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2011年7月

2011年7月31日 (日)

池田純一「ウェブ×ソーシャル×アメリカ 〈全球時代〉の構想力」(8)

90年代以降のインターネットの商用化の中で浮上したのは、「広場」よりも「市場=マーケットプレイス」の構想力だった。ウェブ自体は、技術と経済やビジネス、そして政治や社会が複雑に絡み合った中で日々開発されていることが、すでに周知のものとなっている。そのいずれもが人間自身が作り出した広義の「人工物」であり、それぞれに関わる人たちの想像力が投影されたものだ。電子の「広場」が重視した、意識拡大やコミュニティづくりとは別種の想像力がマーケットプレイスの開発に動員された。

例えば。ジョン・フォン・ノイマンによって発案された「ゲーム理論」がそうだ。ゲーム理論は、もともとはチェスのような「ゲーム」の背後にある数理を取り出すものとして考案されていたが、これを経済行動に応用した場合に、市場における売り手と買い手の交換行為を一種のゲームと見立てることで、その交換が実際にどのようなメカニズムで、その交換が実際にどのようなメカニズムで起こるのか、また、どのような条件下であれば交換が成立するのか、あるいはそうした交換行為が長期にわたって安定化し「取引」や「市場」へと変貌していくための要件はなんなのか。そのような問題意識へり展開していった。それまでの経済学が市場をひとつの抽象的な存在として捉えていたのに対して、ゲーム理論は市場で取引する個々人のやり取りから出発している。この具体的な交換行為を出発点とするところから、必然的にコンピュータの利用を呼び込むことになる。個々の交換活動を何らかの形で集計する手続きが必要になるからだ。

このゲーム理論は軍事行為のシミュレーションと計量経済の研究という二つの大きな動機付けの下で研究が進められた。とくに後者はシカゴ大学を中心にして金融工学の理論的な基礎づけを作っていった。その中にいたのかせ、ハーバート・サイモンであった。サイモンは、前に出たフラーとは違った文脈で、最適化過程としてのデザイン、システム設計としてのデザイン、という見方を明確にした。彼らのデザイン発想は、個別具体的な意匠の制作、というデザイン対象に接近した視点だけでなく、その制作物がどのような文脈でどのように利用されるかを全体を俯瞰して考えることを優先する。サイモンのデザイン発想は、人間が考案したものは、すべて一律に「人工物=the artificial」と呼び、その設計=デザインを重視したところに端的に現われている。ここにおいて、建築家とデザイナーが等置される。今日のウェブの文脈でサイモンが重要なのは、彼が従来の経済学が想定していた「合理的個人」がいかに空想的なものであったかを明らかにしたことだ。人間の判断は、どれだけの知的訓練を受けた人であっても、彼・彼女が持ちうる知恵に基づいてしか判断できない。その点で「限定合理的」なものに過ぎない。ましてや市場のすべての商品を探索して自分の価格選好にあった商品を見出すことなどは全くの不可能なことであり、いくつか探索したところで納得して(あきらめて)判断するような「満足化原理」による他ない。サイモンは、限定合理性と満足化原理をあわせて「ヒューリスティック」と呼ばれる判断方法を見出し、そのような個人が市場の売り手と買い手として参加するのが現実の市場であることを明らかにした。

電子の市場は、ノイマンとサイモンが交差するところで開発された。つまり、一方に、ノイマンに端を発するゲーム理論の適用による経済学の構造化があり、もう一方に、サイモンに端を発する人間のもつ限定合理性を前提にした人工物としてのデザインの工学化がある。その交差点で具体的な仕様の開発が進められた。ウェブ時代にアーキテクチャが重要概念として取り上げられる理由はここにある。世界が電子の市場となっていった。

2011年7月30日 (土)

池田純一「ウェブ×ソーシャル×アメリカ 〈全球時代〉の構想力」(7)

第4章 東海岸と西海岸

前章ではWECの紹介のため西海岸のベイエリアをとりあげたが、コンピュータの開発は東海岸から始まったと言ってよい。その中心はMITであった。そもそもサイバネティックス理論を考案したノーバート・ウィーナーがMITの教授であった。ほかにもジョン・フォン・ノイマンのいたプリンストン高等研究所など東海岸に開発拠点があったのは、五大湖周辺のオハイオやミシガンが19世紀の後半から工業州としてアメリカの工業の中心だったためだ。この地区の企業の多くは巨大企業として独占ないしは寡占的な地位を築いていた。それゆえ、実質的に当該産業の行方を左右する地位を占めていた。つまり、企業と産業を同一視して構わないような状況があった。情報産業であれはIBM、AT&T、等が、自動車産業であればビッグ3がそうだった。カウンターカルチャーが対抗しようとした官僚体質の企業とは、まさにこうした東海岸に本社を持つ大企業だった。そのためか、西海岸にスタータップ(起業したての企業)のアタッカー気質が多いのに対して、東海岸の企業の場合、産業全体の秩序を考える既存大企業の気質が強いということだ。

90年代のインターネットブームは多分に東海岸主導で演出され進められたところがある。新しいサービスを創り出したのはシリコンバレーやベイエリアの企業が多いものの、それらを生み出す仕組みや環境を用意したのは東海岸の組織だった。中でもMITのメディアラボが情報発信の役を務めた。これは、ニコラス・ネグロポンテによって始められた。これはもともとは、建築設計へのコンピュータ利用から始まったものだ。具体的には、設計支援のためのCG利用や、建築模型に相当するプレゼンテーション方法としてのコンピュータ利用、あるいは、モデルルームに代わる擬似的空間体験としてのバーチャル・リアリティなど、いずれも広い意味で、人間と機械の間の適切な協働形態の開発という主題に連なっていた。つまりは、インターフェイスの開発であり、メディア=媒介技術の開発であった。ここで付言すべきことは、建築という分野は、アメリカでは工学とは独立した分野として扱われる。設計や施工、構造計画のような工学的要素、建築様式から部屋の意匠のような造形的要素、都市計画から不動産開発までの経営学的要素等が混在した領域として独立している。コンピュータの登場(デジタル化)によって、建築に関わる行為の多くの部分が物理的なもの(アナログなもの)から切り離された。その分、一見すると表層的な意匠の組み換えや、計画・設計の要素が目立つようになり、広い意味でデザインの問題に帰着する部分が増えた。実際、そうした意匠の新しさが建築や造形物の新しさに繋がったところもある。デジタルによって形状は機能に従うというインダストリアル・デザインのルールに縛られる必要はなくなった。デジタルによっていとうのは、設計がCGで柔軟になったということだけでなく、多くの製品がデジタル化によって極小のチップで制御可能になり、デザインによって見た目を誤魔化す必要のあった機械部分が減ったということもある。また、材料科学の開発が進み、想像したイメージを自在に実現できる表面加工技術の開発も進んでいる。裏を返すと、見た目の形状からは内部機構のからくりが想像できないような製品が増えていることでもある。

2011年7月29日 (金)

池田純一「ウェブ×ソーシャル×アメリカ 〈全球時代〉の構想力」(6)

Catalogという言葉、WECがツールを紹介する場としてあることを強く意識したものだった。さらに、そうしたツールに対するレビューも多数掲載された。レビューは当初は専門家が中心だったが、徐々に読者からの投稿が重視された。つまり、ブランドの編集方針として寄稿者や読者を含めてWECを一つのシステムと見なそうとしていた。これはWECを生きた場に変えるものといえる。フィードバックを重視し、情報をプロセスとみなし、WECを動態的な場として位置付けた。情報とはプロセスであり、そのため動態感の確保と維持が大切だと考えていた。そのため、レビューに対しては、単なる批評をするのではなく、肯定的にレビューの対象から炙りだされる洞察を更に引き伸ばすことを重視した。要するにレビューする何かについて、その内容から刺戟を受けた部分を肯定的に解釈し、さらにその考え方の可能性を追求するスタイルを奨励した。そうすることで、レビューは原作者に対するフィードバックとして機能することができる。そのようなフィードバックを促すためには、ピアという水平な関係を重視した。こうした特徴が、WECを紙のグーグルと言われ、今日のウェブにおける情報交換のあり方を予見させるものだった。

さらにWECがベイエリアにおいて創造性を刺戟するユニークな装置となるには、ブランドの交友関係の広さが重要な役割を果たした。誌面にはジャンルの垣根を超えた情報が詰め込まれていた。WECの紙面構成では幅広い対象の選択とそれらの併置が重視された。一見関係のないものどうしの併置は、それらを見るものに一種の換喩的想像を促し、新たな解釈につながる文脈をおのずから生み出させてしまう。要するに、今日のハイパーリンク的読解が可能となるような構成が目指された。

1970年代に入りカウンターカルチャー運動は失速してしまう。それは、コミューン自体の自壊もあったが、それ以上に、アメリカ社会が置かれている状態が激変したことが大きな理由だった。ブランドは、こうした中でWECの読者であるカウンターカルチャー世代の人々が社会に復帰するための言説、つまり考え方の枠組みを、グレゴリー・ベイトソンを参照することで用意した。ベイトソンによれば、世界は生態系として一つである。この考えから、ブランドは、コミューンに退却せずとも社会を変えることは可能だ。むしろ、社会変革は企業や日常生活の場でこそ実践することができる、という考え方を読み取った。60年代のフラーの考える外部から全体を考えるのではなく、閉と損の見方は、都市から離れることなく、世界は生態系として一つなのだから、外部に抜け出すということはできなくなる、そこでどこであろうと今ある場所が変革を実践する場となる。こう考えることで、WECが重視したDIYの姿勢はそのままに都会の日常生活で実践に取り組むことが可能となった。実際に、カウンターカルチャーの世代はアメリカ社会に戻り、中には一定の社会的成功を収める人たちも出てきた。企業人やインテリとして成功者の中で、ライフスタイルとしてカウンターカルチャー時代に重視された、自然や相互扶助を尊ぶスタイルを選択した人たちのことだ。ここから例えば、社会的大義を消費行動の一つするマーケティングがアメリカで生まれてくることになる。このようにカウンターカルチャー的な文化的意匠は、アメリカのメインストリームである大企業の商品によってアイコンとして利用されるようになった。これはカウンターカルチャーの保守化と言われる事態だ。ブランドはこのように、カウンターカルチャー世代が一度は退却した社会と折り合いをつけるために、彼らの考え方の調律に役立つ言説を用意したのだった。

ブランドはこの後、80年代後半のWELLGBNの設立、「メディアラボ」の執筆を経て、コンピュータに関わる世界では後景化した。コンピュータ分野におけるブランドの最大の功績は、カウンターカルチャーに出会う前の、スタンフォード時代に学んだシステム論的発想を、カウンターカルチャーに接木したところにこそある。興味の赴くまま、科学と文化の最先端に同時に触れる場所に居続けたことが最大の貢献だった。その意味でブランドは最高なカタリストであった。

2011年7月28日 (木)

池田純一「ウェブ×ソーシャル×アメリカ 〈全球時代〉の構想力」(5)

第3章 Whole Earth CatalogはなぜWeole Earthと冠したのか

スティーブ・ジョブズもエリック・シュミットもカウンターカルチャーの影響を受けていた。当時のWECとその創刊者であるスチュワート・ブランドの影響だ。

カウンターカルチャーとは、アメリカで主に1960年代に起こった若者の一連の運動の総称で、ヒッピー、ドラッグ、ビートニク、コミューン運動、公民権運動、ベトナム反戦等の様々な活動だ。これらの動きを大まかに二分すると、公民権運動のように直接的に政治的運動に連なるものと、ヒッピーやコミューン運動のような新たな文化や社会を生み出そうとした社会的運動に連なるものにとだ。そして、ブランドやWECがかかわったのは後者の方だった。当時のアメリカは、第二次世界大戦の好景気で国が湧き返り、モノが溢れ、今日に繋がる大衆消費社会の雛形を用意したころだった。その一方で新興の大国として、新たに登場したソ連との間で本格的に冷戦の時代に突入した時代でもあった。シリコンバレーの誕生に大きな影響を与えた航空宇宙産業の興隆も冷戦によるものであった。当時の若者の典型的な不安は、大量生産/大量消費を支える大企業という官僚制の中で一つの部品として生きることに対する不安であり、冷戦の進行の中で徐々に現実味を帯びてきた核戦争による人類の破滅への不安であった。このような不安が十分な現実性帯びるほど、アメリカにいる若者たちを巡る環境が激変していた。そうした社会環境の中で、具体的に不安の源泉に抵抗し、その原因を排除するために、公民権運動やベトナム反戦という行動に移る人たちもいれば、それとは別に、不安の源泉からの脱却を精神面から試みる人もいた。しかし、両者を峻別することできない。カウンターカルチャーという運動は、中心と言えるものがなく、同時多発的に生じたものが連鎖を繰り返すうちに全体として一つの動きとなるものだったからだ。このような中で、ブランドがWECを通じて関わったのは意識の拡大やコミューンの方向性だった。

この時、1938年生まれのブランドは30歳を越えており、カウンターカルチャーの中心世代より上の世代に属していた。ブランドが在学中のスタンフォード大学は、1950年代後半から、連邦政府の研究予算の獲得に奔走し研究型大学へと脱皮しようとしていた。当時は、第二次世界大戦からソ連との冷戦時代を迎え、太平洋岸の地政学的意義が増し、新たに設立された空軍を中心に基地が増設され、航空宇宙産業の主要企業や研究機関が続々と太平洋岸地域に設立されていた。NASAの研究機関であるエイムズ研究所もあり、大量の軍事予算が西部に投下され、その一部が研究開発予算として、政府機関、企業、大学の研究所に流れ込んでいた。ちなみに、シリコンバレーも当初は連邦政府の研究予算に支えられていた。コンピュータの開発も、勃興する航空宇宙産業の一分野として始まったと言っていい。そこで、カウンターカルチャーの側からみればシリコンバレーは連邦政府の出張所のようなところであり、このように異なった立ち位置にある人々を繋ぐハブとしてブランドやWECが大きな役割を果たしていくことになる。

ブランド自身はコミューンを築くような運動の渦中にいることはなかったが、コミューンを支援する活動として68年にWECを創刊したのだ。雑誌はカタログ誌であり、その意図はWhole Earth Catalogという名前に全てプログラムされていた。このWhole Earthという世界の見方は、バックミンスター・フラーの影響を強く受けたものだ。ちょうど船に乗った搭乗者が呉越同舟、一蓮托生の立場にあるように、地球という船をどう切り盛りするかという問題意識がフラーの宇宙船地球号にはあった。大学時代に生物学・生態学を学び、軍に入隊するほど世界を憂い、マルチメディアアートやLSDの体験を通じて人間の意識の拡大の可能性に触れ、さらにはアメリカ先住民という異なる社会の存在をその目で確認してきたブランドからすれば、Whole Earthという言葉、それまでの彼の体験を纏め上げるには十分な広大さを持っていたと言える。地球を一つのシステムとして考えることで異なる世界の有り様を想像させるものであったからだ。地球を一つのシステムとして考えることで異なる世界の有り様を想像させるものであったからだ。ただし、ブランドは単なる夢想家ではなく、科学を信じる現実主義者であり、現実的な問題解決への接近を優先させるプラグマティストであった。

この点で、限られた資源をいかにして有効に活用することができるかという問題意識がブランドの心を捉えた。例えば、デザイン=設計の際には全体を見渡したうえで、最小資源で最大効果を得るものが最良のデザインであるとする見方を提唱した。つまり、デザインを単なる意匠と捉えるのではなく、最終的な制作物が利用者に与える効果まで見越したうえで行う行為と捉える包括的な考え方だ。このような有限資源の最適化こそがデザインの本質であるとする見方は、ウェブ時代になって、モジュール化と言われる方法で、デザイン概念の主流の一つになる考え方と言える。全体を見渡し最適の解決方法を得るためには一度外部へと離脱し、その外部から全体像を眺めたうえで検討することが不可欠であり適切な対処方法と言える。これは、コミューンを年から離れた自然の中に創設する考え方を正当化するものであった。

2011年7月27日 (水)

池田純一「ウェブ×ソーシャル×アメリカ 〈全球時代〉の構想力」(4)

一方、1968年にダグラス・エンゲルバートによるコンピュータシステムのデモンストレーションが行われた。このデモにWECのブランドはプロデューサーとして参加している。このデモは、デスクトップコンピュータの有り様を示したという点で先駆的で画期的であった。エンゲルバートの意図は、それまでの中央処理型(メインフレーム)のコンピュータのイメージを刷新し、コンピュータとの対話を可能にし、また、コンピュータを介して複数の人間が共同作業を行えるようなコンピュータシステムを構想し直すものだった。そのためには個人がコンピュータを容易に使えることが不可欠で、例えば、コンピュータへの入出力方法として、マウスなど今日のPCの利用ででは当たり前となったものが提案され、後のPCの雛型となった。同時に、このデモは現代風のPCを駆使したメディア・プレゼンテーションのスタイルの先駆けとなった。これはブランドがヒッピー運動のLSDフェスティバルでの経験を生かしたものだった。

このデモに大きな刺激を受けた人の中に、アラン・ケイがいた。彼はこのデモに触発されパーソナル(個人利用)コンピュータを考案し、Xerox PARCで開発されたAltoという実験機を製作する。デスクトップというメタファー、マウスを用いてアイコンを操作するタイプのグラフィカル・ユーザー・インターフェイスをそなえたもので、後にスティーブ・ジョブズによるマッキントッシュ開発の原型となるものだった。ケイは、さらに進めて、コンピュータをメディアと捉えるダイナブックを構想した。タブレット型の形状やタッチパネルによる入力方法まで含めて、現在のiPadで実現されようとしているものだ。

このネットワークとパソコンの両方の一大転機の現場に居合わせたことで、ブランドは第一線のコンピュータ開発者へのアクセスを確立し、カウンターカルチャーの経験を含めた幅広い文化的社会的関心からコンピュータの開発状況を分析し位置づけ紹介していった。そのような立場をとることで、ブランドとWECはコンピュータ文化においても重要な媒介者になっていく。

また、ARPANETは90年代まで政府予算の許で運営され続け、一般人の利用は難しかった。その代わりに電話網を介したPC通信を一般PCユーザーが利用することになる。その当時、ブランドはPC通信フォーラムであるWELLを設立する。WELLWhole Earth ‘Lectric Link)はオンラテンコミュニティの先駆けで、WECのオンライン版として企画され、WECがイメージしていた「新しい生活共同体=コミューン」の電子版として立ち上げられた。ここでは直接的にカウンターカルチャー時代のコミューン志向を継承していた。つまり、自分の意志でその集団への参加を決め、情報や意見の交換はボランティアベースベースで進めた。またカウンターカルチャー的な「解放の精神」を体現するために、もっぱらハンドルネーム=偽名によりコミュニケーションが行われた。電子の広場としてWELLは、同好の士によって幾つもの趣味や関心の集団を形成し、ウェブパブリッシングの孵化器ともなった。さらに、ブランドはピーター・シュワルツとともに企業向けのコンサルティング・ファームを立ち上げた。シュワルツはシナリオプランニングという未来の見通しをいくつかのシナリオとして提示するもので、ゲーム理論やORを駆使したシミュレーションとしての発想である。この手法は社会科学における計量化方向を決定づけた。そして、ブラントが培ってきた人的ネットワークに結び付けられ、企業人と学者、ジャーナリストの知的交流を深め、そのプロセスで企業人の発想を変えていった。当時、80年代のアメリカはリストラの時代であり、企業経営そのものをスリム化し、水平化していくことが試みられようとしていた。ここで、ブラントらが用いたフォーラムというネットワーク形態が生み出したアウトプットだけでなく、それが生み出される場に当の経営者が実際に居合わせアウトプットを生み出すプロセスを体験することが、ネットワーク化された、水平化された、組織への移行への意思決定を促していった。この結果、企業組織は分散化の形態をしこうすることなり、ネットワークの活用を前提とする点で情報産業には、プラスになるものであった。

2011年7月26日 (火)

池田純一「ウェブ×ソーシャル×アメリカ 〈全球時代〉の構想力」(3)

第2章 スチュアート・ブランドとコンピュータ文化

第1章で概観した動きの原点として考えられ、PC/ウェブ文化を用意したと言われるスチュアート・ブランドとその時代を見てみたい。スティーブ・ジョブズは若いころのバイブルとしてWECWhole Earth Catalog)に触れている。

WECはカウンターカルチャー全盛の1968年にスチュアート・ブランドによって創刊された、ヒッピー向けの雑誌である。ヒッピーが目指した「意識の拡大」や「新しいコミューンの開始・維持」に繋がるような情報や商品が多数掲載され紹介されてきた。そうした情報や商品はいずれもコミューン生活を支えるための「ツール=道具」として捉えられてきた。この各種ツールへのアクセス方法を示しているところが今日のグーグルのようだという評価に繋がった。具体的なモノだけでなく方法や考え方も等しく「情報」として同一誌面上に掲載されるような編集方針が、今日のウェブを想起させ、このような編集方針によって様々な人や情報がこの雑誌の周辺に集まるようになり、情報のハブ的な役割を果たしていく。

この編集者であるスチュアート・ブランドは、情報の集約者というタイプではなく、ある考えのプロモーター(奨励者)でありアドボカシー(説得者)であると言えた。そうした彼の下に使徒とよべるような編集者やジャーナリスト、学者、そして熱狂的な読者が付き従い、伝説的な存在へと祭上げて行ったと言える。

ブランドは1972年にRolling Stone誌に“Spacewar”という記事を寄稿している。LSDPCを同一線上に置くことで、サイケデリックとサイバネティックスという本来なら語源を異にする二つの言葉を、音韻的な類似性を含めて関連付け、互いに誤読する通路を開き、人間の意識の変革を示すような事態を指し示す接頭語としてcyberという言葉が使われる状況を生み出し、「サイバーな文化」に、カウンターカルチャー的なインスピレーションを与えたのだった。その記事の中でブランドはスタンフォード大学のAI研究所やXeroxPARCで研究者たちがコンピュータ通信を介してSpacrwarというゲームに興じている様子を伝えた。それにより、それまでコンピュータと言えば中央制御型でトップダウンの巨大権力機構の象徴のように捉えられていたイメージを180度転換させ、むしろ、個々人の創造性を刺戟し中央制御型の管理機構に対抗(=カウンター)するためのツールとして位置付けて見せたのだ。この記事は、コンピュータをカウンターカルチャーに結びつけ、その傍らでコンピュータゲームと、初期のインターネットとハッカーといった今日のPC/ウェブ文化の要素を一通り紹介してしまった不思議な記事といえる。

この記事で紹介されていたSpacewarに興じるハッカーたちが利用していたのがARPANETThe Advanced Research Projects Agency)だ。ARPANETは、冷戦下の核攻撃による通信破壊=連邦政府機能の事実上の停止、という恐怖の想像力に応じて生み出されたものだ。二点間を直接つなぐ電話網の脆弱性の克服が開発初期からの目的であったため、実際に採用されたのは効率性よりも畳長性を重視する分散型のネットワークだった。そのため。当初からパケット方式が利用できるデジタルネットワークとして設計された。さらにネットワークの一部が破損しても容易に復旧できるように、ネットワーク同士の通信ルールであるプロトコルを定め、プロトコルさえ遵守すれば新たなネットワークの接続が容易にできるようにした。民間開放後、世界中で相互に通信可能なネットワークとして拡大し、中央制御されぬまま今でも増殖を続けている。

当時の有名なハッカーにビル・ジョイという人物がいる。彼は、後にサン・マイクロシステムズの創立者の一人となるのだが、その前にカリフォルニア大学バークレー校でワークステーション用OSを開発していたチームに後のグーグルのエリック・シュミットがいた。サン・マイクロシステムズは、ネットワーク全体が、巨大で、かつ常に増殖していくコンピュータとしてあるという考え方で、これが基本的には今日のクラウド・コンピューティングに繋がる。エリック・シュミットはこのような系列につらなる。これはアップルのスティーブ・ジョブズが個人のコンピュータ利用に一貫して関わってきたのと対照的だ。シュミットもそうだが、ネットワーク開発者の発想は、常にネットワーク全体を意識する。そして、ネットワークに接続する利用者の多様性に思いを巡らすという、ある意味「生態系」的発想に近い。

2011年7月25日 (月)

あるIR担当者の雑感(38)~個人投資家を馬鹿にしていないか?

