無料ブログはココログ

« あるIR担当者の雑感(28)~ IRのニッチ戦略(8) | トップページ | 佐々木俊尚「キュレーションの時代─つながりの情報革命が始まる」(1) »

2011年7月 3日 (日)

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(13)

では、一体実存哲学における実存というものが根本におかれたのは、何故だったのであろうか。換言すれば、どのような目的の設定において、この実存が第一原理に据え置かれたのであろうか。

少なくともidealtypischに見るとき、実存哲学が実存を第一原理に据えたのは、まさしくそれこそが最も根源的な現実全体への哲学的解明の根拠であると、信ぜられたからにほかなるまい。実存という極めて単独なしかも有限な各自の究極の主体的生存の拠り所を、それだけでいわば孤立的に提出見せることが、実存哲学の本質であるのでは決してないのである。それは、哲学である以上、むしろそうしたそれ以外にはあり得ぬ最も究極的なこの世界全体の存在の中での唯一の世界解明の根拠たる実存というものを根底に置くことによって、そこからこの世界全体の存在への根本的な自覚の理論を提出して見せるというところに、その決定的な狙いがあったのだと見なくてはならない。哲学は、ギリシャにおけるその成立以来、常に、最も根本的かつ全体的に、この現実全体を自覚しようとするところに成立し、開始され、展開されて来たと言っていい。現実全体とは、諸々の存在者が存在しているという、このともかく存在している世界、現にここに拡がり生起している存在という世界があり、この存在の世界に対し、その究極的なものは何か、その根本的かつ全体的な構造は何か、と問うところに、哲学は成立してきた。その意味で、哲学はすべて存在論であると言ってもいいかもしれないのであり、それがまた、原初的に哲学がその形態を採って現われ出たその形而上学というものの意味するところであったであろう。

そして、実存哲学とは、idealtypischには、人間存在が、世界の中で、存在者へといろいろにかかわりつつ、現実に外へと開かれて立ち出でている、その主体的単独な有限的実存というものを根本に据えることによって、新しい世界解釈の自覚化を行ってみようとしたものだと、言わなくてはならないのである。その意味で実存哲学は、まさしく、実存に基づいた存在論の試み、なのである。実存哲学は、実存というものを据えることによって、現実世界の根本的な自覚の理論を構成してみせようというのであり、またそういう目的設定のうちにこそ、古代中世近世的でない、新しい実存という原理が据え置かれた理由もあったと見なくてはならない。

実存哲学は、本来実存からの哲学として、かつまたそうした哲学である限り、常にこうした地上における有限的自己の実存という一切を制約する根拠に立ち、しかも、それの作用的本質たる、存在へのかかわりと関与の働きを地盤として、現実の存在全体そのものの普遍的なあり方を掴みだし、以て根本的な世界解釈を構成しようとするもの以外の何物でもあり得ないのである。言ってみるならば、それは、人間的自己の地上における有限的で単独な、主体的で本来性へと志向する、一回起的な生存の事実に根拠を置き、その自己の実存が様々に存在者とかかわり合って拓く存在の世界を、できる限り深く広く普遍的に自覚化しようとする、個体的実存から発して普遍的な存在に到達しようとする哲学なのである。このように、存在へのかかわりの根拠としての実存というものが根本の手懸りとして立てられ、そこから現実解釈の理論、言い換えれば、存在者の存在を解き明かす自覚化の理論を試みるものが、実存哲学と言われねばならない。実存哲学の出発点は、それ自身の中に存在への志向を含む実存であり、その目標は、その実存を手懸りとしての存在論的世界解釈である。実存哲学における中心問題はidealtypischには、実存と存在とのかかわり合いの世界の構造が如何なるものであるか、それを解明するところにあり、実存哲学とは、かくして、本来、実存に基づく存在の哲学以外の何物でもあり得ないことは、もはや縷説を要しない明瞭な事柄であると言っていいであろう。

« あるIR担当者の雑感(28)~ IRのニッチ戦略(8) | トップページ | 佐々木俊尚「キュレーションの時代─つながりの情報革命が始まる」(1) »

ハイデッガー関係」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(13):

« あるIR担当者の雑感(28)~ IRのニッチ戦略(8) | トップページ | 佐々木俊尚「キュレーションの時代─つながりの情報革命が始まる」(1) »