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2011年8月25日 (木)

宮川敬之「和辻哲郎─人格から間柄へ」(10)

重要なのは、こうして再生された主体について、その根底をカントの属する思想潮流には存しない、一切の現実性の主体的な根源としての「空」のごときものと言った点である。この「空」とは何か。「仏教哲学における「法」の概念と空の弁証法」において、和辻は「かた」としの「法」という考えをふたたび点検し、それを「空」の考察とつなげた。通常の法の解釈は、法を「もの」とする素朴実在論的な考え方と真実在的超越者とする見方が考えられるが、和辻は双方とも批判する。そうではなく、原始仏教の哲学においてすでに現われている「かた」としの法の概念、つまり、法=「かた」という解釈を前提にしてその根底ないし全体を想定する否定の動きを見出す。この否定の動きこそが「空」の働きに連結する。ここで注目すべきなのは無明の意味づけである。『原始仏教の実践哲学』において、無明は「行」が底抜けし、無根拠であるそのことを示しているにすぎなかった。しかしここでは「行」が担っていた統一原理の働きを備えた事柄となり、さらに運動性、作用性もそなえた結果、否定による統一根拠、否定の運動そのものにされている。こうして変化した無明の考えが「空」において生かされていると和辻は言う。そうであれば「空」し統一原理であり、否定の運動のことだ。否定の運動として差別の世界と無差別の世界を統一する根拠としての「空」。和辻の考えていた「空」とはこうした働きを持つものであり、それを「空」の弁証法と呼んだ。ここでの差別とは順観のことであり、無差別が逆観のことである。つまり、差別と無差別の統一とは、簡単に言えば認識と実践とを統一するということに他ならない。ここで「人格と人類性」におれる主体の根底に、これらの考えを代入すると、主体の根底には、否定運動によって認識と実践とを統一するような弁証法的活動があり、それが一切の現実性の主体的根源であるということである。これは、人格において単に抽象的な「こと」=「かた」ではなく、そこに具体的実際的な「もの」性が恢復されたことがらでなければならない。さらに「もの」とは、それを使用し、使用している自らを認識するという「かかわり」において見出されるものであって、それは自らが「外ら出ること」でもあった。つまり、「主体の根底」とは、否定運動という弁証法によって認識と実践とを統一するが、それは具体的には、そうした弁証法によって自らが「外に出ること」そのものであるところの、「もの」性との「かかわり」を支える「根底」だということだ。「人格と人類性」において、大部分が人格と人格性人類性、言い換えれば「もの」と「こと」という二極構造に止まっていたはずのものが、最終の部分において突然「主体の根底」として「空」という考えが出され、その結果この二極構造が揺れ始めたのだ。

和辻は以前「沙門道元」において、人格は、表現や真理を主格的・内面的にコントロールする「もの」ではなく、表現や真理に呑み込まれ、そのさなかにある表面的な「こと」として提出された。これを承けて『原始仏教の実践哲学』においては、主格の抜き取りをされた人格、すなわち無我論の考察として原始仏教を考察することで、「もの」性を剥ぎとられた「こと」=「かた」である「法」が見出された。主格が抜き出された人格が、それでも人格として成立する核心とは統一の作用であるが、この統一の究極根拠は、「行」によって見出される。この時点で和辻の表現─人格についての考えは、「こと」の「こと」性としての「行」、しわば「こと」の一極的なものでしかなかった。だが、ハイデッガーの考えは、こうした一極的な人格観に変容をもたらすことになった。ハイデッガーから受けた影響とは、端的に、「もの」の重要性の指摘である。ハイデッガーの道具についての分析、つまり「もの」への分析の仕方は、和辻に「もの」の延長としての風土性という問題に気付かせ、その影響によって人格観においては、「もの」性が恢復され。「こと」と「もの」との二極構造が作られることになった。

「日本語に於ける存在の理解」において、「もの」と「こと」の二極構造化と、さらにそこからの三極化の先触れが見られる。和辻が論じようとするのは、存在の仕方を日本語で問う「あるということはどういうことであるか」という問いそのものの語法的分析であったが、それは四つに分かれていた。第一に「もの」と「こと」との差異について、第二に「いうこと」と「すること」との差異について、第三に「いうこと」は誰が言うのか、第四に「ある」とは何かという問いである。ここでは第一と第四を中心に見ていく。和辻は「こと」の意義を三つの方向に分類する。第一に「動くこと」のように動詞と結合して動作を示したり、「静かにすること」と結合して状態を表す方面。第二に「変わったことが起こった」のように出来事を表す方面。第三に「あることを言う」のように「言われかんがえること」を表す方面である。これらの方面に共通する「こと」と「もの」との差異について、和辻はくべつそのものを二層に分ける。第一層は、物理的・心理的・歴史的・社会的な「もの」、すなわち対象としての「もの」と、それを「もの」としてあらしめる基礎としての「こと」の区別である。和辻は「こと」が「もの」よりもアプリオリであるとした。だが、第二層においては、このありようは逆転する。「こと」はそれ自体としてあるものではなく、「もの」へのかかわりを根本に存する「ことの了解」においてのみ我々に与えられるのであり、人という「もの」のあり方においてのみ現われるとされる。つまり、「こと」はそのさらなる根底として「もの」に基礎づけられるというのである。この第一層と第二層を結合させて、「もの」─「こと」─「もの」という関連図式を示す。しかし、ここで「こと」とその根底たる「もの」という図式を示す第一層と、「こと」とその根底たる「もの」の図式を示す第二層の間で反転があり、齟齬がある。この解消については、「ある」という言葉の分析によってなされる。

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