佐々木俊尚「キュレーションの時代─つながりの情報革命が始まる」(5)
消費のあり方は社会の中の人と人との関係性によっている。消費は、一人の人間と社会の間の関係をどう形成するかという関係性の確認の手段という側面もある。例えば、戦後社会の時代には息苦しいムラ社会から背伸びし、脱出するための措置としての消費が行われていた。例えば永山則夫(連続射殺魔)は実家の青森では極貧を馬鹿にされ、集団就職で東京に出ると貧しい田舎者としかみられず、周囲にはそのような定型イメージでアイデンティティを規定され、そのパッケージでしか見てもらえず「まなざしの囚人」に陥り、彼自身、そこから抜け出そうとして行ったのは、別のパッケージを身にまとうことだった。例えば外国産のたばこ(洋モク)「ポールモール」を吸う。これは記号消費といえる。彼のような極端な例に止まらず、一般的にも、自動車で言えば、今はカローラに乗っているけれど、課長になったらコロナに乗り換えて、いつかはクラウンに乗りたいというような乗用車のグレードが上がり、自分の出世していけば、この息苦しい空気に支配される世界で、支配に回ることができる。あるいは逃げられるかもしれない。そのような欲求が、消費をコントロールしていた。こうしたモノと自分を重ね合わせるようなことを可能にするためには、そのモノの持っている記号としての価値を社会全体で共有するような基盤が存在していなければならない。そして、この記号価値の共有はマスメディアに情報が一元化されることによって成立していた。例えば、テレビCM、新聞や雑誌の広告。消費の情報をマスメディアで入手し、服装や持ち物といった具象的な表層性によって自分をパッケージし、そのパッケージ、の基盤をマスメディアによって国民の多くが共有していた。そこで、背伸び消費のような記号消費が成立したのだった。
90年代行は、右肩上がり経済成長が終わりをつげ、収入が増えて肩書が上昇することは期待できない時代となった。このよう社会では、さっきのような所有する乗用車のグレードがステータスという幻想が成り立たなくなることを意味する。加えてインターネットのよって情報流通が変化し、マスメディアが衰退し情報はビオトープ化する。記号消費をマスメディアという情報のマス回路による共通認識が支えていたが、これが分解していくことになる。そうした時代にあって、消費するという行為の向こう側に、他者の存在を認知し、他者と繋がり承認してもらうというあり方に変わっていった。消費が承認と接続のツールとなっていった。そしてその承認と接続は、お互いが共鳴できるという土台があってこそ成り立っていく。この「共鳴できる」「共感できる」という土台をコンテキストという。コンテキストは消費を通じて人と人とが繋がるための空間、その圏域を作るある種の物語のような文脈のことである。例えば商品を買いたいという欲求だけでなく、作り手が持っているポリシーや、購入することでそれが作り手の側に「良いこと」として伝わるというようなことが加味されて、お金を払うという消費行動も生まれてきている。これは消費の向こう側に人の存在を見るということ。他者の存在を確認するということになる。例えば大好きなレストランで食事をするというとき、我々は単にサービスと対価を交換しているだけではなく、「素晴らしい食事を作ってくれる人」「食事をおいしく食べてくれる人」という相互のリスペクトがあって、お金だけでなくそうしたリスペクトも交換している。そこでは消費は、そうした人々のつながりに過ぎない。
一方で、シンプルかつ十分な機能さえあれば、それで十分という機能だけを消費するというあり方も広がっている。マスメディアの衰退とともに記号消費は消滅していくことになり、21世紀は機能消費とつながり消費に二分された世界となっていくと考えられる。このように二つの方向に消費が向かっていくとすれば、その行動はモノの購入という消費の行動に強く繋ぎ止められる必然性さえなくなっていく可能性がある。極言すれば、機能がほしいのなら、モノを買わなくても借りたり共有すればいい。つながりがほしいのなら、モノを買わなくてもつながれる場があればいい。これは当然の進化の方向性と言える。この行きつく先が「クラウド」と「シェア」ということではないか。手元のモノはどんどん少なくなり、身の回りは極限までシンプルになる。人と人とのつながりがきちんと存在して、コミュニケィションを活き活きと楽しむことができれば、余計なものはいらない。そういう時代にはモノではなく、互いにつながるモノガタリを紡ぐ時代となる。このような文化になっていけば、従来の大量消費の文脈で語られていたような消費動向が変化するのは当然だ。
使用久恵も不要である無所有の方向性。「つながり」を求める場はモノの購入ではなく、何かを「行う」という行為へと変移してきている。実際に、消費が伸び悩む一方で、農業や登山といった「行為」に対する関心が高まっている。また、商品そのものよりも、ツイッター等の「場」に興味が移って来ている。商品の消費から、「行為」や「場」の消費へ。モノから、何かをする「コト」へ。記号消費による逃走から、接続と承認の象徴としての共鳴へ。この消費社会の変容は、我々の社会の強い背景放射となっている。そしてこの背景放射が広く世界を覆っていき、そのうえで様々な情報はやり取りされ、マスメディアではないミクロなビオトープが無数に生まれていっている。そして、つながりという背景放射の影響を受けて、情報の流れもつながりに強く引き寄せられていかざるを得ない。
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