渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(7)
4.シェリングの実存思想
Ⅰ シェリングとキルケゴール
キルケゴールの実存概念の背景には、思弁の枠内でではあれ、実存という問題を大きく取り上げた、シェリングがいるのである。
Ⅱ 積極哲学の思想
シェリングは「哲学の第一の問いは、実存するものとは何であるか、何が実存するものに属するか、私が実存するものを考えるとき、何を私は考えるか、ということである。」と言っているが、この実存するそのものを取入れようとするのが、シェリング晩年の哲学である。その際、その実存するものを、理性的な概念の面から何であるかとして捉えるのが、消極哲学であり、これに対し、その実存するものがあるというその現実的事実の中に没入して、その絶対の深みに入ろうとするのが積極哲学である。彼は『啓示の哲学』において、積極哲学そのものを展開する前に、そもそも哲学とは如何なるものであるべきかを論じている。結論的に言うと、哲学とは、「何故にそもそも何があるのか、何故に無ではないのか」という最もラディカルな問いに答え、この絶望から我々を救うものでなければならないと言うのである。シェリングの語るところによると、「これまで私が携わったことのあるすべての学問は、その学問自体の中ではもはや基礎づけられない或る前提に基づいて成立している」。数学にしても言語学にしても自然学にしても、それらは尤もらしい論理で成立してはいるが、どうしてそういうものが成立するのか、つまり、数学的事実や言語の存在、或いは自然学が扱う力とか質量とかが何故にあるのか、即ちそうしたものの性質の説明ではなくて、まさしくそうしたものの存在理由、いわば「何故にそれらがあるのか」という根本の問題には、それらの諸学は何も答えていない。それをなし得るのは哲学以外にはあり得ないとシェリングは断ずる。そして、シェリングは、事物の性質を明らかにし存在者の概念規定を以て能事畢れりとする考え方を捨て、この現実の世界の事実に踏み入ろうとするのである。そこで、シェリングの為すべきことは、第一に、何かがあるというこの現実の人々の注意を促すこと、つまりそれが空しい無意味の、むしろ無であった方がいいと思わせるようなものではなく、却って意味を持った意義あるものであるということを証明すること、即ちこの存在の神性を証明することによって、あの絶望的な問いから人間を救おうとする試みにならねばならないことは、容易に洞察されよう。そしてまさにシェリングの積極哲学は、ここに成立するのである。
さて、このような観点から、シェリングは、先ず、哲学が事物の理性的本質からではなく、その現実的存在から出発しなければならないということを縷説する。というのは、「あらゆる現実的なものにおいては、二つのことが認識されるべきであ」り、「存在者が何であるのかを知ることと、それがあるということ、を知ることは、全く違った二つの事象」だからである。これに二つのものは全く違う次元であって、決して混同されてはならない。そして、「無制約な理性の学」は前者のみにかかわるのに過ぎないのであり、だからこそ、「事物の本質、あらゆる存在の内容を把捉する学」にすぎないものとして、それが消極哲学とされ、後者を扱うもの、即ち「事物の現実的な実存を解き明かす学」が積極哲学とされるのである。シェリングの出発点は、この実存を解き明かす学、現実にかかわる学でなければならないのである。そして、我々が注意しなければならないのは、まさにシェリングは、この点で、あの中世以来伝統的なエッセンチアとエクシステンチアとの対立を再びここに持ち出し、後者をこそ重視しなければならないとしている、ということである。
もしも積極哲学がこのような意味で実存にかかわるとすれば、或る意味でそれは経験論に近づくであろう。事物の概念規定ないしはその存在可能性を理性は示し得るが、それが存在するということ、その端的なあるということを、理性は、何ら、産み出したり、証明したりすることはできず、そのためにはただ経験のみが必要なのである。我々は、このようなシェリングの議論が、キルケゴールの、思弁の抽象性よりも実存の現実性をより赤いものとする考え方に繋がり、更には実存哲学での、例えばハイデッガーでの「事実性」の思想に繋がっていくものであることを容易に見得る。だが、その傾向は、ともすれば、カントの枠を超え、本体界の実在を扱おうとする形而上学的思弁に陥る危険を持っていた。実際、シェリングは「哲学的経験論」の立場を主張するのだが、一種の超感性的な経験論になっているのである。積極哲学が経験論であると言われるのは、実存という現実から出発しようとする。つまり、この出発するところのものは思惟の外にあり経験以前のもの、絶対的に超越的な存在と言える。しかし、このような経験以前のものから出発する積極哲学は。なぜに経験論なのか。そこに、シェリングの積極哲学の、何故に或るものがあり、何故に無ではないのか、という問の要求する積極哲学の第二の問題が登場して来る。つまり、ものがあるというというその端的な事実が、無意味で空しいものではないためには、何が必要かといえば、それは即ち、あることそのことが、そのまま絶対肯定されることであろう。そのために、シェリングは、端的な実存そのものがまさしく神であり、それ故にこそ、一切は空しいのではなく、整然たる支配の中に置かれているのだということを証明しようとするのである。従って、シェリングの立てる思惟の外に絶対的にある実存とは、実は人間的実存ではなく、神なのである。このような点から、積極哲学は啓示の哲学を含まざるを得ない。つまるところは神話と啓示を手掛かりとして存在が神であることを証明する哲学であり、究極的にはキリスト教の哲学となっていくのである。
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