無料ブログはココログ

最近読んだ本

« 苅部直「光の帝国 和辻哲郎」(17) | トップページ | 苅部直「光の帝国 和辻哲郎」(18) »

2011年6月29日 (水)

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(9)

Ⅳ シェリングとハイデッガー

シェリングの積極哲学の輪郭に触れたところから容易に洞察されるように、シェリングとハイデッガーとの間には、よく似通った問題設定がある。例えば、(ⅰ)本質と実存との差別を説く点、(ⅱ)存在を絶対的に超越的なものと考える点、(ⅲ)何故存在者があってむしろ無ではないかと問う点、(ⅳ)哲学を反ヘーゲル的に智慧への愛と見る点、(ⅴ)超越的存在の神性を解き明かそうとする点、などがそれである。ハイデッガーでは、(ⅰ)『存在と時間』における如く、哲学の出発点は、ものの物在的な本質ではなく、現存在の実存構造にあり、そこから、(ⅱ)「絶対的な超越」である「存在」を解き明かそうとし、存在への問いの地平を拓きつつ、次いで、(ⅲ)「何故にそもそも存在者があってむしろ無ではないのか」と問いを深め、そして却って逆に、(ⅳ)学的な存在解明を止めて、貧しき智慧への愛としての存在の思索の中に入り、(ⅴ)更にそこから、存在の救い、聖、いわば存在の神性を開示し、受止めようという立場に深入りしてゆくのだが、これらの諸々の点で見る限り、如何にそれがシェリングのこれらの点についての問題設定の仕方と相似ているかは、前述した積極哲学の輪郭からしても、充分窺えるであろう。しかしながら、勿論、観念論の枠内のシェリングと、実存哲学を説くハイデッガーの両者が、その思索において全く同じことはあり得ず、シェリングでは未だ実存が人間化されておらず、従ってハイデガー的な実存分析はもとより存在しないのに対し、ハイデッガーではあくまで実存は人間的実存であって、これらの主題的分析こそが問題なのであり、また、シェリングではつまるところキリスト教的啓示が究極的となるが、ハイデッガーではそうした神ではない存在そのものの救い、聖のみが、最後のものになるというように、両者の間に決定的な差異があることも確実である。

両者に共通の問題設定は、第一に、存在の事実性、先行性ということの指摘にある。シェリングにおいて、実存は真に人間化されておらず、むしろ人間的なものは理性として捉えられていた。ところが理性の有限性が徹底的につき纏っている。ハイデッガーにおいても、人間的実存は、己によって存在し得たのではなく、常に既に世界や存在の中に被投されているという、自己によっては追い越し得ない有限的事実性という性格を持つ。その意味でハイデッガーの実存とシェリングの理性とは、ともに「有限的主観性の形態」の刻印を帯びており、だからこそ両者とも、何故に存在者があるのか、何故むしろ無ではないのかという、存在という深淵、存在という謎の前に立たされていたわけである。何故なら、概念的把握の中に包み切れない存在の事実性は、なぞとして、深淵以外の何物でもないからである。しかし、ハイデッガーは、思弁的に存在を神として了解しようということはなく、端的素朴な存在の思索の中で、実存の只中から存在に関わることのみが試みられる。

しかし、そこに第二に、そうした差異にもかかわらず、重要な同一志向が読み取れる。それは、有限的な自己が存在の地平の中に包み込まれる、基礎づけられる、という思想である。二人においては、有限的人間と存在一般との間に断絶があり、深淵がある。シェリングでは、理性は己の存在という壁に突き当たり、それを介してのみ、それは真の己の有限性を覚知し、かつは神としての存在へかかわり得る。ハイデッガーでも、実存は無の深淵に晒されることを介してのみ、初めて深くその有限性においてあり、かくして無の帳の彼方の存在そのものへとかかわり得る。そしてそこに智慧が完成する。あくまでも断絶を介して、有限的自己が存在という事実性、先行性に突き当たり、戦き、しかもその存在の世界に己を基づけ、解体させてゆくというところに、二人の共通の思索過程が存したと言っていいのである。

« 苅部直「光の帝国 和辻哲郎」(17) | トップページ | 苅部直「光の帝国 和辻哲郎」(18) »

ハイデッガー関係」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(9):

« 苅部直「光の帝国 和辻哲郎」(17) | トップページ | 苅部直「光の帝国 和辻哲郎」(18) »