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2011年8月26日 (金)

宮川敬之「和辻哲郎─人格から間柄へ」(11)

これはハイデッガーの分析をふまえたもので、本質と存在というハイデッガーの「Sein」の区別を、和辻は日本語の「がある」と「である」に引き受け、「存在」すなわち「である」を重視するハイデッガーの考えを逆倒させる。和辻は日本語に於いては「がある」の方が「である」よりも根底的であるとする。ところでこの区別は、「もの」と「こと」との区別に対応していると言える。「がある」とは何かの「もの」があるということで、また、「である」とは「もの」に還元されない存立のありようを示す点において、「こと」と同じである。日本語に於いて「がある」を「である」よりも根底的とする分析は、「もの」と「こと」の分析における第二層のありよう、すなわち「もの」が根底的でありとするありようと連動していると言える。だがここで重要なのは、「がある」が「である」よりも根底的であるとはしていても、それは相対的な差にすぎなかったという論点である。この指摘を「もの」と「こと」に重ねる場合、どのようなことがらが示されるか。すでにあげた「もの」─「こと」についての第一層と第二層との齟齬は、「もの」─「こと」─「もの」という重層としてまとめられ、そこで「もの」と「こと」との深度の関係が確定できないという事態を生む。だが、それらが単に相対的な差異にすぎず、「こと」と「もの」のどちらにおいても真の「根底」が示されない場合、「こと」と「もの」とは、さらには「もの」─「こと」─「もの」という連環は、深度の差異であることをやめ、その垂直的な連環をいわば水平的にして、一気に表面に浮上し、あらわになる。そこで根底なるものは示されないのか。そこでポイントとなるのが「もの」性の恢復にあった。「人格の共同態」から見れば、人格と人類性とは、互いに相手の否定の上に初めて規定される。すなわち「人格の共同態」から、「もの」性=人格を否定した時に、はじめて「こと」性=人類性は現われる。逆にまた、「人格の共同態」から「こと」性=人類性を否定すれば、「もの」性=人格が現われる。「人格と人類性」で相互転換と呼んだことがらも、おそらく同じである。人格と人類性とは、ここに相手の否定性においてそのものが規定され、さらにまた、そのものを自己否定することで相手に戻るという、否定性によって媒介される相互転換の関係を持つ。この関係にあることにおいて初めて、「空」という問題性がせりあがるのだ。こうして規定される根底としての「空」は、人格と人類性との観念のどちらにも属さないことになる。なぜならそれは人格と人類性とを否定的に相互転換させるものだからだ。和辻は人類性を「空」として示そうとするが、「空」は人類性にとどまってはいず、人類性と人格の中間に、あるいはその根底に剥がれ落ちてしまう。「空」が根底へと剥がれ落ちることにおいて、人格と人類性との二極構造は三極構造へと転化する。人格の考察において、「こと」=「かたち」の一極的なものから、「もの」性の恢復において二極構造に転化し、さらにそこから「空」が想定され根底へと剥がれ落ちることで三極構造へと転化する。

和辻哲郎が確立した倫理学の特徴とは、個人として人を見るのではなく、すでに社会性を含み共同体性を担っている存在として人を見るというところにあった。この社会性や共同体性のことを、間柄、世の中、世間などと日本語によって示し、さらに人がそもそもこうした間柄に埋め込まれている存在であることを、人間という日本語で示そうとしたということも、すでによく知られている。人間という言葉が、個人としての意味とともに全体の意味をも持っているように、個が同時に全体でもあり、全体が同時に個でもあるというありようこそが人間存在であると和辻は主張する。この和辻倫理学と呼ばれる独特の倫理学の構造の素体は、昭和5年には確立していたと考えられている。そうなると、これまで我々が考察した論考との兼ね合いが見えない。このような間柄構造とこれまで見てきた人格構造との兼ね合いについて、結論から言えば、両者は重ね合わされ、すり合わされていく。和辻倫理学は、単に間柄構造があらわれたことにより誕生するのではなく、後発の間柄構造が、先発の人格構造とすり合わされ、接ぎ木されるときに初めて誕生する。この摺合せのありようを見ていく。

和辻の個と全体についての考察、すなわち社会についての考察が、マルクスからの影響によって引き起こされたことはよく知られている。「人間」「間柄」の考えは、このマルクスへの言及において浮上する。それは昭和6年の「倫理学」にまとめられた。和辻は、マルクスが自然と人間、人間と動物とを明確に区別したことに最大の重要性を見る。人間と自然が区別されるのはどこにおいてか。自然は認識的に把捉されるが、人間は実践的・現実的に把捉される。人間を実践的・現実的側面から解釈することこそがマルクスの意図であった。マルクスにとって人間の実践的・現実的側面とは生活資料を生産することにあった。生産とは、それをする人間が、他の人間との関係の中にあることを前提とする。つまり、生活資料を生産する人間とは、あらかじめすでに社会的存在であることを意味していると和辻は解釈する。このように、マルクスが人間の特徴を他との「交通」において見出し、現実的な状況から考察を始めていることを重視する。こうした、すでに人間が「交通」において、つまり、「関係」においてある点を強調して、和辻は「関係」を「間柄」と訳すのである。とはいえ、和辻はマルクスを全面的に肯定したものではなかった。和辻によれば、マルクスがMaterialと呼ぶ具体的な社会存在、人間存在においては、経済問題と倫理問題との両面がある。マルクスはその片面の経済問題しか取り扱っていないにもかかわらず、経済分析のあとで倫理判断をあわせて行っており、それが混乱を生じさせ、またマルクスの欠陥もそこにあるとする。つまり、マルクスが社会生活の歴史的実践的性格を強調しながらも、その研究から意志や当為を閉め出そうとしたことが、マルクスの閑却した重大な問題であると指摘する。マルクスが存在について鋭く考察しながらも、当為を問題にしなかったそのことがマルクスの欠陥なのである。こうしたマルクスの欠陥として示されたありよう、すなわち「存在」と「当為」の両方が分析されるべきであるということこそが、前述した人格構造と間柄構造とのすり合わせに繋がってゆく。和辻は、『人間の学としての倫理学』において、「存在」の問題とは、客体的な存在がいかに成立し来るかの問題であるという。これはハイデッガーの影響を受けた「人格と人類性」を引き継ぐものと言える。このように「存在」のほうこうにおいては、人格構造からの分析が引き継がれる。一方、「当為」の問題とは、当為の意識がいかにして成立するかの問題であり、それは人間存在の構造がいかに自覚せられるかをたどることによって答えられるという。人間存在の構造とは、間柄構造そのものである。つまり、「当為」の方向においては、間柄構造の分析がなされなければならないと和辻は考える。このようにして間柄構造は人格構造の分析に近づき、すり合わされていく。

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