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2011年8月27日 (土)

宮川敬之「和辻哲郎─人格から間柄へ」(12)

和辻は「倫理学」において人格構造と間柄構造すりあわせを試みる。まず、人間の学とは「人間とは何であるか」を問うことと定義する。だがこの問いは、なにかの「もの」を問うこととは全く異なるという。なぜなら問う対象が人間であるからである。「もの」を問うとは、通常は客観に対しての認識である。だが、人間とは認識の主観でもあるわけだから、客観の認識において見るだけでは、真に人間を扱っているとはいえない。主観体客観という認識のありようを、主観体主観のありようへと変容させなければ人間を扱うことにならない。ここでは、「もの」と「こと」の区分に「人格と人類性」における人格と人類性の区分が乗りかかり行論の前提となっている。「こと」=人類性=超越論的人格性によって、「もの」=人格=純粋心理学的人格性を認識し取り扱うという通常の認識の図式を変容させなければならない。人間を問うということにおいて求められるのは、「もの」と「こと」という図式を基礎にして、そこにおける「もの」の位置に「こと」を代入することであったといえる。だが、「もの」と「こと」という図式において変容されるのは「もの」だけではない。人間を問うこととは、それを問う「こと」自体、「こと」=超越論的人格性自体の変容をもたらすという。和辻は「こと」=超越論的人格性が認識するということがら根底を、志向性に見る。「もの」は単に客観的にあるのではなくて、それに向けて「こと」=超越論的人格性が志向的に見るという事柄の内に、すなわち志向性のうちにはじめてありうる。重要なのは、「もの」を見るのではなく人間を見ようとする場合には、この志向性が変容されなくてはならない、ということである。「もの」を見る時には、見ることはその「もの」からは見られない。だが、人を見るときには、見ることがその人から見られる。志向性が一方向的であるのに対して、人を見る場合にはすでに相互方向的である。このように和辻は、志向性を間柄構造へとすり合わせる。だがこれだけでは、間柄構造とはならない。なぜなら間柄においては見るということがらのうちの様々な見方が問題となるからである。志向性の変容は、志向性を相互的に考えるのではなく、むしろ何かを認識するというその単一性肢体の中身を膨らまし、本来的に相互的であるような見方を想定することでなければならない。ここで主張される志向性の変容とは、認識する「こと」の、つまり「こと」=超越論的人格性自体の、単純に言えば我の変容がなされるべきだということである。

和辻はデカルト以降の自我の考えを批判し、「間柄」によって哲学・思想の組み換えを試みるのである。だがこの対立は後で整備されたものであることは注意すべきだろう。もともと間柄が構造化できたのは、人格構造、すなわち孤立的主観の考えによる「もの」と「こと」との考えから、その要素を入れ替えることによっていた。このすり合わせ、構造化のあとで「倫理学」がいう「間柄」による自我の批判がありえたのである。こうした人格構造から間柄構造へのすり合わせの過程には、たしかに自我を超越論的に見る批評性があり得ている。

しかし、このすり合せ自体に問題がある。それは、人間を問うことが一種の自己言及的な図式として示されている点である。人間を問うことは問う者と問われる者とを同一の者とするという前提のことがらであり、その意味で自己言及的な問であった。この同一性は「間柄」によって、すなわち問う者も問われる者もすでに全体性に浸潤された個であるということによって担保されている。問いたいのは、この自己言及性とは、「もの」と「こと」においてどのようなことがらとなったかということである。和辻は以前「日本語と哲学の問題」において日本語に於いては「もの(物)」─「こと」─「もの(者)」という関連が構造化していると分析していた。そして「倫理学」において人間を問うこととして行った自己言及的なすり合わせとは、この「もの(物)」を完全に「もの(者)」へと入れ替える作業だった。この入れ替えによって得られるのは、「もの(者)」─「こと」─「もの(者)」という図式であり、主観体主観が関係し合う構造はここに盛り込まれる。だが、そうなければ問題となるのは、主観対主観が関係し合う中心が「もの(者)」と「もの(者)」に挟まれている「こと」へと収斂してしまうということだ。つまり、人間を問うことは主観体主観のあいだの「こと」をどのように把捉するかという問いへと収斂していくのだ。ここで「こと」に託されているのは三つの側面であった。すなわち、第一にふるまいや態度、第二にあらわにすること、第三に「言」として自己了解性を示すことである。これらの「こと」の側面は、解釈学の体験─表現─理解のトリオと対応している。間柄構造が持つ自己言及性が徹底されると、これらのトリオは圧縮される。つまり、自らが自らを問うことは、ふるまいや態度も、あらわにすることも、「言」として自己了解を示すことも、すべて自らの範疇となり、圧縮され、自律してしまうということだ。だがこれは明らかに自らのうちへの自閉である。自己言及性による圧縮は、体験─表現─理解のトリオから他への契機を振り落してしまい、それを完全なモノローグしてしまう。そもそも体験─表現─理解は、それがわたしではない誰かの体験・表現・理解であることによって、さらには、同じわたしですらまるで別人であるかのような体験・表現・理解をすることによって初めて、差異を生み出しつつそれを吸収しさらに別様の差異へと変容して、トリオそのものが無限に力動し拡大していくということがあり得た。しかし、和辻にはこの点が欠落していた。この欠落は、体験─表現─理解の循環を自己言及的に圧縮したその当然の帰結であったといえる。

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