三品和弘「どうする?日本企業」(3)
第2章 本当にイノベーションですか? 日本が歩んだ衰退の道
日本には、イノベーション信仰が深く根を下ろしている。技術力でイノベーションさえ成し遂げれば、利益は後からついてくる。逆に、イノベーションで後れを取ると、とも足も出ない。しかし、海外に目を向けると、どうやらそうではないことに気づかされる。日本企業の収益力は、技術志向を謳わない海外企業に比べると比較にならないほど低く、イノベーションの後に利益がついてきている気配がない。そこを直視すると、日本企業が重視する技術イノベーションの普遍的効力については、疑義を挟まざるを得ない。
日本の戦後企業史を語る道具として、戦略が働きかけるべき対象の重層構造を描いてみると、下(土台)から立地、構え、製品、オペレーションと重なる逆ピラミッドの重層図が描ける。日々のオペレーションや、個々の製品は、働きかけて変えることも難しくない。しかし、それらが乗る土台となると話は違ってくる。誰に向かって、何を売るビジネスを営むのかという事業の「立地」や、売ると決めたものを売る相手と決めた相手にデリバリーするまでのプロセス(構え)は、思い立ったからと言って、簡単に変えられるものではない。だから、戦略性が高いといえる。また、下に向かって細くなる逆ピラミッドの重層図としたのは、企業の本質的な不安定さを示すためだ。資本主義が競争を通して進歩を生み出す特性を備える以上は、優れた「立地」や「構え」も陳腐化するのは時間の問題。土台が傾き始めると、どれだけ製品やオペレーションを強くしても衰退に歯止めをかけることはできない。
日本の戦後企業史には、この重層図を一斉に下から上に登り詰めるという特徴があった。それは敗戦の思わぬ効果と言える。戦時生産体制を改めて、新たな事業立地を模索し始めたのが1950年代で、多くの企業は1960年代に事業立地を変更する「転地」に成功している。そして、1970年代に構えの構築が一段落すると、それ以降は経営戦略の焦点が上半分の製品やオペレーションに移動していった。日本企業が横並びと言われるのには、このような同期性によるところが大きい。競争の焦点は絶えず同期していたからだ。しかし、日本の企業と同期していない海外の企業は、平気で異次元の競争を仕掛けてくる。そのため、製品次元やオペーレーション次元の競争にどっぷり浸かっていた日本企業にとっては、グローバリゼーションが鬼門となった。いったん「立地」や「構え」を崩されてしまうと、いくらイノベーションで対抗しても、体力を消耗するだけだ。今でも、この消耗戦を、いまの日本企業が大挙して戦っている。
ここで、ケースとして腕時計の市場において画期的なクォーツ時計を開発し、一時は世界市場を席巻したセイコーが、その後自滅していった事例を取り扱っています。具体的なケースで興味深く、とても参考になる分析を行っていますが、興味のある方は、実際に本書を手に取ることを、お勧めします。
セイコーはクォーツという画期的な技術イノベーションの後も、果敢にイノベーションに挑み続け先進的な製品を生み出し続けた。これは技術者たちの並々ならぬ努力の結晶であり、そのような努力は、本来ならば事業の成功によって報われてしかるべきところ、衰退の一途を辿ってしまった。
慥かにセイコーの凋落には様々な要因が絡んでいる。円の高騰、バブルの崩壊、携帯電話の普及、中国製品の台頭、ネット販売の興隆等、これらの要因を個別に吟味していくと、どれも不可抗力に見えてくる。しかし、著者は根本的にはセイコーの戦略の誤りが主要因と結論する。
まず、セイコーは創業者の慧眼により時計専門店ルートを逸早く押さえ込み、国内で中級帯と高級帯市場の6割を占有するガリバーの地位にあった。しかし、技術進歩の大きな波に乗ることだけを考えてしまった。その結果、中級帯と高級帯の守りが疎かになり、そこを攻め込まれてしまった。剣が峰は1982年にあった。香港勢が10ドルのクォーツを引っ提げてアメリカに乗り込んできたのだ。アメリカ市場を奪われたセイコーは、ここで正面切って香港勢と戦う道を選ぶも、返り討ちにあってしまう。この結果多額の毒別損失を計上せざるを得なくなり、さらに、限られた経営資源を香港勢との戦い、つまり、普及帯に張り付いていた間、他の戦線が手薄になり、その隙に本丸の中級帯や高級帯を攻め込まれ、安住の地を失った。そして、スイスのスウィッチ・グループのブランド・ポートフォリオ戦略にしてやられてしまった。ではクォーツというイノベーションとはセイコーにとって何だったのか。
それ以前は、中・高級帯の実用時計しか存在していなかった。正確な時を知ることのできるのは高価な機械的腕時計に限られ、この時計は歩度調整やメインテナンスを必要とするもので、そのため、職人を抱える時計専門店しか販路になり得なかった。ここで、セイコーはインベーションを起こした。その第一幕は、新たな武器で主力市場の上を開拓するつもりで運上帯市場に送り込んでいった。そして、第二幕は、普及帯市場の出現をもたらした。電子部品を買って組み立てるだけというモジュール化が起こり、新規参入が相次いだ。しかも、クォーツ時計はメインテンスを要しないため、時計専門店以外の販路を拓く結果につながり、価格破壊を激化させた。その結果、中級帯の顧客が選択を与えられたことになり、普及帯に乗り換え始める。つまり、自社の中核市場が崩れ始めてしまったわけだ。そして、第三幕として、実用時計市場の消失が起こってしまう。過剰供給が腕時計を無用の長物としてしまった。携帯電話をはじめとして至る所に時計が組み込まれて、これらすべてがクォーツ時計なのだ。これだけ普及していれば、もはや腕時計をしていなくても、時を知るうえで困るということはない。皮肉にも。クォーツ時計は実用時計の頂点を極めることで、実用時計に幕を引く結果を招いたのだ。
こうしてみるとクォーツというイノベーションがセイコーの首を絞めたことは明らかだ。この章で「本当にイノベーションですか?」と問いかけたのは、このことだ。
ではセイコーは、どうすればよかったのか。考えられるのは「転地」だ。時を知るのに困らないとなると、腕時計の副次的な性格が純化され、旧来の事業立地から派生する形で新たな事業立地が生まれている。そこでは可処分所得の高い人を相手にしてファッション・ステートメントや、時を刻むコンパニオンを売るというビジネスが成立した。スウィッチ・グループはこの事業立地を自ら産み育てることで、その盟主に収まる道を歩んだ。これに対し、セイコーは旧来の事業立地の防衛に明け暮れて、主役の座から降りる道を突き進んだ。
ここで、仮にセイコーがスウィッチ・グループの果たした事業立地創造の役割を自らに課したとしたら、と考えてみると、著者は難しかったと分析する。セイコーには、新しい事業立地に流用できる事業の構えがなかった。創業時の構えを長らく放置して、アップデートを怠ってきたツケと呼ぶべき性質の問題である。つまりは、メンテを怠り傾きかけた土台の上に、それには不釣り合いな製品を載せようとして、実らない努力を重ねてきたことになる。
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