先日も、あるIR支援会社から、個人投資家向け対策のセールスを受けました。IRのなかで個人投資家対策というのは、ひとつの大きな項目というか、課題になっているようです。各企業のホームページでもIRページには「個人投資家のみなさまへ」といような特別のページを作ってあったり、個人投資家を集めた個人投資家説明会を開催している企業も多くあると聞きます。あるいは、なんとか協会とかで表彰される優秀IRの表彰等の場合には、個人投資家向けの何かを積極的に行っているというのが必修項目になっていたりするようです。

その中で、私としては気になるのが、例えば、企業ホームページから、その「個人投資家の皆様へ」というページに飛ぶと、全体のトーンが変わって、まんがのようなイラストが多くなり、字が大きくなり、説明がひらがながおおくなって、まるで子供向けの絵本のようなものになっていることが多いことです。これは、個人投資家というのは、機関投資家のようなプロと違って、経験も少なく情報も持っていないので、知識のない人にも分ってもらおうと企業が努力しているものだと思います。しかし、多くのべージを見ていると、ほとんど何も知らない人というのか、今日から株式投資を始めた初心者、あるいは中学生で社会の勉強をしている人のような人を相手にしているように見えます。それにしても、個人投資家って、それほどモノを知らないのでしょうか。

というのも、株式投資というのは、投資をする人が身銭を切って、自らの責任のもとで企業を評価して、それをもとに投資判断をして、お金を出すというものです。だから、何の判断材利用もなくイチかバチかでお金を張る賭け事とは違うのです。だから、A社という企業に多少なりとも投資をしようと考える人は、その判断をするために情報を集めるし、そのための基礎知識は当然ひつようですが、それは株式投資を始めための前提として、最低限の知識はスタート時点で持っていなければならないものだと思います。じっさい、そんな用意もなく株式投資に手を染めるような人は、それ相応のしっぺ返しを食らって当然ではないか。そんなに生易しい世界ではないと思います。何か、私が目にしている、企業やIR関係者や市場関係者による「個人投資家」は、そういう初心者というニュアンスが強いように思います。

さきにも言いましたように株式投資には、大きなリスクが伴い、生さやしい世界ではなく、そこには当然覚悟を伴います。それには、投資する以上、個人投資家であろうが機関投資家であろうが変わりはないと思います。株式投資というのは、危険を伴う以上、一定以上の判断力と責任、そのための最低限の知識をもった人だけが参加することのできるものではないでしょうか。そんなことを言うと、閉鎖的とか、株式投資の間口を狭めるという批判はあると思いますが、別に門戸を閉ざすと言っているわけではないです。ただ、誰でも気軽に入り込めるところではなく、そのことが分らない人には、どこかでハッキリと言ってあげないといけないと思うのです。

今、私が思うのは、そういう人も含めて「個人投資家」として、関係者がやさしく(誘惑の?)手を差し伸べて、(猫なで声で)ようこそ、いらっしゃいと言っているように見えてなりません。そこには、何も知らない(馬鹿な)「個人投資家」を引き込んで株を買わせよう、というような、悪意に取れば、うまく「個人投資家」を利用しようというような底意が見えるように思えるのです。

しかし、実際に私が話をしたり、やり取りをした機関投資家でなく株式投資をしている人は、よく勉強していて、情報も得ている人か多かったです。中にはプロにも劣らない見識の持ち主、こちらが敬服するような人も少なくなかったです。だから、私が思うのは、そういった人を大切にして、そういう人が増えていくことに協力していくことの方が大切なのではないかと思います。

だからというわけではありませんが、私の勤め先では、個人投資家向けのホームページというものは作っていません。投資をする人を個人投資家だの機関投資家だのと区別していないつもりです。仮に、「個人投資家」から資料請求や問い合わせがあれば、機関投資家と同じように対応しています。それで、もし難しくて理解できないというのであれば、電話などでそのときに質問されれば分かり易く説明することは辞さないでます。しかし、最初から説明のレベルを下げるようにことはしていません。

これは、私の夢で、おそらく、この記事を読まれている人は絵空事のように受け取られるかもしれませんが、でも一社ぐらいこういうのがあっても、いいのではないかと思うのです。その会社というのは、IRに熱心で会社のことを理解してもらうために資料やホームページを充実させるなどあらゆる努力を惜しまない。しかし、その内容が、かなり突っ込んだ内容なので、その会社から発信される情報を理解するためには、ある程度の株式投資に必要な知識や新聞を読んだりというような経済の常識等がどうしても必要になる。だから、初心者には歯が立たない。しかし、投資をする人の間では、その会社の発信情報を理解して投資できるというのは、一定のレベル以上の知識を持っているというステイタスの証にもなっている。「私も投資を初めて○年、ようやくA社に投資できるようになった」とでもいうような投資の指標となるような会社があってもいいのではないか。

そういう人や会社の集まった株式市場であれば、規模は小さくとも、立派に資金調達や新しい企業の育成、あるいは投資リターンといった機能をはたせる、高機能の市場ができるのではないと、というような絵空事を考えることがあります。

池田純一「ウェブ×ソーシャル×アメリカ 〈全球時代〉の構想力」(2)

第1章 ウェブの現在

2010年に入り、アップルとグーグルとの競争が激しくなった。大まかな構図としては、グーグルがウェブを舞台に、そのフリー(無料=自由)な利用を可能とする手法として検索広告を発明したことで、ウェブ上の多くの企業活動の経済的成否の鍵を握ることとなった。そうしたウェブ上のほぼすべてを掌中に納めかけたかのように見えたところで、アップルがiPhoneの投入によってグーグルのゲームのルールを破ろうとしてきた。

Free”の著者であるクリス・アンダーソンは、この時のスマートウォンなどの登場によって、インターネットの中に、クローズな世界が作られ、その帰結としてのウェブの細分化・断片化が進んでしまい、自由なアクセスが担保されたウェブが死んでしまうと主張している。これはつまり、オープンアクセスと、それに基づくリンク構造の増殖を消滅させる。ウェブの自己成長の可能性を減じ、その結果、目新しいことが起こらなくなる。つまり、イノベーションが起こりにくくなるのではないか、ということである。

グーグルの登場により、我々はウェブの「全体」を俯瞰した結果が示されるという考え方に慣れ、ウェブを一望する感覚を持つことができた。そこではグーグルがウェブの中心であるような感じになるのだが、グーグルが圧倒的優位を持つ事業はウェブの検索とその結果に付随する広告にすぎない。一方、グーグルの側では、ウェブをフリーでオープンな場として堅持することに力を入れてきた。すなわち、誰もが利用できるためにはウェブは可能な限りFreeであるべきであり、だれもが制作に参加できるように、ウェブは可能な限りオープンであるべきだ、としている。

しかし、グーグルが全体感を醸し出し得たのは、人々が汎用性のあるブラウザに基づき、基本的には相互リンクを受け入れ、アクセスが自由なサイトが大半であればこそのことだった。それが変わったのは、スマートフォンの登場によりスマートフォン上のアプリが一般化し、アプリごとにカスタマイズされたインターフェイス、つまり独自ブラウザが溢れることにより、さっきのオープン性は損なわれてしまう。このことは、ウェブが持っていたリンク可能性がもたらす、相互参照性や間テキスト性といった特性は薄れていく。ウェブという言葉から想起される水平的な網目構造は、相互に行き来が可能で、相互に参照可能だからこそ維持される。だが、その相互参照性が損なわれるとツリー的な構造に戻ってしまい、自由度は減じてしまう。

このあと本書では90年代からのネットの動きを概観する、それは興味のある方は、直接本書に当たってもらいたい。

2011年7月24日 (日)

池田純一「ウェブ×ソーシャル×アメリカ 〈全球時代〉の構想力」(1)

Web 著者は“構想力”という概念をキーとしてウェブと社会のあり方について、現在そして今後について考えようとしている。ここで著者のいう“構想力”とは、開発者も利用者も含めて共有されている理想像、未来像、を描くための構想力のことで、夢といってもいい。例えばPCの開発については、その開発初期である1950年代から60年代にかけて基本的な構想が、しばしばカウンターカルチャーの影響下で構想=ビジョンが描かれていた。本書では、その象徴的な人物としてスティーブ・ジョブズとエリック・シュミットを取り上げているが、彼らの指し示すビジネスの方向=戦略にはほかの多くの企業も乗ってきている。企業だけでなく、エヴァンジェリカルなユーザーを中心にユーザー自身もそうした理想の実現に熱くなっている。つまり、おおよそ50年前に構想された理想が、50年の時を経て、ようやく最終形態として実現されようとしている。

そして、そのビジョンは、商品やサービスの供給者である企業だけでなく、消費者であるユーザーも共有していた。そうした集団による夢の共有を可能にしたのが、スチュアート・ブランドが始めたWECという雑誌やコミュニティの存在だった。夢の商品、夢の世界を実現させてくれたからこそ、PCやウェブの新商品は公表されるたびに熱狂をもって迎えられてきた。その熱狂があればこそ、単なる消費対象・購買対象物を超えた「文化」として受け止められてきた。自分たちの夢を叶えてくれる存在として、多くのユーザーが、シリコンバレーを中心に登場するコンピュータやネットワークの企業を歓迎してきた。

構想力が大事になるというのは、このような文脈においてのことである。本書では、この構想力及び構想力の手前にある想像力に関心を寄せる。想像力はニーズ志向でもなく、シーズ志向でもなく、両者の中間的存在=媒介としてあり、両者を牽引して構想に繋げていく。そして、ソフトウェア中心の時代にはプログラム=書かれたものの「実装」として構想は具現化されていく。

2011年7月23日 (土)

本田雅一「これからスマートフォンが起こすこと」(6)

第5章 コンテンツビジネスの流通革命

スマートフォンの普及は、コンテンツビジネスの流通革命も生み出そうとしている。従来の映像コンテンツを流通させる手段は「一対多」が主流だった。テレビ放送はその中で最も一般的なものと言える。このような映像コンテンツの特徴は、大型のテレビ画面により、みんなで見るというスタイルを取っているということだ。自然と受け身で楽しむコンテンツになっており、インターネットとの親和性は低い。しかし、動画を扱うソーシャルメディアの発展は、コンテンツのパーソナル化を促す。そこにはインターラクティブな相互発信が行われ、他人が作った動画を楽しむ場合でも、その動画に直接アクションを起こせるようになっている。それはコンテンツのパーソナル化といっていい。

さらにDVD等の光ディスクの流通にも変化が生じている。つまり、ディスク自体の売上が漸減傾向にあるがインターネットを通じた通信販売の割合が高くなってきている。そして、デジタル配信の時代となった場合には、ユーザーが作品を購入したという意識いわゆるオーナーシップが低下していくようだ。そうなったら、作品をレンタルするというスタイルは後退する一方で、ユーザーの手元には何らかのコンテンツが残るわけではない、ID取得による期間内見放題というような購読型のサービスに取って代わられる可能性が高い。このような事態が進むと、例えば音楽では、「誰のどのアルバムを買うか」という意識が弱くなり、「聴いていて心地よい新しい流行曲を聴ければいい」といったようにアーティストや作品が透明化し始めている。こうした傾向は作品そのものを楽しむということではなく、暇つぶしのためにコンテンツを消費することに変化してきている。

第6章 昨日の覇者が今日の敗者!いったい誰が勝ち残るのが?

個々の紹介で、グーグルとかフェイスブックとかが紹介されています。それだけです。

最初の方のスマートフォン自体の分析は興味深く読みましたが、著者はスマートフォンについては詳しいようですが、それ以外のもの、さらに鳥瞰的に全体を眺めるにたいしては切り口が甘いため浅く表面を嘗めただけという感じでした。だから第2章以降は、単に事物を列記したというだけで、どうして、このようなことを書かねばならないかということが、読んでいても分らない。その意味で、著者も事態を自分なりに理解できていないのではないかと思います。だから、一冊を読み通しても、一体何が起こっているのかは分らない。ここの事象の位置づけとか意味づけ、おそらく、それぞれの動きは相互に連携しあっているはずですが、あたかも単発に別個に起こっているようにしか読めない。そういう意味では、この本を読んで役に立ったと思うような人とは例えば、タブレットというのが何だかわからないような人だと思います。そういう人には、それぞれの製品がカタログのように親切に説明されています。私には、この著者は単なる紹介屋にしか見えません。それよりも、日本には未だに、こういう昔ながらの紹介屋が生息しているのを発見した驚きがありました。

2011年7月21日 (木)

本田雅一「これからスマートフォンが起こすこと」(5)

第4章 ソーシャルメディアの進撃

スマートフォンの登場がパーソナルコンピューティングの概念を変えようとしているように、ソーシャルネットワークシステムの発展、変革を強く促している。ソーシャルネットワークシステムは、友人・知人、あるいは同じ考えや趣味を持つ仲間が相互に結びつき、情報の交換や共有を行うネットワークサービスだ。そしてソーシャルネットワークによる結びつきを基礎に、相互に情報を発信するソーシャルメディアと呼ばれるサービスが生まれた。ソーシャルメディアは、インターネット上の社会的システムを形成しようとしている。ツイッターやフェイスブックが代表例だが、これらは肌身離さず持ち歩くスマートフォンの存在とは切り離せないものとなっている。

ツィッターとフェイスブックにはタイムラインという共通点がある。タイムラインとは時間軸のことで、そこで綴られることは、ユーザーの「今」を表現していることで、その積み重ねの履歴が意味を持ってくる。それらが当人の性格や信条を表すことにもなる。これは、仲間との時間の共有による親密度が増すことになる。タイムラインの共有がスマートフォンのユーザーたちの交流にとって重要なことになってきている。

ソーシャルメディアの世界で最大のユーザーの規模があるのが、フェイスブックだ。フェイスブックは実名による登録を原則として、実社会の人間関係を拡張するような基本設計になっている。コメント、動画、写真などを起点にコメントを付けるなどしてコミュニケーションを深めることで、同一の空間や時間を共有している感覚を齎してくれる。さらに、何かをしたいというときに、それが機能として存在する多彩な機能を持っている。これらのことから、現実社会の人間関係とソーシャルメディアがシンクロし、情報共有や伝達の流れが加速、一体化するように作られている。これにより、スマートフォンの世紀となった時に、すべてのインターネットサービスのハブとなっていく可能性が高い。

あるIR担当者の雑感(37)~IRとしての株主総会~証券代行は真剣に仕事をしているのか?

私は、IR担当だけでなく株主総会の運営も仕切っています。私の勤め先の定時株主総会は、日本の大多数の会社と同じように、6月に終わりました。まあ、1年に1回の大イベントが終わったということで、総会担当は、この時期1年の疲れを癒す時期になるのです。証券代行といって株式事務の代行、総会ならば招集通知の発送や書面投票の集計や総会のアドバイス等をやってくれる、日本の上場会社は自前で株式の名義書き換えができなくなったため、こういうところに業務を委託している、多くは信託銀行に委託している。私の勤め先も某信託銀行証券代行部に委託しているのですが、その担当者が総会レポートをまとめて、先日、説明に来てくれました。

レポートの内容は6月に開催された株主総会の傾向です。例えば、開催日がどの程度分散したかとか、来場株主数が増える会社と減る会社に二極分化してきているとか、総会の所要時間とか(電力会社が長くなったとか)、株主提案や議決権行使結果の開示、あるいは震災の影響により各社の総会の運営が影響をうけたこと(避難路を説明したとか、節電のため冷房の設定温度を上げたとか、総会の冒頭で黙禱したとか)などです。こういったことは、秋以降に全株懇のアンケート集計や「商事法務」による株主総会白書という詳細なレポートが出されます。なので、この説明というのは7月にうけるのは、単に早いということだけです。で、早く知った方がいいことなのかというと、そんなことはない。たしかに、今、聞くとそれなりにありがたいのですが、後で詳しいことが分るので、実務では詳しい方を使います。だから、端的に言って急ぐ必要はないし、こんなことをやっても無駄なのです。

というと見も蓋もないのですが、証券代行だからこそできることが、あるはずなので、あえて、このような言い方をしています。実際、信託銀行は一行ですべての上場会社を相手にしているわけではないので、規模で株懇や「商事法務」に最初から勝てないのです。だから同じようなレポートをしようとすると他より早く知らせるくらいしか、勝てるところがないのです。これは不毛というのか、ピント外れの努力ではないか。もっと、株懇や「商事法務」にできないところで独自性を出すということを、なぜ考えないのか、思うのです。というのも、最初に説明したように、契約した企業の証券代行業務をやっていることを、なぜ、レポートに生かして、信託銀行ならではアドバイスまで突っ込んだレポートができないのかということを、とても不満に思うのです。ハッキリ言って信託銀行の人って真剣に自分の仕事をやっているのか、ということです。あの、日々の業務を誠実にこなしているのは分るのですが、そんなことを言っているのではなくて、専門職としてプロの仕事をやっているのか、ということです。

で、具体的に、株式の名義書き換えを一手にやっているわけで各会社の株主名簿を管理していて、書面投票の集計なんかもしているわけだから、株主の中でどういう人が書面投票するのか、とか、株主の住所の分析から実際に総会に出席する人はどの程度の距離の範囲のひとなのか、とか年齢、性別といった分析はできるはずです。また、一人の株主がA社とB社の2社の株主であるときに、どっちの総会に行くか、とか、この会社の株主である人は、別のこの会社の株主でもあることが多いとか。こんなの不要だという人も、いるかもしれませんが、そういう分析ができるはずなのに、と思います。実際、株主分析サービスのようなこともやっていますが、こんなことはやってくれません。

また、実際に契約している企業の総会リハーサルに参加してアドバイスしたり、本番の総会でも手助けすることもある立場にいるので、各会社の総会のシナリオがどのように作られているかを身を以て知っているはずです。それを、分析して、全体の傾向とか、課題点を抽出するとかいうことができるはずなのにやってくれない。もったいないと思います。

とくに、最近、開かれた総会とか株主とのコミュニケーションの場とか言って、IRの観点から株主総会を捉えようという風潮もあって、信託銀行もIR支援業務を始めているようです。で、ここで、何回も書いていますが、IR担当者として、私が、例えば決算説明会で最も頭を悩ますのが、どのようなストーリーで語っていこうか、ということです。IRの観点で株主総会を、という場合にも、もし本質的にそういうことを考えるのなら、株主に会社のこと、当期の業績や将来の事業方針を理解してもらうため、このような切り口で語ろうとか、そういう語りを有効にするためには、このように総会を運営しようというような基本的な筋を考えるはずです。それが総会のシナリオに現れてくるはずです。そして、株懇や「商事法務」はそのシナリオに触れることはできないのです。なぜなら、それは出席した人か関係者しか分らないのですから。しかし、信託銀行は、それを分る立場にいる。そこで、シナリオ作成について、アドバイスすることもできれば、各社のシナリオの作り方を分析することもできる。実際に、私も担当者として、他の会社では、どのようにストーリーを考えてつくっているのかは大変知りたく思っています。というのも、株主総会には決議という最終目標があります。単に株主さんに理解してもらうだけでなく、納得して配当金だの、取締役の選任だのを認めてもらわなくてはならないのです。その点がIR説明会と大きく違うのです。単に、社長が株主の質問に丁寧に回答しただけでは済まされないのです。それを踏まえて、全体としてのストーリーをどのようにつくっているのか、それをしりたい。そして、そういうアドバイスをできるのは信託銀行だけなのです。それを武器にできと思うのに、なぜしようとしないのか、私には怠けているとしか思えないのですが。

先日、説明してくれた、担当者にそのことをチラって話したら、戸惑った顔をしていました。

IRと株主総会については、また、別の機会で考えてみたいと思います。

本田雅一「これからスマートフォンが起こすこと」(4)

第3章 次世代通信インフラとクラウドからの招待状

スマートフォン受け入れ、自在に振る舞うことができるようにした要因が二つあり、これらがデジタルワールドに大きな地殻変動を引き起こした。ひとつは通信帯域の拡大、高速化であり、もうひとつはクラウド・コンピューティングの進展だ。

