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2011年8月27日 (土)

三品和弘「どうする?日本企業」(6)

第5章 本当に新興国ですか? 日本が教えた開国攘夷策

主力事業を海外に転回する国際化は経営戦略の有力な選択肢と言える。その動機の部分で「国内は成長余力がない、ゆえに新興国に打って出る」というのは、理に適っているように見えるが、実は日本企業の自己都合に過ぎない。侵攻される側の視点が入っていない。そこで、これを新興国の側から眺めることを著者は試みる。そのため、現在の中国やインドを新興国と見る代わりに、戦後の日本を新興国として捉え直してみる思考実験を試みる。

結論から言えば、当時の日本は外国企業に門戸を開く一方で、あの手この手を繰り出して自国企業の防衛に努め、望外の成功を収めた。当時、日本に来て期待通りの成果をあげた外国企業は数えるほどもない。自らが新興国であったときは外国企業の侵攻を見事に阻止して自国企業を守り抜いた国が、次は外国に侵攻して成長を続けようという虫のいい目論見を新興国が果たして許してくれるのだろうか。

敗戦後の日本で、政府は参議用の再建を最優先課題に掲げた。しかし、アメリカから見ればその惨状は日本が自ら招いたもので、侵略されたアジア諸国は被害者といえた。だから、当時のアメリカには、日本が侵略したアジアの国々より豊かになることは絶対に許されないことであった。しかし、アメリカの姿勢はソ連との冷戦を機に転換した。日本政府は、この間隙をついて1949年外国為替及び外国貿易管理法を成立させ、外国企業の活動を未然に封じ込めてしまった。これは、海外からの輸入、海外への送金、外国企業による土地の購入、外国企業の企業による日本企業の買収に制限をかけるという内容だった。これをアメリカが認めるはずもなく、1950年政府は外資法を急いで成立させた。ここでは外国資本の出資比率を50%以下に制限したうえで、投資を認可する条件として「日本経済の自立とその健全な発展に寄与する」「国際収支の改善に寄与する」の二点を明示している。許認可体制に移行して、活動を認める外国企業を具体的に選別できるようにして、露骨なまでの国益優先政策を進めた。1961年には外国企業が出資比率100%の子会社を日本に成立してもかまわないと、条件を緩和した。しかし、外貨準備が不足気味の現実を盾に取り、利益の海外送金を禁止していた。従って、日本で稼いだ利益は日本国内に再投資するしか道はなかった。日本の利益誘導を国際社会が容認したのは、戦後復興という大義名分があったからだ。だから1964年、日本はIMF8条国に指定された。もはや、国際的に庇護を与える特殊な国ではないということだ。日本政府は輸入を管理する手段を失い、輸入の自由化が実現した。さらにOECDに加盟すると資本の自由化を断行するに至った。これによって、日本企業は外国企業に買収される可能性と向き合うこととなった。さらに1979年外資法が廃止されて、送金と資本取引が原則自由となった。その後1997年外国企業の日本における活動は政府の管理下から外れ、この時点で名実ともに原則自由化が実現した。しかし、裏面では非関税障壁について日米で激しい攻防が続けられる。日本政府はオモテで自由化の推進を喧伝するウラ側で見えにくい手段で障壁をつくり出した。例えば重電機の分野では行政指導を活用し、製造ライセンスの供与を義務化したり、製品仕様にメートル表記を義務付けたりした。

自由化は新興国にとって諸刃の刃なのだ。競争力のない自国企業を保護して時間を稼ぐには、自由化を遅らせるに限る。しかし、自由化を進めない限り、競争力のある自己企業に海外進出のチャンスを与えることができない。だから、新興国はオモテとウラを使い分けて、少しでも有利にコトを運ぼうと画策し、そのお手本となったのが日本だった。

新興国は、本当に、当時の日本と同じような状況に置かれているのだろうか。中国はたしかに高度成長の軌道に乗ったと言えるが、深刻な失業問題を内部に抱えており、産業の育成が待ったなしである点は戦後の日本と共通する。中国が外国企業に対して門戸を開いた理由は、地方都市や内陸地帯に雇用機会を創出させたい、大学生の専門性を活かし給料の高い職を提供してほしいということではないか。この点でも戦後の日本に通じる。しかし大きな違いは交通インフラだ。日本は高度成長が始まる前に交通基盤が整備され国土が面になっていた。これに対して中国では人だけはなく物流も移動手段が限られ、大都市間が線で結ばれただけの状態にある。

