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2011年7月 1日 (金)

苅部直「光の帝国 和辻哲郎」(19)

人格が断片的なペルソナの群れへと解体し、後には空隙しか残らない様子は、19世紀末以来指摘されてきた現代社会の病理現象と、まさしく重なっている。和辻倫理学の描く人間像は、一面、こうした状況をなぞったものであろう。だが、それは、人格の複雑化を積極的に受け入れ、自己矛盾を力強く引き受けること、あるいぱ軽やかに謳歌することを推奨することにはない。和辻の倫理体系において、様々な社会交渉の原型をなす基底的な共同性は、人々が画然とした表情を示さず穏やかに共存している。つまり、人々が互いに奉仕し合い、透明な心境で交流する感情融合的な共同体なのである。ここに住むのは鮮明な個性を持たない均質的な人々で、互いの葛藤や軋轢は存在せず、それゆえ自由が問題になることもない。いかに定義するにせよ、自由は自己と対峙する何ものかに直面する経験を通じて意義が実感されるものだからである。しずかに光の沁みわたった明るい空間で、人々は朗らかに文化情報を送受する。この情報空間を基盤に様々な人倫組織が並び立つ秩序が放つ光─ペルソナの亀裂が覗かせる闇から目を背けた和辻は、人間の生への存在を支えるそうした光の中へと向かっていったのである。したがって、秩序の全体を下支えする国家の権力もまた、この光を保障する生の権力ととらえられ、それが場合によっては構成員を否応なく全体戦争に巻き込む死の権力でもあることには注意が向けられない。ここでは、国家権力は常に聖なるものとの原初的結合を根底に保持し、威力であると同時に武力であるとされる。つまり、権力と権威の区別は実質的に消滅すると言ってよい。国家権力の発動が権威を帯び正当化されるのは全体性に配慮する限りにおいてであるが、組織としての国家それ自体がもともと権威を内在させているのである。こうした光を秘めた国家権力への信頼が和辻の秩序構想を根底で支えていた。政治権力の限界や、そのコントロールの問題は最後まで追求されずに終わることになる。

よく、ここまで読み込んでまとめたという作業の努力には、頭が下がります。ただ、この著作を読んでいて、これが和辻のすべてだとは思いませんが、和辻という人の考えは、かなり主観的というのか、かれの思想の根拠は全部彼個人の「これが好き」というように好き嫌いであるように見えて、あれだけ壮大な体系をくみ上げたとしても、それは、今でいえば思想オタクの独り言のようにイメージしてしまうのです。さらに、そのような独り言が、現実の人々や社会から離れたところで、個人の自己完結したものとしてくみ上げられ、それが現実に参加していくなかで、現実から攻撃され、妥協と転進を繰り返した挙句、戦時体制という現実に押し切られ、その本人は被害者意識から、その事実を認めようとしない。そんなように見えてしまうのです。そういう文脈で読むと、例えば『古寺巡礼』にような著作も、世間知らずの青臭い学生が思春期特有の悩みを抱えて、奈良に逃避し、減退から遠く離れた古代に憧れることで目を逸らし、あたかも、自分は人生に悩んでいるというような単純な屈折によるエリート意識の自己満足に浸っているような鼻持ちならない著作にも見えてくるのです。これは、著者である苅部氏が和辻に対して置いている距離感のようなものがそう感じさせるのかもしれません。

いずれにせよ、もう一度、和辻のものを読み直してみることも考えたいと思いました。

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