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2011年8月12日 (金)

池田純一「ウェブ×ソーシャル×アメリカ 〈全球時代〉の構想力」(18)

第9章 機械と人間

ウェブ企業の創業者の熱意は、サービスを実際に開発するスタッフ=技術者たちの夢でもある。開発目標というゴールの設定を揺るぎ無いものにするために、創業者の明確なビジョンが必要になる。その傍らで、日常の営業業務は現実社会のルール=世知にたけた人々が当たる。それが今日のハイテク企業の理想的な組織形態の一つだ。実務家の示す世知との対照から、創業者のビジョンは勢い抽象的で少しばかり理想的なものになる。だから、創業者のビジョンを、現実的でない、理想的に過ぎる、批判したところで、それは非難どころか賛辞になる。開発者一人ひとりの内発的な創造性を引き出すのはビジョンが不可欠で、それはユーザーからのフィードバックに対応した改良とは異なる次元にあるものだ。このように創業者のビジョンに牽引されて開発競争を行う企業間の競合は、だから、そうした理想を支える思想の対決という一面を持つ。つまり、シリコンバレーを中心に活躍するウェブ企業の競合は、同時に思想の競合でもあるわけだ。もちろん、この思想の競合は、アメリカのプログラムやエンタプライズによる全球への試みのように、アメリカにどこかしら理想を追い求め続けてよいとする伝統があるからこそ可能なのかもしれない。しかも、その分、互いの活動に対する批評が、単に否定的な避難でなく、肯定的な提案に繋がる契機を常に持つ。この大らかな肯定性はこと開発という点では重要な傾向といえるだろう。

グーグルの創業者であるブリン&ペイジは、情報工学の長年の夢である人工知能の成果をウェブに乗せることに並々ならぬ関心を持ってきた。その姿勢はグーグルの開発チームを大学院を模した研究機関のように運営しているところにも顕著に見られる。“Don’t Be Evil”というモットーも、企業人という以上に研究者として技術の利用にどう対峙するかを示した指針と捉えることができる。このような科学者としてのモラルを第一に掲げることで、同時に、グーグルという会社がイノベーションを優先する会社であることを社内外に宣言している。このような科学者のモラルを殊更に強調するのは、科学技術のフロンティアを切り拓くことに躊躇しない姿勢の表明でもある。さらに言えば、技術の限界に挑戦し続け点で技術開発という知的快楽主義を貫こうとする構えでもある。人工知能研究の成果を取り入れ、徹底的に機械科=アルゴリズム化を進めることで、ウェブの利用の具体的プロセスにおいて人間の介在を極力排除する。そうして人間の恣意性を廃した客観性=公平性を担保しようとする。そうした方向を取るのがグーグルだ。

これに対してfacebookのザッカーバーグは、あくまでもネットワークを操るのは人間であり、人間の側が自らの意志として「シェアする精神」を与することでウェブを豊饒なものとするのが大切だと主張する。このように機械=ネットワークと人間との間で成り立つ関係性という点では、グーグルとfacebookは全く異なる大局的な発想をもつ。グーグルが端末に繋がった人たちをあくまでも情報入力装置として客体化してとらえようとするのに対して、facebookは、端末を介してネットワークの向こうにいる人を繋げることで有意義な情報があらたに生み出されることを期待している。グーグルにとって大事なのはユーザーの痕跡としての出力結果だが、facebookにとって大事なのはユーザー自身だ。

「人間的かどうか」という点から見れば、テクノロジーとしては同様のものを使っていても、そのテクノロジーの利用に当たってもより人間的な解を与えているのがfacebookだ。Facebookの登録ユーザーは、他のユーザーにとって一種のヒューマンインターフェイスとしてある。ネットワークを互いに「擬人化」するものとしてネットワークに繋がれた他のユーザーたちがいる。その意味で、facebookの場合は、ユーザーを含めた、人間+機械の全体でネットワークを構成していることになる。だからこそ、ザッカーバーグは、そのような人間+機械としてのネットワークにポテンシャルを引き上げるために、ユーザーの間で情報をシェアする範囲を広げていくことが大事だと言っているわけだ。

このネットワークの人間化、もしくは人間性の復権という観点はアップルにも当てはまる。iPhoneiPadのようなタッチパネルの採用は、人間こそがネットワークを操縦しているという感覚を呼び起こすのに貢献している。自在性を与えることにより、自由を感じることができる。自由な個人というのはまさしくアメリカの中では一つの理想だ。アップルがいつまでもカウンターカルチャーのイメージを維持しようとするのは自由を勝ち取るのはあくまでも個人だというイメージに依拠している。ただし、間違ってはいけないのは、人間の継承を与えればいいのではなく、人間的な何かを直接感じさせてくれる、つまり人間的と長らく思われてきた特性を宿らせることが大事なのだ。それは、例えば人間らしさを取り戻させてくれる自在な操作性である。つまり、既に観念としてある人間をいかに取り込むかがホイントとなる。

Twitterでしばしば話題になるボットとは、ネットワークに貯蔵された情報をどこからかタイミングよく提示してくれるソフトウェアないしプログラムだ。ただ、情報の選択とタイミングの選択によって「人間らしく」感じさせることもある。ロボットというのは人間の似姿をしたものとして想像されてきた。しかし、一度人間の似姿であることを放棄してしまえば、洗練度の差こそあれ、既にアルゴリズムの形でロボットはネットワークの中にある。それがボットだ。

これらの傾向をまとめてみると、真善美という三つの基本的な価値になぞらえてみれば、科学的合理性を追求するグーグルは「真」、ユーザーという人間的なインターフェイスを通じて共同体の構築を進めるfacebookは「善」、触覚を通じた自在性を売り物にすることでヒューマンタッチを具体化させたアップルは「美」、という具合にそれぞれ基本的な価値を実現していると見ることもできるだろう。一見すると同じウェブやコンピュータのサービスを提供しているようだが、その実、背後にある価値観は異なる。その価値観=思想の違いが、彼らのサービスの開発や設計=デザインの違いとして表出する。いずれにせよ、科学的合理主義を追求するグーグルに対して、facebookとアップルは、いわば人間賛歌を復権させたことになる。それは同時に、インターフェイスの設計=デザインの問題、人間性を感じさせるためにどのような「フェイス=顔つき」を与えるのかという問題を突きつける。

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