佐々木俊尚「キュレーションの時代─つながりの情報革命が始まる」(4)
第二章 背伸び記号消費の終焉
日本の映画興行の世界では、前章のジスモンチのような現象は起こりにくくなっている。例えば興行会社は映画の内容を顧みることなく有名スターが出演しているか否かで外国映画の日本公開を判断するし、マス幻想に引きずられて大量宣伝で無理に動員をかけるパターンしかない貧困な状態にある。
以前ならば、誰もが観に行くヒット作の世界とマニアックな単館上映館が両立していた。『シティロード』や映画雑誌のような圏域が細分化された雑誌群がメディアとして成立し、それ以上に先端的な情報を求める人にはリアルな人的ネットワークが用意されていて、そこに参加すれば情報が必ず流れ込む構造ができていた。
しかし、このような構造は2000年ころを境に大きく変わってしまった。その要因の一つはDVDプレーヤーの普及が映画業界にバブルの幻影を引き起こし、無残な結末を招いたこと。これは1980年代のビデオの普及で大きなバブルを経験したことが遠因であった。当時、ビデオプレイヤーを購入した消費者は映画を求めてレンタルビデオ店に走り、コンテンツの揃っていなかったビデオレンタルの世界から映画コンテンツの需要が急速に高まり、配給会社は未公開の作品を片っ端から買い漁りビデオ化され、それがビデオ店に買い取られた。これによって配給会社は莫大な収入を得ることができたのだった。そして、2000年のDVDの普及により、配給会社はビデオの再来とばかりに未公開作品を買い漁った。しかも、シネコンの開館により単館で上映されていたマニアックな作品もシネコンで全国展開すれば、多くの観客に見てもらえるという期待が生まれた時期とも重なっていた。しかし、この結果は無残なものだった。DVDはビデオの時のようなインパクトを消費者に与えることもなく、レンタルビデオ店と配給会社の支払いのシステムも買取からレンタル実績の応じたリース料を支払う形になり配給会社が利益を稼げなくなっていた。そしてインターネットの普及によって、コンテンツに対する飢餓感が消滅していた。ビデオの時のようなバブルを期待していた配給会社はマス消費を期待して自らの手で作品の買い付け額を高騰させ、DVDからの収益が上がらず経営を悪化させていった。それが中小の独立系の配給会社は買い付け額の高騰に引き摺られて、碌な買い付けができなくなりジリ貧になっていった。
バブルを期待せず、手作りで小さく買い付け、小さく上映し、そこから少しずつ上映館を拡大していって一万人程度の集客を方向を作り出すことができれば映画マニアの多い日本では、採算が取れていた。しかし、マス消費を期待して、みずからバブルに突入し、自業自得となった映画業界。その結果が、この章冒頭の貧しい状態を招いた。
これは映画業界に限ったことではなく、1990年代の音楽業界にも同じことが言える。これは、当時CDラジカセの普及により、従来のステレオ装置から、個室でもCDを聴くことが可能となった結果、CDの購入意欲が急速に高まった。つまり、新しい再生装置への感動が、そのうえで再生される新しいコンテンツを求めたということだ。しかし、CDが日常品化することにつれて、さらにインターネットの出現により、CDの売上、とくにミリオンセラー激減した。ミリオンセラーが生み出す豊かな原資が壊滅した結果、資金が回らなくなり、売れないが才能あるミュージシャンを支援するシステムは崩壊する。広告費が回らなくなり、周辺で情報を供給していた音楽雑誌は休刊に追い込まれていった。ただし、音楽を志す若者は減っておらず、音楽そのものが衰退したわけではない。決定的なのは、音楽とリスナーを接続する回路が組み換わって、ミリオンセラーを生み出すマス消費が衰退し、代わって好みが細分化された音楽圏域が生まれたのに、音楽業界はこの圏域にうまく情報を送り込めていない。
これら映画や音楽業界に共通することは、テクノロジーの進化とそれによる視聴機器・媒体というプラットフォームの変化が新しいコンテンツをもとめ、一時的なバブル(大量生産・大量消費)を引き起こした。これよって、コンテンツ業界は次のネット時代への対応を遅らせた結果、ネットによって細分化していく圏域に対応できないまま、大量消費のマスモデルにしがみつかせることとなった。テクノロジーの進化によるプラットフォームの変化は、ただ視聴のメディアを変えるだけでなく、メディアの変化はコンテンツの配信形態の流動化、つまりオープン化に繋がる。その後のインターネットによりデジタル配信が劇的な流通モデルの変化を引き起こすことになった。これがアンビエント化である。我々が触れる動画や音楽、書籍等のコンテンツが全てオープンに流動化し、いつでもどこでも手に入るようなかたちであたり一面に漂っている状態、例えばアップルの音楽配信サービス、iTunesである。これは利便性が高まったというだけでなく、曲のジャンルや年代といった区別の意味を失わせることになる。すべてのコンテンツがフラットに並び換えられ、コンテンツの背景となるウンチクまでも共有化され、大きな共有空間を生み出した。そこでは、コンテンツの流通形態からあり方そのものまで180度の転換となった。これらに対応して、マス消費のようなどんぶり勘定ではなく、ピンポイントでその映画や音楽に接してくれる人のビオトープを探し当て、そこに情報を送り込んでいく緻密な戦略を本当は構築しなければならなかったはずだったのだ。
同じような例として、2010年のHMV渋谷店の閉店も象徴的だ。この店は、ある時期バイヤーとスばれる店員の見識とセンスの高さにより新たしい音楽をいち早く紹介し、独自の批評を盛り込んだポップを、消費者はこれにより知識を広め、この店はメディアとして機能し、文化発信基地の役割を担っていた。それが、画一化され無個性な店に陥った結果、その店でなくてもよくなっていった。つまり、マス消費が消滅し、新たなビオトープが無数に生まれてきている情報圏域においては、情報の流れ方は決定的に変わり、人から人へと、人のつながりを介してしか流れなくなる。HMVにはその新たな情報流通の胎動が全く理解できなかったことになる。
このように、マス消費が消滅していこうとしていることは、いまや厳然たる事実である。かつては、画一的な情報が大量に泣かせされ、これに「他の人も買っているので、自分も買う」といった背伸び的な記号消費が重なり、大量消費が行われていた。記号消費とは、商品そのものではなく、商品が持っている社会的価値(記号)を消費すること。商品がもともと持っている機能的価値とは別に、現代の消費社会ではその社会的価値の方が重視されるようになっており、その記号的な付加価値を消費するようになっているということだ。
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