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2011年6月23日 (木)

苅部直「光の帝国 和辻哲郎」(12)

(3)「人間の学」と時代情勢

和辻のヨーロッパ留学中から帰国後の時期、日本ではマルクス主義の流行と、それに対抗する民族の協調という二つの思想動向が活発化し、和辻の倫理学体系も、この状況を見つめ、応答する中で成立していった。マルクス主義に対してはー、和辻は、たとえば30年の「マルクス主義の倫理的批判」において、視線各主義の理性的個人が現実を離れた思考の産物であるのと同様に、マルクス主義の人間観もまた、経済的利害に還元された抽象的なものと批判する。そこでは人間の意識と行動が一切の経済状況の反映と総括され、人間が身を翻すに足る余地は理論から消滅してしまう。これに対して人間学は、生き生きとした心と身体を備えた全体的な人間像を保障するものだった。もともと、和辻がハイデッガーに注目したのも、一面は、こうした人間学の一種として『存在と時間』を読んだことによる。世界内存在の概念の理論的改鋳を通じて形作られた風土論は、マルクス主義に対抗する時代風潮として人間学の一種であった。さらに、和辻の独創的な点は、マルクス─エンゲルス自身がこうした人間学を説いていたと発見し、自らの体系に取り込んだことである。和辻の理解するところでは、彼らの初期著作は、自然科学的な自然は、人間の社会的存在から意識が発生し、その意識が洗練された後に、初めて成立することを明らかにした。人間こそが自然を自然として対象化せしめる根底的な地盤なのである。その人間の本質は社会関係の総体であり、この相互の間柄を作って生きる点で動物と人間とは決定的に異なる。したがって、孤立した存在として己を捉える個人意識の根底には、人間の自他の交通、従ってその間柄が働いている。生物的な群居に埋没する動物とは異なって、人間は意識的反省を伴った社会生活を営み、個人性と社会性の二重性格を持つのである。『ドイツ・イデオロギー』を和辻はマルクス主義を超える人間の学をマルクス自身が説いたものと受け取った。しかも、ハイデッガーからディルタイを経由して自らの理論を築くのに格好の着想源となった。ディルタイの著作は、日常生活における人々の振る舞いを人間活動の表現ととらえる方向を示唆するが、それを了解する経路を結局は偉大な藝術作品の鑑賞に限ってしまう。だが、マルクス─エンゲルスの議論は、たとえばただ一つの商品から、その背景としての生産・流通活動が織りなす膨大な社会関係の構造を手繰り出そうとする。ここから、日常生活のすべての場面は諸々の間柄が根底で渦巻く表現の海であるという和辻の視座が基礎づけられてゆく。さらに対象化された自然は人間の視線が生み出したもので、その人間の実相は社会的関係の総体であるとする彼らの発想が、環境世界に対して共同世界を根底に置こうとする試みを理論的に補強する。そうしたマルクス─エンゲルスの著作の独自に読解を通じて、人間の本質を人と人との間柄であるとし、日常生活における振る舞いの型に道徳理法の実現を見る、和辻倫理学の骨格が確立を見ることとなった。

一方、和辻が日本的なるものに目覚めたのは、民族協調が積極的に説かれ出した時期と重なる。和辻は明治維新を賛美し、ナショナリズムの存在を日本史全体に拡張して認めるようになる。和辻にとり、明治維新の第一の意味は、絶対主義の確立でも天皇政治の復活でもなく、ナショナリズムの政治運動化である。以前の和辻は大和王権による祭祀の統一が古代の国民的統合を生んだとまでは考えていたが、これに加えて、その原始的な信仰に基づく教団としての結合が、武家政権の成立や戦国時代の分裂にもかかわらず存続してきたと説き、その一貫性に日本の特殊性を見るのである。和辻が、日本におけるナショナリズムの超歴史的な持続性を確信した背景には留学体験に由来する特殊な事情があった。和辻は留学の途中上海に立ち寄った。27年のちょうどそのころ蒋介石の北伐軍が迫る混乱状態にあった。そこでの中国人と外国人態度の違いを目の当たりにする。中国人は動乱の噂に頓着せず、今現在の金儲けのことのみを考えているように映った。かれらは国家の権力の保護などは求めようとはせず、自分の金のみを頼りにする無政府の生活に徹するのである。これは、震災後の東京市民とは対照的に映った。震災と同様の一種の無政府状態において中国人は、互いに苦しみを分かち合い、助け合うどころか、他人の運命には無頓着に各人勝手に物を売り、危険が迫ると我先に逃げ出す。ここで和辻が発見した中国人の国民性は、まさしく現代文明の行動様式と共通するものであった。これと対比して、和辻は西欧留学を経て自覚した日本人の国民性を称賛することになる。日本人は、互いに助け合い、民族としての団結を基盤に全体の共生に配慮する社会的正義の実現に親和的な心情を備えている。従って日本人の国民性は、和辻にとって、よりギリシャ人的で人間性に近いのである。かつて古代日本─古代ギリシャに見出した湿やかな心情は、ここで現代日本人も超歴史的に共有する国民性へと位置を変更し、さらにナショナリズムの基盤と見なされるようになる。論文「国民道徳論」の中で、和辻は日本人の国民性の特徴を「しめやかな情愛」「距てなき結合」と規定し、その感情が古代以来綿々と続く「国民的団結」を支えたと説く。そしてこれが民族の伝統の根幹をなすとされるのだが、その時、同時に天皇位の持つ権威の超時代的持続が強調される。和辻によれば日本人のナショナリズム感情は、従来尊皇心として言い表されてきたのである。こう語るとき、単に過去の伝統の所在を確認しているだけではない。和辻の説くところでは、日本人の国民的団結の伝統は重大な現代的意義をも備える。

具体的には、民族の一体性を実現する組織としての国民国家への信頼が、以降の和辻の秩序構想の基盤をなすことになる。ここで国民国家は、単に国家の候成員と一民族が重なっただけの存在ではない。和辻の考えでは、日本に限らず、およそナショナリズムは社会的不正に対してとみに苦しみとともに憤る感情と結合し、道徳的理想を紐帯とすることで真のものとなるのであって、民族全体の共生を保障する社会的正義の実現に努めない限り、国民国家は本当意味では成立しない。この時和辻は、他民族との関係においても、利己的闘争を廃し国際的な協調に努めることが正しいナショナリズムのあり方と考えるが、それはあくまでも民族的自覚を媒介として成り立つとし、キリスト教に基づいた近代西洋の人類全体、普遍的道徳の立場を抽象的と批判する。普遍的な人間性が、それぞれの民族のナショナリズムに具現されることを通じて、コスモポリタニズムは初めて具体的な形を取るのである。しかし、いくら普遍的人間性の具体化と規定するとは言え、和辻の議論が、それぞれの民族の特殊な伝統にそれなりの価値を認める文化多元主義の立場をとることは明らかなのである。他方、用語は変わっても、堕落した現代文明に理想的な文化を対置する大正時代の発想枠組がこの時期の和辻にも残っていることはすでにみた。この利己主義を超えて調和を可能にする文化は、同時に全人類が普遍的に目指すべきものと考えられていたはずである。すると民族的伝統の強調と文化対文明の普遍的基準とはどう折り合いがつけられるのか。とりわけ日本人の国民性を和辻が賛美する文脈において重大な問題となる。これについて、和辻は日本文化の重層性という議論を提示することで解決を図った。日本的特性として何らかの文化的特徴を具体的に列挙するのではなく、さまざまな要素が併存する重層性が日本文化の特性だというのである。

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