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2011年8月18日 (木)

宮川敬之「和辻哲郎─人格から間柄へ」(3)

Ⅱ.表現としての人格

前章でも取り上げた和辻の「偶像再興」には阿部次郎、阿部がその著書を翻訳したリップスの影響を受けている。それは人格主義といえる。ここで阿部の言う人格とは。精神、統一的自我、個体、叡知的性格によって特徴づけられるもので、個人的な内面性に関するものであった。だから人格主義とは、外在的な物質を追求することを抑制し、この内部的な人格の成長と発展こそを至上の価値とする立場であるとされている。和辻は、これを享けつつ、阿部のような社会改良の方向には向かわず、芸術、とくに文芸における表現の問題に向かった。「偶像再興」の和辻にとって、人格的生命とは文芸によって表現される内容、すなわち表現される「もの」なのであった。こうした人格が。前章でいう内生と同じものであめことは分かるだろう。

しかし、和辻のこの人格観は、後年、例えば昭和10年の「面とペルソナ」においては変容している。そこては、まず、顔が人の存在にとっていかに中心的地位を持つかを語り、顔は人の存在にとって核心的な意義を持つもの、単なる肉体の一部ではなく、肉体全部を従える主体的なるものの座をなすこと、それを抽象したものこそが「面」である。事実、「人格」の原語であるラテン語ペルソナとはもともと劇に用いられる仮面のことだった。仮面の意であるペルソナが、劇中の役割、劇中の人物を示す意味へと転じ、さらに日常における我・汝・彼という役割、社会における地位・身分・資格などの役割の意に転じて、最終的に行為の主体・権利の主体としての人格の意味に帰着したのだ、解説する。要するに和辻はペルソナという言葉によって、顔と人格とを、顔と仮面とを結びつけ、それらの関連のありようを問題にする。そのなかで、能面を例にして次のように述べる。面をつけた役者が手足の動作によって何事かを表現すれば、そこに表現せられたことはすでに面の表情となっている。ここでは、仮面をつけた役者自身の動きや内面性等が抑圧されている。役者の肢体による表現は、役者の内面、あるいは内生を表現せず、面がそれを被って動く役者の肢体や動作を己の内部に吸収してしまい、面の表情となるという。和辻が重要視するのは、この、動きにおいて役者の肢体の表現を吸収してしまう力である。この力こそが、仮面の意味を人格の意味に転換させた急所だったからである。坂部恵によれば、仮面としてのペルソナは、主語的同一性ではなく、関係の束や柄の束を示す。和辻の人格観は「偶像再興」時には主語的同一性ときわめて親和的な、個人的な内面性としての人格であったが、「面とペルソナ」時には、関係の束としての人格へと反転し、変容してしまったのである。ここで重要なことは、この変容が表現に関連していたということである。「偶像崇拝」時の人格が表現の問題に強く関わるものであったと同様に、「面とペルソナ」においても人格は表現の問題にかかわっている。表現される「もの」と表現される「こと」との区別でいえば、「偶像再興」時の人格とは、文芸によって描かれるべき内容の本体、すなわち表現される「もの」であり、一方「面とペルソナ」時の人格は表現される「こと」の集積である。つまり、人格についての考えもまた、表現される「もの」から表現される「こと」へと変容し、「もの」と「こと」とが引きはがされていると言える。

このような、「もの」と「こと」との引きはがしは本質的に、ことばの問題であり、表現の問題である。そうであれば、「もの」と「こと」との引きはがしということを、最も重要で、かつまた普遍的な問題にさせるのは、何かのテクストの解釈という場面においてである。「もの」と「こと」との引きはがしということがらが、和辻においては人格論の変容においても見られるが、例えば、その過程は大正10年から12年にかけての2つのテクスト読解のやりようの比較において見ることができる。2つのテクストとは、『福音書』と『正法眼蔵』であった。これらはイエス及び道元の人格にそれぞれ着目し、それを取り出し叙述するということを目的とする。だが、その取り出しようが異なっていた。

和辻によれば、『福音書』にはイエスの人格がその奥に君臨している。ここで和辻が求めようとしているのは、福音書に描かれたイエスではなくて、その奥底の福音書を描かせたイエス、信仰を引き起こした人イエスであるとして、その弁別には精密的な解釈学的操作を必要とするとして、解釈学的方法による詳細なテクスト解釈を試みる。これに対して『正法眼蔵』の場合には、道元の人格は既に著作の表現そのものに露わになっているというので、『福音書』の場合のような慎重さは必要ないとしている。この両者の違いは、ひとつにはテキスト自体の性質の違いに起因する。すなわち、『福音書』はイエスの弟子たちが綴ったイエスの言行録であるのに対して、『正法眼蔵』は道元自身が書き、語ったテクストである点だ。しかし、それだけではない。和辻は原始キリスト教は、ユダヤ教から出た特殊なものではなくして、ギリシャ風の享楽的な頽廃的文化に反撥するもとして現われて来たことを強調する。これは明らかに不自然であり、そこには予め目されている前提があった。それは、ギリシャ神像と古仏像の様式の差異の意識だったと著者は指摘する。『福音書』の叙述がどれほど荒唐無稽であろうとも、イエスの人格と乖離せずに結合していると主張されるのは、ギリシャ的なるものにおいては、表現される「もの」と表現される「こと」が分離せず結合しているという様式の意識が前提されているから。ギリシャ神像の様式は「人間を神の姿に高める」とまとめられているか、この意識こそが、原始キリスト教の中枢を人間イエスから神イエスへの高まりと捉えてゆく視点の裏付けとなるものであったとも言える。重要なのは、この論考においては、人格は『福音書』の内奥にあり、あるいは神イエスへの変容をもたらした核とされていることだ。ここで人格は、個人的な内面性、表現される「もの」としてしかない。これは、「面とペルソナ」に見た2つの人格観の前者と親和性を持っていることは明らかだ。

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