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2011年6月24日 (金)

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(5)

2.近世哲学の実存概念への一般的態度

実存の概念が中世エクシステンチアにその起源をもっていたことは明らかであるが、後者が神による被造世界の中での客体的存在のあり方のみを意味していたのに対し、実存の語、そうした神学的背景を排除し、むしろ主体としての人間のあり方をばとりわれ優れて意味しているというその点から言えば、それは、近世哲学の媒介をまってのみ初めて可能となり得るものであった。近世哲学こそが、初めて人間を主体とすることによって、その自然の光に基づき、一切の存在者についての世界解釈を、人間を中心に構成した最初のものであった。それは人間の自己意識を唯一の確実な世界解釈の根拠として措定し、それに基づいてデカルト以来幾多の近世哲学の体系が組み立てられてきた。そのような態度のとり方、すなわち人間の存在を、世界の中心とする、まさしく世界の存在の最も根底にあるもの、つまり主体とする、というその点から見るならば、確かに近世哲学は、人間のあり方を中心に据えたもの、即ち或る意味ですべて何らかの形で人間的実存を世界解釈の中心に据えてきたもの、と言えるであろう。

そして、特に近世哲学の中にその萌芽を見ようとする場合でも、近世哲学に極めて特徴的なあの自己意識を手懸りとするというその側面を一応括弧に入れておかなくては、そのような企ては成功しない。デカルトから始まってヘーゲルの絶対精神の哲学に到る近世哲学は、やはり何としても、人間を中心としていながらも、その意識としてのあり方に視界を奪われ、真の意味での実存の概念を稔らせていなかったと言うべきであろう。

重要なのは、近世哲学全体は人間を中心原理としながらも、なお実存というものを取り出し得なかったということである。ではいわゆる実存哲学における実存概念の成立には、近世哲学は積極的には何の役割をも果たしていなかったのであろうかる中世エクシステンチアからその現実世界の中に現われ作り出されているという意味を受け継ぎながらも、実存概念が成立し得るためには、その現われ立つものが単独な人間そのものであるというように、根本的にそれが人間化され、主体化される必要があった。しかし近世哲学の主流派は、そうしたことを試みなかった。しかし、近世哲学の中に一つの重要な意識の哲学へり衝撃が、つまり人間主体の実存化が、ないしは実存の人間化が、先駆的に行われていたからである。それがキルケゴールの哲学である。近世哲学がその絶頂に達したヘーゲル哲学隆盛の折、それへの最も厳しい批判のひとつがキルケゴールによってなされた。キルケゴールが初めてエクシステンチアの主体化も人間化を成し遂げたのである。そしてそのキルケゴールの実存概念の成立には、近世哲学の内部でヘーゲルと並んでその絶頂に立ちながら、しかも実存概念への萌芽的な歩み寄りを示していたシェリングの思想が、重要な契機をなしているのである。シェリングを背景にしたキルケゴールが実存概念の、中世エクシステンチアに次いでの重要な先駆であるというべきである。このキルケゴールの実存概念が、その後の生の哲学の擡頭の後に、第一次大戦の破局の混迷を契機として、初めて実存哲学の実存として再生し受け継がれたと言っている。

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