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2011年6月26日 (日)

苅部直「光の帝国 和辻哲郎」(15)

和辻倫理学の第一の特徴は、空の否定運動が、個人による人倫的な全体への帰属として行われると説くことである。この時、個人の実体が否定されているのと同様に人倫的な全体もまた実体ではないとされる。家族を論じる際には、父親が父親らしく、子供が子供らしく、それぞれの資格に応じてふるまうことのうちに、家族の全体が現われると説明する。その集団に属する個人がそれぞれの地位に相応しい振る舞い方をすることが、人倫的な全体への帰属の具体的ないみであり、そのことが道徳理法の実現だということになる。従って、人間の道としての倫理は、社会生活におけるふるまいの型に実現する。つまり、それぞれの社会集団の習俗として共有される型が、倫理の具体的な現われだというのである。人間の二重性格については、その個人性とは個人が型から外れたふるまいをすること、社会性とは旧来の型に固執し他者にもそれを期待することと定義できる。そしいこの両極の相互運動から、具体的によりバランスのとれた型が形成されていくのである。集団が伝統的に伝えるふるまいの型は、こうした否定運動の積み重ねを通じて洗練されてきたものということになる。

第二の特徴は、人間の外的な行為に基盤を据えて議論を展開し、個人の内的な意識がどういう状態にあるかを問わない点である。和辻によれば、行為は個人の意志から説明されるべきものではない。たとえば、同じ石を投げるという身体動作は、河原や海岸で行われれば行為ではないが、学校内で窓ガラスに向けて行われれば、投げる本人の心づもりがどうであれ行為となる。すなわち、観察者の視点からして他者との何らかの連関を持っていることが、行為を単なる動作と区別する基準なのである。主体的な人間の主体性とは、その人自身が内的自覚によって実感するものではなく、第三者の目から観察しうる行為的連関における事実に示されたことで、初めて認められるものなのである。したがって、社会生活において個人が何らかの型に従うということは、その場面での役割に相応しいふるまいを他者に披露する、演技としての性格を帯びることになる。和辻は、人格(PERSON)の言葉がラテン語のpersonaすなわち仮面に由来することに注目する。つまり、人間の行為とは、常に何らかの役割を遂行することである。日常生活は、仮面をつけて他者の前に現れる演劇舞台である。そこで人々は仮面をかぶって互いに演技しあい、その役割にふさわしい型を忠実に演じたとき、行動は倫理的と賞賛される。人格主義の調和の幻想の崩壊は、新たな人格の捉え直しを迫った。ここで人格は、個人の内奥に秘められた意識ではなく、外に見える多様なペルソナの束なのである。その点で、間柄における倫理は、徹底して外の倫理といえる。もっとも、人間が倫理的にふるまうためには内面的な要素が全く不要だと説いているわけではない。行為が道徳的たりうるための基礎となる態度として、他者による信頼やまことといった心術のありようを指定している。和辻によれば、日常生活で人が他者との関係において行為できるのは、お互いの信頼を暗黙の裡に前提とするからである。ところが、ここに言う信頼とは、人が行為をする時には、あらかじめすでにその持ち場に応じての行為の仕方が期待されているのであり、信頼とは、その持ち場に相応しい行為の仕方でふるまうことに尽きている。同様にまことも、個人心理としてでなく、信頼にこたえる態度がまことに他ならない。つまりは、信頼もまことも、それぞれの場面に相応しい型を絶対的な倫理の現われ見なし、それに則って行為しようとする態度のことなのである。言わば、与えられた役割を忠実に演じるための演技者の心構えに等しい。しかしこうした演劇的社会観というべき考え方は、個々の場面で複数の役割、したがって複数の規範が存在しうる場合に一体どれを選択すべきかという問題を引き起こす。これに対して、和辻は規範の序列を一応提示することで曖昧に解決を図る

第三の特徴は、その規範の体系化である。家族・親族・地縁共同体・経済的組織・文化共同体・国家という順番で、様々な組織形態を検討していく。そして、家族における親愛、親族における相互扶助、地縁共同体における慎み、経済的組織における職分の自覚といったように、それぞれの組織について行為の型を列挙する。そして、人が家族を出発点として、文化共同体・国家へとより広範囲の共同性に参与するにつれて、そこで従うべき規範は、より上位で根底的なものと位置付けられる。したがって、文化共同体の内で最も広い集団である民族と、民族の全体を具体的に実現する組織としての国家が、最高位を占めることになる。国民国家において、一方では統治者が全体の共生を確保する正義の実現に努め、他方では被治者が国法を遵守して防衛戦争への従軍義務を負うことが、最も優先されるべきモラルということになる。その意味で、国家は有限なる人間存在の究極的な全体性と規定されるのである。しかし、和辻の国家論の独自な点は民族と国家とを原則的に分離したことにある。民族は言語活動の所産である文化産物の共有を通じて成立する社会集団として、共同の法律秩序の下における組織的団体たる国家とは峻別される。従って、国家の活動の実質内容たる為政者の行動が、民族の共通の利益としての一般意志から離反する可能性も生じる。民族の共生に配慮しない恣意による統治は統率ではなく、単に権力を行使するだけの、非正当的な支配に過ぎない。従って国民が従軍義務の遂行を通じて国家に忠誠を尽くすことも、無条件の随順ではなく、国家が人倫の道を実現することへの参与であるべきだとされる。

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