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2011年8月22日 (月)

宮川敬之「和辻哲郎─人格から間柄へ」(7)

こうした「行」と、「行」から始まる縁起系列が無根拠であることを意味する「無明」の規定によって、縁起説は整えられ、課されたいくつかの問題に答えたと和辻は見る。さらにまた、そもそも縁起説が五蘊説にかわって担ったのは、第一に超越我が持つ統一の作用の肩代わりをするということと、第二に苦からの解脱が計れるのかを提示することであった。第一の課題に対しては「行」によってそれに答えた。第二の課題には、「行」が無根拠であることが「無明」として捉えられ、「無明がある」と認識することが即ち「無明」滅を導き、苦からの解脱が計れるものであるとした

原始仏教研究において「行」を統一の根底として見出したことで、それまでの個人的な内面性としての人格概念が完全に払拭される。原始仏教の「行」の統一が、人格を踏み越える概念であると論じた。人格が作用の存在統一としての個体であるとすると、「行」による統一はそれを踏み越える。なぜなら「行」は個々の個体とそれとしてあらしめる法であっても、それ自身個体ではないからである。つまり、「行」は、統一そのものなのであり、統一された「もの」を含む概念ではない。その意味において「行」は個体性すなわち「もの」性を必ず伴う人格とは区別されなければならない。旧来の人格観はここに廃棄され、新たな人格観、「こと」の統一としての「行」という人格観へ取って代わる。

和辻哲郎は、原始仏教における五蘊説は、仏教の目標である苦からの解脱という課題には答えておらず、その課題を担うのは縁起説であった。その縁起説は認識論であると同時に実践論でもあると和辻は考えた。しかし、実践論として仏教の中心にあるのは八聖道である。八聖道とは、仏教徒、修行者における生活の目標、それによって解脱の実践へと導かれる八つの方法のことである。「正しく見る(生見)」「正しく思う(正思)」「正しく語る(正語)」「正しく行為する(正業)」「正しく生活する(正命)」「正しく精進する(正精進)」「正しく念じる(正念)」「正しく瞑想する(正定)」という八つの方法は、通常は僧侶の修行生活の目標とされる。しかし、和辻は一般に向けられた人間の道であり、現実実現の道である説いた。そして、八聖道の冒頭に「正見」があることを極めて重視する。正見は真実の認識の意味に解され、それは「無明」の滅とも言い換えられる。真実の認識は正見によって引き起こされる別のものではなく、正見そのものである。八聖道は正見すなわち真実の認識が、それ自身を現し、それ自身になるということにほかならないとされる。さらに次のように言う。八聖道は、正見の実現としての正見自身の運動とされる。和辻は、八聖道を正見にすべて包含してしまうのである。正見は、自らを方法として自らを実現するのであり、それこそが「滅の道」である。和辻は実践論としての八聖道を、正しい認識のありよう、特に見ることに集約させる。しかし、通常では認識と実践は別のものだ。もし、認識することが実践することであるとするならば、それはある一つの領域においてでしかありえない。すなわち「見ること」自体が自己展開していく領域、認識するという実践以外に実践がないありようにおいてである。言い換えれば認識と実践との自由な変換は、鑑賞・解釈が自己目的化し自閉した利用域においてだけ通用するということだ。これい、今まで見てきた縁起説でもそうだが「統一」というありようの強調であった。和辻にとって「統一」とは、「もの」と「こと」とを引きはがして、「こと」が認識=実践する自己目的的領域を自閉させるという事柄としてあった。「統一」は、認識=実践の領域の自閉化の要石としてある。こうして「もの」と「こと」の引きはがしということがらは、歴史的考察のさなかで論理的な極点を迎えることになった。この極点は三つのポイントを備えている。まず、一つ目は、「もの」と引きはがされた「こと」が、それでも付着させている「もの」性をさらに排除された結果、「こと」の「こと」性ともいうべき純粋な「こと」を志向したという点である。縁起説における「行」の解釈がその例である。また二つ目は、その純粋な「こと」が再び「もの」化しないような装置として、「こと」の無根拠性をあらわす記号のような概念が考えられたという点である。縁起説における「無明」の解釈がその例である。さらに三つ目は、こうした「こと」が自己目的化し自閉するための要石に様な概念が考えられた点である。縁起説における無明─行の組み合わせがそれである。

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