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2011年8月28日 (日)

宮川敬之「和辻哲郎─人格から間柄へ」(13)

「もの」と「こと」とが幸福に融合した人間存在をあらわそうとする「倫理学」のくわだては、しかし、「こと」が自律する領域のみが成立し、ふたたび「もの」がひきはがされてしまう結果となった。それは強く言えば、くわだての流産であり、「倫理学」はそのことによって、予め何かを喪って生まれて来たのではなかったか。喪われた何かとは、あきらかにある種類の「ことば」である。それはたとえば、行動している自分自身がその行動の意味も結果も分らずに世界に対峙するときのあの身震いするような興奮と恐怖と、そして同時に感じる自らの奇妙な冷徹さにふれてくることば、あるいは、死体に触れてその冷たさを掌に感じる時の愛おしさと畏怖と、冷静でありながら一方で思考が停止してしまうような感覚とが交互にあるいは同時に押し寄せてくる場面に触れてくるようなことばである。人間存在はことばによって語り尽くされているのであり、また語り尽くさなければならないと考える「倫理学」の構想からすれば、当然にこうした場面へのことばをすくい上げなければならない。だが、和辻の「倫理学」はこうした場面へ触れることばをすくい上げることができない。それはこれらの場面が、「もの」と「こと」との区分を毀し、「もの」と「こと」とに区分されるのとは別のありように触れてしまっている場面だからである。そもそもこの場面にはおいては、触れている相手も人間存在の範疇にあるかどうかすらも定かでないのである。

今回、あげたのはかなり細かなメモになったので、読みにくいものになったと思います。読みにくいと思ったら、本著作の本文と参照しながら、じっくり読み進めることをお勧めします。読みにくい本ですが、けっして分りにくい本ではありません。著者の分析や叙述が精緻なので、きちんと追いかけていかないと止まってしまうので、止まってしまったら引き返して読み直すなどしていけばいいと思います。私の場合は、最初、薄いし高い本でしなかったので、気軽に読み始めましたが、その歯応えに、姿勢を正して読み返しましたが、いまのところ追いかけるのがやっとです。とくに、最初の第二子を喪った事柄が最後の最後の結論に出てくるというような著者の遠大な構成に、ついていき切れていません。しかし、その中身は和辻倫理学全般を祖述するのではなく、和辻倫理学の対象となっている人間というものの捉え方に焦点を絞って進めています。ざっとした感想ですが、誌面の制約かもしれませんが、「人格から間柄へ」というサブタイトルの割には、内容の大半は人格についての分析であり、間柄についての言及は最後に近くなったところでようやく、というかんじでした。たしかに、人格の捉え方において間柄の視点がチラホラとは垣間見えましたが、だから和辻倫理学が人格から間柄へと進んでいくプロセス、あるいは間柄という視点から、人格を遡って見るという分析をもっと見たかったと思います。そうなると、この倍の厚さが必要になるでしょうけれど。そのため終盤は駆け足の印象が強く、結論とそれに対する著者の意見もちょっと浮いているしまっているようです。著者か最後にいう喪われた言葉のことも、唐突な印象が強く、いまいち説得力に欠けるように思います。例えば、では、和辻はどこで道を誤ったのか、という仮説とまで言わなくても、ここまでやったのだから、そこまで突っ込んて欲しかったと感じました。それは、読む人が自分なりにやって下さいということでしょうか。

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