えたのであった、第一に、かつて追い払ったはずの死の闇が再び和辻の心に付きまとうようになっていったのであった。親しい人の相次ぐ死を通じて次第に醸し出されていったと思われる。いくら教養を積んで人格を高めても、人を死の不安から免れさせることはできない。人格・生命・文化の光の背後にある死の闇は、人格主義をその内奥から脅かすものである。この時期、和辻は一時的に宗教への接近を見せる。それは生死を超える超越的なものへのひそかな思慕となって表れたもの。和辻自身は信仰に対しては両義的な感情を示し続けるが、人格主義を支える自律的個人のイメージは、内側から崩壊の危機にさらされ、超越的なものの影が、その自己完結性を脅かすこととなった。そして、第二に社会生活に存在する型の発見が別方向から和辻の人格主義を揺さぶる。和辻の人格主義の発想において、調和的共存は、個人が教養を身につけて人格を高め、人間本来の融和的性質を発揮することで可能となるものであった。つまり、外からの強制を廃し、内面的な心の修養に努めることが、真の調和を達成するのである。しかし、序章で紹介した土下座はこれを逆転させたものであった。そこでは身体を形に沿わせることが、逆に人の内面に変化をもたらし、他人との心の交通を感得させる。人格主義の立場からすると、これは二重の意味で脅威である。まず、心情さえ謙遜になっていれば、形は必ずしも等に及ばぬとの主張に反して、外面的な形が内面の謙遜な心情を生む以上、かえって内面の方こそ問うに及ばぬということになってしまう。さらに、この形はすぐれた哲学や藝術を学ぶことで培われたものではない。その意味で無教養な村人たちが、村落生活で古くから共有されてきた行為の定型を、ごく手軽になぞっているだけである。したがって教養を通じて人格を高めようという人格主義の主張は深い疑義にさらさられることとなる。現実の社会生活においては、教養などとは無関係なところで、人々の共存を可能にする型がしっかり根付いているのである。この時、和辻に対して、人と人とが交渉しあう領域としての社会が、初めて姿を示した。個々人の意識を超えたところで型を保存し、その行動を規定して集合的一体性を保つ生きた社会に見える表現の発見である。そして第三に、人格主義の限界を決定的に知らしめた事件が和辻を襲った。関東大震災である。震災後数日、余震と火災波及の不安におびえ、日常生活を支えていた電気・通信網の決定的な遮断として和辻に衝撃を与えた。減退生活を支える文明的基盤が消滅した状態に突如放り出され、和辻も流言蛮語に踊らされる。しかし、同時のこのような極限状況の中で人々が見せた行動は「純粋な人間の情緒へ感動」を起こさせるものだった。これは和辻にとっては衝撃的であった。文化を伝える情報伝達網が失われ、教養による人格陶冶とはおよそ無縁に状況下で、人々がごく当たり前に営利を離れ、互いに苦しみを救おうと行動しているのである。では、彼らが純粋な人間の情緒を生み出しえたのは何によってなのか。問題を再び内面的心情に回収することは、文化の遮断を身を以て味わった和辻には、人格の向上が教養と直結していたがゆえに不可能である。人格主義の立場は、ここに破綻を余儀なくされる。人格主義の立場は、死の不安と生きた社会における実践との両面から挟撃され、大震災体験に至って完全に破砕されたのである。

それは和辻にとって、哲学上の理論枠組みの根本転換を迫るものであった。人格主義はデカルト以後の近代西欧哲学が出発点としたコギトの立場を前提とする。すなわち、ただ一人思うものとしての自我が学にとって唯一確実なものであり、この自我が認識主観として客観的な世界を知覚する。これが知の基本構造であるとされていた。和辻の人格主義も、理想世界と現実世界との断絶を強調し、理想世界における他者や自然との調和に憧れる、いわゆるロマン主義的傾向を帯びているものの、その立脚点は外界を観照し感情移入するコギトだった言える。しかし、今や、内面の閉域で文化作品を鑑賞し理性的向上に努めていた自我は、その外部に蠢くものとの関わりを意識せざるをえない。それは、対象世界を知覚しつつ一人思う前に、超越的なものの影や、人々の社会的実践との連関にすでにさらされている。人格主義が思い描く個人の内的意識のドラマの領域が破られ、新たな立場が求められてゆくのである。この新しい枠組みは、後に『人間の学としての倫理学』において「観照の立場に先立ってすでに実践的連関の立場がある」ことの発見として定式化される。「実践的連関」はこの段階ででは人と人との行為的連関に限定されることになるが、和辻にとってさしあたり問題になるのは、自我は、孤立した認識主観として自らを対象化する以前に、その根底で外界の事物や他者との実践的なかかわりに組み込まれているという事態である。主観・客観の峻別を前提とする認識枠組の以前に展開する生き生きとした日常的経験においては、人間主体は自ら知らぬ間に己の外に出て、己を取り巻く諸々のものと出会い、それらと交流する世界において己を発見している。コギトの解体と実践的世界の発見とも言うべきこうした論題は、20世紀初頭以降のドイツ哲学が取り上げつつあったものである。

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