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2011年6月23日 (木)

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(3)

第2節 実存概念の歴史的系譜

実存哲学思潮がが、実存というものを等しく哲学的思索の中心主題としたということ、ないしは実存というものに基づいて一切の世界解釈をなそうとしたこと、それを中核として新しい一つの哲学体系を構成してみせたということ、そこにある。それでは一体、それらが等しくそれに基づいているところのその実存とは、如何なるものなのであろうか。ここではハイデッガー哲学を「実存に基づく存在の哲学」と規定した我々の研究に必要な限りで、実存概念の歴史的系譜を探り、そうした背景から、実存哲学が等しく基づいているところの実存概念の歴史的地盤ないしはそれが共通にもっている意義について、考察する。

1.中世エクシステンチア

Ⅰ エクシステンチアの意味

実存という語が、もとは中世で屡々用いられた本質(essentia)対実存(existentia)という一対の概念から由来している。エッセンチアとは、「或るものが何であるかということ、即ちこの存在者の内容的規定を構成するところのもの」であり「本質」と言われるものであるのに対して、エクシステンチアとは「或るものがあるということ、このかくかくの性質をもった存在者が現実にあるということ」を「存在する働き」を意味する。

我々は、この両概念が如何なる意味を中世において担わされていたかを、トマス=アクィナスの『存在と本質について』の中に見出す。神において本質と実存とは等しいが、被造物では異なる。実存は本質から原因され得るものではないから、他のもの(神)によって原因されるのだと考えられる。これは神の世界創造ということから出発して、本質を事物の純粋可能態と見て、従ってそれが存在し得るためには実存がつけ加わらねばならないとする考え方であり、実存と本質とは実在的に違うという。

Ⅱ ハイデッガーの実存概念との比較

このような中世エクシステンチアの意義は、一体どのような形で実存哲学でいわれる実存へと受け継がれているのであろうか。

ハイデッガー自身も言うように、先ず、『存在と時間』で実存という用語を用いたのには次のような理由があった。つまり、人間という「現存在は、存在者として、いわば自己から外へと出ている、それは世界の中に立ち現われている、つまりex-sistereしている。ここに我々がこのExistenzという概念を現存在の存在様式として用いようとして取っておいた理由がのである。何故ならこの存在者には世界の中にあるということが属しているのであるから」。中世エクシステンチアの、あの原因と無の外に立てられ、現実化されて、ここ世界の中にある、というその意味合いが、ここにはきっきり生きているわけである。またハイデッガーはその意味合いを生かして、世界の中へと現実化された存在の背景に神の創造というものが隠されてはいる。ハイデッガーの場合、少なくとも『存在と時間』の頃に、神の創造ということは考えられていない。少なくとも、その背景を別すれば、中世エクシステンチアのあの現実化されて外ら立てられてあるという意味が、ハイデッガー的な現代の実存概念の中に今なお生きていることは疑えない。そして更にハイデッガーの場合、実存の本質的あり方は時間性とされ、それは本来「脱自的」であり、実存は時間性の「脱自相」の中にあるとされるが、この場合の脱自的とは「即ち自己から外へと出ている」ということであり、従って「その概念はExistenzの概念と連関する」ものだったのである。即ち実存は常に己を超えて外へ、世界の中に開かれて現実化されているものであり、それが脱自的ということであり、ひいては時間性のうちにあるということであるのだが、このような実存の本質規定の中にも、中世エクシステンチアの意味は生きている。そして更に、その実存がその中へと現実化されて実存するその場、それが初めは単に世界とされ、その中に実存はある─世界内存在として─されるが、それが更に深く後期ハイデッガーでは、存在者が存在に基づいて生起し顕現して来る世界と考えられて来る。世界とは、存在者が存在者として現れ、取り出されて来るその場所であり、それはひいてはそのことによって存在が己を匿してしまうところでもあるのだが、従ってそこでは、存在の顕現と秘匿、明るみと無化が交錯するのだが、それ故にその世界の中へと出で立つ実存は、「存在の顕現性の中へと出で立つこと」というek-sistentなものとされ、だからまた存在者が現れることは同時に存在の匿れることを含む故に、「ek-sistentでありながら、現存在はin-sistentである」とも言われるのである。こうした存在者の顕現性が更に存在そのものの明るみによるというように視点が存在それ自体の次元へと深められるとき、「存在の明るみに立つこと」としての、存在の中へと開かれて立つというEk-sistenzとしての人間規定がうまれもするものであった。これはなんら立場の変化ではあり得ず、実存概念の深化であると言うべきものなのである。何故なら、元来が実存の概念が。「…の中へと」現実化され開かれて立つという、ex-sistereの意味を中世以来、根本的に持っていたからである。

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