スマートフォンは基本的にデータ通信量を節約する努力を全く行わない。携帯電話ネットワークが通信帯域の広い3Gへ移行したことによって、はじめてスマートフォンのサービスは実用的になった。しかし、3Gでもスマートフォンの動作には不十分なのだ。パケット通信の定額プランがなければユーザーは間違いなく高額の利用料を払えなくなる。しかし、その一方で通信会社の立場に立てばスマートフォン向け定額データ通信プランを提供することは大きなリスクをはらんでいる。きちんと計画通りに準備を進めてきた基地局整備が、野放図な通信の輻輳で破綻する可能性があるのだ。スマートフォンの増加により3G回線の限界が顕在化するのは時間の問題だ。このため携帯電話事業各社は、次世代に移行を行おうとしている。これがLTE(ロングタイムエボリューション)無線通信の世界において世代が違うことの意味は、通信時に必要な符号化処理を行う際に、利用できる計算能力の違いとして表現すると分かりやすい。より高性能な信号処理チップを使うことで、より高度な信号処理を行い、通信の効率を高めることができる。効率が高まれば、同じ電波帯域でも通信速度が増えるという理屈だ。しかし、ここまで通信帯域を拡張しても限界がやってくるのは、そう遠くない。スマートフォンのシェアと本体理処理能力が高まるため、通信量は二次曲線を描いて膨らんでいくことが確実だ。このようにスマートフォンの普及が次世代モバイルネットワークへの投資を後押ししていることは間違いない。

通信ネットワークと同じように、スマートフォンの成立を支え、価値を高めているのがクラウド・コンピューティングである。スマートフォンは、いわばクラウド時代のパソコンと言っていい。従来のパソコンは、高い処理速度がその価値のすべてだった。高速な処理が行えるパソコンほど、高度なアプリケーションプログラムを動かすことができたからだ。この常識からすると、サイズが小さくバッテリ容量も少ないスマートフォンからは、携帯性が高いという以上の価値を引き出すことはできない。しかし、クラウド・コンピューティングがこの常識を変えた。クラウド・コンピューティングとは、インターネット上に分散配置されているサーバを、大きなひとつの仮想コンピュータとして活用しようという考え方だ。クラウド・コンピューティングというスタイルでは、無数のコンピュータを無数のユーザーが無駄なく共有し、処理の負荷や記憶装置の利用率を高めることができるため、コストが大幅に下がる。コストが下がったことで、大容量のデータをインターネット上で安価かつ安全に預かってくれるサービスが生まれ、大容量のメールを無料で使えたり、グーグル・アースやマップを無料で提供しているというのは、すべてこのクラウド・コンピューティングを前提にしている。このようなクラウドの向こうで、コンピュータを提供しているのは、例えばアマゾンのような大量のサーバを必要としている企業だ。アマゾンにとって情報処理のピークはクリスマスシーズンであり、それに合わせたサーバ投資が必要であるものの、クリスマス以外の時期はサーバの処理能力は明らかな余剰であり、これをクラウド・コンピューティングの提供者として他社に販売しているのである。余剰パフォーマンスだから提供価格は抜群に安い。現在、アマゾンは世界最大のクラウド・コンピューティング業者になっている。このようにクラウド・コンピューティングによって記憶装置のコストが安くなるなら、それを効率よく利用するサービスを考えればビジネスになる。そして、スマートフォンをはじめとするスマートデバイスも、クラウド型サービスがあるからこそ成立する製品だ。クラウドの中で価値を生み出し、その価値をインターネットを通じて利用することにより、軽量コンパクトでバッテリ駆動時間の制約を乗り越えて、まるでパソコンのように柔軟で多彩な使い方ができる端末が生み出された。

このような環境のなかで、スマートフォンが生み出したコンピューティングのスタイルを前提にした新しい製品、新しいサービス、新しい文化が生まれ、広がり、環境を変えていくだろう。例えば、エバーノートのようなアプリケーションである。エバーノートは、インターネット上のサーバーにあらゆる情報を集約して置いて、オフィスや自宅や滞在先のパソコン、あるいはスマートフォンやタブレット等の不特定多数の端末から、ノートの閲覧や書き込みを自在に行うことができるサービスだ。似たようなサービスは無数にある中で、エバーノートの特徴は「同期を行う」という概念を排除している点だ。例えば、パソコン上やスマートフォン上でメモを書き込んだとして、その際にパソコンやスマートフォンがネットワークに接続していないとしても、それはそのまま保存される。そして次にエバーノートを開いたとき、ユーザーがその時使っている端末に保存されたメモが読み込まれ表示される。オンラインとオフラインを意識せずに使用できるというわけだ。

2011年7月20日 (水)

本田雅一「これからスマートフォンが起こすこと」(3)

スマートフォンでiPhoneに対抗してグーグルのアンドロイドによるスマートフォンが伸びてきている。iPhoneとアンドロイドは似ているようで、コンセプトは異なっている。iPhoneはパソコンのコンパニオンデバイスであり、パソコンと同期し、パソコンで使っているアプリケーション機能の一部やそのデータを切り出して活用する。これに対してアンドロイドは独立性が高く、パソコンと同期して利用することを前提としていない。コンパニオンデバイスではなく、単独で動作することを志向している。さらに両者の決定的な違いは、iPhoneがアップル一社によって構築されたものでアップルが審査することでアプリケーションの質が保証され、ユーザーインターフェイスやアプリケーションの動作スタイルを含めて、その世界観が壊れないように秩序を保っている。すべてをアップルが理想的な形で設計管理している。これに対してアンドロイドには、ざっくりした大きな枠組みしかない。携帯電話事業者や端末メーカーがそれぞれ工夫を凝らして開発することができる。特にこのことは、国内でiPhoneにとって大きなハンディキャップとなる。アンドロイドは携帯電話事業者や端末メーカーが独自の機能を組み込めるが、iPhoneはアップルが世界的に統一したハードウェアしか許さないので、ハードウェアに関わるような独自機能を創造することができない。ということは、日本独自の社会インフラと整合性をとることができない、つまりガラパゴス携帯と相性が悪い。

全体としてスマートフォンの普及が進めば、従来型の携帯電話は消えてしまうだろうと予想される。それは、携帯電話の市場規模が小さくなると端末メーカーはこれまでのように高機能な新端末を開発したり販売することができなくなる。販売量が落ちるともともと高い開発コストがさらに嵩んでしまうからだ。携帯電話は高度な技術力で作られた工業製品だが、スマートフォンは簡単な構造でコストは低く抑えられる。さらに販売量が上がればコスト差は加速度的に広がっていく。

第2章 スマートタブレットの台頭

アップルのiPadに代表されるスマートタブレットはスマートフォンに続いて登場し、瞬く間に市場を席巻した。実際にはiPhoneの画面を拡大しただけで、ハードウェアの機能や性能だけを評価した場合に画期的製品とは、とても言えないものだ。以前ならパソコンの劣化版でしかなかった小型パソコンが、スマートフォンの登場により、意味合いを大きく変えた。スマートフォン向けのウェブサービスがパソコン並みの機能や使い易さを提供し、さらにそれらを使うためのアプリケーションが流通し始めた。このようなスマートフォンをスケールアップしたのがiPadだった。それがクラウド型のウェブサービスの利用に特化し、ディスプレイとバッテリの機能をより重視したiPadにユーザーはモバイル・コンピュータの代わりに使い始め、多くの可能性を見出した。とくに、コンピュータ端末がパソコンである必要のない人はスマートタブレットへの乗り換えが進む。

2011年7月19日 (火)

本田雅一「これからスマートフォンが起こすこと」(2)

第1章 スマートフォンの正体

筆者は、「スマートフォンとは何かと」いう問いに対して、一言で言い切るなら「パソコンである」とする。では、パソコンと携帯電話とは何が違うのか、というと、パソコンというのは、ソフトウェアをインストールすれば、どんなソフトであろうと動かなければならない。応用範囲に限定はなく、機能や性能が制限されることもない。つまり、ユーザーに対して自由を保証しているのがパソコンの特徴といえる。これに対して携帯電話は、秩序的かつ理性的と言える。ユーザーの自由をある程度規制することで、全体の満足を高めようとする。実は、携帯電話は、端末に割り当てられる通信量が限られていて、インターネット回線に比べると携帯電話網で利用できる通信量(通信帯域)ははるかに小さい。そのため、パソコンと同じように自由にネットワーク帯域を使用することはできないのだ。きちんとした交通整理によってネットワークの使い方を管理する必要性が、どうしても生じてしまうのだ。まして、日本で携帯電話を売っているのは携帯電話会社だ。彼らにしてみれば、ユーザーが快適に通話できるネットワークを提供することが何よりも優先される。だから、どのくらいの帯域ならば問題なく利用できるか、そしてその帯域幅で楽しめる用途は何か、ということを考え抜いたうえで新機能を追加してきた。ここで商品設計を間違えばネットワークは混乱してしまうのだ。一方、パソコンを使ったネットワークを支えているのはベストエフォートという考え方で、言い換えれば、その場しのぎの発想だ。ユーザーは自由気ままに利用できるが、そのかわりに不便も受け入れて我慢しなければならない。ユーザーに制限をかける携帯電話のネットワークとは、発想、思想が全く正反対と言える。スマートフォンは、このようなパソコンから派生したものだ。だから、メールやウェブサイトをはじめ各種機能のほとんどは、パソコンと同じように自由気ままにネットワーク帯域を使うことを前提にしている。通信帯域を節約しようなどという考えはまるでないのだ。そのため、スマートフォンは携帯電話会社にとってはリスクが高いサービスと言える。このようなスマートフォンはアップルのiPhoneで、iPhoneの登場により、それまでのルールが変えられてしまった。

iPhoneは発売当初から3.5インチという携帯電話として破格の大画面でパソコン上で管理している情報を同期することができた。しかし、それ以上に話題になったのは、端末の全面に画面展開するために導入された、複数の指の位置を感知できるマルチタッチ対応のユーザーインターフェイスだった。そして、第二世代となるiPhone 3G以降は、初代がパソコン世代を刺戟し、多くのフィードバックを得て商品を充実させ、さらに追加のアプリケーションを自由にインストールできる環境や、アプリケーションを開発するための環境を整えた。ここから販売が急激に拡大して。

最初に、著者はスマートフォンはパソコンであると言った。しかし、これには、もうひとひねりある。iPhoneはパソコンから、日常的に利用する機能やデータだけを取り出して凝縮した小さな電子の板だ。ほとんどのユーザーは、パソコンと同じ電子メールが使え、スケジュールが管理でき、アドレス帳を参照し、メモを見て、さらに写真や音楽をパソコンから切り出すことができる。このような製品をコンパニオンデバイスという。iPhoneはパソコンに比べればコンピューターとしての能力は格段に低い。だが、宿主であるパソコンの能力を利用することで、パソコン並みの情報収集能力を発揮することができる。例えば、電子メールもすべて同期するのではなく、iPhone内部で管理しているのは一部に過ぎない。検索用のインデックス情報はパソコンが抽出しておき、それをiPhoneに転送している。こうすることで、パソコンが使う多様なデータがiPhoneという小さな装置でも軽々と扱える。

一方、iPhoneは携帯電話に比べてアプリケーション開発者に対して開放的で、パソコンに近い自由な開発が行えるうえ、ネットワークの使い方に関する規制もゆるかった。このため、iPhone向けにはウェブサービスを利用する多様なアプリケーションがつくられた。また、パソコンで利用しているクラウド型のサービスを、iPhoneでダウンロードし同期して利用するというスタイルも広まった。このことにより、ユーザーの端末の選び方を変えてしまった。携帯電話に限らず、デジタル製品は機能、魅力が時間の経過とともにドンドン陳腐化する。だから各メーカーは多様なバリエーションを用意し、新しい付加価値を搭載した戦略製品の投入を繰り返す。しかし、iPhoneは付加価値の高い高機能製品でもなく、製品としてのモデルラインアップもない。しかし、OSを常にアップグレードすることや、最新の機能やサービスを更新していくことで、製品の長寿命化を実現した。

2011年7月18日 (月)

本田雅一「これからスマートフォンが起こすこと」(1)

Sumaho 序章 スマートネイティブたちの世紀

スマートフォンはユーザーが自由を求めた結果として、台頭して来たものだと筆者は言う。これに対して、携帯電話は限られた条件の中で、どんな機能を盛り込めるかを携帯電話事業者が考え、混乱が起きないよう、端末や対応するサービスを設計、構築していく。いわば携帯電話事業者が絶対君主のような強権の下で複雑な進化の過程をとげ、これ以上成長することが難しくなっている。これに対してスマートフォンは、誰もが自由に振る舞うことができ、自由競争の下で淘汰され、優れたアプリケーションが生き残っていく。携帯電話のネットワークが有する限られた通信帯域をどのように使い、共有していくかは、ユーザー自身がアプリケーションを選択することで、決められていく。このようなアプリケーションの

自然淘汰の中で、存在感を強めているのがソーシャルメディアである。スマートネイティブたちは、常にスマートフォンを携帯し、ソーシャルメディアの中にあらゆる情報を放り込み、そのままソーシャルメディアを通じて自分たちの情報をやり取りする。このようなスマートフォンとソーシャルメディアの組み合わせを中心にデジタル世界に接続しているユーザーたちは、すでにインターネットの存在を無視し始めるという、大きな世代的変化が起こり始めている。

2011年7月17日 (日)

佐々木俊尚「キュレーションの時代─つながりの情報革命が始まる」(14)

グローバルなプラットフォームが普及していけば、民族性やそれぞれの国の独自性が失われるのではないか、という批判もある。例えばハリウッド映画やアメリカの音楽やマクドナルドやGAPのファッションが世界中を席巻したように。世界中の若者がアメリカ発の映画や音楽やファッションにどっぷりと浸かる。いわゆる文化帝国主義に浸食されてしまうという危険。しかし、そうした文化帝国主義が成立するためには、実はマスメディアによる情報の独占が絶対に必要だ。常和鵜の供給が絞られ、その細い情報流路に沿って、帝国主義的な文化が集中豪雨のように流し込まれるということが必要なのだ。

逆に、グローバル化したシステムでは、情報の伝達は今までよりずっと容易になり、だからこそローカルカルチャーの重要性がいつそう高まってくる。歴史や地理、文化の多様性を受け入れることによって、いくつものシステムやモデルが共存し、進化し、互いに影響し合って、そして分裂し、融合していくような、そういう新たな文化の世界。つまり、グローバルプラットフォームの上で情報が流れるということは、多様性がそこに内包され、自立・共存・発展するローカル文化の集合体を生み出していくことになる。

グローバリゼーションと画一化は、決してイコールではない。多様性を許容するプラットフォームが確立していけば、我々の文化は多様性を保ったまま、他の文化と融合して新たな文化を生み出すことができる。その世界で新たなまだ見ぬ文化は、キュレーションによって常に再発見されて続けていく。

この本は、著者が今、このような動きの真っただ中にいて、その渦中で書いているような本で、よく言えば、ビビッドに伝わるものです。その反面、考えが十分に整理されていないため、結構熱く読んでいても、結局何を言っているのかがよくわからなかったりする、ところがあります。全体の論旨というのも、可能性の議論に乗っかっているため、展開があるというよりは、例示が後から後から出てくるという感じで、興味が先へ先へと進むというのではないので、部分を拾い読みして、それぞれの事例というのかエピソードがそれぞれ面白く、それぞれが独立した内容として読めるので、ピンポイントで味わうくらいが程良い読み方ではないかと思います。なお、この本での議論は、このブログで同時並行のようにアップしてきたIR担当者の雑感の中で参考のネタとして使わせていただいています。

2011年7月16日 (土)

佐々木俊尚「キュレーションの時代─つながりの情報革命が始まる」(13)

第五章 私たちはグローバルな世界とつながっていく

我々は多様な文化圏域の中で暮らしている。勿論日本人としての性質と文化は日本人という民族が消え去らない限り無くならない。一方でインターネットというテクノロジーの普及は、別のレイヤーでの新たな変化を引き起こした。動画サイトで動画が自由に流通するように、他にも音楽も世界中でコンテンツを共有できるようになった結果として、コンテンツがアンビエント化してきている。ソーシャルメディアが国境を越えて接続されていくということは、そこで生まれる文化的な共有空間も国境を越えて浸透していく。コンテンツがアンビエント化して、国境を越えて浸透していくという状態になってきている。

しかし、その一方で、このようなアンビエント化の動きとはまるで矛盾するようにして、普遍主義の崩壊が言われ続けている。普遍主義とは、ヨーロッパで近代市民主義が成立してから、このヨーロッパ市民社会を「普遍的」であるとする、民主主義という政治体制、友愛や平等といった理念、これらは世界のすべてをおおいつくすことができる普遍的なシステムだという考え方のことをいう。文化でいえば、ヨーロッパの美術、クラシック音楽が理想的な藝術として世界文化の標準として君臨していた。しかし、よく考えてみれば、これはヨーロッパと言う一ローカルの考え方であるに過ぎない。さらにいえば、ヨーロッパの中でも、普遍として一概に言えなくなる事態が発生し、何が普遍か、ということがはっきりしなくなってきている。このように普遍主義が崩壊し、細分化した圏域で閉鎖的になっていく文化と、インターネットによってアンビエント化し、開放的になっていく文化、ひとつは断絶で一つは共有とは、文化のそれぞれ別のレイヤーのことを説明している。つまり、我々の文化は断絶し、共有されている。

ユーチューブやアイチューンなど、コンテンツを共有するためのプラットフォームがグローバル化していく中で、アメリカに住んでようが中国に住んでいようが、安価にコンテンツを発信し、楽しみ、共有することは世界中のだれもが可能になっていく。そのためのコストは低下し、国ごとの違いは関係ない。従来は発信力の強い国の文化が配給力を持っていた。それが、普遍文化の背景ともなっていたわけだ。ところが、インターネットのメディアが普及し、コストが低下していくと、情報発信パワーにはあまり意味がなくなってくる。そもそも情報発信がパワーたり得たのは、情報発信が絞られていたマスメディアの時代で、この時代までは、情報の供給に需要が追い付かなかったからなのだ。しかし、今や情報量は膨大な量となり、供給が需要を完全に上回った状態となった。このようなメディアの環境の中では情報発信のパワーは相対的に失われたようになる。もとろん良質なコンテンツが価値を失うということではない。しかし、情報の量が多くなるに従い、そういった良質のコンテンツも数が増える。今では、プロが作った少数のコンテンツを映画メジャーや出版、メジャーレコードが配信していただけだったのが、ソーシャルメディアを介して続々と配信されるようになった。これこそがインターネットのプラットフォームのパワーと言える。

このことは情報アクセスのパラダイム転換を促すだろう。メディアのコンテンツ発信のパワーは弱まり、その一方でコンテンツ共有のプラットフォームがグローバル化し、巨大な基盤となっていく。我々はその巨大なグローバル化したプラットフォームの上で、無数のビオトープを形成し、そこに無数間キュレーターを生み出し、いたるところに生息しているキュレーターに我々はチェックインし、その視座によって情報を縦横に得ていく。グローバルなプラットフォームの上で、コンテンツやキュレーター、それに影響を受けるフォロワー等が無数の小規模モジュールとなって存在するという生態系が生まれる。このようなグローバルなプラットフォームの上で、より細分化された文化圏域のコンテンツが縦横無尽に流通することが可能になる。また国ごとの垂直な情報圏域では、マスメディアは崩壊し、ミドルメディア化して細分化していく、その一方で、その細分化されたミドルメディアは、グローバルな方向へは水平に流動化していく。

それが進むと一つの国の国民が全員で同じ文化を共有するという考え方が幻想だったことが明らかになり、国内でも、都市と地方、富裕層と貧困層などで文化の分断が進み、それぞれが違う文化圏を形成するようになってきて、それぞれの細分化それた圏域によって必要とされる情報は異なり、そうした情報は同時にグローバル化される。そのような時代においては、プラットフォームという大きな船に乗ることによって、文化圏域も同じようにたやすく国境を越えていく。同じ国に住んでいる、でも異なる文化圏域の人よりも、国は異なるが同じ文化圏域に属している人の方が近いと思えるようになってきている。

2011年7月15日 (金)

佐々木俊尚「キュレーションの時代─つながりの情報革命が始まる」(12)

アウトサイダーアーティストの表現は、キュレーターによりフィルタリングされ、そこに新たなコンテキストが付される。その新たなコンテキストによって、インサイダーとアウトサイダーのセマンティックボーダーは拡張され、新たな血がつねにインサイダーの中へと流れ込んでくる、これがアートを活性化させていくということなのだ。それと同じように、我々の世界の膨大な情報のノイズの海から、それぞれの小さなビオトープに適した情報は、無数のキュレーターたちによってフィルタリングされていき、それらの情報にはコンテキストが付与され、そのコンテキストがキュレーターによって人それぞれであるがゆえに「何が有用な情報なのか」というセマンティックボーダーはゆらいでいく。そのゆらぎこそが、セレンディピティの源泉となる。美術のキュレーションと異なり、ソーシャルメディアにおけるキュレーションは、無数のキュレーターと無数のコンテキストによって常に組み替えられていく。だからこそ、セマンティックボーダーが常に新鮮であることを約束させられているということになる。ソーシャルメディアには無数のキュレーターが存在する。ツイッターには様々な分野で影響力のあるユーザーがそれぞれのフォロワーに情報を流し、ミクシィやフェイスブックには様々なコミュニティが立ち上がってきている。ブログにはそれぞれの分野に興味ある読者が固定されている。そういう複雑な山脈のようなソーシャルメディアには、様々な尾根、谷、テラスにそれぞれのビオトープがあり、そうしたビオトープに膨大な数のキュレーターが存在していて、それぞれに生息している人々に向けて日々情報を流し続けている。そこでは無数のキュレーターと無数のフォロワーが、日々接続を繰り返しながら情報の交換を行っている。

