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2011年8月25日 (木)

三品和弘「どうする?日本企業」(4)

第3章 本当に品質ですか? ピアノが奏でた狂想曲

メイド・イン・ジャパンと言えば、高品質の代名詞となっている。これは海外の人々が自発的に言い出したことだ。慥かに、日本には高品質を生み出す素地がある。モノ造りの工程を原材料まで遡ると、気の遠くなるほど長く、何万人とも言える人間の手が関わっている。そこでのたった一つの取るに足らないミスが命取りとなりかねない。こういう条件下で品質を守るには、組織の底上げが欠かせない。こういうところは日本の組織は強みを発揮する。

しかし、この章ではあえて日本人の品質信仰に異議を唱える。その理由を著者は三つあげる。

第一の理由は、信仰の起源に疑問がある点だ。以前のメイド・イン・ジャパンのイメージは「安かろう、悪かろう」だった。それが、1980年の日米半導体セミナーの席上でHP社の重役が日本製DRAMの品質の高さを表明した。これを契機に世界での評価は一変した。ここで、日本は舞い上がってしまったと著者はいう。

第二の理由は、品質信仰の根拠が揺らいでいるからだ。韓国製品や中国製品もアメリカでは日本製品と比べて遜色ないという評価がされるようになってきている。もはや、メイド・イン・ジャパンが高品質を占有する時代は終わったと言える。しかし、日本=モノ造り大国論が国内で独り歩きしている。

そして第三の理由は、品質信仰の弊害が目に付くからだ。品質と一口に言っても、意味内容は様々で、日本が得意とする品質もあれば、苦手とする品質もある。それなのにメイド・イン・ジャパンがすべて高品質と思い込んでしまうと、日本の駄目な点が見えなくなってしまい、現状の閉塞状況を打破することなど望めない。

ここで、ケースとしてピアノの量産により世界市場を席巻したヤマハが、その後自滅していった事例を取り扱っています。具体的なケースで興味深く、とても参考になる分析を行っていますが、興味のある方は、実際に本書を手に取ることを、お勧めします。

ヤマハが欧米で脅威と受け止められたのは、従来の100倍の規模でピアノの大量生産に乗り出したことだ。いわば、それまで「工芸品」であったピアノが「工業品」になってしまうことを意味した。工芸品と工業品の対比は、今では品質の多義性として理解されている。つまり、品質には一つの絶対的な定義があるわけではなく、いくつもの側面があるということだ。中でも「工芸品」の品質概念はパフォーマンス・クオリティと名付けられ製品が顧客の期待を上回る程度、これに対して「工業品」の品質概念は今フォーマンス・クオリティと名付けられ製品が顧客の期待を裏切らないていどと解釈された。お宇部か感じた脅威の核心はこの先にある。パフォーマンス・クオリティは、顧客に見える素材や仕上げが醸し出すものなので、これを上げるには原価を積み増す必要がある。それに対してコンフォーマンス・クオリティは、製造工程からバラつきを徹底的に排除することによって上がる。従って、品質が上がるほど、材料や作業の無駄が減り、原価が下がることになる。品質が上がると原価が下がるということは激しいインパクトをビジネスの世界に齎した。そして、ヤマハの優位はコンフォーマンス・クオリティにあった。

しかし、中国製のピアノがヤマハを真似るように、しかも低価格で世界市場に輸出攻勢をかけてきた。これに対して、ヤマハはピアノの生産を海外にシフトさせると同時に国内拠点は高付加価値化を図った。その核となることが期待されたのが、グランドピアノだった。それまで、ヤマハが得意としてきたアップライトピアノは、ピアノを習う子供のいる家庭が主戦場で、安価で場所を取らないことが訴求点となり、品質に関してはコンフォーマンス・クオリティが求められる。これに対してグランドピアノは、一定の腕前に達した音楽大学生や演奏家が顧客となるため、品質に関しては、あくまでもパフォーマンス・クオリティの勝負になる。それゆえ、ヤマハにとっては異次元の挑戦とも言えた。しかし、音楽学校というボリュームゾーンは押さえることができたが、トップクラスの演奏家の支持を集めるまでには至っていない。

著者は、ヤマハの製品には落ち度はないという。しかし、ピアノというものの特性を考えると、一般的に工業製品の耐用年数は、例えば、自動車で10年前後だが、ピアノはうまく維持すれば100年経っても潰れず、親子の代を超えて引き渡すべき宝物といえる。とすれば、たかだか10年しん付き合わない自動車と、一生付き合うピアノでは、顧客の求める価値が違ってくるのは当然だ。さらに、ピアノは限られた人のための奢侈品である。そこで求められるのはパフォーマンス・クオリティ以外の何物でもない。弾くという行為に対して、いかにピアノが応答するか、その一点に尽きる。つまり、ピアノという代物は、ピアノを愛する人々が、ピアノを愛する人々のために造る楽器で、そういう世界に原価やら効率やら経営の言語を持ち込むべきではないのかもしれない。韓国勢や中国勢の急伸は、少なくともピアノにおいてコンフォーマンス・クオリティが強靭な参入障壁にはならないことを示唆している。ヤマハは、欧米勢と同じようにパフォーマンス・クオリティを追求したピアノも造っているが、その手のピアノしか造らない欧米勢と比較されてしまうと、その志に疑念の目が向けられるのは致し方ないところだ。

当のヤマハは、いま中国に建設したピアノ工場に集中投資をかけている。日本の高度成長期と同じ大市場が出現しつつある中国を見逃す手はないということだろう。しかし、いつも据え膳をぱくつくだけでは、経営に戦略性など生まれるはずもない。この大市場が一過性の市場であることを弁えないと、日本で味わった苦難を繰り返すのが関の山だ。コンフォーマンス・クオリティを訴求すれば中国に勝てるという決めつけにも危うさが潜んでいる。新たに豊かになった国には旺盛な内需があり、その内需が大量生産を支え、大量生産がコンフォーマンス・クオリティを鍛えるという図式がある。その点を踏まえると、中国から次のヤマハが出てきても不思議はない。

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