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2011年7月 2日 (土)

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(12)

第3節 実存概念の根本問題

実存哲学は、異なった思想群を含みつつも、総じて実存哲学として、その特異な登場を今日既に刻印づけていると見られる以上は、やはり、いわばidealtypischに、その哲学としての共通の構造や中心問題をもっているはずだと考えねばならない。それはどこにあるであろうか。

先ず、実存哲学は、単に実存についての、もしくは、単に実存を主張する哲学であることはできない。もし実存について単に分析記述するだけなら、それは分析記述として本質規定である限り、実存ということについてかかることは不可能であり、また単に実存を主張する哲学であるなら、その主張そのものに従って、実存することそのことにならねばならないが、それはもはや哲学ではないであろう。室祖先哲学とは、「実存“の”哲学」ではなくて、実は、むしろ「実存“からの”哲学」と言うべきものなのである。まさしく、実存哲学とは、実存というものを根本におくことによって、そこから一切の現実全体に対処する最も根底的な思想的原理を提供するところに成立しているものなのである。即ちそれは、実存というものを、原理的に、一切の人間的あり方或いは現実世界の構成の種々相の中に最も根本的なものとして置き、そこを出発点とすることにより、ないしはそれらの考察の中から、最も究極的な現実全体の解明の理論を提出してみせる、というところに成立しているのである。単に実存を分析し、もしくは主張するのではなく、むしろ実存を自覚的に解明しながら、それに基づいて現実対処の理論を構成するもの、それが実存哲学である。従って実存哲学は、第一に、先ず、あらゆる人間的なあり方の根底となっているその実存というあり方を注意深く考察してその構造を見究め、自覚化し、第二に、その上に立脚して、現実全体に対処する根本的な理論を構成してみせる、ということによって成立しているわけである。何故かと言えば、それは、実存哲学と言われるときの、その哲学のというものの構造によって、必然的に要求されるものと見なければならないからである。

翻って思うに、一体哲学とは如何なるものであろうか。我々はこれに対し、今端的にここで、次のように答えよう。哲学とは、人間が世界の中で様々な存在者といろいろにかかわり合っているこの現実全体ないしこの存在全体に対する最も根本的な対処の理論の自覚化である、と。我々が現実世界の中で様々に現実にかかわっている仕方は、実に限りなく多く、まことに種々多様であろう。しかし我々は、常に、我々がこの現実の中にあって存在しているその最も根源的な事実の前に突き返され、そこからして統一的に世界を根源的かつ全体的に捉え、そこに世界解釈の最も根本的な理論を構成しようとする、極めて根深いいわば形而上学的欲求をもっていることを知っている。哲学とは、まさしくその地点から開始され、かつ展開され、そして成立し得るものである。それは、最も根源的かつ全体的な人間の現実対処の最高次の理論的自覚化である。人間における行為、知識、感情、或いはそうしたものに基づいて現実的に形成されている学の世界、芸術、宗教、実践等社会等々の人間的文化の世界のすべて、そうしたものを最も根本的な地点から理論的にかつ統一的に捉え、以て我々が深く自覚的に現実に対処するその折の最深の根拠を示そうと努めるところに、かの智慧への愛としての哲学が、今日においても生けるものとして成立し得るその唯一の地盤があると思われる。哲学とは、まさしく、そうした最深の現実対処の理論以外の何物でもない。

さて哲学がかかるものであるとするとき、一体我々自身はどこにその現実対処の理論の最深の根拠をおいて、哲学を構成すべきであろうか。我々は既にそのことを第一節において示し得たはずである。即ち、我々は、その研究の態度において常にそこへと我々が突き戻されざるを得ないかの生という世界、そこに現実対処の根拠をおかねばなるまい、ということである。そして、我々は、その意味での生を、さらに我々自身の言葉でやはり実存からの思索と言い換えておいた。何故なら哲学は、人間の最も根本的な現実対処の理論である限り、その人間の存在に根本的に根付いてこそ、初めて形成され得るものであることは、容易に見られることであるからである。哲学は、人間が現実とかかわり合うその存在全体に対し、根底的な自覚化の理論を形成すべきであるなら、当然その人間のあり方を根本にしなければなるまい。しかもその人間存在の構造で最も核心的となるべきもの、それは、やはり実存というものとして見定められるべきであろう。何故なら、哲学する人間的主体の、地上における現実存在を前提にしなくては、何物も始まらず、一切は無に等しいからである。私なら私が、ここ、地上に、一定の時空的場の中に生を享けて生存し実存しているということあってこそ、一切は初めて可能になるからである。しかも、我々が生を享けて現実の中に生存するとき、我々は、知的な意識一般や単に行為的な意志的存在や感性的なものであるよりも前に、より深く、有限的な単独な各自の主体的本来的な存在者としても即ちまさしく歴史的に実存という概念によって示されているものとして、あるからである。

ここで注意しなければならないのは、哲学は、その性格として、常に現実対処の理論として真に現実に耐え得るものとして生きたものであるよう、吟味批判されなければならないことである。もしそうだとすれば、こういう問が掲げられよう。即ち、いわゆる実存哲学は真に現実対処の理論として耐え得るものであろうか、真に生きているであろうか、と。

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