池田純一「ウェブ×ソーシャル×アメリカ 〈全球時代〉の構想力」(20)
しかし、アーキテクトと呼ばれる場の設定者だけがフィードバックの揺り籠から抜け出す担い手であるかというと必ずしもそうではない。クリエイターやプレイヤーのレベルでも関わる方向はある。そこでの鍵は「遊戯性」だ。遊戯性は、演劇性やゲーム性といってもいいだろう。目の前の状況を遊戯や演劇やゲームと捉えるところから、アーキテクトではなく、クリエーターやプレイヤーが、アーキテクトが用意した目的やルールから外れ、そのことによりフィードバックの揺り籠から抜け出すこともできるだろう。もう一つ興味深いのはゲームに参加している人の中で流れを制御する人が中にいてゲーム進行の軸を果たしていることだ。つまり、その人がゲームメイクをすることで個々の具体的なゲームが作られる。それがゲーム自体の変質を意図的に起こす可能性を高めるといえる。裏返すと、いま、目の前にある現実を自分自身が介入可能なゲームとして積極的に捉え直すことで、その現実が暗黙の前提としている目的やそれに合わせて用意されたルールの存在に気づくことができる。この状況は、スチュアート・ブランドが考えていた日常生活における変化の実践に近い発想だ。そして、そう考えればブランドがSpacewarに興じる初期のハッカーたちにカウンターカルチャー時代のヒッピーが帯びていた社会変革精神を見出したのも頷ける。つまり、目の前にある現場を遊戯や演技やゲームと見なすことで、現場を批判的に分析し解釈し改善する可能性を生み出すことでもある。文学的に言えば、批判的なパロディを生み出すことであり、異なる解釈を示唆するような批評行為をおこなうことであり、それらをあわせもつメタフィクションを生み出すことである。遊戯やゲームは現実と虚構の間=境界に立つための方法論として位置付けることが出来る。しかも、ウェブ時代では多くの場合、ソフトウェアを書き換えるところから変化を始めることができる。マン・マシン系が実現し、それらをクレアトゥーラとみなせる近未来では、ソフトウェアによって制御される物理的実体を内蔵した機械群も随時変更可能となる。
ソフトウェアやアルゴリズムの具体的な現われとしてゲームは、先行するメディアを参照しながら、登場時の可能性を取捨選択することにより、一定の商品として様式化してきた。だから出来上がったゲームのイメージだけに囚われると、そのもつポテンシャルが矮小化されてしまう。そのように捉えてしまうとゲーム内ジャンルの反復にとどまり、鏡像の中に閉じ込まれてしまう。それを避けるためにゲームではなく、もう少し広がりのある遊戯という言葉で、ソフトウェアを体現したものとしての可能性に注目するためだ。実際にゲームチェンジするためには、現実の重さ、自由度の重さを理解することも必要だ。そのときに有効な見方が可塑的という言葉だ。可塑的という特徴は例えば年度の造形過程に見られるように、変形に当たって全く自由というわけではないが、同時に全く不自由というわけでもない。要は、その自由と不自由の間にある制約条件をいかに活用するかで造形者の創造力が試されるひとになる。既存のスタイルは確かに一つの制約になる。それはユーザーが慣れ親しんだデザインでうり、そのため愛着もあれば、使い方として慣れてしまったところもあるからだ。しかし、新たな改変を加えていく。その変遷は後から振り返れば、ある一貫性を持った変化となる。可塑性とはそのような変化のあり方だ。例えば、人間の身体にはおのずから制約がある。だからといって、自由でない、不自由だということにはならない。その制約下でも創造性を発揮することはできる。その制限の中で限界に挑戦するからこそ、何か崇高なものを感じ、それを人々の間で共有することができる。人間はそのままでは空を飛ぶことはできないが、飛行機を生み出すことで制限つきの自由の範囲を少しだけひろげることができた。だから、大事なことは概ね似たような制約の下で自由に振る舞うことができれば現実的には問題ないということだ。
ここで考えられるのは、最初に合理性とは何かという具合に、仮決めのゴールイメージを作ったうえでそこへ漸近していくことを、肯定的に捉えようとする姿勢だ。コンピュータの登場によって理論的には可能でも実際に計算を終了させることができるかどうかが、実現の基準となった。これを計算可能性という。漸近していくという発想は、この計算可能性と呼ばれる実現可能性に準ずるような発想で、コンピュータが随所に埋めこまれた世界では有効なものの見方だ。裏返すと、ウェブが偏在化してしまう社会の中にある当のウェブ自体は、今後それ自身の持つ可塑性の下で漸次実現される可塑的な自由を、それこそ一歩ずつ拡張させるところでこそ、意義を持つのだろう。これは何らかの価値の実現で、ソーシャル・ネットワークはそのことに既に着手し始めている。そして、このような要請に応えるための方策の一つとして、オープンであることは大事なことであり続けるだろう。
ウェブは電子の市場としてスタートし、facebookによって電子の広場を実現した。今ある状況は、この電子の広場に、例えば集合知といわれる多数意見の決定メカニズムを、もっぱら市場経済のアルゴリズムを転用して実装しようとする動きだ。これは可塑的なデモクラシーの可塑性の最たるものだ。なぜなら、経済活動のアルゴリズムを、意見形成という活動のアルゴリズムとして変形することで、多数指示性を判断基準にするデモクラシーの実現に一役買おうとするものだからだ。こうしてウェブは可塑的なデモクラシーの実現場所として進化する。
ソーシャル・ネットワークの存在が前景化する2010年代は、アップルが依拠したカウンターカルチャー性の追求でもなく、グーグルが一般化した市場交換性の実施でもなく、facebookに代表されるソーシャル・ネットワークが用意しようとするデモクラシーのウェブでの配置が鍵を握る。人間の社会とネットワーク内のリソースが一緒になったマン・マシン系が舞台になる。そこではフィードバックの揺り籠に陥らないために、あれこれ策を講じなければならない。その時に有効と思われる視座が、たとえば遊戯性であり可塑性である。
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