これは社会の関係構造が大きく変わったことに対応したものだ。以前の経済成長をバックにした「いつかは誰でも豊かになれる」という幻想を持てた時代では、360度の関係性という家族、会社、国家というような同心円的な共同体のピラミッド的な秩序に丸抱えで依存していた。例えば、学卒で企業に入社し、年齢とともに肩書があがり、乗用車もカローラからコロナ、クラウンへと乗り換えるというような人生プランが描けた。決まりきったような人生だけれど、その中に漬かっている人には安心感があり、繭にくるまれたように住みやすい場所であった。これは「言葉を口にしなくても分かり合える」ような暗黙的な関係性の社会であって、このような「暗黙」を支えていたのが、新聞やテレビ等のマスメディアによって作られた共同幻想だった。同じテレビ番組やCMを見て同じ商品を購入することでたったひとつのメディア空間に国民全員がくるまれ、それが暗黙的な相互理解の礎になっていたと言える。そこでの、「業界」や「会社」あるいは「営業部」といった共同体はそれぞれ同心円的な囲い込みを進めタコツボ化することになる。

しかし、現在では会社や業界のような、自分を繭のように包んでくれるようなコミュニティなど存在しないことは明白になった。その代わりに我々の社会の人間と人間の関係は多層化し、多方向化し、複雑な山脈のように構造が変化してきている。我々は、もはや「同心円」的な関係性ではなく、もっと「多心円」的な関係の中に生きている。関係は無数に立ち現われては消え、つねにアドホックなに存在する。そうした人と人との時々の新鮮な関係はつねに確認していかなければならない。つまりは明示的な関係へ変わりつつある。

マスメディアが支援する暗黙的で同心円的で自己完結的な関係から、ソーシャルメディアが支援する、明示的で多心円的で不確定な関係へ。このように我々の関係は変化してきている。自己完結的な閉鎖系は、情報の流れを固定化させ、そしてまた情報が内部の法則によってコントロールされてしまうことで、硬直してしまう。この硬直は、同心円的な戦後のムラ社会には都合がよかった。しかし、グローバリゼーションの中でアウトサイドの世界が変化していっているとき、こうした情報の硬直化は間尺に合わなくなってきている。一方で、ソーシャルメディアの不確定に情報流通は、外部から情報が流れ込み、セマンティックボーダーが常に組み替えられて、それによって内部の法則が次々に変わっていくことで、常に情報に「ゆらぎ」が生じている。絶え間なくセマンティックボーダーは組み替えられて、固定されない。そこがマスメディアによる閉鎖系によって硬直化していた情報流通が再現性を持っていたのと、全く異なり、ソーシャルメディアの中の情報は、決して二度と再現しない「ゆらぎ」とともに流れている。ということは、ソーシャルメディアでの情報流通とつながりは、つねに「一回性」というただ一度の出会いの中にある一期一会なのだ。

2011年7月14日 (木)

佐々木俊尚「キュレーションの時代─つながりの情報革命が始まる」(11)

このようなアウトサイダー/インサイダーの境界、そしてその境界を設定するキュレーションの方向性は我々を取り巻く情報の海そのものにも適用される概念になっている。情報のノイズの海から、特定のコンテキストを付与することによって、新たな情報を生み出すという存在としてキュレーターが要請されてきている。一次情報を発信することよりも、その情報が持つ意味、その情報が持つ可能性、その情報が持つ「あなただけにとっての価値」そういうコンテキストを付与できる存在の方が重要性を増してきているということなのだ。情報爆発が進み、膨大な情報が我々の周りをアンビエントに取り囲むようになってきている中で、情報そのものと同じぐらいに、そこから情報をフィルタリングするキュレーションの価値が高まってきている。

セマンティックボーダー(言葉の壁)と言う言葉がある。世界の複雑さは無限で、その無限である複雑をすべて自分の世界に取り込むことはできません。ノイズの海と私たちが直接向き合うことは、とうてい不可能だ。だから動物や人間は、様々な情報の壁を設けて、その障壁の内側に自分だけのルールを保っている。言い換えれば、外はノイズの海の中から、自分のルールに則っている情報だけを取り込むようにしている。ノイズの海には様々なルールが無限に存在しているけれど、そこから自分に合ったルールだけを取り出すということをしている。言い換えれば、一人の個人が社会の中で生きていくためには、社会から情報を取り入れることが必要だけれども、社会に存在しているすべての情報を取り込んでしまうと、情報のノイズに埋もれて、どのような変化が社会で起きているかを見通すことができなくなってしまう危険性がある。だからそこに「意味の境界」として、セマンティックボーダーを作らなければならなくなる。つまりは情報のフィルタリングシステムである。これまで述べられてきた「視座」へのチェックインと、その視座を提供する無数のキュレーターという流れに沿って言えば、ソーシャルメディアの世界ではセマンティックボーダーはキュレーターによって絶え間なく組み替えられていく。小さなビオトープの圏域がつくられ、そこにある法則性が生まれ、そのコンテキストに沿ったセマンティックボーダーによって情報は外部から取り入れられていくことになる。キュレーションがノイズの中から情報を取り出し、その情報にコンテキストを付与しているということは、すなわち、それまでアウトサイダーの情報だったものを意味をあたえることによってインサイダーに変換する、というようにセマンティックボーダーを再設定するで、そこに意味を与えている。そこで大切なのは、このセマンティックボーダーが正常に働くためには、二つの要件があることだ。第一は、セマンティックボーダーし常に組み替えられ続けるということ。硬直しないということ。第二は、セマンティックボーダーは内側の論理によってではなく、外部のだれかによって作られるべきだということ。

これは、これまで扱ってきたコンテンツとコンテキスト、そしてコンテキストを生み出すキュレーターの視座と、その視座にチェックインする人々という構造。つまり、第三者であるキュレーターが付与するコンテキストによって、視座は常に組み替えられ、キュレーターがソーシャルメディアの普及の中で無数に立ち上がってくれば来るほど、その視座は無限に拡張されていく。それこそがセマンティックボーダーの組み替えに他ならない。そしてこのセマンティックボーダーの不安定化は「ゆらぎ」を生み出し、その「ゆらぎ」こそがセレンディピティの源泉ということだ。マスメディアにあるパッケージ消費の時代は、「マスメディアが生成した情報だけを読んでいればいい」というセマンティックボーダーが設定されていたが、このボーダーは既に硬直し、内部論理だけによる自閉的で独善的な行き方がマスメディアという組織に起きてしまったからと言える。しかし、2000年ころから、マスメディアが発信した情報と個人が発信した情報の境界線が曖昧になってきた。自己完結的なマスメディア言論は著しく劣化し始めており、専門家ブロガーの言説に対抗できないというようなケースは多く起きている。

2011年7月13日 (水)

あるIR担当者の雑感(36)~ IRのニッチ戦略(16)

この一連の投稿も、最初は雲をつかむような話で、話の道筋も行ったり来たりで、どうなることかと思っていましたが、ようやく焦点に近づいてきました。私の勤め先はニッチな事業をしている、投資先としては取り立てて魅力的に映らない企業は、他のメジャーな企業と同じようなIR活動を行っても、競争に勝てるわけがない。そこで、そういうメジャーとは別の土俵で戦おうというわけです。では、具体的にどうするのか、例えばインターネットという、今では、どの企業でも利用しているし、投資家にとっても企業の情報収集する際に、真っ先に利用するメディアに対して、そういう姿勢が採れるのか。もしそれができれば、従来のネットワーク網に引っ掛かってこなかった人々に対してメッセージを送ることができるのではないか。というのが、ここまで、紆余曲折、一歩前進二歩後退しながら、話してきたことです。そして、その具体的手段として、フェイスブックというSMSの可能性に賭けてみたいという結論に近いところまで辿り着いたというわけです。

では、実際にどのようにフェイスブックを生かして利用しようとしているのか。以前にも言いましたように、日本の企業でも早く着目して、企業のファンページを開設しているところも少数ながらあります。しかし、それらを見てみると、IRのホームページの簡易版であるか、IRニュースの速報掲示板のようなつくりのようです。フェイスブックの可能性は認識しているものの、どのように生かすかの検討が未だ十分になされていないので、取敢えず開設してみたというところではないかと思います。私がフェイブックを利用する際に、最大のメリットと考える双方向性のコミュニケーションの可能性に対して、従来のホームページの倣った一方的な情報発信のやり方を取っていては、意味がないと思います。

それでは、実際にどうするのか、と疑問に思われるでしょう。私も、実は分らないのです。こう言ってはなんですが、今までのやり方ではない、別の新しいやり方を考え試していくしかないと思っています。手始めとして、企業のファンページという改まったものでは、どうしてもお堅い公式見解を一方的に発表するという方向に流れてしまいがちなので、担当者が個人という資格で始めてみようと。フェイスブックの場合は、実名で登録し本人のプロフィールを明かすことができることを逆に利用して、企業の担当者であるという立場を明確にしたうえで、企業にいるIR担当者としての日常や思いという身近なものや決算発表のような公式な発表を織り交ぜながら、企業の理解と、個人対個人という形体でのコミュニケーションの機会を作ろうと考えています。そこで、あわよくば、運が良ければ、投資家の人々のアンテナに触れるかもしれないと気長に待つというやり方です。

行き当たりばったり、と言われれば反論できませんが、しばらくは可能性に賭けてみたいと思います。

興味のある方は、下のアドレスを覘いてみて下さい。ただし、フェイスブックに登録していないと入れません。

http://facebook.com/yasuo.katayama

佐々木俊尚「キュレーションの時代─つながりの情報革命が始まる」(10)

この「視座」を提供する人を、英語圏ではキュレーターと呼び、キュレーターが行う「視座の提供」がキュレーションである。日本では慣用的に博物館や美術館の学芸員の意味で使われている。世界中にある様々な藝術作品の情報を収集し、それらを借りてくるなどして集め、それらに一貫した何らかの意味、企画展として成り立たせる仕事である。これは、これまで述べられてきた情報のノイズの海からあるコンテキストに沿って情報を拾い上げ、口コミのようにしてソーシャルメディア上で流通させるような行いと、非常に通底している。だからキュレーターということばは美術展の枠からはみ出て、今や情報を司る存在という意味にも使われるようになってきている。例えば美術展では、2010年夏の東京藝大美術館でのシャガール展では愛と幻想の画家という見慣れたイメージとは異なる、ロシアの民族的根源性とアバンギャルドとの関係が浮かび上がり、シャガールというコンテンツから既存のパッケージを引きはがし、そこに新たなコンテキストを付与する。そして、このコンテキストを付与したのは、ポンピドー・センターのキュレーターで、彼の持っているシャガールやロシア前衛主義への知識と教養、そして彼が持っているアートへの深く豊かな世界観があってこそ、このコンテキストは豊饒な意味をもって、我々の前に立ち並ぶことができた。

コンテンツとコンテキストという両方の要素があってこそ、我々はコンテンツをさらに深く豊かに愛することができる。そして、コンテンツとコンテキストは相互補完的な関係であって、コンテキストは決してコンテンツのおまけ程度の副次的な存在ではない。勿論、シャガールというコンテンツは、ポンピドー・センターのキュレーターのコンテキストがなくても、天才の作り出した素晴らしい作品として屹立しており、予備知識がなくても、見た瞬間に心が躍り素晴らしい感動と衝撃を与えてくれる。その意味では、コンテキストは所詮コンテンツに寄り添うだけの存在であって、単独に成り立つ要素ではないかもしれない。しかしアートの世界には、最初に紹介したヨアキムのように、コンテンツがなければ決して誰にも認知されずに終わってしまいかねないコンテンツも存在する。その典型がアウトサイダーアートである。

現代アートのメインストリームでは、作り手は表現者であるのと同時に自分の作品がどのようにして今の時代に受け入れられるのか、どこにその場を求めればいいのか、そしてどうプロモーションしていけばいいのかという編集的、ビジネス的センスまでもが求められている。作り手であると同時にキュレーターであり、エディターであり、プロデューサーであり、プロモーターでもなければならない。その方向性を突き詰めているのが、現代日本でいえば村上隆と言える。彼は世界市場で自分の作品を売っていくために徹底して歴史と市場を分析し、計算し、緻密な戦略を立てた。彼の『芸術起業論』では「藝術作品単体だけで自立はできません。鑑賞者がいなければ成立しないものです。もちろん作品版倍もお客様あってのものです。どんな分野でも当然の営業の鉄則が、芸術の世界でだけは『なし』で済むなんていう都合のいいことはありません。」「欧米では芸術にいわゆる日本的な、曖昧な『色がきれい…』的な感動は求められていません。知的な『しかけ』や『ゲーム』を楽しむというのが、芸術に対する基本的な姿勢なのです。欧米で芸術作品を制作するうえでの不文律は、『作品を通して世界芸術での文脈を作ること』です。僕の作品に高値がつけられたのは、ぼくがこれまで作り上げた美術史における文脈が、アメリカ・ヨーロッパで浸透してきた証なのです」つまり、彼は自分で自分の作品にコンテキストを付与し、そのコンテキストがアメリカ・ヨーロッパの美術シーンに接続できるような戦略を立てていったということで、彼は天才的なアーティストであると同時に、極めて優秀なキュレーターでもある。しかし、アウトサイダーアートの作り手たちは、そのような戦略的発想は一切持っていない。自分以外には興味がなく、ただ自分のためだけに作品を作っているような人たちと言える。だからこそ、キュレーターという存在が必要になって来る。キュレーターがアウトサイダーアートにコンテキストを付与し、それを現代の芸術界に重ね合わせていく作業を行っている。つまりは、アートと言う巨大なプラットフォームの上で、表現とキュレーションが分離し、それをモジュール化して存在しているという構図になっているのだ。

2011年7月12日 (火)

あるIR担当者の雑感(35)~ IRのニッチ戦略(15)

ホームページというコンテンツは、私の考えるIRの手段として限界があるということを前回書きました。これは、かなり不遜な物言いかもしれません。インターネットということを、よく知らないから書けることかもしれません。その点で、私の知らないホームページの機能で、前回かいたような限界を越えてしまうようなものがあれば、ぜひ教えていただきたいと思います。一番求めていることは、投資家と企業がIRという架け橋で一対一のやり取りができるということです。そのために、可能性があると考えているのが、ソーシャルメディアと呼ばれるものです。具体的にはブログ、ツイッター、そしてフェイスブックなどです。実際に、企業の社長がブログを書いていたり、ツイッターで発信しているケースは既に行われています。ただ、どうしてもツイッターの場合には匿名性の原則により、そこで書かれていることが、果たして社長本人か、あるいは本当に会社のことなのかという保証ができないという限界があるように思います。ソフトバンクの孫社長のように有名な人でツイッターも有名であれば、そのような問題は生じないかもしれませんが、私の勤め先のような知名度の少ない企業の場合は、仮にツイッターで見ても、後で、ホームページで情報をもう一度確認するということにもなりかねません。

そこで、可能性を考えているのが、フェイスブックというメディアです。日本の企業でもフェイスブックでの企業ホームページにあたるファンページを開設しているところも増えてきました。しかし、これらはどちらかというと一般消費者向けの商品宣伝やネット販売のページで、IRでやろうとしているところは未だ少ないと思います。IRで使おうとしているところも、とりあえずファンページをつくって、決算短信発表等の情報を載せ始めたというところのようです。だから、これからここに書こうとしていることは、海外では分かりませんが、少なくとも国内では先例が見当たらないもののようです。そのため、見当はずれの内容になるかもしれないことを、予め、お断りしておきます。

フェイスブックの特徴は実名で登録し、フェイスブックの中では実名のやり取りができることです。そして、グーグルのような検索システムが届かないので、フェイスブック内に場を設けておけば、グーグルでは得られない情報に触れる窓口にもなれるということです。

しかし、ネックとして考えられるのはフェイスブックのユーザー数はSMSで最大とはいえ、日本では普及が一部の段階にあること、フェイスブックに登録しているユーザーでも全部が活発に利用しているわけではなく、活発に利用しているのは若い世代におおいことがあげられます。若い世代の場合、特に、ミクシーという国内でのSMSに顕著な傾向なのですが、実際の学校や職場の友人関係がそのままフェイスブックのネットワークに持ち込まれ、そこで頻繁にやり取りをしている傾向にあるらしい。ある社会学者が関係確認のための交信といいましたが、互いにやり取りを交わすことで友人なり同僚なりの関係にあることを確認し合っているので、やり取りの中身は他愛もないものになっている。という傾向です。ただし、これに対しては携帯電話のやり取りと違って、フェイスブックのやり取りは全て履歴にのこり公開されてしまうので、変化の可能性もあるということでした。例えば、そのような履歴を第三者が遡って見ていくことにより、本人の人となりが推測できるとか、アメリカではフェイスブックの履歴が人物調査の参考として扱われているとか、何気ない日常のやり取りだからこそ、当人の本音や人となりが垣間見えるということらしい。

このようなことから、フェイスブック上でのメンバーの交流が、場合によっては深いものになる可能性もある。このような可能来を考え、この一連の投稿で私が考えてきたような、企業の経営の思いを話し、それに共感を得るという可能性を見たわけです。それは、従来のホームページにない双方性の可能性です。また、フェイスブックには登録したメンバーしか入ることができず、グーグルのような検索も使えないため、口コミのような情報の広がりの要素が強いようで、時には、そのような口コミのネットワークに企業の側から一参加者という資格で入っていく可能性も考えられます。

このような可能性としてフェイスブックの利用を具体的に考えています。最初にお話ししました、証券会社などのネットワークに入ってこない人々に出会うためのチャンスとして、このようなフェイスブックにある種の投資家の友人というネットワークの存在の可能性、今はなくても、今後生まれる可能性を見て、そこを開拓してみるということを考えています。

2011年7月11日 (月)

佐々木俊尚「キュレーションの時代─つながりの情報革命が始まる」(9)

第四章 キュレーションの時代

情報のノイズの海は、そのままではただ茫漠と広がっているだけで、いったいどこに自分にとって良い情報が溜まっているのかはさっぱり分らない。何の羅針盤もないままその海に漕ぎ出しても、あまり広さに途方に暮れてしまう。でも、その遠浅の海にあちこちに杭が差し込まれ、その杭の周囲には情報がゆるやかに集まってよどみを作っている。自らは情報そのものを探す必要はなく、どの杭がどういう情報のたまり場なのかを判断して、それらの杭に近寄っていって、その杭の周囲の水流に手を伸ばせばいい。冷たく澄んだ水がその手の周りでやさしく戯れ、そこに渦巻いている情報が見えている。誰かの視座にチェックインすることによって、我々は情報のノイズの海から的確に情報を拾い上げることができる。そして、第2章の背景放射と大きく重なってくる。

人のつながりによってこそ、我々は情報を的確に受け取ることができる。そしていま我々は、モノの消費よりも人のつながりを求めている。これは消費社会と情報社会を大統合させる大きな流れの可能性もある。ソーシャルメディアによって細分化されたコンテキストが絶え間なく生成され、そのコンテキストが絶え間なく生成され、そのコンテクストという物語を通じて我々は共鳴し、共感し、そして接続してお互いの承認を受けることができる。そういう時代の中に足を踏み入れつつある。例えば眼鏡を買うという行為は、即物的には単に「見えないものを見えやすくする」という機能を購入するだけだが、しかしそこには「眼鏡を売ってくれた田中さんの笑顔を思い出す」というつながりをも差し挟まれていく。つまり2010年代の消費の本質は

商品の機能+人と人とのつながり

と言うことができる。それと同様に情報が流れているということは、情報を得るという即物的な機能だけではなく、そこに「情報をやりとりすることで人と人がつながる」という共鳴が同時に成り立つような時代になってきている。

情報収集+人と人とのつながり

ということになれば、そこには共鳴と共感を生み出すためのコンテキストの空間が絶対不可欠であって、そしてそのコンテキストを生み出すためには、検索キーワードや場所や番組といった「視点」の杭だけでは成り立たず、だからこそそこに「人」が介在する必要がある。人が介在することによって、「杭」は立ち位置や見る角度といった「視点」だけではなく、世界をどう見るのか、どう評価するのかという世界観や価値観という「視座」に進化する。そして、人格をもった人間という視座につながることによって、我々は情報を得るのと同時に、視座=人とつながることができる。言い換えれば、視座とはすなわち、コンテキストを付与する人々の行為に他ならない。そして我々はその視座=人にチェックインすることによって、その人のコンテキストという窓から世界を見る。

そもそも、我々は情報のノイズの海に真っ向から向き合うことはできない。インターネットが社会に普及し始めると、マスメディアが情報を絞っていた時代に比べれば、情報の量は数百倍か数千倍、それ以上になっている。その膨大な情報のノイズの海の中には、正しい情報も間違った情報も混在している。これまでは新聞やテレビがある程度はフィルタリングしていたので、それを概ね信じていればよかった。ところがネットにはフィルタリングシステムがないので、自分で真贋を見極めなければならなくなった。ところが、それは不可能なのだ。一時情報の真贋を自分では判断できず、その情報を利用しているブログでも事実であることを前提に議論していれば、それを読む人は真贋の判断はさらにできない。一方で、田原総一朗の著名記事に書かれていれば多くの人は信頼するに違いない。その理由は、これまで田原氏の書いてきた記事が信頼に足る記事が多かったからだ。つまり、事実の真贋を見極めることは難しいが、それに比べれば、人の信頼度を見極めることの方が容易であるということだ。さらに、人の信頼を得るということは、ソーシャルメディアの時代になって依然と比べものにならないほど容易になっている。それは、過去の投稿や記事が検索によって容易に過去にどのようなことを書き、どんな発言をしていたかをわかってしまうからだ。ネットで活動するということは、つねに自分の行動が過去の行動履歴も含めてすべて透明化され、検索することで容易に読まれてしまう。そういう自分をとりまくコンテキストがつねに自分についてまわってしまう世界なのだ。それは、きちんと真っ当なことを言って世界観を一貫させて語っていれば、つねに自分の信頼をバックグラウンドで保持できる安定感のある世界であると言える。くだらないパッケージを被せたりしなくても、ちゃんと語っていれば、ちゃんと信頼される世界といえる。このようにしてソーシャルメディア上では、「人の信頼」というものが可視化され、すぐに確認できるような構想になっている。我々は情報そのものの真贋を見極めることはほとんど不可能だけれども、その情報を流している人の信頼はある程度推し量ることができるようになってきている。だからこそ、「人」を視座とする情報流通は、いまや圧倒的な有用性を持つようになり、我々の前に現れてきている。

あるIR担当者の雑感(34)~ Rのニッチ戦略(14)

