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2011年8月21日 (日)

宮川敬之「和辻哲郎─人格から間柄へ」(6)

このように五蘊説は、和辻によれば、認識─存在における五種類の「法」を提示した。五蘊説はたしかにこうして普遍我を回避し、経験我における「われ」「わが」を五つの法に解体した。だがそれだけでは自我は解体しない。それは「我」を否定しただけであり、「我」に代わるものを提示できていないからである。「我」の作用、特に普遍我が持っている統一の作用をなんらかのかたちで肩代わりできなければ、統一の根拠として普遍我が再び現われてしまう。和辻はここに五蘊説の不十分さを見ていた。和辻によれば、これらの不十分さの補填こそが縁起説の課題であった。

縁起説とは、現象的存在が相互に依存し合って生じていること、を説く仏教の基本的な教説のことである。すべての現象は様々な原因・条件が相互に関係しあって成立するのであり、そうした原因や条件がなくなれば結果もおのずから消えるとされる。和辻は縁起説を単一のものみなさず、五支、六支、九支、十支、十二支の各縁起説が、それぞれ独自の考察を含む別々の思想によるものと考える。この異なった思想による縁起説が、影響を与え合い、無我論の論理的な問題展開に沿うことで、単純なものから複雑な者へ発展したと見ていた。五蘊説では五つの「存在そのものの法」が示されたが、これらの法と法とがどのような関係においてあるのかは論じられなかった。縁起説で問題にするのは、まさにこうした複数の法の関係づけの仕方である。和辻は縁起論の基礎としてのこの二点、すなわち無我論と、無我論を基礎とする法と法との関係づけという点から、これまでの伝統的な解釈によって見失われ、そのために非常に誤ったものとなったと批判する。

和辻は五蘊を縁起説に組み込んでいくことにより、外部は存在しないはずの五蘊説に動機を異にする別の思想が入り込むことを指摘する。その結果として五蘊説の解体と、そり五つの要素の縁起内での再構成が進められ、五蘊説自体においては考察されなかった五法のあいだでの関係を明らかにするという課題へと連動する。このことは六入処という別の思想を引きよせる結果となった。これは和辻独自の解釈問える。六入処とは六つの感覚器官あるいは感覚自体のことであり、眼・耳・鼻・舌・身・意を指す。六入処において課題となるのは、それらの感覚がどのように対象である「色」に関係し、受容性としての「愛」と組み合い、またそれに対して判断としての「識」がどのように関連していくかを明らかにすることだった。だからそれは、縁起説からみれば、五蘊説のうちの「色」「受」「識」三つの要素を一度解体し、五蘊説とは別の思想の下で関連付けるということだった。

六入処は「我」を分解することについては優れているが、無我論に徹するには問題を抱えていた。それは六入処が具体的感覚器官や感覚自体についての論であるがために、感覚が「なにかのもの」に対する感覚であること、この「もの」を論の前提にしてしまっていることである。認識のこうした対象のことを、特に「境」と呼ぶ。「境」をアプリオリに規定して客観的実体や対象をしらずしらず前提にするならば、こうした客体に対応する主体を知らず呼び込んでしまい、無我論を徹底させることはできなくなってしまうだろう。そこで、和辻は六入処の系列は縁起説取り込まれるときに逆転することを考えた。たとえば、「見られるもの」ということが成立するためには、「見られるもの」とする作用が先んじていなければならない。つまりは、見られる「もの」が成り立つには、見られる「こと」が先んじていなければならない、というわけだ。一方、縁起説自体も六入処の考えに影響をうけた。その結果、縁起説の根底をなす「識」と「名色」とが、相互に基礎づけ合う相依関係として規定されることになった、このようなことが示されるのは、始源がないこと、究極の根源がないことを示すには都合がいい。縁起説が六入処における相依関係を取り入れたのはこのためだったと言える。しかし、始源や根拠、あるいは「我」を取り除くことにはすぐれていても、相依関係自体は論理的循環として縁起系列そのものを危うくしてしまう。そうであれば相依関係を解除するには、こうした長所を引き受けながら同時に循環を解体することが求められる。この解体における課題を和辻は二つあげる。一つは、相依関係にない識の条件とは何か。二つは、そうした識の条件は、相依関係が行ったように無根拠を示すことができるか。この二つの課題を満たし、相依関係の循環を解くもの、それこそが「行」の概念であったという。

「識」は了別作用であるがために、了別する「こと」においてどうしても「もの」性が付随してしまう。求められるのは付随している「もの」性を完全に引きはがした「こと」、いわば「識」における「こと」のさらなる「こと」性のような概念である。それこそが「行」として「識」の手前にその条件として回り込むのである。このようにして「行」は析出される。しかし、縁起説では、さらに「行」の条件として「無明」が立てられる。

これについては、「行」は、「もの」性の完全な剥奪によって、「識別される「もの」を持たない純粋な作用」すなわち「こと」の「こと」性として見出されたが、しかしそれが縁起の最終根拠となるとなれば、「こと」であること自体が、しかしそれが縁起の最終根拠となるとなれば、「こと」であること自体が「もの」化してしまう可能性がある。言い換えれば理念が実体化してしまう。そこで、最終原理が実体化することを封じるために導入されたのが根底としての「無明」の考えであったと和辻は断言する。

そもそも、縁起系列が終焉し、無根拠化するとは、存在することの法が滅し、苦からの解脱が為されるということだ。つまり、縁起説は、法と法との成立のありようと、それが苦をどのように生むのかの条件が考察されているのであるが、一方ではその考察を転用することによって、条件を転用することによって、条件を止め関連を解体し法の連鎖を防いで苦から逃れる方法を見ることができるということだ。前者の見方を縁起の「順観」、後者を「逆観」という。ここで重要なのは、この順逆二観どうしの関係である。両者は、肯定の系列と否定の系列として相互に独立して対になっているとはいえない。なぜなら循環は「無明がある」と認識することによって自動的に「無明」を滅し、逆観へ反転してしまう。順観とは滅せられるべき自然的立場の根拠を示すものであり、つまりは我々の認識─存在の法の系列である。一方、逆観は釈尊の立場を示す系列である。これらの二つは、一見全く乖離しているように思えるが、実際にはそうではなく、自然的立場は、順観が逆観へと反転してしまうように、それを認識するという点において反転し釈尊の立場にすぐさま接続してしまうと和辻は指摘する。

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