無料ブログはココログ

« 苅部直「光の帝国 和辻哲郎」(14) | トップページ | 苅部直「光の帝国 和辻哲郎」(15) »

2011年6月25日 (土)

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(6)

3.キルケゴールの実存概念

キルケゴールは実存の概念を近世的思惟の典型としてのヘーゲル的思弁に対して、哲学におけるもっとも重要な問題であるとして解明した、『哲学的断片への完結的非学問的後書』を取り上げる。ここでは「永遠の意識にとって歴史的な出発点というものがあり得るか。かかるものがどうして歴史的以上に関心を呼び起こし得るのか。永遠の福祉は歴史的な知識の上に立てられ得るであろうか」という問い根本軸として展開される。即ちキリスト教という一つの歴史的な宗教の上に、如何にして永遠の浄福への道が拓かれ得るのか、むしろそれは歴史的な一現象にすぎないが故に永遠の真理ではないか、そうした危惧を反駁し、逆に問題の立て方を根本的に取り換えるところに、その一貫した主題をおいている。つまり、キリスト教の真理性を客体的に問うことが重要なのではなく、まさしくキリスト教の問題性は、信仰という主体の決断にこそ、その核心があり、如何にそれを歴史的客体的に問うても、それはむしろキリスト教の本質から離れるだけであり、問題設定の根本の誤謬である。要は「個人のキリスト教への関係」という主体的な問題なのである。従ってまさしく「キリスト教こそ、その歴史性にもかかわらず、否まさしく歴史性により、単独者に対しその永遠の出発点たろうとし、単に歴史的であるとは別に単独者の関心を呼び起こそうとし、かくして単独者の福祉をその歴史的なものへの関係の上に基づけようとした、唯一つの現象である」、されるのである。キリスト教において問題なのは、主体的人間のあり方、しかも神を前にした信仰という最高のあり方であり、そこにキルケゴールの言う実存の問題が登場して来る理由がある。従ってこの著作においての実存の問題とは、キリスト教をもととした信仰する実存のあり方のそれであり、ここにキルケゴール実存思想の特徴と制約がある。

また、この『後書』の本編に当たるはずの『哲学的断片』において、先ず真理の問題が取り上げられ、キリスト教的真理観では、まず人は真理を掴む前に不真理の状態にあった。もしそうでなければ、人が真理に目覚めるに到るという高まりの意味がなくなる。しかして不真理の中にある罪の者をして、まさにそのことを悟らしめ、真理を受け入れる条件をも与え、人をば飛躍的に真理の段階に高める教師は、神でなくてはならない。神こそが人に真理を与える者であり、しかも神は、再び不真理の中に埋没する者に対しては、審判者でもある。かくして心理が開示される瞬間は巨大な意味を持ち、人はそこにおいて飛躍的に非有から有へと高まる。瞬間は時の充実である。そして、神の弟子たちは、この瞬間に、異なれる質の新しい人間となり、転回をなし、過去を悔い、このことによって再生を成し遂げる。これがキリスト教の真理観である。ところで、さらに続けてキルケゴールは論ずる、教師たる神と弟子たる人間の出会いはどのような形をとるかと。彼によれば、両者が了解しあうには、神が自ら学ぶ者のところに下がらねばならない。即ち神は僕の姿をとって現われる。だが人はこのことに気がつかない。人がこれに気づき、神を信ずるとき、そこにあの瞬間が可能になる。だが、学ぶ者が弟子となるのは、神と単なる直接的な同時代性によってでなく、ひとえに、神の生成という歴史的事実への信仰によってである。だから、神が僕の形をとって現われた歴史的事実に単に歴史的に関心しているたけでは、信仰は生まれない。永遠の福祉を与えるその事実への決断と信仰が重要なのである。キルケゴールは、このように僕となって現われた神という歴史的事実を出発点として、真の絶対的な逆説の中へと飛躍する悔い改めと再生の生き方、信仰という激情的なあり方、そういう人間の主体的な、しかも本来的なあり方をこそ、人々に呼び覚まそうと試みていたわけである。実存が、基本的には、神の前に立つ、「単独な」「主体的な」人間の、その「本来的な」あり方にかかわるものとされていることは、看過されてはならない。