今回の連続した投稿は、そもそも、IRのホームページを中心にして、個人投資家向けの情報発信について考えたのが発端でした。そこで、具体的にはホームページをはじめとした個人投資家といわれる人々への情報発信、とくにインターネットを主として考え行きたいと思います。実は、私の勤め先のホームページ、中でもIRページは、よくIR表彰を受けるような企業のIRページのような親切なものになっていません。必要最低限に近いものを取敢えず掲載しているようなもので、整備が課題と考えてきました。以前の投稿で有名企業のIRページを名指しで批判したこともあり、色々な思いはあるものの、実際にやってみると、遅々として進まないという状態になってしまいました。このように遅々として進まないことには、私の怠惰も原因しているのでしょうが、色々な会社のページを参考に見ているうちに、これ連続投稿で考えてきたような視点をベースにして見てみると、企業の側からの一方通行が無意識のうちに(多分、意識的に、そこまで戦略的に考えているケースというのは、私の見た範囲では、ありませんでした。)、デザインの基本的な思想というのか発想がアニュアルレポートや新聞広告、あるいはテレビCMと同じものであるように見えてきたのでした。この前までの投稿で考えてきたようなIRというものの性格が、インターネットという双方向のやり取りができるという特徴ともっと親和性があるはずなのに、そのことを十分生かし切れていないようにも思えたのです。例えば、表面的なことで、見てすぐそれて分ることとしては

・受け手からの声を受信するようにことが、全く触れられていないか、触れられていたとしても、連絡先などの、そのための回路の表示が小さくて分かりにくいこと

・双方向のやり取りをするということは、企業の側でも、受け手からの声に対して謙虚に耳を傾け、場合によっては、その意見に従うこともあり得るはずであるのに、例えばホームページをもっとこうしたらいいという意見があっても容易に動けないようにカッチリ作られていること

では、そのようなことを言っている、当の私はどうなのか、というと実際に、このように条件ら対してクリアできるようなページはどのようなものか、と頭を悩ませているのが現状、というところです。

それどころか、ホームページという形式自体が、情報の一方的な提供という形式からは、どうしても抜け出せないところに限界があるのではないかと感じています。だから、ホームページは、そういう限界があることを踏まえて、ここは会社の理解への入り口の一つとして、程度に考えてつくることが望ましいと考えます。とすると、いろいろと回り道してきましたが、ホームページはそれ自体がもつ機能の限界のために、従来の各社でつくられているものと、結果として、それほど大きく変わらないものということになってしまうでしょうか。ホームページで独自性を強く印象付けられないかとおもってきましたが、従来の枠組みの中で表現方法として、単なる見せ方として変わったやり方を考えてみるということで、意外とホームページというメディアには可能性がないかもしれません。

しかし、さっきホームページで物足りないとして取り上げた2点に関しては、ホームページの機能の限界を越えさせ、これまで考えてきた、投資家とのコミュニケーションといういみで最も重要な要素として考えるべきだと思います。でもこのようなホームページ自体に限界があるとすれば、手段(コンテンツ)としてのホームページに固執することもないと思います。とは言っても、それ以外に別の画期的な手段があるのか。ということについては、次回で考えてみたいと思います。

佐々木俊尚「キュレーションの時代─つながりの情報革命が始まる」(8)

フォースクエアの第3の仕掛けは、この「行い」に関連する。フォースクエアは、「場所」と「情報」を結び付け、その結び付けによって、企業や個人の間に新たに回路が開き、そこにエンゲージメントが形成されていく。そして、その場所と情報が結びついたポイントに消費者がたどり着くため、フォースクエアが用意したのは、「チェックイン」というコンセプトだ。どこかの場所に到着して、どこかでチェックインすることによって、様々な情報をそこで得て、誰かと繋がることができる。このチェックインこそが第3の仕掛けというわけだ。「チェックイン」とは、この場所にいるという通知手続をユーザーが行うことによって、その情報を友人に通知したり、その場所の情報を得ることになる。類似のグーグル・ラチチュードには、このような機能はなく、自動的に自分の居場所を友人に通知するように設定されていたことから、プライバシーの問題を引き起こしてしまった。実は、このプライバシー問題はインターネット広告にとって非常に重要な懸念となっている。というのも、多くのネット広告が勝手に客の情報を収集し、勝手に客に情報を送りつけるという仕組みを取っているからだ。ライフログという手法で、例えばアマゾンは客が購入したデータやページを閲覧した履歴から関連商品のおすすめのような機能を付けている。このような動きが全般にある。しかし、自分のあずかり知らないところで自分の情報を奪われているというプライバシー不安をどうしても呼び起こしてしまう。そこで、自分の行動をきちんと自分が意識したうえで、他者に教えることを同意していれば、そのような問題の起こることはない。そのカギとなるのが、フォースクエアの「チェックイン」と言うことができる。フォースクエアでは、自分がいる場所は暗黙的には配信されず、チェックインという行為を通して初めて配信される。これにより、「自分が今いる場所」言う考えようによっては非常に危険な情報を、ユーザーの側が不安に感じることなく安心して友人たちに送信できるようになっている。類似のグーグル・ラチチュードが居場所情報を自動配信する、つまり暗黙の裡にやってしまうことに比べると、両者の違いは明白になる。そして、このチェックインは、明治的であることにより、プライバシー不安を解消してくけると同時に、もう一つの重要な意味として、「自分がどのように情報を得るのか」という立ち位置を、ユーザーの側が自分自身で選べるようにしていることである。つまり、自主性を情報取集に持ち込んでいるということだ。そして、このチェックインという機能はほかの分野への広がりの可能性がある。例えば、フェイスブックの「いいね!」ボタンもそうだろう。このように考えると、チェックインは、場所以外にも情報を集めるためのブイのようなものをネットの海に差し込む行為ということも可能だ。膨大な情報ノイズの海から、何の手懸りもなく情報を拾い集めてくることはとても難しい。しかし、「今自分が居る場所」「面白そうなブログ」といった手懸りがあれば、それを軸にして情報を的確に拾い集めることができる。それは、検索エンジンのキーワードに似ている。言うなれば、情報を集めるための「視点」のようなものだ。この「視点」によってインターネットの情報をフィルタリングすることができる。しかし、この方法には「視点」ということで視野角や立ち位置や方角が固定化され、「タコツボ化」する危険性が潜んでいる。視点の固定化とタコツボ化は表裏一体で、視点を固定しないと情報はうまく得られないが、視点を固定した瞬間に情報はタコツボ化してしまうというジレンマがある。

しかし、これは一人の人間に限ったことで、二人の人物がまったく同じ価値観、同じ世界観を持つということはあり得ない。どんなに近しい人でも、そこには微妙な差異があって、その差異が情報の集め方の揺らぎを生じさせる契機となる。そのことがタコツボ化を乗り越えるための突破口となっている。検索キーワードや場所、ブログは人格のない無機物であり、そうした無機物に依拠する限り視点は固定されてしまい、タコツボ化に進んでしまう。しかし、人が一人ひとり別の価値観、世界観を持っていて、その人間を視点とすると、揺らぎがうまれタコツボ化を使用時させない可能性がある。これは日常生活でも、他人との出会いによって、今まで思いもしなかった視野が開けるという経験は誰でもあるはずだ。ブログの場合なら、キーワードで検索してたどり着いたブログのエントリーには、自分が探したキーワードに関わる話しか書かれていないかもしれない。しかし、そのブログが気に入って、ブロガーのファンになり、毎日読んでみると、日ごろは絶対に興味を持たなそうな分野の話をそのブロガーが書いていて、急に自分も好奇心を掻き立てられることもあるだろう。さらに、ブログならトラックバック、ツイッターならツイートしている人を関連して新たにフォローしてみれば、情報はさらに広がり、情報をフォローしていることを宣言することにもなる。これは、ソーシャルメディアですでに行われている。

これをまとめてみると、つぎのようになる。視座にチェックインし、視座を得るという行為るこれは自分自身の視座とは常にずれ、小さな差異を生じつつけている。「自分が求める情報」と「チェックインされた視座」は微妙に異なっていて、そのズレは収集された情報に常にノイズを齎すことになる。そして、このノイズこそが、セレンディピティを生み出すものとなる。期待していなかった情報が、その「ズレ」の中に宝物のように埋まっている可能性があるということだ。第二に、視座にチェックインするという行為では、情報そのものを取得するのではなく、その情報を得るための視座を得るだけでよく、だからフィルタリングのハードルが大幅に下がる。情報のノイズの海から一かけらの情報を掬い上げるのは、干し藁の中から一本の針を探すような作業であって、非常に困難を伴い高い技量が求められる。でもその海の中に点在している視座は、情報全体の量と比べればごくわずかであって、それを探す作業は比較すればかなり容易になる。第三に、この明示的で自主的な「視座へのチェックイン」という行為はプライバシー不安を回避している。自らの手で誰かの視座を選択し、その人の目で世界を見るという行為は、自分自身をさらけ出す必要は全くない。視座にチェックインすることで、我々は広大な情報のノイズの海をわたり、圏域が細分化された湿地帯のビオトープの中へと歩みを進め、そこに生息するカニやエビや小魚たちと共鳴しあい、その小さく豊かな空間の中で生きていくことができる。

2011年7月10日 (日)

佐々木俊尚「キュレーションの時代─つながりの情報革命が始まる」(7)

第2の仕掛けは、場所と情報の交差点をうまく作り出したこと。これにより、フォースクエアは類似のサービスとの差別化を図った。例えばグーグル・ラチチュードは位置情報を通知するサービスを行う。これに対してフォースクエアは居場所としての「位置」ではなく「場所」と考える。居場所を検知すると、その周囲の様々な店や施設などを候補としてリスト表示し、その中からユーザーが選べるようにした。このことで、通知を受けた友人は、例えば「彼はいま渋谷の東急百貨店東横店にいるのか。夕方だし、晩御飯おかずでも買っているのかな」という付加情報を認知することができる。そして、フォースクエアはこの「場所」を単なる施設名や店名として利用するだけでなく、そこに付加価値としての情報を加えることを考えた。つまり、レストランの口コミ情報が掲載される。このような場所と情報の連携というのは、つきつめて言えば、リアル空間とバーチャル空間の連携に他ならない。リアル空間のある一点である「場所」と、インターネットというバーチャルな空間に存在しているコードである「情報」。この二つが接合されるというのは、実は新たな世界の幕明けにもつながっている。フォースクエアのようなサービスは空間と時間とウェブと人間関係を同時に結びつけることによって、バーチャルとリアルの境界線はあいまいになり、例えば、ネットが屋外で人々が活動するための基盤にもなっていく可能性がある。屋外に出て活動しているときにも様々な利用シーンがあり得るという可能性を開いたと言える。似た例で、ニューヨークの「フードトラック」というトラックを利用した屋台が人気を博している。この大きな特徴は、ツイッターやフェイスブックにアカウントを持ってひっきりなしに情報を発信していることである。実はフードトラックの屋台は神出鬼没で同じ場所に屋台を出すとは限らず、そのため馴染み客でも美味しいフードトラックとの出会いは偶然の産物だった。これは一期一会ともいえる出会いで特徴的であったが、ツイッターやフェイスブックに屋台の出没情報やメニューが発信されると、それを追いかけ、客と屋台の持続的関係が樹ち立てられ、さらに客はアカウントに感想をリプライすることができると、今度は会話も成立することになる。このことにより、客とフードトラックの関係性は刹那的な関係から、持続する関係性になっていく。「場所」と「情報」の交差点をうまく作り出すことによって、そこに移動屋台と客の新しい回路が開かれた。その新たな回路こそが、これまでとは異なったフラットな関係性を生み出している。それは常に互いの存在を意識し、「そこにあなたがいるんだ」という存在を確認し合う関係。単なるカネもモノの交換だけでなく、そこに何らかの共感や共鳴が存在する関係がうまれてくる。この持続的な関係のことをエンゲージメントと呼ぶ。これは広告用語で、企業と消費者の間にきちんとした信頼関係を形成し、その信頼関係の中でモノを買ってもらう、広告の世界では、そういう関係性がマスメディア衰退後の世界では非常に重要なことだとここ数年強く認識されるようになっていて、それがエンゲージメントという言葉で呼ばれている。かつてのマスメディア広告の世界では、消費者と企業の関係は「与えられた関係」で、絞られた情報が、消費者にはテレビ、ラジオ、新聞や雑誌というわずかな媒体の前で、向こうから流れてくる大波のような情報を受け入れるだけであった。そうした一方的な情報の流れしか存在しないところでは、一方的な関係性にすぎず、消費者の側が能動的に選択する余地はなかった。しかし、ソーシャルメディアを介してつながる企業と消費者の関係は、持続的にものへ変わっていく。どのフードトラックをツイッターでフォローするかという選択は消費者の手に委ねられ、そこでフードトラックの情報をただ得るだけなのか、それともリプライして会話をやり取りし、より強い紐帯を持とうとするのかについても消費者は選ぶことができる。勿論企業の側も、どこまで消費者と個別に付き合うかというのは自由な選択として用意されている。つまり、互いにとって自由なエンゲージメント(契約)ということになる。そこにはフラットであるけれど、互いに尊敬する関係が生まれてきている。

エンゲージメント言う関係の中では、「個人か企業か」といった「誰が主体なのか」という枠組みは融解していくことになる。言い方を換えれば、企業も個人も一人の独立したキャラクターとして人格を持って語らなければ、エンゲージメントを誰かと生み出すことはできない。自分の言葉で語っている存在だけが、お互いにエンゲージメントによってつながることができるということなのだ。例えばツイッターは、そうした「自分の言葉で語っているかどうか」ということが非常に重要視される世界だ。企業で公式アカウントを取得しても、無味乾燥な公式コメントのようなツイートばかりしていては、フォローしてくれる人はごくわずか。逆に、短い140字の向こう側に温かみのある人の存在を感じられる企業アカウントに対しては、多くの人が愛情を抱き、結果的にたくさんのフォロワー数となって現われる。だからエンゲージメントに必要なのは、マイメディア広告のように強引に情報を送り届けることではなく、そこにコンテキストが共有されるような場を作っていくことが大切なのだ。そしてそのような場に、「情報を流す側」「情報を受け取る側」という固定された関係性ではなく、主客一体となって互いに情報を交換する関係性を作っていくことだ。そうした場は情報を配信する側によって一方的に作られるのではなく、使用飛車と企業の相互の了解のもとに、場は生み出される。つまりは、消費者の側が一定の積極性を持ってそこに参加し、そこで企業に対してエンゲージを求めるという「行い」が必要になって来る。ここで、話はフォースクエアに戻る。

あるIR担当者の雑感(33)~ IRのニッチ戦略(13)

前回の議論では、どのような情報─議論の成り行きから言うと、情報と言っていいものかどうか、分からなくなりそうですが─を出していくかということについて、その何が雲をつかむように曖昧模糊としているので、周囲を回っているような状態に陥っていました。

もしかしたら、このような情報(?)について考えていくというようなことについては、巷で出回っているようなIR業務の手引書とかハウツー本には書かれているものでもなく、IRという業務の定義からはみ出してしまうかもしれません。多分、このようなことを最も知りたがっている、もしくはキッチリ把握しているのは、会社の内部では経営者ということになるでしょうから。

ということで、IR担当者の身分としては、「これだ!」と具体的に決めつけるように明確に打ち出すということは難しいのかもしれません。ただ、くどくどとした議論に付き合っていただいた中で、漠然と、なんとなくイメージのようなものは抱けるのではないかと思います。ただ、切り口としては、前回少し触れたように“企業は人なり”というのが入り口になるのではないかと思います。だからといって経営者や社員の人物紹介というのとも違います。

ここからは、どのような情報を出していくかだけではなく、どのように情報を対象となる人々に届けていくか、ということも同時に考えていこうと思います。というのも、ここでイメージとして述べてきたものを、例えば一枚のペーパーにリリース文書としてまとめて、こうですと発表できるようなものでもないし、そのような手段では受け手にも届かないと思うからです。前回で、企業の創業に際して創業者が投資家や資金提供者に説いて回るような原点のイメージを述べたと思いますが、そういう段取りで初めて伝わるからこそ、創業者を見込んで資金が集まってくる類のものでもあると思います。企業のIRなどとたいそうなことを言って、マスコミ等を相手にするようなことがあったりすると、そういうことを考えるということはないかもしれませんが、他人の身銭を切らせて資金を集めるわけですから、原点としてそういうところがどこかに残っているはずです。で、ここでイメージしている情報というのは、それに通じるものであるはずなので、そういう場面に準ずると考えねばなりません。だから、ホームページに綺麗事をそれらしくレイアウトして皆さんご覧ください、という情報発信はできないし、できたとしても伝わらないと思います。伝達の形式として、このような一対多というように企業が不特定多数に対して一斉に情報を一方的に流すというより、一対一の対面で双方向の対話に近いような形で、伝わるか伝わらないか、あるいは受け手が納得するかどうか、ということではないか。つまり、パーソナルなやり取りに近い情報発信という、語義矛盾になるかもしれませんが、一対一の対話自体により付加価値を生じさせるような形式で、それにより伝えられる何か。というものも、そうですし、そういうものを追求し、伝えようとする姿勢が伝わるようなこと、これができないかと思うのです。企業創業の際のイメージを原点的なものとして何度も触れていますが、そこで“企業は人なり”とその人に対して投資がなされるというのは、その人物や経営理念、経営方法や技術に惚れ込むというのか共感とか共鳴というような、感情レベルの動きも働いていたはずで、そういうものは、株式投資の当なれば原点のようなものとして、機関投資家、個人投資家を問わず、多かれ少なかれ持っているのではないかと思います。例えば、機関投資家は投資判断の際にデータ分析は当然行いますが、当の企業を訪問したり社長と面談するところもあります。同じように、個人投資家一人ひとり全てに、そうやって企業が対応して、投資判断をしてもらうということは考えられないでしょうか。物理的に対応しきれないというのなら、それに代わるような情報を、それとわかるように投資家の許に届けることはできないでしょうか。また、企業の側でも、経営企画の部署のはじき出すようなデータが経営ではないはずです。

このようなことは、どこの企業でも、IRについて真面目に考えようとしたら、ある程度まで容易に思い至ることなので、少なからず各企業でも様々な試みが為されていると思うのですが、実際に、そのようなことの感じられる事例に出会ったことがありません。そこで、お手本は探しますが、とにかく自分で考えて試行錯誤していく他なさそうです。そこで、次回からは、具体的な試行錯誤についてお話していきたいと思います。

2011年7月 9日 (土)

あるIR担当者の雑感(32)~ IRのニッチ戦略(12)

どんな情報をどのように伝えればいいか、という、本当はここからが本番なのです。

対象にしようという人々は、個々に自分のポリシーを持ち、独自のポジションで投資判断をするという人々でした。

このような人の典型として、私などがイメージするのは、“オマハの賢人”ウォーレン・バフェットです。彼は自分にとって身近で理解できる製品や事業に対象分野を限って(だからITバブルのような流行には乗らない)、アニュアルレポートを読みくだいて経営者の資質を見抜き、長期的な投資を行います。証券会社や企業からの売り込みは幾多もあるのでしょうが、自分で納得した企業に投資をするという態度を崩していません。(実際のところは、それだけではないのでしょうけれど)このような人たちは、短期的なブームとか、他の人の動きに追従してとか、証券会社の営業施策に乗ってとかいったような誘いは、あまり意味がないのではないか、と思います。おそらく、自分なりの投資基準を持っていて、対象をじっくり見定めて、自らのポリシーに照らし合わせて納得したうえで、中長期的な投資をするというのが、私のイメージするところです。

これは、背理法的な考え方になりますが、私の勤務先のような一応の潜在力はあるものの業績的にはパッとせず、ブームにもなりにくい。また中小型株なので株式の流通性が低く短期的な売買で利ザヤを稼ぐようにデイトレーダーの対象にも入りません。当然、証券会社などでも進める旨味がない。ということになれば、株を買ってくれそうなのは、会社に将来性を見て長期的にじっくり見てくれるような人以外には、あまり選択肢が残されていないわけでもあります。

ということで本題に戻り、そのような人々に対してどのような情報をどのように届けるかを考えてみます。前のところで、このような人々は、自分なりの基準を持ち、じっくりと考えた末に納得したうえで投資をするのではないかというイメージを述べましたが、彼らが納得する際に決め手となるようなもの、情報を届けるということでしょう。と簡単にいいますが、それでは抽象的すぎます。では、具体的には、何がそれにあたるのか。多分、これだという決まったものはないでしょう。というと肩透かしのような答えになってしまいました。というも、このような人々は、自分なりの基準を持っているでしょうから。この自分なりのというのは、一様のではないはずです。つまり、人それぞれのわけで、これだという一発にはそぐわないものです。

とは言うものの、何か手がかりでもいいから、ないでしょうか。とはいっても、このような人々が、本当にいるのか、いるとしたら果たしてどこにいるのか、ということも、そもそも分らないところで議論を始めているわけですから、雲をつかむような話です。ここで、ヒントというのか少し寄り道をして、以前触れた『キュレーションの時代』(いま、このブログで別に連続してメモを掲載していますが)の中から抜き出すと、多くの情報が流れ、社会の以前からの暗黙の秩序が崩れ、フラット化の現象が生じてきている現代では、いうなれば個人に解体されるわけですから、人が物を買うということについても、意識がかわり、みんなが買っているから追従するとか、ステイタスとしての価値を重視するといったような社会的な共通の慣行に流されるような消費は後退し、当人にとっての機能、つまり本当に役に立つとか、個人の満足のためという消費に方向と、解体された個人が従来の紐帯は求められないとしても個人では生きられないのだから人とのつながりをどうしても求めざるを得ないのだから、新たなつながりを求めていく、そのときに関連するような消費が生まれるということ言っています。例えば、それは眼鏡が好きでたまらない眼鏡店主やおいしい料理を食べてもらうことに苦労を惜しまない料理人に対して、その人を信頼することに基づくような消費という例を挙げています。

