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2011年6月30日 (木)

苅部直「光の帝国 和辻哲郎」(18)

終章 光と闇

前章で、和辻の倫理学体系が一種の無神論的倫理学として構想されていたことに触れた。その連関は体系成立史からも明らかにうかがえる。人間を個人性と社会性の二重存在と見なす発想をマルクス─エンゲルスの著作の受容を通じて確立した後、さらに議論を深め、人間存在の根拠として空の否定運動を指摘するようになり、倫理学体系は確立を見たのだった。その途上で実は、同時代の危機神学との理論的対決を経ていたのである。和辻は34年の論文「弁証法神学と国家の論理」のなかで、ゴーガルデンの『国家的倫理学』を批判的に紹介している。ゴーガルデンもまた和辻と同様に、倫理問題の場所を人と自然の関係ではなく、人と人との関に見る。自己は他者との関係によって存在しているのであり、我は本質的に汝との出会いによってある。そして本来的な倫理現象は、現実には我か汝に背いて独立しているという罪責を負える空しさに基盤を置く。我と汝の関係の根底には常に絶対他者たる神と我の関係があるからである。超越的な神への信仰は、罪責的虚無の開示により人に自らの無力を自覚させることを通じて、隣人のとの真の出会いと理想的政治秩序へ向かわせ、その存在を守るのである。和辻はゴーガルデンの議論をこう整理し、他者との関係から背き出るところに我がただ一人であることの根拠があるとする発想を評価したうえで、我の根底にある無を恐ろしい虚無でなく、仏教的な空と考え直すことを提唱する。もともとゴーガルデンらの危機神学の主張は、1920年代のキルケゴール再評価の動向を承けて、理性的人間観への懐疑のもと、抽象的な人間一般には解消できない、今ここにいる自己の実存に焦点を当てるものであった。自己の理性が人類一般ひいては神の意志と直結しているという楽観的確信はすでに打ち破られ、今や人は己の生を自分自身の決断で引き受けねばならない状況へと放り出された。自己の根底に虚無があるとは、そうした事態の表現にほかならない。しかし本来的に人は単に孤立しただけの存在ではなく、眼前の汝との出会いと、それを通じての神からの呼びかけが、この我がほかならぬ自己自身であることを照らし出す。ここで汝─神からの呼びかけに答えるのは、様々な社会的役割としてのペルソナではない、その内奥にあるこの唯一の私なのである。

しかし、とりわけ詳しく批判するのは、ハイデッガーの『存在と時間』である。存在の週末である死に対する不安は、匿名の誰かの死亡事件という一般的な出来事ではなく、ほかならぬ自分一人に固有なものとして体得される。そして人は孤独に死の不安に向き合うことを通じて他人によっては代わりえない己のみに限られた可能性を自覚し、存在の意味を真に了解できる。この考えに対して、和辻は激しい拒絶反応を示す。人間の死は、単に一人の個人の消滅ではなく、葬儀・一周忌など、消滅という事実に周囲の人々がかかわる一連の出来事を含む経過である。つまり、個人の死は間柄の作り上げる舞台の上で演じられるエピソードの一つに過ぎない。ハイデッガーの説く不安が指し示す死の闇は、「人間存在の全体性」の放つ光の明るみにかき消されたかのようである。ここで重視されてるのは、個々人の死よりも、彼らを人間的に生かしめる人倫秩序が持続してゆくことである。和辻は人間の本質を死への存在に見るハイデッガーの考えを否定し、徹頭徹尾生への存在を語る。しかもそれは、アトム的個人の孤立した生ではなく、間柄における生の保持に努めるという意味での生への存在なのである。この関連でも、文化共同体としての民族が、人倫組織の中で最も重視される。民族の一員であることにおいて、人は断片的なペルソナに解消されない真の人格を実現できる。すでに虚無や死の闇に脅かされる孤立した主体という考えを拒否した以上、それは他と断絶した独我論的な自己ではない。言語と文化産物の共有によって成り立つ精神共同体において互いに交流することを通じて、役割とは異なる自己の内なる本来的なるものが完成されるのである。役割=ペルソナの背後にある自己への問いに、和辻は一応こうした解答を提示した。ここで、和辻倫理学において民族とは、血縁や地縁を媒介にして、その一員であることに特別な意味を了解させるような実質を帯びたコミュニティではない。それは地域間の交通を通じて文化産物の伝達が行われる範囲であり、一定の言語の共有が構成要件となるのは、それが伝達範囲の限界を画するからに過ぎない。つまり、和辻にとって民族とは一種の情報空間である。人々は、メディアの支えるコミュニケーション網を通じて互いに情報を伝え合い、共通に文化を享受することによって、初めて人間らしく生きられる。自覚的に民族の一員となることが真の人格の実現であるとは、こうした意味に他ならない。さて、ここに言う真の人格とは、和辻によれば相互に信頼し合う友人として行為することだと規定する。ここでの信頼とは様々な型を演じる演技者の心構えにすぎない。ペルソナの奥にある真の人格とは、いかなる具体的な型からも切り離され、明瞭な顔を失ったまま、メディアの供給する文化情報の波に漂い続ける存在なのである。型の喪失の時代に育ちながら、それを克服すべく型の倫理学の構築を和辻は目指した。だがそれが社会生活における様々な型を並べたのちに最後に提示する人間の心のかたちは、仮面の裏側のうつろな空隙にすぎなかった。『存在と時間』は、大衆社会においてメディアがもたらす情報を受け売りにし、身近な接触から独自に事柄を判断することを忘れて平均化・画一化してゆく人々を、das Manと呼ぶ。それは、ハイデッガーによれば、自己自身であろうとすることを忘れた、根無し草の頽落した人間あり方なのである。民族=情報空間における友人たちは、まさしくこのdas Manの姿に酷似している。

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