『後書』では、より哲学的に実存としてキルケゴールは規定しようとする。ここではキリスト教を主体的に受止めるそのあり方が実存と名指されるわけだが、その根本イデーはキリスト教を客観的に扱う態度やヘーゲル的な思弁的思考法との対立の中で説かれる。「思弁は実存を度外視する。思弁にとって、実存するとは、実存したこと(過去)であり、実存は、永遠という純粋存在における消失的な止揚されるべき一契機になりおおせる。思弁は、抽象として、実存と同時的になることはできず、従って実存を実存として捉え得ず、後になって漸く捉えるに過ぎない」言うまでもなく思弁とは、絶対的精神の弁証法的展開を志すヘーゲル的な思考のことである。キルケゴールはこれに対し、実存の内面性を主張する。例えば、実存と思弁の対立というとき、究極的にはキリスト教信仰が問題となるのだが、いわば思弁は自己がキリスト者であるかどうかは問題にしない。しかるに、「問題なのは…君がキリスト者であるかどうかだ」と言われるような主体的な自己のあり方の問題、それが実存の問題なのである。真理を自己の存在の救いに関わるようなものとして、主体的に引き受け、受止めて扱うこと、そこにキリスト教の問題があり、そうした態度を可能ならしめるものが主体的思索であり、それが拠って立つ所以のものが各人の実存と言われるわけである。

では、主体的思索の根本的特徴は、どこにあるか。キルケゴールは本質的にして単純な根本問題の一つとして、そこで、死の問題に触れる。死はいつ来るか分からない。各瞬間が常に死に曝されているという死の不確実性。勿論死の問題を一般的に語ることはできるが、一般的に語るうちに人は死の不確実性を見失う。語る人がその時死ぬかもしれないのに、彼は自分の死を他人のように語ってしまう。まさしく、主体的実存とは、こうした死の定めなさを常に背後に控えた、有限的な、しかも単独の私なる個別者のあり方、生き方の問題なのである。しかも、こうした実存は、そのうちに生成と運動を秘め、本来自己を獲得すべく苦悶するところのものである。

近世哲学は総じて意識の哲学であったのに対して、初めてキルケゴールが、こうした具体的な人間の現実存在を発き出し、あの中世エクシステンチアの、外に立てられた現実の中にあるという現実存在の意味を、なかんずく人間のそれとし、しかもそれは主体的にかかわらるべき各個人の存在の核心としたことは、以上で明らかである。彼において実存は、抽象的思弁でない具体的な主体的な思索の中で扱われるべき最も人間にとって根源的問題であり、それは各個それぞれの内面性の問題として単独のものであり、死の不確実性に晒されている有限のものである。しかもそれは、それ自身の中に、美的、倫理的、宗教的の諸段階を宿し、究極的には神と自己の絶対的深淵を前提した超越的な宗教性にまで高まるべきもの、そういう人間の本来的なあり方への志向を含む情熱的なものであった。そうした人間各自の存在の最根源の究極のあり方、主体的で、単独で、有限な、本来性への志向を孕む、各自のあり方、己の存在のへと関心せざるを得ないようなそうした各個の存在の核心、それがキルケゴールにおける現実存在、即ち実存ということの意味するものであった。

ここで、我々ははっきり、中世エクシステンチアが人間化され、いわゆる実存哲学における実存になり得ていることを理解しよう。実存哲学での実存は種々人々によって異なるとはいえ、根源の意味は、こうしてキルケゴールの刻印を共通に持っているのである。ただ注意すべきは、キルケゴールのでは、その実存の喜遊曲の理想が、キリスト教信仰にあったという点である。

« 苅部直「光の帝国 和辻哲郎」(14) | トップページ | 苅部直「光の帝国 和辻哲郎」(15) »

ハイデッガー関係」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(6):

« 苅部直「光の帝国 和辻哲郎」(14) | トップページ | 苅部直「光の帝国 和辻哲郎」(15) »