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2011年6月16日 (木)

苅部直「光の帝国 和辻哲郎」(5)

和辻の人格主義は1915年の『ゼエレン・キエルケゴオル』で確立する。この人格主義は教養主義と必然的に連関する。和辻の場合、その結節点を成すのが象徴に基づく藝術創作論である。自然主義は、人間生活の赤裸々な事実を克明に描こうとし、人の食欲・性欲・名誉欲などを暴き立てる。だがそれは、自然の外形を観察しているに過ぎない。必要なのは、その内奥に潜む生の豊富な活動を把握することである。すなわち、外形を象徴として現れて来る内部の生命を感得することが、藝術創作にはまず必要である。万物の奥底にも、自己の内にも生が息づいている。藝術家の使命は、この内的な生命の光を「象徴」としての作品に形象化することである。この作業を通じて、藝術家自身の人格価値は高まってゆく。したがって藝術の真正なる内容は人格的生命である。鑑賞者の美的感動は、作品の美に理想的な自己の本質を見ることに等しい。偉大な作品の享受を通じて、鑑賞者の人格もまた高められるのである。このような和辻の人格主義、人格を高めて他者との調和にいたるという道筋は、キリスト教のような超越的な神ではなくこの世界に遍満する生命の源泉となっていて、文化作品を媒介とする個人の陶冶の過程を詳述するのみで社会・国家との合一を解くまでは至っていない。そして、和辻は、西洋文化の精髄を本格的に受容し、日本文化を改造することを提唱する。

大正期教養派知識人のコスモポリタニズムをここに見ることができる。西洋の精神文化を吸収し、人格・個性の陶冶に努めることは、そのまま全人類の文化的向上、和辻の言う第2のルネサンスに直結する。しかもそれは、現代的な物質主義に惑わされ世界戦争に狂奔する今の西洋人よりも西洋的になることなのである。彼らが忘れた西洋の偉大な合理的・精神的文化の伝統を、日本に住む知識人が古典の読解を通じて身に着け、新しい生命を吹き込むというものだ。教養派知識人たちは、日本国内にとどまり現実の西洋との接触を欠いたまま、膨大な書物の読破や、画集とレコードによる音楽鑑賞を通じて、すてに西洋の文化の中に生きていたのであった。

しかしこれは、よく見れば奇妙なことで、このような世界の文化の蜜を集める生活をする知識人は日本の全人口のごく一部に過ぎない。日常生活において彼らを取り囲むのは、高尚な教養とは無縁な大衆なのであった。日本人のうちのごく少数が、読書生活にはげみ、世界人を自任して日本文化全体の改造を夢見ていたというのが実情であった。この時期の和辻の文章には衆愚たる大衆を見下す態度が露骨である。

逆に言えば、このような傲慢の裏面には自らが社会の少数者に過ぎないという不安がある。周囲の大衆と教養人たる自分を区別するために、人格の向上は、熱烈に、執拗に追求されなくてはならない。その構図は、自分と周囲の大衆との関係だけでなく、自らの内面においても同様である。かつて享楽と頽廃に魅かれた経験を持ち、そうした邪悪な傾向を自覚しているからこそ、人格を高めよというスローガンは、ますます偏執的な調子を帯びてくる。従って、この努力には終わりがない。人は自己分裂や過剰な欲望に悩む自分を永遠に鞭打ち続け、その苦しみの中で自己の高貴性を確認するのである。「内的緊張」は当時の和辻の常用語であるが、緊張の維持は同時に不安の連続である。この不安定な心境に対して、のどかな桃源郷のイメージを提示し、静かに安らう先をもたらしたのが、古代日本の発見であった。

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