翻って、もし、仮に、私が、この会社に投資するとしたら、何が決め手になるでしょうか。業績の推移や、経営計画の数値などは当然頭に入っていますが、それだけで投資を決めるということにはならないでしょう。業績と言っても過去のことですし、経営計画といっても今の時点ではいくら精緻にたてても絵に描いた餅に過ぎません。結局、絵に描いた餅を、現実の餅として美味しい焼き餅にできるのは、どこまで企業が本気かということで、それは経営者だったり、社員の雰囲気だったり、あるいはキーマンにこの人がいる、ということだったり、ではないかと思います。まあ、私は内部の人間なので、会社のことをよく知っているということを割り引く必要もありますが。俗諺ですが、“企業は人なり”といいますが、そういうことなのかもしれません。

これは、ひとつのお話として聞いてください。企業の始まりというのは様々なパターンがあると思いますが、ある人が企業こころざし、ベンチャーを立ち上げようとします。そのための資金を投資してもらおうとベンチャーキャピタルや投資家に、事業計画だの、目論見だの、を説いて回るわけですが、それらに裏付けとなる実績とか根拠があるかといえば、それはやはり絵に描いた餅なのです。結局は、その本人という人間を信頼してもらうということではないでしょうか。いってみれば、新興宗教というのか、悪く言えば詐欺一歩手前といってもいい。投資する方だって、イチかバチか(失礼!)、に近いのではないでしょぅか。少し偽悪的な言い方になりましたが、功成り名を遂げた名経営者と言われる人たちには、どこか胡散臭いというのか、多少のハッタリのようなものが多かれ少なかれ、感じてしまいますし、その結果である大企業にしても、投資対象として見た場合には、今でも、そういう要素があるように思えてなりません。これは、私の個人的な偏見かもしれませんが、私の考える株式投資というものには、どこかで、そのような要素があるように思えるのです。そして、この点で成功するか否かは、投資家の直観というのか、嗅覚のようなもののようなかもしれません。

話を元に戻しましょう。ここで述べたような投資家のアンテナに引っかかるような情報は、どこにでも転がっているものではなく、多分、情報発信をする当の企業にも分っていないものかもしれません。わたしも、直観力を持った投資家というのではないので、実際に企業が自覚的にそういう類の情報を出しているということなどは、分かりません。ということで、堂々巡りの議論に陥りそうなので、次回の議論に送ることを、お許しください。

佐々木俊尚「キュレーションの時代─つながりの情報革命が始まる」(6)

第三章 「視座にチェックインする」という新たなパラダイム

フォースクエアというウェブがある。位置通知サービスと呼ばれるもので、自分の居場所を携帯電話やスマートフォンを使って友人たちに通知するサービスだ。ある地点でチェックインすると、その付近に対するユーザーのコメントを参照できるのと同時に、その位置が友人たちに発信される。これは場所の情報と、誰がどこに行ったかという情報とが交換される形となる。ユーザーにとっては場所の情報をその場所で得ることができる。フォースクエアはグルメ情報やその口コミを得られ、逆に口コミを入れることもできる。逆の方向でいえば、その場所にどのような人が足繁く通っているかはマーケティングでは有効な情報ともなり、さらに数多くチェックインしている人を対象に特典を与えるなどで集客を図ることもできる。つまりは、フォースクエアというプラットフォームが、お店や消費者あるいは情報ガイドなどが参加することにより反映するエコシステム(生態系)を作っていこうとする方向性になっている。このエコシステムをうまく駆動させるために、フォースクエアはいくつかの仕掛けを巧みに導入している。第一に、みずからはモジュールに徹し、巨大プラットフォーム(ツイッターやフェイスブック)と連携したこと。第二に、場所と情報の交差点をうまく設計したこと。第三に、その交差点にユーザーが接触するために、チェックインという新たな手法を持ち込んだこと。

第一の点では、ツイッターやフェイスブックと提携する、いわば巨大プラットフォームの生態系に「おんぶにだっこ」的にモジュールとして参加し、共存共栄を図っている。このようなフェイスブックやツイッターをプラットフォームとして利用するが、フラットフォームの参加者にとっては、ツイッターやフェイスブックに参加するする付加価値が高まることになる。フォースクエア以外でもフラッシュマーケットと呼ばれるサービスもそうだ。これは一言でいえば共同購入で、例えば場所を登録してアカウントを取得すると、その場所の地域のクーポン情報が得られる。しかし、このクーポンには最低申込人数や期限が設定されている。これにより、売る側は一定人数の売上を得られる。一方消費者の側では、期限内に最低申込数に達するためユーザー同士での協力が必要で、この情報をツイッターやフェイスブックなどのソーシャルメディアに流すと、ユーザー同士の様々なやり取りが行われる。フラッシュマーケットの自前のウェブサイトではそのようなやり取りの場は用意されておらず、その仕組みさえない。完全にプラットフォームに依存していると言っていい。ここには、ソーシャルメディアの新たなヒエラルキー構造が現われてきている。それは大きく分けると次の三つの階層に分けられる。ひとつめは、超巨大プラットフォーム。数億人というユーザーが登録し、それらのユーザーがどのように友人や知人と繋がっているのかというソーシャルグラフをすべて抱え込んでいるツイッターやフェイスブック。次の階層が、中規模モジュールで、超巨大プラットフォームのソーシャルグラフを再利用するかたちで、特化したサービスを運営するフォースクエアのようなビジネス。そして、小規模モジュールは、さらにその裾野に、例えばツイッターを使い易いアプリケーションを開発したり、フェイスブックやツイッターの自分のアカウントを解析する等の様々なツールを開発したり、といったスモールビジネスで運営さているビジネス。逆目で見れば、フォースクエアは、自らソーシャルグラフを擁しているという有利さは最初から放棄している。そのため、他の部分でユーザーを惹きつけることが必要になる。そこで、三つの仕掛けのうち残りの二つをうまく盛り込むことにより、非常に魅力あるサービスに仕立てている。

2011年7月 8日 (金)

あるIR担当者の雑感(31)~ IRのニッチ戦略(11)

前回の続きである対象者の検証から始めましょう。株主アンケートから推定される、私の勤め先の株主像は、簡単にイメージしてみると中年の会社員や公務員、或いは定年退職した男性で、長期的な株式投資を行っていて、私の勤め先は会社四季報やインターネットで知った。そして、私の勤め先への投資を考えた時注目したのが、会社の将来性や経営の安定性、あるいは事業内容などの点でした。

もちろん、アンケートに回答して下すった株主さんが、対象者に該当するとはいえません。しかし、ここでの傾向は参考になると思います。まず、私の勤め先のことを知ったのは、会社四季報やインターネット(会社ホームページを含めて)です。ということは証券会社から奨められたとか投資情報誌、テレビや新聞などのマスコミからは情報を得ていないようだということです。これだけでも、既に網に引っ掛かっている人に対しては、従来の方法によっても漏れている可能性は強と思われます。

では、こういう人に、こちらから情報を届けるには、どうしたらよいのでしょうか。ここで注意しておかなければならないことは、この対象となる人々は、自分なりの投資のポリシーを持っていると考えられるので、企業が直接的に、このような人々に売り込むということは、逆効果を招く危険があるということです。情報を届けるといっても、実際のところ、そのような人々が情報を取りに来るようにしてあげるのが、理想的なのです。

では、注意点は脇に置いて、実際にどうするかを考えてみましょう。対象となる人々は、何度も繰り返しになりますが、自分なりの投資のポリシーを持ち、それ故に、みずからのポジションに意識的な人です。たから、既存の証券会社や投資情報ネットなどの網に引っ掛からないのです。このような人々に従来の一般的な方法、一方的で画一的な情報開示の方法で情報を出しても、果たして有効かどうか。あるいは情報を出した企業に振り向いてくれるか。とすると、効果は期待できないというのが正直なところだと思います。ただし、ここで誤解してはいけないのは、株式投資をするには基本的な企業情報は絶対に必要なので、このような情報を出す必要がないというのではないのです。多分、対象となる人々も自分が投資している企業に対しては基本的な業績や財務データは、一般的な方法で得ているはずです。つまり、投資をしていたり、投資対象として興味を持っている企業に関しては従来のやり方で開示している情報を取得していることです。しかし、その情報では、投資の対象となっていない企業に興味を持たせる契機にはならないのです。

このような人々を振り向かせて、企業に興味を持たせるような情報開示はどうしたらいいのか。これから、そのことを中心に考えてみます。まず、ホームページでいうと一般的なIR情報の開示は必要なものですが、この人々を振り返らせられるものではない。では、どうするか。考えられるのはWHATHOWについてです。つまり、何を情報として伝えるか、あるいはどのように伝えるか、ということです。

佐々木俊尚「キュレーションの時代─つながりの情報革命が始まる」(5)

消費のあり方は社会の中の人と人との関係性によっている。消費は、一人の人間と社会の間の関係をどう形成するかという関係性の確認の手段という側面もある。例えば、戦後社会の時代には息苦しいムラ社会から背伸びし、脱出するための措置としての消費が行われていた。例えば永山則夫(連続射殺魔)は実家の青森では極貧を馬鹿にされ、集団就職で東京に出ると貧しい田舎者としかみられず、周囲にはそのような定型イメージでアイデンティティを規定され、そのパッケージでしか見てもらえず「まなざしの囚人」に陥り、彼自身、そこから抜け出そうとして行ったのは、別のパッケージを身にまとうことだった。例えば外国産のたばこ(洋モク)「ポールモール」を吸う。これは記号消費といえる。彼のような極端な例に止まらず、一般的にも、自動車で言えば、今はカローラに乗っているけれど、課長になったらコロナに乗り換えて、いつかはクラウンに乗りたいというような乗用車のグレードが上がり、自分の出世していけば、この息苦しい空気に支配される世界で、支配に回ることができる。あるいは逃げられるかもしれない。そのような欲求が、消費をコントロールしていた。こうしたモノと自分を重ね合わせるようなことを可能にするためには、そのモノの持っている記号としての価値を社会全体で共有するような基盤が存在していなければならない。そして、この記号価値の共有はマスメディアに情報が一元化されることによって成立していた。例えば、テレビCM、新聞や雑誌の広告。消費の情報をマスメディアで入手し、服装や持ち物といった具象的な表層性によって自分をパッケージし、そのパッケージ、の基盤をマスメディアによって国民の多くが共有していた。そこで、背伸び消費のような記号消費が成立したのだった。

90年代行は、右肩上がり経済成長が終わりをつげ、収入が増えて肩書が上昇することは期待できない時代となった。このよう社会では、さっきのような所有する乗用車のグレードがステータスという幻想が成り立たなくなることを意味する。加えてインターネットのよって情報流通が変化し、マスメディアが衰退し情報はビオトープ化する。記号消費をマスメディアという情報のマス回路による共通認識が支えていたが、これが分解していくことになる。そうした時代にあって、消費するという行為の向こう側に、他者の存在を認知し、他者と繋がり承認してもらうというあり方に変わっていった。消費が承認と接続のツールとなっていった。そしてその承認と接続は、お互いが共鳴できるという土台があってこそ成り立っていく。この「共鳴できる」「共感できる」という土台をコンテキストという。コンテキストは消費を通じて人と人とが繋がるための空間、その圏域を作るある種の物語のような文脈のことである。例えば商品を買いたいという欲求だけでなく、作り手が持っているポリシーや、購入することでそれが作り手の側に「良いこと」として伝わるというようなことが加味されて、お金を払うという消費行動も生まれてきている。これは消費の向こう側に人の存在を見るということ。他者の存在を確認するということになる。例えば大好きなレストランで食事をするというとき、我々は単にサービスと対価を交換しているだけではなく、「素晴らしい食事を作ってくれる人」「食事をおいしく食べてくれる人」という相互のリスペクトがあって、お金だけでなくそうしたリスペクトも交換している。そこでは消費は、そうした人々のつながりに過ぎない。

一方で、シンプルかつ十分な機能さえあれば、それで十分という機能だけを消費するというあり方も広がっている。マスメディアの衰退とともに記号消費は消滅していくことになり、21世紀は機能消費とつながり消費に二分された世界となっていくと考えられる。このように二つの方向に消費が向かっていくとすれば、その行動はモノの購入という消費の行動に強く繋ぎ止められる必然性さえなくなっていく可能性がある。極言すれば、機能がほしいのなら、モノを買わなくても借りたり共有すればいい。つながりがほしいのなら、モノを買わなくてもつながれる場があればいい。これは当然の進化の方向性と言える。この行きつく先が「クラウド」と「シェア」ということではないか。手元のモノはどんどん少なくなり、身の回りは極限までシンプルになる。人と人とのつながりがきちんと存在して、コミュニケィションを活き活きと楽しむことができれば、余計なものはいらない。そういう時代にはモノではなく、互いにつながるモノガタリを紡ぐ時代となる。このような文化になっていけば、従来の大量消費の文脈で語られていたような消費動向が変化するのは当然だ。

使用久恵も不要である無所有の方向性。「つながり」を求める場はモノの購入ではなく、何かを「行う」という行為へと変移してきている。実際に、消費が伸び悩む一方で、農業や登山といった「行為」に対する関心が高まっている。また、商品そのものよりも、ツイッター等の「場」に興味が移って来ている。商品の消費から、「行為」や「場」の消費へ。モノから、何かをする「コト」へ。記号消費による逃走から、接続と承認の象徴としての共鳴へ。この消費社会の変容は、我々の社会の強い背景放射となっている。そしてこの背景放射が広く世界を覆っていき、そのうえで様々な情報はやり取りされ、マスメディアではないミクロなビオトープが無数に生まれていっている。そして、つながりという背景放射の影響を受けて、情報の流れもつながりに強く引き寄せられていかざるを得ない。

2011年7月 7日 (木)

あるIR担当者の雑感(30)~ IRのニッチ戦略(10)

前回書いたことは、あくまでも私のアイディアのレベルのことなので、実際のところ具体的なデータがあるわけでもありません。しかし、前回に例としてあげたことはひとつの反証として、ある程度有効なのではないか、と考えるのです。つまり、従来の網に引っ掛からない個人投資家は存在するのかということは証明できないにしても、存在しないということに対しては、そうではないという反証はあげられる、ということです。だから、存在するにしても、どのようなところに、どのような人がいるのか、ということは分かりません。

分らないものを対象にしてターゲッティングができるか、と問われれば、できるとは言えません。しかし、そこで、どうするかと考えてみるに、従来の活動を踏襲していたのでは、そこに届く可能性は極めて低いということです。そこで考えられる活動としては、取敢えず従来行われていなかったような活動をして反応をうかがってみるということです。もう一つは、前回の最初に紹介したようにジスモンチというミュージシャンの公演のプロモーターが行ったように地道に水脈を探していくことです。しかし、この二つの方法は、別々ではなく一緒に行うことができるでしょう。つまり、今までとは別のやり方で情報発信を行い、そこで新たに見つかるかもしれないところから水脈を探していくことも可能でしょう。また、従来のIRの対象となっている個人投資家の中にも、ここで探そうとしている対象の人もいるかもしれない。そういう場合には、従来と違うやり方でIRを行うということから、そこから新たな水脈が見つかるかもしれません。

前回と今回のようなことから演繹的に導き出されることとしては、次のようなことが考えられます。

まず、ここで対象となってくる人は、投資に対して自分なりの考え方、あるいはポリシーを持っているだろうということです。つまり、証券会社が営業施策の一環として銘柄を推奨されることや一時的なブームに追従するようなことはない、ということです。というのも、既存の網に引っ掛からないということは、証券会社の顧客ネットやインターネット投資情報サイトのネットワークから意識的に距離を置くことにより、はじめて可能となるものだと思います。自らのスタンスに意識的であるということは、自分なりの投資に対するしっかりとした姿勢が確立しているということです。そして、自分なりの姿勢が確立しているためには、ある程度の知識や経験の裏付けがあるということです。そのためには、投資のための情報収集についても自分なりの何らかのルート(情報網)をすでに持っているはずです。そして、さらに考えられることは、このような人は独立独歩であるかもしれないが、決して孤立してはいないと思われることです。そう考えられる大きな理由は、情報網です。孤立した個人の情報網では限界があります。またインターネットが発達し流通する情報量は増えていますが、投資家にとって本当に必要な情報は、それが情報としての価値がある間はインターネットには流れにくいものです。その時に、必要な情報を得るのは口コミのような人が介在する情報です。口コミ情報を得るためには、それなりの人脈がなくてはなりません。

ざっと、考えてみましたが、実際にはどうなのか、検証しなくてはなりません。しかし、今まで網に引っ掛からなかった人々のことを推測しているわけですから、実際にそういう人が身近にいるならば、これまでの作業は不要だったはずです。その検証の手懸りを前々回で取り上げた株主アンケートに求めます。

今回は、長くなったので、検証は次回にしたいと思います。

佐々木俊尚「キュレーションの時代─つながりの情報革命が始まる」(4)

第二章 背伸び記号消費の終焉

日本の映画興行の世界では、前章のジスモンチのような現象は起こりにくくなっている。例えば興行会社は映画の内容を顧みることなく有名スターが出演しているか否かで外国映画の日本公開を判断するし、マス幻想に引きずられて大量宣伝で無理に動員をかけるパターンしかない貧困な状態にある。

以前ならば、誰もが観に行くヒット作の世界とマニアックな単館上映館が両立していた。『シティロード』や映画雑誌のような圏域が細分化された雑誌群がメディアとして成立し、それ以上に先端的な情報を求める人にはリアルな人的ネットワークが用意されていて、そこに参加すれば情報が必ず流れ込む構造ができていた。

しかし、このような構造は2000年ころを境に大きく変わってしまった。その要因の一つはDVDプレーヤーの普及が映画業界にバブルの幻影を引き起こし、無残な結末を招いたこと。これは1980年代のビデオの普及で大きなバブルを経験したことが遠因であった。当時、ビデオプレイヤーを購入した消費者は映画を求めてレンタルビデオ店に走り、コンテンツの揃っていなかったビデオレンタルの世界から映画コンテンツの需要が急速に高まり、配給会社は未公開の作品を片っ端から買い漁りビデオ化され、それがビデオ店に買い取られた。これによって配給会社は莫大な収入を得ることができたのだった。そして、2000年のDVDの普及により、配給会社はビデオの再来とばかりに未公開作品を買い漁った。しかも、シネコンの開館により単館で上映されていたマニアックな作品もシネコンで全国展開すれば、多くの観客に見てもらえるという期待が生まれた時期とも重なっていた。しかし、この結果は無残なものだった。DVDはビデオの時のようなインパクトを消費者に与えることもなく、レンタルビデオ店と配給会社の支払いのシステムも買取からレンタル実績の応じたリース料を支払う形になり配給会社が利益を稼げなくなっていた。そしてインターネットの普及によって、コンテンツに対する飢餓感が消滅していた。ビデオの時のようなバブルを期待していた配給会社はマス消費を期待して自らの手で作品の買い付け額を高騰させ、DVDからの収益が上がらず経営を悪化させていった。それが中小の独立系の配給会社は買い付け額の高騰に引き摺られて、碌な買い付けができなくなりジリ貧になっていった。

バブルを期待せず、手作りで小さく買い付け、小さく上映し、そこから少しずつ上映館を拡大していって一万人程度の集客を方向を作り出すことができれば映画マニアの多い日本では、採算が取れていた。しかし、マス消費を期待して、みずからバブルに突入し、自業自得となった映画業界。その結果が、この章冒頭の貧しい状態を招いた。

これは映画業界に限ったことではなく、1990年代の音楽業界にも同じことが言える。これは、当時CDラジカセの普及により、従来のステレオ装置から、個室でもCDを聴くことが可能となった結果、CDの購入意欲が急速に高まった。つまり、新しい再生装置への感動が、そのうえで再生される新しいコンテンツを求めたということだ。しかし、CDが日常品化することにつれて、さらにインターネットの出現により、CDの売上、とくにミリオンセラー激減した。ミリオンセラーが生み出す豊かな原資が壊滅した結果、資金が回らなくなり、売れないが才能あるミュージシャンを支援するシステムは崩壊する。広告費が回らなくなり、周辺で情報を供給していた音楽雑誌は休刊に追い込まれていった。ただし、音楽を志す若者は減っておらず、音楽そのものが衰退したわけではない。決定的なのは、音楽とリスナーを接続する回路が組み換わって、ミリオンセラーを生み出すマス消費が衰退し、代わって好みが細分化された音楽圏域が生まれたのに、音楽業界はこの圏域にうまく情報を送り込めていない。

これら映画や音楽業界に共通することは、テクノロジーの進化とそれによる視聴機器・媒体というプラットフォームの変化が新しいコンテンツをもとめ、一時的なバブル(大量生産・大量消費)を引き起こした。これよって、コンテンツ業界は次のネット時代への対応を遅らせた結果、ネットによって細分化していく圏域に対応できないまま、大量消費のマスモデルにしがみつかせることとなった。テクノロジーの進化によるプラットフォームの変化は、ただ視聴のメディアを変えるだけでなく、メディアの変化はコンテンツの配信形態の流動化、つまりオープン化に繋がる。その後のインターネットによりデジタル配信が劇的な流通モデルの変化を引き起こすことになった。これがアンビエント化である。我々が触れる動画や音楽、書籍等のコンテンツが全てオープンに流動化し、いつでもどこでも手に入るようなかたちであたり一面に漂っている状態、例えばアップルの音楽配信サービス、iTunesである。これは利便性が高まったというだけでなく、曲のジャンルや年代といった区別の意味を失わせることになる。すべてのコンテンツがフラットに並び換えられ、コンテンツの背景となるウンチクまでも共有化され、大きな共有空間を生み出した。そこでは、コンテンツの流通形態からあり方そのものまで180度の転換となった。これらに対応して、マス消費のようなどんぶり勘定ではなく、ピンポイントでその映画や音楽に接してくれる人のビオトープを探し当て、そこに情報を送り込んでいく緻密な戦略を本当は構築しなければならなかったはずだったのだ。

同じような例として、2010年のHMV渋谷店の閉店も象徴的だ。この店は、ある時期バイヤーとスばれる店員の見識とセンスの高さにより新たしい音楽をいち早く紹介し、独自の批評を盛り込んだポップを、消費者はこれにより知識を広め、この店はメディアとして機能し、文化発信基地の役割を担っていた。それが、画一化され無個性な店に陥った結果、その店でなくてもよくなっていった。つまり、マス消費が消滅し、新たなビオトープが無数に生まれてきている情報圏域においては、情報の流れ方は決定的に変わり、人から人へと、人のつながりを介してしか流れなくなる。HMVにはその新たな情報流通の胎動が全く理解できなかったことになる。

