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2011年8月24日 (水)

宮川敬之「和辻哲郎─人格から間柄へ」(9)

ただし、両者の解釈で道徳的人格性の解釈をめぐっては乖離が明らかになる。道徳的人格性は意味的に狭い限定が為され、特定の自己意識、感情、とくに尊敬感情に特定されている。カントは、道徳性の分析を、その根幹たる尊敬感情の分析として提出する。この尊敬は道徳的行為の法則に対する尊敬の感情である。一方、尊敬感情によって法則が法則としてはじめて成立する。つまり尊敬と法則とは、基礎づけを相互的に行う関係にある。ハイデッガーによれば、カントの尊敬感情とは、法則に対して尊敬する感情をもつ自我が、同時に自己自身にとってあらわになることである。つまり、自己によって法則という「かた」をつくりながら、その「かた」によって逆に自己が規定され、あらわれるような重層的な自己のありようの全体である。ハイデッガーにとって重要なのは、法則そのものではなく、重層的な状況にあってどのような行為を我々が行うかであった。これに対して、和辻の場合は、尊敬感情は我々が本来的な自己を自覚する仕方であり、法則への尊敬感情は、本来的な自己への自覚であった。和辻はハイデッガーが分析した同じ状況を「こと」=「かた」に収斂させてしまう。ここで最大の問題となるのは、「こと」自体の自律ということがらを引き継ぎながら、そうした「こと」をさらに進めて「本来的な自己」へと呼び換えている点である。和辻はカントの尊敬感情分析を自我とする主体についての考察として収斂させる。和辻は本来的な自己とは、道徳的人格性であり超越論的人格性であるとして、ハイデッガーのように区分しない。ただ扱う立場が異なっているに過ぎないという。この立場の相違とはカントが思弁哲学(第一批判)と実践哲学(第二批判)との区別を行うことによる相違であるという。本来的自己を意識するとは、行為することそのものであるという。つまり、本来的自己を認識することがそのまま行為することなのだ。ここで思い出すのは、『原始仏教の実践哲学』において、縁起説の「無明を認識すること(順観)」が、「無明を滅すること(逆観)」へと容易に反転してしまうこと、認識がそのまま実践となるという主張だろう。行為することは本来的自己のありように組み込まれる。ところで和辻によれば、本来的自己とは道徳的人格性のことであり、またそれは超越論的人格性、さらには人格性人類性と同じものとされた。それは人格という「もの」を可能にする「こと」=「かた」である。つまり、「こと」としての本来的自己ないし道徳的人格性は、すでに「行為」を含んでいると和辻は考える。この考えについては、やはり『原始仏教の実践哲学』において、縁起説の「最終統一原理」として、「こと」としての「行」という規定を持ってきた解釈を思い出すことができるだろう。このような和辻のカント解釈は、「こと」としての人格性という『原始仏教の実践哲学』以来の人格概念に場所を与えようとする試みであったといえるだろう。

ここで「人格と人類性」という論考を読む者は中途半端であるのを感じざるを得ない。それは、当初の意図、すなわち人格と人格性人類性とを区別しようとする意図と、実際の行論とがねじれてしまっていることに因っている。ここに現われている錯綜、すなわち「こと」としての人格性の抽出という意図から外れている行論を、三つの点において注目していきたい。第一には、人格の「もの」性の強調の点である。第二には、論考の終盤以降で急に浮上してくる主体への重視の点である。そして第三に、論考当初から企図しつつ、しかも最後まで論じ尽くすことができなかった人格性の共同態性への関連の点である。

まず、「もの」性の強調という点から見て行こう。『原始仏教の実践哲学』においては「こと」としての側面を抽出する試みがなされ、それは「もの」性の徹底的な剥ぎとりによって行われた。だが、同じ意図を継承しながらも、「人格と人類性」においては、逆に「もの」性としての人格を強調し、擁護するという論が示されていた。「もの」性のこの恢復は、どこから来たものであっただろうか。これには、昭和2年のハイデッガーの『存在と時間』の刊行で和辻がドイツ留学中に読んだことが起因している。これを機として和辻は風土性の考察を始める。和辻自身は『存在と時間』の限界の補填の試みのようなことを述懐しているが、実は、有名な道具性の考察をヒントにし応用し、拡大したものが風土性の考察の根本となっている。道具は単なる「もの」ではなく、それに関わる我々が、我々自身のありようをそこに発見するものとしてある。それが感受と働き出しという道具の二重構造である。和辻にとってこの構造は風土においても同様であった。和辻はこうした関わりの根底を、我々が外に出ていることだとする。このハイデッガーの影響を独自に拡大することにより、和辻は、我々を規定している「こと」ばかりでなく、規定する「もの」に着目すべきであると考える。そのことが和辻に風土を強調させるのだ。ここでの風土への着目は、世の中にある「もの」としての「もの」への着目である。論考「風土」において「もの」とは、まず道具性、すなわち我々が使用し感受する、すなわち関わるものとして、我々が自己を開示するものとして、外に出るありようである。このように見れば、「もの」性の強調とは、そもそも風土への着目と共にあって、世の中のものにすでに我々が外に出て自己を開示しているという点への着目である。これは明らかにハイデッガーの考察の継承である。と同時に西田幾多郎の表現─人格の考えに近づいている。ここで第二の論点である「主体」の問題の浮上という事柄についても見ていく。この急速な「主体」の浮上は、同じ人格性人類性であるとした超越論的人格性と道徳的人格性とにおいて、前者が後者に移行したことを客観の成立根拠の問題から主体の自己規定の問題へ移ったこととして和辻が理解したことによる。そこから和辻は人類性は人格の主体的な根底なのであると主張した。そして、現実性の現実的源泉でありながらそれ自体は対象的にあるのではないような主体の根底、それを和辻は人格性人類性と呼ぼうとする。ここで示そうとしているのは、「こと」にとどまることのない、そこにある「もの」性が恢復された具体的現実的な主体の根底なのであった。

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