宮川敬之「和辻哲郎─人格から間柄へ」(8)
Ⅲ.人格から間柄へ
大正14年、和辻は京都帝国大学に招かれ、昭和2年ドイツに1年間留学する。この時、和辻の思想の変遷にもっとも強い影響を与えたのはハイデッガーの思想であった。この影響は、渡欧前の「もの」と「こと」との引きはがし、すなわち、「こと」自体の自律する領域の確立ということがらをさらに変成させる。その過程は昭和6年の「人格と人類性」に見ることができる。
「人格と人類性」で扱われるのはカントの人格論である。ここではカントの道徳論の中核をなす有名な定言命法の解釈に終始する。この考察において下敷きにされたのはハイデッガーのカント解釈であった。この定言命法についての日本での一般的な解釈「人を手段として取り扱うな、すべての人を自己目的として取り扱え」に対して、和辻は2つの問題点を指摘する。第一、人格と人類性との区別がなされていないのではないか。第二、手段としてではなく「同時に」目的として扱え、という「同時に」の点を見逃していないか。とくに第二の問題から、和辻は、もし人格を手段でなく目的として扱えと理解してしまうと、徹底的な個人主義が現われてしまうことになるという。なぜなら、私が他人に奉仕することも、人格の手段化であるので否定されなければならないからである。この誤解は、手段であると同時に目的であるとしてという事柄の理解を間違えたことに起因する。同時にという点が注意して読まれるならば、定言命法はむしろ、自分も、そして相手も、自己目的な人格として尊重させなければならないが、同時に自分を手段として使役させ、また他人を手段として使役しなければ人間関係は成立しない。このように考えれば、定言命法しは人間関係の原則として読まれるべきである。しかし、これは実現されない理念ではないという。カントが人類性の原理を見出したのは現実の社会においてであり、だから人類性の原理もまたこの社会に部分的に実現されている。そればかりか、たとえ人類性の原理だけが支配する「目的の国」においてであっても、人格はいぜんとして「物」でもあり、人格が手段として取り扱われることはなくならない。和辻が強調するのは、我々が今現在、すでに目的と手段との二重性において「ある」という点である。このような人格と人類性との、すなわち「もの」と「こと」との二重性の強調は、それまでの論理にねじれをもたらすことになる。つまり、『原始仏教の実践哲学』において、「我」は分解され、「もの」性を徹底して排除された「こと」自体の自律する領域、とくにそれが「行」によって統一されてゆくありようが見出された。こうした純粋な統一作用としての「我」がペルソナであった。そこで一貫して見出されるのは、人格から「もの」性を排除する作業、あるいは表現された「こと」から表現された「もの」を剥ぎとろうとする作業である。これに対して、カントの定言命法において人格と人類性との二重性を強調することは、むしろ人格の「もの」性を恢復し、強調する論として提出された。定言命法についての一般的な解釈において人類性の理念すなわち「こと」性ばかりが重視されてしまっており、それに対して二重性を強調するためには、「こと」の側面ではなく「もの」の側面こそを、ます強調する必要がある。こうした事情がねじれを生み出す。「こと」は単に理念ではなく、「もの」性をかならず伴うのであり、人類性は必ずその「物化」としての人格を伴わなくてはならない。そう主張する和辻は、『原始仏教の実践哲学』での考察とは正反対の主張を行わなければならなくなった。
和辻は、定言命法における人格と人類性との区別は、カントの第一批判の「純粋理性の誤謬推理について」で既になされており、純粋心理学的人格性と超越論的人格性との区別であるとした。超越論的人格性とは「我思う」の主体であり、思惟作用を起こす点のごとき我ではなく、思惟そのものの根源的総合的統一であると解説される。一方の純粋心理学的人格性とは「我思う」の主体であり、対象としては空虚な、いわば一種の形式である。この形式に充填される実体こそが純粋心理学的人格性と呼ばれる。それは、人格あるいは客体我とも呼ばれ、人格性すなわち統覚我と対照される。これらの規定はハイデッガーの直接的な影響を受けたものと言える。ハイデッガーはカント読解において心理学的人格性を超越論的人格性と区別して規定した。それは覚知の自我であり、知覚の経験、内感による諸々の心的な過程を経験する「自我─客観」のことであるという。これは超越論的人格性すなわち統覚、あるいは「自我─主観」とは対照的な規定である。だから、和辻は、こうした人格と人格性の差異を、「人格は「もの」であり、人格性はこの「もの」を「もの」たらしめる「こと」である。」つまり、「もの」と「こと」の引きはがしという思考方式はもここで人格論を担い人格と人格性との区分となって現われている。ハイデッガーのカント解釈と和辻の「もの」と「こと」の引きはがしとは、合流している。
« 三品和弘「どうする?日本企業」(2) | トップページ | 三品和弘「どうする?日本企業」(3) »
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 清水博「生命知としての場の論理─柳生新陰流に見る共創の理」(3)~Ⅱ.剣の理と場所の理(2024.09.24)
- 清水博「生命知としての場の論理─柳生新陰流に見る共創の理」(2)~Ⅰ.場所とは何か(2024.09.23)
- 清水博「生命知としての場の論理─柳生新陰流に見る共創の理」(2024.09.18)
- 渡邉雅子「「論理的思考」の社会的構築─フランスの思考表現スタイルと言葉の教育」(4)~終章 フランス社会の<論理>の構築─ディセルタシオンが導く思考表現スタイル(2024.09.04)
- 渡邉雅子「「論理的思考」の社会的構築─フランスの思考表現スタイルと言葉の教育」(3)~第2章 哲学のディセルタシオンと哲学教育(2024.09.03)
コメント