このように、マス消費が消滅していこうとしていることは、いまや厳然たる事実である。かつては、画一的な情報が大量に泣かせされ、これに「他の人も買っているので、自分も買う」といった背伸び的な記号消費が重なり、大量消費が行われていた。記号消費とは、商品そのものではなく、商品が持っている社会的価値(記号)を消費すること。商品がもともと持っている機能的価値とは別に、現代の消費社会ではその社会的価値の方が重視されるようになっており、その記号的な付加価値を消費するようになっているということだ。

2011年7月 6日 (水)

佐々木俊尚「キュレーションの時代─つながりの情報革命が始まる」(3)

情報の流れは、いまや劇的にこのような方向に流れている。大衆と呼ばれるような膨大な数の人に対してまとめて情報を投げ込み、皆それに釣られてモノを買ったり映画を見たり音楽を聴いたり、というような消費行動は2000年代以降、もう成り立たなくなってきている。

このプロモーターが採ったのは、新聞やテレビ、雑誌を介して情報をただ流すのではない。目を皿のようにして、その情報を求めている人たちの特質をつかみ、そのような人たちがどのようにして情報を得ているのかということを調べ上げ、その小さな支流のような情報の流れを特定していく。それは自然の中にある本物のビオトープのように、小さな水たまりに細い細い水流が流れ込んでいるような世界。どこが上流なのか、どこが下流なのかも判然としていません。水はゆるやかにたゆって集まり、分かれ、再び集まって複雑な水域を形成していく。その網の目のように張り巡らされた水流のあちこちに生まれる水たまりには、エビやカニや小魚や虫たちがひっそりと生息し、小さな生態系を形成している。それぞれの水たまりは沼や川にも繋がり、ある場所では森の中にひっそりと隠れ、別の場所では広い草地に埋もれるようにして夏の強い日差しを受けている。この多様で複雑な生態系の全体像を見渡すのは、容易なことではない。

今、我々の情報社会も、このように小さなビオトープが無数に集まって生態系をかたちづくり、それが連結を繰り返しながら全体を構成させている。それを、ソーシャルメディアの普及がさらに促し、一層の拡大と進化を続けている。この広大な情報の森の中へ、このプロモーターは足を踏み入れ、優れた狩猟者よろしく、あちこちに罠を仕掛け、川の一部をせき止めて簗をつくり、ピンポイントでそこに生息するジスモンチの音楽の消費者たちを探し出した。

このジスモンチの公演の例に象徴的なように、情報のビオトープ化はマスの衰退とともに劇的に進行している。そして、このような混沌とした状況には、ひとつの大きな難題が横たわっている。それは、ビオトープのありかを特定していくのが容易ではないということだ。まず、情報を受ける消費者の側から言うと、自分が求めている情報がどこに行けば得られるかが明確ではなくなってきている。ネット時代に入り情報の量は指数関数的に増え、情報の質も以前より濃く深くなってきている、だからピンポイントで探し出すことができれば、そこに必ず有用な情報がある。しかし、それを探し出すのが容易ではない。

これは情報を送り出す側に言える。この例のプロモーターのようにビオトープを的確に探し当てれば、的確な情報を的確な場所に流し込むことができる。しかし、これこそ天賦の才能とスキルとノウハウの世界であって、だれにでもできるというものではない。

しかし、このような混沌にも、様々な法則が見出されようとしている。どんな混沌にも必ず法則はあり、その法則に基づいて情報は流れていくはずだ。しかし、それらの法則は未だ断片的でしかない。これを解き明かすのが本書のゴールというわけだ。

2011年7月 5日 (火)

あるIR担当者の雑感(29)~ IRのニッチ戦略(9)

ここで、唐突ですが、1回脇道にそれて道草をくうことをお許し願います。それは、ほとんど同時にアップした『キュレーションの時代』という新書のことです。第1回のアップでブラジルのジスモンチというギタリストの来日公演を成功させたプロモーターの活動がレポートされています。詳しくは、その本を直接読んでいただくか、このブログで、この前にアップされている投稿を読んでみて下さい。

このジスモンチというギタリストはワールドワイドに通用する音楽性を持ちながら日本での知名度は殆どなく、ただし、高い音楽性に対して一部で熱心なファンがいて、さらに良質の音楽に対して感度の高い音楽ファンには必ず受け入れられるミュージシャンです。だから、マスコミを動員するような従来の画一的なプロモーションは効果が期待できません。そこで、プロモーターはまるで深山に分け入るようにファンの水脈を探し回り、ついには、その水脈を掴み、公演を成功裏に終わらせます。その詳しい内容は、著作を当たってみて下さい。大変興味深く読めると思います。

それを読んでいて思ったのは、株式投資をする個人投資家の中には、従来の網にかかっていない人が、かなり存在するのではないかということでした。ちょうどジスモンチの公演を聴きに来る人の水脈をプロモーターが従来にないやり方で探し出していったように、探せば、そういう人々の水脈に巡り合えるのではないか、と思ったのでした。これに、何か根拠があるのか、問われれば、明白な根拠はありません。しかし、現実を見てみると証券会社は個人投資家を顧客として把握できているでしょうか。大手から中小までひっくるめて、機関投資家のように、ある程度の動向を把握して営業活動ができているとは、どうしても思えません。一部の従来からの得意客以外は、受け身でしか動けていないのでしょうか。また、個人投資家の顧客が多いネット証券にしても、動向を把握して主体的に働きかけるということはしていないで、サービス合戦で個人投資家を呼び込んで、あとは受け身で個人投資家が動いてくれること頼みというビジネススタイルではないでしょうか。あるいは、証券取引所やリサーチ会社でも個人投資家の動きには注目しているようですが、後追いでその動向を追いかけるのが精一杯というところで、誰もが、株式市場の主役の一つとして個人投資家をあげるにしても、その動向を掴めていないというのが現状ではないかと思います。かといって、私が分っているのかと言えば、ここで例にあげた人々よりも分っていないはずです。ただ、ここから明らかに言えることは、従来のやり方では個人投資家とは、どのような人たちがいて、それぞれがどのように動いているかは把握できないということです。

だから、以前の雑感で紹介しましたがIR支援会社で個人投資家に対するマーケティング・データベースを持っているとか、証券会社が個人投資家の顧客データを持っているとか、これらをもとに個人投資家向けの投資説明会を開催して多数の出席がいるということは、実は、個人投資家の一部の人々がかなりの程度で重複してそこに入っているのではないか。極端な例ですが、大学入試で東大の合格者数に対して、各予備校で発表するその予備校から合格した人数の合計数が、その何倍にもなってしまうのと同じです。その意味で、個人投資家を対象にしたIRというのは、個人投資家向けの説明会を行ったり、企業のホームページに「個人投資家の皆様へ」といったコーナーを特に設けて“お子様ランチ(個人的な感想です、嗤い捨てて下さい)”のような説明を行うという定番パターンがあります。それは、さきにいったような一部の重複している個人投資家を単に、取り合っているだけではないのか、という気がするのです。実は、このような定番IRというのか、証券会社の思惑などに惑わされず、自らのポリシーとか情報収集を行っていて投資を続けている個人投資家というのもある程度の数存在しているのではないか、と思うのです。例えば、東日本大震災のあと、建築現場の足場のパーツを製作する会社の株価が上がりはじめたそうです。その会社は、どちらかというと地味で堅実な会社で、ブームとは無縁の会社ですが、見る人は見ているものです。自然と、そういう動きが起こっているのです。では、そういう人々の動向を誰か把握できているか、というとそうでもない。把握できていなければ、そこへのアプローチは当然できていない。というわけです。

そして、先ほど触れたような多くの企業が取り合いをしている個人投資家向け市場で、あとから私の勤め先のような地味な企業が参入しても競争に勝つのは大変だと、思うのです。

佐々木俊尚「キュレーションの時代─つながりの情報革命が始まる」(2)

第一章 無数のビオトープが生まれている

かつて情報はマスコミに集中し、誰もがマスコミから情報を得ていた。しかし、今やマスコミに流れる情報は、人々から見向きもされなくなってきている。情報の圏域が細分化され、ブログやツイッターなどの様々な方法で情報を自分なりの方法で集めるようになってきている。これは、逆の方法、つまり広告や記者のような情報の発信する側は、どこに発信すれば情報が届くかという問題に直面している。

ここで、著者はエグベルト・ジスモンチというブラジル出身のミュージシャンと、彼の来日コンサートを開催した女性プロモーターの話をする。ジスモンチの音楽はブラジルの音楽をベースにワールドワイドな広がりをもったものだったが、日本では一部のコアな音楽マニアを除いて無名に近かった。この人の来日公演を考えた女性プロモーターがいた。しかし、新譜も出ていなければ、来日もずっとしていない、さらにジャンルもハッキリしないようなジスモンチの公演を、日本でやって成功できるのか。彼女は、まずチラシを作った。それは、ジスモンチの簡単な紹介とウェブサイトのURLのみが記されたシンプルなものだった。ウェブサイトには、メーリングリストの登録フォームが用意されていた。これらは情報を絞り込み、受け手の飢餓感を煽ることを意図してつくられていた。そして、この情報の告知が最も重要な問題。テレビや新聞に公告を出す予算はなく、チラシをバラまいてもジスモンチのファンに情報が届くわけではない。では、どこに情報を投げるか。とくに音楽のような言語の違いを超えてしまう文化は、いまや国ごと民族ごとの違いよりも、文化圏域ごとの違いの方がずっと大きくなってしまっている。ジスモンチの音楽はアマゾンの奥深くに分け入った民族的根源性を秘めながらも、しかしそこには日本人にも欧州人にも、そしてアフリカ人にも生理的に理解できるグローバル性を内包していると言える。しかし、そのグローバル性とは決して全世界のすべての開かれているものではなく、クラシック・ジャズ。ワールドミュージックの境界的な領域に生息する特異なサウンドを、皮膚感覚的に認知できるような、ある特定の文化圏域の人たちに対してのみ開け放たれていると言える。つまり、今や国ごとの垂直統合は解かれ、グローバルな音楽市場の中で再結合されているのだ。

となると、なおさら、次にあげる3点が情報の流れの究極の課題として浮き上がってくる。

・ある情報を求める人が、いったいどの場所に存在しているのか。

・そこにどうやって情報を放り込むのか。

・そして、その情報にどうやって感銘をもらうのか。

情報を共有する圏域のサイズが国ごとにはどんどん小さくなっている。今、その場所を押さえるのは、とても困難になってきている。そして、この情報を求める人が存在している場所を、ビオトープと呼ぶ。

かつては、国ごとに音楽が垂直統合され、音楽プロモーターがビオトープを容易に見つけることができた。マスである多くの国民に向けてであればテレビや全国紙。特定の地域に情報を送り込みたい時は地方紙や全国紙の地方版、折込広告。そして、趣味や業界の各分野に対しては雑誌や業界紙。それは人々のビオトープが整然と切り分けられて、可視化され、整頓されたメディア空間であり、どこに情報を投げれば誰に届くのかを、ある程度推し量ることができた。ところがインターネットの出現によって、この巨大で大雑把なビオトープは拡散してしまう。最初はウェブサイトから、検索エンジンの普及がこれを加速し、ブログやツイッター等の膨大なソーシャルメディアが参入した。これにより、ビオトープは、デジタル空間の内外で無限大の広がりを持ち、さらにはあふれた情報がビオトープの再生産を促し、あるいはソーシャルメディアの中でアドホックに生滅を繰り返すようになる。それは、一見捉えどころのないかのようだ。音楽の世界においても、ビオトープはグローバル市場の中でうたかたのようにあちこちに生まれ、時には消え、そして再生成されている。ある時にはコンサート会場に突然生まれるときもあり、永続的に固定されたコミュニティもどこかに存在するかもしれない。

ここで、プロモーターは、マリーザ・モンチというブラジルの女性シンガーのコンサートでチラシを配布した。いわば狙い撃ちである。彼女は、音楽性の深さや方向性は似通っていて、彼女のコンサートに集まるコアなファンをターゲットとしたところ、手応えはあった。さらに、「現代ギター」という雑誌に着目する。これはクラシックギターの専門誌で、ギターを軸とした情報が詰め込まれている。この雑誌の読者であるギターの愛好者には特徴的な傾向として、ギターを聴く人が、同時に弾く人である場合が多く、年齢的には40~60代の男性で比較的収入は高い。だから、ビオトープとしては圏域が小さいが、ファン同士の情報流通は非常に濃い。このような関係性は、実は、インターネットと高い親和性がある。実際、クラシックギターファンの多くはミクシィにかなりの数が集まって、コミュを形成していた。だから、ギターファンというのは、一般的な音楽ファンとは異質なビオトープを形成していた。そして、プロモーターはこのようなコミュに情報を投げ込んでいった。結局は、まず、狭いクラシックギターファンの間で話題となり、次第にレア感となってマスメディア業界のアンテナを刺戟し取材申し込みが舞い込むほどになり、結果は、チケット完売、このライブについては、かなりの人がブログで感想を書いている。

2011年7月 4日 (月)

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(14)

第4節 ハイデッガー哲学の展開様相

ハイデッガー哲学の展開様相としては、大きく、前期、転換期、後期の三期に我々はこれを分かち、更に前期を特に三つの小区分に分けてこれを考えた。

我々は、ここで次の二つの事柄を最後に注意して置かねばならない。

第一に、ハイデッガーの思想は、有機的な展開過程において発生、成立しているものであり、従って彼の体系的な思想自体は、この発展史的な思想の展開過程と切り離して考えることはできない。例えば、彼が、『形而上学とは何か』の論文にその後二つの文章をつけ加え、稍々異なった思想へと元の主題を深めているという事実、或いは喧しいいわゆる転回の問題も、実は存在への問いの底に潜む体系的な問題ではあれ、事実上は前期と後期の思想的展開の中で、発展、展開して来ている、極めて有機的なものであることを明示している事実であるといっていいであろう。従って我々は、ハイデッガー哲学の体系的再構成を試みる場合にも、単に思想それ自身の理由づけに腐心するだけでなく、充分に思想の展開過程の中から、問題それ自身の論理的展開をも探り当てようと考えたい。即ちハイデッガーでは、思想の発展史的展開とが深く絡み合っているので、我々は、発展史的展開をも洞察してゆかねばならないと思う。しかし第二に、ハイデッガー哲学は、そうした変貌しゆく展開過程の中にありながら、それ自体としては、実は常に同じ究極の問題を問い出しているとも言い得る。前期の思想が現存在に基づいての存在解明であるとすれば、後期では現存在の根底の存在への聴従の世界の解明が問題である、というように、実は彼の思想は、実存に根ざしつつ常に存在を問い、また存在にかかわる根拠としての実存のあり方に思索の中心を据えるといったように、実存と存在のかかわり合いの世界に、究極の思索の中心をおいている。これが、我々が前節でみた実存哲学の根本問題でもあり、我々が根本的な論題として確定しておかねばならない中心問題でもあるのであった。それ故我々は、ハイデッガー研究に当たって、まさしく彼の思想がそれを中心としてめぐっている実存と存在のかかわり合いの世界の問題に中心問題をおいて、その論題を究極の一筋の論題として見定めつつ、ハイデッガー哲学の再構成を遂行してゆかねばならないであろう。

佐々木俊尚「キュレーションの時代─つながりの情報革命が始まる」(1)

プロローグ ジョゼフ・ヨアキムの物語

生涯のほとんどを放浪者として過ごしたジョゼフ・ヨアキムは70歳を過ぎると、過去の心象風景を自分自身の手で残そうと、自己流の絵を描き始める。それをシカゴのサウスサイドに借りていたアパートの窓ガラスに飾っていた。これをジョン・ホップグッドというカフェの経営者が目に留め、自分の店で個展をおこなった。この個展を出版社主のトム・ブランドが訪れ、これがヨアキムがアートシーンにデビューするきっかけとなった。ヨアキムは、晩年に「わたしが描いた絵に価値があるなんて、まったく想像もしていなかったよ」

自身ですら価値を見出していなかった作品を、ジョン・ホップグッドが見出したからこそ、アートとして認められるきっかけとなった。そう考えると、ヨアキムの作品というアートは、ヨアキムと彼を見出したポップグッドとの共同制作だったとも言える。美術の世界に限らず、インターネットの普及ということもあり、プロじゃない人の表現や発信が増えている。そういう世の中では、よい作品を生み出すためには、「つくる人」がいるだけでは難しい。それらの素晴らしい作品を「見出す人」が必要になって来る。これからの世界は、このような「つくる人」と「見出す人」が互いに認め合いながら、ひとつの場を一緒につくるようにして共同作業していくようになる。

2011年7月 3日 (日)

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(13)

では、一体実存哲学における実存というものが根本におかれたのは、何故だったのであろうか。換言すれば、どのような目的の設定において、この実存が第一原理に据え置かれたのであろうか。

少なくともidealtypischに見るとき、実存哲学が実存を第一原理に据えたのは、まさしくそれこそが最も根源的な現実全体への哲学的解明の根拠であると、信ぜられたからにほかなるまい。実存という極めて単独なしかも有限な各自の究極の主体的生存の拠り所を、それだけでいわば孤立的に提出見せることが、実存哲学の本質であるのでは決してないのである。それは、哲学である以上、むしろそうしたそれ以外にはあり得ぬ最も究極的なこの世界全体の存在の中での唯一の世界解明の根拠たる実存というものを根底に置くことによって、そこからこの世界全体の存在への根本的な自覚の理論を提出して見せるというところに、その決定的な狙いがあったのだと見なくてはならない。哲学は、ギリシャにおけるその成立以来、常に、最も根本的かつ全体的に、この現実全体を自覚しようとするところに成立し、開始され、展開されて来たと言っていい。現実全体とは、諸々の存在者が存在しているという、このともかく存在している世界、現にここに拡がり生起している存在という世界があり、この存在の世界に対し、その究極的なものは何か、その根本的かつ全体的な構造は何か、と問うところに、哲学は成立してきた。その意味で、哲学はすべて存在論であると言ってもいいかもしれないのであり、それがまた、原初的に哲学がその形態を採って現われ出たその形而上学というものの意味するところであったであろう。

そして、実存哲学とは、idealtypischには、人間存在が、世界の中で、存在者へといろいろにかかわりつつ、現実に外へと開かれて立ち出でている、その主体的単独な有限的実存というものを根本に据えることによって、新しい世界解釈の自覚化を行ってみようとしたものだと、言わなくてはならないのである。その意味で実存哲学は、まさしく、実存に基づいた存在論の試み、なのである。実存哲学は、実存というものを据えることによって、現実世界の根本的な自覚の理論を構成してみせようというのであり、またそういう目的設定のうちにこそ、古代中世近世的でない、新しい実存という原理が据え置かれた理由もあったと見なくてはならない。

実存哲学は、本来実存からの哲学として、かつまたそうした哲学である限り、常にこうした地上における有限的自己の実存という一切を制約する根拠に立ち、しかも、それの作用的本質たる、存在へのかかわりと関与の働きを地盤として、現実の存在全体そのものの普遍的なあり方を掴みだし、以て根本的な世界解釈を構成しようとするもの以外の何物でもあり得ないのである。言ってみるならば、それは、人間的自己の地上における有限的で単独な、主体的で本来性へと志向する、一回起的な生存の事実に根拠を置き、その自己の実存が様々に存在者とかかわり合って拓く存在の世界を、できる限り深く広く普遍的に自覚化しようとする、個体的実存から発して普遍的な存在に到達しようとする哲学なのである。このように、存在へのかかわりの根拠としての実存というものが根本の手懸りとして立てられ、そこから現実解釈の理論、言い換えれば、存在者の存在を解き明かす自覚化の理論を試みるものが、実存哲学と言われねばならない。実存哲学の出発点は、それ自身の中に存在への志向を含む実存であり、その目標は、その実存を手懸りとしての存在論的世界解釈である。実存哲学における中心問題はidealtypischには、実存と存在とのかかわり合いの世界の構造が如何なるものであるか、それを解明するところにあり、実存哲学とは、かくして、本来、実存に基づく存在の哲学以外の何物でもあり得ないことは、もはや縷説を要しない明瞭な事柄であると言っていいであろう。

あるIR担当者の雑感(28)~ IRのニッチ戦略(8)

前回述べたことは、回りくどい言い方だったかもしれません。IRの目的については前回に基本的な考え方を述べましたが、実際のところ、端的に(有体に)いえば、株式を買ってもらうということです。その株式を買ってもらうという際に、投資家の人にどのように買ってもらうか、どういう目的で、どういう理由で買ってもらえるか、ということに関してです。それが、ある面から考えれば、この一連の投稿 IRのニッチ戦略(1)~(6)で述べてきたことです。そして、(1)~(6)が発行会社の側から一方的に考えていたのに対して、と今度の(7)以降のは、株式を買う側とのことも多少交えながら、考えようとしている点が少し違っていると思います。

このことは、実務上の問題として、IRのホームページを作ることを考えるプロセスで、切実になってきたものなのです。ホームページは不特定多数の人に向けて情報を一方的に発信するものです。IRでいえば決算説明会でも会場に集まった出席者に向けて会社が説明(プレゼンティション)するのは慥かに一方的です。しかし、狭い会場では出席者ひとりひとりの顔が見えているし、会場で反応があります。それが説明に影響することもあり、必ずしも一方的ともいえない。また、前回の雑感で書いたように、説明会が終わった後で出席者にパーセプションとして感想や意見を聞いているので、フィードバックの回路があり、その意味では対話的な面もあるのです。だからこそ、以前の(1)~(6)で書いたようなターゲットの絞り込みということが可能となるのです。即ち、絞り込みたいターゲットが目の前に居るわけですから。