著者は、中国の歩みは、日本の32年前の経験と驚くほど重なり、丁度今の中国はアメリカから執拗に人民元改革を要求され、小幅ながら元の再評価に動いたという、日本が変動相場制への移行を余儀なくされた時期に重なる。そうなると、アメリカの圧力が強まり、資金移動の自由を保証する「自由化元年」が数年後に迫っていると考えてもおかしくない。その数年先には、通貨の劇的な切り上げの可能性もあろう。しかしながら、行政当局による介入がなくなる「完全自由化元年」は、まだ20年近く先のことだろう。中国で普通に事業を展開できるようになるまで、しばらく時間がかかる。

では、日本企業が採るべき戦略は。先行者優位という戦略概念もあるが、実際には後出しジャンケンが勝つ事例も少なくない。ここで、過去に日本に進出した外国企業の例を振り返ってみる。日本は1985年の自由化までの参入阻止政策が有効に働き、この時点では日本に入ることのできた企業は数えるほどもない。ということは、これと逆の立場で今の中国を考えれば、日本では名の通った名門企業も、新興国では彗星のごとく登場する地元企業を相手に苦戦を強いられる可能性は決して小さなものではない。以前の日本は技術輸入大国だったが、後に技術を教えてくれた欧米パートナーを世界の市場から駆逐するに至っている。そう考えると、中国が世界に新幹線を輸出するときいても、驚くに値する要素はないのではないか。

しかし、このように高い参入障壁を乗り越えた外国企業も存在していた。それらは、石油、コンピュータ、化学、薬品の業種だ。これらの業種は自由化以前に日本政府が政策を実現するうえで必要不可欠な製品を提供していた企業だ。しかも、固有の資源や技術を有していたため、他社に代わりが務まる余地はないに等しい。だから、保護政策の網をかいくぐるまでもなく、歓迎されて現地に根を張ることができた。新興国で先行投資が実るとしたら、この条件に該当する企業だろう。一方、日本での自由化以降に外国企業が躍進を遂げたのは、小売、自動車、自動車部品、化粧品、食品、金属、半導体などだ。例えば、自動車については並外れた雇用吸収力があることから、日本は保護すべき国策産業として守り抜いた業種で、1980年以前はシャットアウトの状態だった。しかし、2005年の時点ではドイツ勢の躍進が目立つ。ドイツのメーカーは自由化を見届けてから自社販売網の構築に乗り出した。ここではその前に下手な投資をしなかったことが幸いした。これに対して、そこまで待てなかったアメリカ勢は、商権関係を複雑にしてしまい身動きが取れない状態に陥った。ドイツ勢は自由化の時代を迎えるまで静観した。そこまで待てば、消費者の嗜好が多様化し、国策車に満足しない人も出てくる。通貨の高騰が始まると、輸入車や輸入部品の相対価格が下がり、一気に市場が拡大する。それ以前に動いて将来の自由度を狭めるのでは、面白くない。

また、例外として、機械、電機、卸売などは、新興国で現地の企業が育ってくると、外国企業の出番がなくなるという現象が起きている。これらのビジネスに共通した特徴としては、販売力の重要性を上げることができる。顧客との技術折衝が鍵を握るため、どうしても地元に密着した国産勢が優位に立てる。そういうフィールドでは遠い将来を睨んだ投資は控えるべきだろう。実際にアジア進出を図っている日本企業の緒戦の様子は、ここでの予想とほぼ一致している。

新興国では汎用品を捨てて、特殊品(ニッチ)で勝負するに限ると著者は指摘する。アジアでは、売上1000億円、営業利益100億円辺りを目標とするのが一つの知恵だという。そこを超えて規模を拡大しようとすれば、汎用品に手を出さざるを得ず利益率が犠牲になってしまう。アジアで成功を収めている日本企業は、日本の復興期に成功を収めた欧米企業とほぼ同じ業種に集まっている。ただし、これらの企業にしても前途洋洋とは限らない。事業を継続する力はあるが、地場企業の反攻を受けると予想されるところある。

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