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2011年7月 1日 (金)

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(11)

Ⅱ 現代における実存の概念

実存哲学は、永い歴史的伝統を背負った実存概念をその原義において繋ぎ止めつつ、新たな問題設定とともに生かし返し、それによって現代の新しい哲学の新しい局面を開拓し、以てその史的意義を、今日殆ど不動のものにし得ていると言っていい。我々の論究の主題であるハイデッガー哲学も、その他の様々な実存思想も、均しく、このような実存概念根幹とすることによって、その体系を構成し、共通のこの伝統に立脚して、種々独自な試行を遂行し、現代の我々に問題を提起しているのである。さて、我々は、最後に、以上の考察による現代実存概念の共通の根幹、その歴史的伝統の中における意味合いを箇条書きによって、総括しておこう。

(1)      実存の根本的意義は、中世エクシステンチアに既に含まれていたように、現実的に立てられてあるということ、そのものとして原因と無の外に、それ固有のあり方においてこの現実の中にあるということ、従ってまた、現実の存在の只中に、開かれ外に向かって存立してあるということ、そのことのうちにある。

(2)      しかし中世ではエクシステンチアは、客体的存在者のあり方一般を意味し、神の世界創造を背景とし、その神から被造物一般が受取る物在的なあり方一般であり、かつものの本質に附加されるところの従って本質よりも劣るところのもの、と看做されていた。しかし実存哲学における実存はかようのものではない。

(3)      即ち実存は、中世エクシステンチアに付き纏っていたように客体的存在のあり方一般を意味するのでなく、或いはシェリングにもなお残っていたような存在者一般の存在を言うのではなく、就中は、人間それ自身が現実的に存在するそのあり方そのものを指す。しかし人間的なあり方といっても、近世哲学が総じて問題としたような意識一般としてのそれでなく、各自の具体的な人間が己の存在に関心せざるを得ないような、現実的な単独者各自の主体的なあり方、人間各自の主体が無と原因の外に世界の中に今現実に生まれ出て生存しまた生存しようとしている、その単独性、主体性のあり方、それを意味している。このような実存概念の人間化主体化は、勿論のこと、近世哲学を経て漸く、シェリングを介したキルケゴールにおいて刻印され得た。

(4)      また、実存は、中世エクシステンチアにつき纏っていたような神による世界創造という背景をもたぬもの、つまり神から被造物が受容するような他から仰ぐ存在でなく、或いはシェリングになお残存していたように神的性格を持つものでなく、そうした全体的なものの中に依拠する物在的なあり方でなく、全体的なものがあるにしても、それに依拠しない、人間各自の単独者の主体的な存在を意味している。キルケゴールがそうであるように、特に死に晒された各自の単独で有限的なあり方を、実存概念は指意している。

(5)      このように実存は、単独な人間各自のその主体的なあり方、何ら客体的でなく何ものにも依拠しないそれ自身だけで現にある有限的な死を背後に控えたあり方であるが、更に、キルケゴールにおいて特に顕著なように、またシェリングにも若干見られたように、人間の本来的なあり方への動きを含んだ、或いは、人間の虚無的な問いに救いを齎すような、そうした本来性への志向を含むもの、有限で究極者とは断絶されながら、なお単独な各自が、主体的に真の本来的なあり方、真の究極的なものへと関心せざるを得ないような、そうした本来的なあり方をも含意しているものである。

(6)      実存は、中世において、神から賦与され被造物の本質につけ加わる、いわば本質より劣るものと考えられていたが、実存哲学においてはそうでなく、むしろものの本質が単なる可能性を意味しているのに対し、現実存在としてそれはより深くこれに優位するものと看做されている。そして、このことと関係して、ものの本質把握を重んずるものが理性的概念的な認識論的哲学態度であるとすれば、実存を重視するということは、そうした認識論的世界解釈ないし意識内在主義の根底の、むしろそうしたものが可能となる所以の、或る根源的な現実存在そのものに踏み入ろうとする、いわば存在そのものへの還帰を含んだ哲学態度、その意味で単なる概念操作でなく智慧への愛に裏付けられた哲学態度の中で、初めて問題にされ得るということに注意されねばならない。

(7)      このように、主体性、単独性、有限性、本来性の性格を含んだ人間的な実存、意識内在的な哲学態度でなく存在への還帰を欲する哲学態度の中でのみ初めて問題にされ得る、このような、人間各自のこの現実世界の中に現に開かれ立ち出でてあるその一回起的なあり方そのもの、それが、実存が第一次大戦の際までに復活さるべく背負わされていた規定であり、かかる実存が、生の哲学の拓いた人間的な具体的生を重んずる思考の登場を受けて、第一次大戦後の昏迷と瓦解のヨーロッパ世界の中で、遂にそれ以外にはあり得ぬ絶対的無制約的な人間存在の拠り所として立てられ、かくして一切の現実対処の究極の原理と看做されたとき、そこに実存哲学の実存概念が成立した、と言うことができよう。守護のない、不安と瓦解と昏迷の世界の中で、そうした気分を反映しながら、人間的生存の無制約的な拠点が実存として立てられ、そこに一切の現実対処の根拠がおかれたとき、そこに実存哲学の実存が自覚的に成立し、開始し始めると見ていいと思われる。

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