しかし、ホームページの場合は、それが全く見えない。メディアとしては説明会よりは、よほど広いものですが、本当に見てほしい人に、こちらの情報が届くという保障もありません。そこで、はたと考え始めたわけです。誰に情報を届けたいのかと。例えば、このブログでビジネス関係の書籍の読書メモを掲載してきましたが、自動車メーカーで新車の開発をする場合に、どのような人をターゲットとするかがとても重視されていて、しかも、かなり具体的なところまで考えていたということがありました。例えば、家族のセカンドカーとして奥さんが小さな子供を幼稚園に送り迎えしたり、買い物にいくときに便利な、ということでミニバンのターゲットが設定されたとか。しかも、このターゲッティングにより商品コンセプトが変更されたりということも、実際に行われているようです。(『ホンダの戦略経営』より)だから、ターゲットをどのように絞るかということは、それほど大切なことであるのです。

それでは、私の勤め先の企業でIRのターゲットを具体的に絞っていこうとした場合に、以前(1)~(6)の投稿で漠然としたイメージを述べていましたが、具体的にどうなのか。それを考えるにあたってヒントとなる情報がありました。それは、昨年末から今年初めにかけて、中間配当の時期に当時の株主の方たちにアンケートを行った結果があるのです。そのアンケート項目の中には株主さんの属性を尋ねる質問があるので、現在株式を持っている人が、どのような人なのかという一般的な性格を推測することができると思います。しかし、アンケートに回答してくれた人は全部ではないので、それを持って最終的な傾向と決めつけることはできないので、考えのヒント程度にとどめておく注意は必要です。

で、そこで現われて来た、私の勤め先の株主像というのは、簡単にイメージしてみると中年の会社員や公務員、或いは定年退職した男性で、長期的な株式投資を行っていて、私の勤め先は会社四季報やインターネットで知った。そして、私の勤め先への投資を考えた時注目したのが、会社の将来性や経営の安定性、あるいは事業内容などの点です。簡単ですが、このようなデータをベースに次回、具体的なターゲットについて、考えてゆきたいと思います。

2011年7月 2日 (土)

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(12)

第3節 実存概念の根本問題

実存哲学は、異なった思想群を含みつつも、総じて実存哲学として、その特異な登場を今日既に刻印づけていると見られる以上は、やはり、いわばidealtypischに、その哲学としての共通の構造や中心問題をもっているはずだと考えねばならない。それはどこにあるであろうか。

先ず、実存哲学は、単に実存についての、もしくは、単に実存を主張する哲学であることはできない。もし実存について単に分析記述するだけなら、それは分析記述として本質規定である限り、実存ということについてかかることは不可能であり、また単に実存を主張する哲学であるなら、その主張そのものに従って、実存することそのことにならねばならないが、それはもはや哲学ではないであろう。室祖先哲学とは、「実存“の”哲学」ではなくて、実は、むしろ「実存“からの”哲学」と言うべきものなのである。まさしく、実存哲学とは、実存というものを根本におくことによって、そこから一切の現実全体に対処する最も根底的な思想的原理を提供するところに成立しているものなのである。即ちそれは、実存というものを、原理的に、一切の人間的あり方或いは現実世界の構成の種々相の中に最も根本的なものとして置き、そこを出発点とすることにより、ないしはそれらの考察の中から、最も究極的な現実全体の解明の理論を提出してみせる、というところに成立しているのである。単に実存を分析し、もしくは主張するのではなく、むしろ実存を自覚的に解明しながら、それに基づいて現実対処の理論を構成するもの、それが実存哲学である。従って実存哲学は、第一に、先ず、あらゆる人間的なあり方の根底となっているその実存というあり方を注意深く考察してその構造を見究め、自覚化し、第二に、その上に立脚して、現実全体に対処する根本的な理論を構成してみせる、ということによって成立しているわけである。何故かと言えば、それは、実存哲学と言われるときの、その哲学のというものの構造によって、必然的に要求されるものと見なければならないからである。

翻って思うに、一体哲学とは如何なるものであろうか。我々はこれに対し、今端的にここで、次のように答えよう。哲学とは、人間が世界の中で様々な存在者といろいろにかかわり合っているこの現実全体ないしこの存在全体に対する最も根本的な対処の理論の自覚化である、と。我々が現実世界の中で様々に現実にかかわっている仕方は、実に限りなく多く、まことに種々多様であろう。しかし我々は、常に、我々がこの現実の中にあって存在しているその最も根源的な事実の前に突き返され、そこからして統一的に世界を根源的かつ全体的に捉え、そこに世界解釈の最も根本的な理論を構成しようとする、極めて根深いいわば形而上学的欲求をもっていることを知っている。哲学とは、まさしくその地点から開始され、かつ展開され、そして成立し得るものである。それは、最も根源的かつ全体的な人間の現実対処の最高次の理論的自覚化である。人間における行為、知識、感情、或いはそうしたものに基づいて現実的に形成されている学の世界、芸術、宗教、実践等社会等々の人間的文化の世界のすべて、そうしたものを最も根本的な地点から理論的にかつ統一的に捉え、以て我々が深く自覚的に現実に対処するその折の最深の根拠を示そうと努めるところに、かの智慧への愛としての哲学が、今日においても生けるものとして成立し得るその唯一の地盤があると思われる。哲学とは、まさしく、そうした最深の現実対処の理論以外の何物でもない。

さて哲学がかかるものであるとするとき、一体我々自身はどこにその現実対処の理論の最深の根拠をおいて、哲学を構成すべきであろうか。我々は既にそのことを第一節において示し得たはずである。即ち、我々は、その研究の態度において常にそこへと我々が突き戻されざるを得ないかの生という世界、そこに現実対処の根拠をおかねばなるまい、ということである。そして、我々は、その意味での生を、さらに我々自身の言葉でやはり実存からの思索と言い換えておいた。何故なら哲学は、人間の最も根本的な現実対処の理論である限り、その人間の存在に根本的に根付いてこそ、初めて形成され得るものであることは、容易に見られることであるからである。哲学は、人間が現実とかかわり合うその存在全体に対し、根底的な自覚化の理論を形成すべきであるなら、当然その人間のあり方を根本にしなければなるまい。しかもその人間存在の構造で最も核心的となるべきもの、それは、やはり実存というものとして見定められるべきであろう。何故なら、哲学する人間的主体の、地上における現実存在を前提にしなくては、何物も始まらず、一切は無に等しいからである。私なら私が、ここ、地上に、一定の時空的場の中に生を享けて生存し実存しているということあってこそ、一切は初めて可能になるからである。しかも、我々が生を享けて現実の中に生存するとき、我々は、知的な意識一般や単に行為的な意志的存在や感性的なものであるよりも前に、より深く、有限的な単独な各自の主体的本来的な存在者としても即ちまさしく歴史的に実存という概念によって示されているものとして、あるからである。

ここで注意しなければならないのは、哲学は、その性格として、常に現実対処の理論として真に現実に耐え得るものとして生きたものであるよう、吟味批判されなければならないことである。もしそうだとすれば、こういう問が掲げられよう。即ち、いわゆる実存哲学は真に現実対処の理論として耐え得るものであろうか、真に生きているであろうか、と。

あるIR担当者の雑感(27)~ 説明会のパーセプション

決算説明会に出席していただいたアナリストやファンドマネージャーの反応というのが大切で、説明会のときにアンケート用紙に記入して意見を書いてもらったり、説明会のあとでコンサルティングをしてもらっている人に電話などでインタビューしてもらっています。当の会社のひとには直言しにくい点も考慮して、第三者の方が話しやすいということもあるため。

この前も書きましたように、今回はアナリストやファンドマネージャーの方の出席が過去最多の人数だったので、多くの意見が寄せられました。今回、初めての方も多かったのですが、何回も来ていただいて方も意見を出していただいて、それら触れているうちに、次回に向けて新たな課題が浮かび上がってきました。

その主な内容は、これまで、できる限り会社のことを知って欲しいという思いがあって、まず情報の量を増やしていくこと、また、企業で実際に事業をしているときの言葉とアナリストや機関投資家に使っている言葉が違うので、うまく伝わるように翻訳していくのと、この二点に重点を置いてやってきました。このような量的な増量の方向に対して、質的な向上も考えたら、というのが、出席者からいただいた意見の大方の方向性でした。それは、ポイントを絞ることとか、表現の簡潔性を高めるとか、もっと踏み込んで言うと、IR説明会というのは、企業が関係者を集めて、これからこのようビジネスを成長されていくという所信を表明するところでもあるので、現状の説明も大事だが、何をどうしたいのかという大事な点を出席した人にメッセージとして伝えることをもっと考えてもいいのではないか、ということだと思います。ただし、これは思うにある程度、企業を理解し、分析するのに必要最低限以上の情報をきちんと公表し、それなりの公開情報の蓄積があって、はじめて言えることで、最初から、情報も何もないところでメッセージをといったら、単なるスローガンになってしまいます。だから、このような意見を出席者が寄せてくれたということは、私の勤め先が出している情報については一定レベル以上と認めてもらっていることになります。そういう評価を皆さんからいただいたということに、うれしく思いました。個人的な思い込みかもしれませんが、これは出席者の皆さんから、私の勤め先のIRについて、ここで一段ステップアップするように、というメッセージのように思えるのでした。

前回の投稿で、多くの方が出席してくれたことに感激したと書きましたが、それ以上に、出席してくれた皆さんが、私の勤め先に対して意見を出してくれたということが、実は、たいへん、ありがたいことなのです。この人たちは、企業の分析をして投資対象としてどうなのかという評価をしたり、投資をするのが本業で、会社に意見を言っても一文の得にもならないのですから。しかも、敢えて企業に対して苦言を呈したり、厳しい意見を出してくる人もいます。企業の側も人間ですので、そういう耳に痛い意見を聞くと気分を害する人もいるかもしれません。そうしたら、企業と良好な関係を築きにくくなるかもしれないのに、敢えて、意見を出してくれる、というのは、企業に課題を克服してもらって成長してもらいたいという思いの現われなのではないかと思います。嫌いな人や言っても仕方のない人には、だれも苦言を言わないでしょう。だから、厳しいことを言ってもらえる企業というのは、それだけ嫌われていない、可能性があると期待されているということではないかと思います。

これまでの説明会も、前回の説明会に対する意見を参考に少しずつ改善を行ってきたと思います。それを以前から見てきていた人は、そういう実績を踏まえて、ここまでやってきたのだから、今度、こうすることもできるだろう、と言ってきてくれていると思いました。これは、IRということに限定されず、企業の経営姿勢に対しても、同様のスタンスで接してくれていると思います。

その意味で、できるところは、その意見に応えていきたいと思っています。とすれば、だんだん説明会と言う場が、一方的に企業から情報発信する場というものから、企業と投資家が共同で作り上げる場として考えてみるのが適当なのではないかと考えるのです。

2011年7月 1日 (金)

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(11)

Ⅱ 現代における実存の概念

実存哲学は、永い歴史的伝統を背負った実存概念をその原義において繋ぎ止めつつ、新たな問題設定とともに生かし返し、それによって現代の新しい哲学の新しい局面を開拓し、以てその史的意義を、今日殆ど不動のものにし得ていると言っていい。我々の論究の主題であるハイデッガー哲学も、その他の様々な実存思想も、均しく、このような実存概念根幹とすることによって、その体系を構成し、共通のこの伝統に立脚して、種々独自な試行を遂行し、現代の我々に問題を提起しているのである。さて、我々は、最後に、以上の考察による現代実存概念の共通の根幹、その歴史的伝統の中における意味合いを箇条書きによって、総括しておこう。

(1)      実存の根本的意義は、中世エクシステンチアに既に含まれていたように、現実的に立てられてあるということ、そのものとして原因と無の外に、それ固有のあり方においてこの現実の中にあるということ、従ってまた、現実の存在の只中に、開かれ外に向かって存立してあるということ、そのことのうちにある。

(2)      しかし中世ではエクシステンチアは、客体的存在者のあり方一般を意味し、神の世界創造を背景とし、その神から被造物一般が受取る物在的なあり方一般であり、かつものの本質に附加されるところの従って本質よりも劣るところのもの、と看做されていた。しかし実存哲学における実存はかようのものではない。

(3)      即ち実存は、中世エクシステンチアに付き纏っていたように客体的存在のあり方一般を意味するのでなく、或いはシェリングにもなお残っていたような存在者一般の存在を言うのではなく、就中は、人間それ自身が現実的に存在するそのあり方そのものを指す。しかし人間的なあり方といっても、近世哲学が総じて問題としたような意識一般としてのそれでなく、各自の具体的な人間が己の存在に関心せざるを得ないような、現実的な単独者各自の主体的なあり方、人間各自の主体が無と原因の外に世界の中に今現実に生まれ出て生存しまた生存しようとしている、その単独性、主体性のあり方、それを意味している。このような実存概念の人間化主体化は、勿論のこと、近世哲学を経て漸く、シェリングを介したキルケゴールにおいて刻印され得た。

(4)      また、実存は、中世エクシステンチアにつき纏っていたような神による世界創造という背景をもたぬもの、つまり神から被造物が受容するような他から仰ぐ存在でなく、或いはシェリングになお残存していたように神的性格を持つものでなく、そうした全体的なものの中に依拠する物在的なあり方でなく、全体的なものがあるにしても、それに依拠しない、人間各自の単独者の主体的な存在を意味している。キルケゴールがそうであるように、特に死に晒された各自の単独で有限的なあり方を、実存概念は指意している。

(5)      このように実存は、単独な人間各自のその主体的なあり方、何ら客体的でなく何ものにも依拠しないそれ自身だけで現にある有限的な死を背後に控えたあり方であるが、更に、キルケゴールにおいて特に顕著なように、またシェリングにも若干見られたように、人間の本来的なあり方への動きを含んだ、或いは、人間の虚無的な問いに救いを齎すような、そうした本来性への志向を含むもの、有限で究極者とは断絶されながら、なお単独な各自が、主体的に真の本来的なあり方、真の究極的なものへと関心せざるを得ないような、そうした本来的なあり方をも含意しているものである。

(6)      実存は、中世において、神から賦与され被造物の本質につけ加わる、いわば本質より劣るものと考えられていたが、実存哲学においてはそうでなく、むしろものの本質が単なる可能性を意味しているのに対し、現実存在としてそれはより深くこれに優位するものと看做されている。そして、このことと関係して、ものの本質把握を重んずるものが理性的概念的な認識論的哲学態度であるとすれば、実存を重視するということは、そうした認識論的世界解釈ないし意識内在主義の根底の、むしろそうしたものが可能となる所以の、或る根源的な現実存在そのものに踏み入ろうとする、いわば存在そのものへの還帰を含んだ哲学態度、その意味で単なる概念操作でなく智慧への愛に裏付けられた哲学態度の中で、初めて問題にされ得るということに注意されねばならない。

(7)      このように、主体性、単独性、有限性、本来性の性格を含んだ人間的な実存、意識内在的な哲学態度でなく存在への還帰を欲する哲学態度の中でのみ初めて問題にされ得る、このような、人間各自のこの現実世界の中に現に開かれ立ち出でてあるその一回起的なあり方そのもの、それが、実存が第一次大戦の際までに復活さるべく背負わされていた規定であり、かかる実存が、生の哲学の拓いた人間的な具体的生を重んずる思考の登場を受けて、第一次大戦後の昏迷と瓦解のヨーロッパ世界の中で、遂にそれ以外にはあり得ぬ絶対的無制約的な人間存在の拠り所として立てられ、かくして一切の現実対処の究極の原理と看做されたとき、そこに実存哲学の実存概念が成立した、と言うことができよう。守護のない、不安と瓦解と昏迷の世界の中で、そうした気分を反映しながら、人間的生存の無制約的な拠点が実存として立てられ、そこに一切の現実対処の根拠がおかれたとき、そこに実存哲学の実存が自覚的に成立し、開始し始めると見ていいと思われる。

あるIR担当者の雑感(26)~ IRのニッチ戦略(7)

以前に、このような題名で6回に分けて私信を詳らかにしたことがありました。これについては、何人かの方からは真摯なご意見をいただき、たいへん有難く思いました。いただいたご意見について考えてみたり、その後の実務上の諸事などから、以前に書いたものに対して、追加や直しを加えたいという思いが生まれてきました。基本的なところは変わらないと思いますが、何回か、書いていきたいと思います。

以前のIRのニッチ戦略(3)次のようなことを書きました。“IRというのはインベスター・リレイション、つまりは投資家と企業との関係、コミュニケイションです。建前をいえば企業がこのようなことをやろうとしているということを誠意をもって説明し、そのことを十分理解した上で投資家は責任をもって投資するというものでしょうか。そのような理解しあう関係を築いていくことがIRの目的のはずです。”この基本的な考え方は変わっていません。で、以前の論旨では、ここから企業の側から先ず胸襟を開いて見せないと、信頼関係の第一歩が始まらない、という考え方が続きました。

このことは、今も、とても大切なことだと思っています。しかし、これは、あくまでも最初の第一歩ではないかと思うのです。例えば、こういうことです。皆さんの勤めている職場に中途入社で新しい人が入ってきました。その人は、新しい職場に早くとけ込もうと自分はこういう人間なのだということを、進んで“胸襟を開いて”話すようにしました。それはそれで、悪いことではないのでしょうが、これを聞く職場の人たち、つまり、皆さんの側から見るとどうでしょぅか。胸襟を開くのはいいけれど一方的に話されるというのは…、と言う場合もあるのではないか。

ということは、実際のIRの現場に即して具体的に考えてみると、IR説明会などのいわゆるイベントや説明資料やホームページ、決算短信やレポートといったツールというのは、コミュニケイションのための手段、あるいは、コミュニケイションを始めるスタート地点なのではないかということです。よく考えてみれば当然ことです。

以前書いた(1)~(6)もそうですし、日ごろの業務を振り返ってみると、例えば、説明会を成功させるということや、立派な資料を作るというようなことが、ややもすると目的となって(自己目的化)しまいがちではないか、ということです。説明会が成功裏に終わると、それで満足してしまうけれど、これはスタートがよかっただけで、ゴールまでの長い道のりが、その後にあるということを、忘れてしまいがちになることです。

つまりは、企業の側からの情報発信というと、どうしても一方的になってしまいがちで、例えば商品広告などがそうですが、テレビCMや新聞広告が怒涛のように垂れ流しになって、消費者には実質的な選択肢が残されていないという状態になってしまっている。

以前書いた(1)~(6)では、例えばIRの対象をターゲットとして絞るとはいっても、実際にやっていることといえば、上に書いたような一方的な情報垂れ流しというものでした。ここまで書いてきたように実際のコミュニケイションということを考えれば、ターゲッティングされた人というのがどこにいて、そこに向けてどのように情報を投げかけていって、コミュニケイションしていくかという点が考慮していませんでした。それをこれから考えていきたいと思います。

ただし、IRの場合には、企業によって開示している情報量に差がありますが、量の多寡を問わず、このようなことは言い得ると思います。しかし、そもそも開示している情報量そのものが少ない会社の場合は、まずは開示する情報の量そのものを増やすことが先でしょうから。ここで、私が考えているようなことは、ある程度の情報量を開示している企業が考えてもいいのではないかと思うことです。

苅部直「光の帝国 和辻哲郎」(19)

人格が断片的なペルソナの群れへと解体し、後には空隙しか残らない様子は、19世紀末以来指摘されてきた現代社会の病理現象と、まさしく重なっている。和辻倫理学の描く人間像は、一面、こうした状況をなぞったものであろう。だが、それは、人格の複雑化を積極的に受け入れ、自己矛盾を力強く引き受けること、あるいぱ軽やかに謳歌することを推奨することにはない。和辻の倫理体系において、様々な社会交渉の原型をなす基底的な共同性は、人々が画然とした表情を示さず穏やかに共存している。つまり、人々が互いに奉仕し合い、透明な心境で交流する感情融合的な共同体なのである。ここに住むのは鮮明な個性を持たない均質的な人々で、互いの葛藤や軋轢は存在せず、それゆえ自由が問題になることもない。いかに定義するにせよ、自由は自己と対峙する何ものかに直面する経験を通じて意義が実感されるものだからである。しずかに光の沁みわたった明るい空間で、人々は朗らかに文化情報を送受する。この情報空間を基盤に様々な人倫組織が並び立つ秩序が放つ光─ペルソナの亀裂が覗かせる闇から目を背けた和辻は、人間の生への存在を支えるそうした光の中へと向かっていったのである。したがって、秩序の全体を下支えする国家の権力もまた、この光を保障する生の権力ととらえられ、それが場合によっては構成員を否応なく全体戦争に巻き込む死の権力でもあることには注意が向けられない。ここでは、国家権力は常に聖なるものとの原初的結合を根底に保持し、威力であると同時に武力であるとされる。つまり、権力と権威の区別は実質的に消滅すると言ってよい。国家権力の発動が権威を帯び正当化されるのは全体性に配慮する限りにおいてであるが、組織としての国家それ自体がもともと権威を内在させているのである。こうした光を秘めた国家権力への信頼が和辻の秩序構想を根底で支えていた。政治権力の限界や、そのコントロールの問題は最後まで追求されずに終わることになる。

よく、ここまで読み込んでまとめたという作業の努力には、頭が下がります。ただ、この著作を読んでいて、これが和辻のすべてだとは思いませんが、和辻という人の考えは、かなり主観的というのか、かれの思想の根拠は全部彼個人の「これが好き」というように好き嫌いであるように見えて、あれだけ壮大な体系をくみ上げたとしても、それは、今でいえば思想オタクの独り言のようにイメージしてしまうのです。さらに、そのような独り言が、現実の人々や社会から離れたところで、個人の自己完結したものとしてくみ上げられ、それが現実に参加していくなかで、現実から攻撃され、妥協と転進を繰り返した挙句、戦時体制という現実に押し切られ、その本人は被害者意識から、その事実を認めようとしない。そんなように見えてしまうのです。そういう文脈で読むと、例えば『古寺巡礼』にような著作も、世間知らずの青臭い学生が思春期特有の悩みを抱えて、奈良に逃避し、減退から遠く離れた古代に憧れることで目を逸らし、あたかも、自分は人生に悩んでいるというような単純な屈折によるエリート意識の自己満足に浸っているような鼻持ちならない著作にも見えてくるのです。これは、著者である苅部氏が和辻に対して置いている距離感のようなものがそう感じさせるのかもしれません。

いずれにせよ、もう一度、和辻のものを読み直してみることも考えたいと思いました。

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