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2011年8月20日 (土)

宮川敬之「和辻哲郎─人格から間柄へ」(5)

既に述べたように人格概念において、和辻は当初、阿部次郎を介してリップスから影響を受けていた。だが、人格観の変容と連動してマックス・シェーラーを重視し始める、シェーラーは感覚し表象し感じ欲し望み恐れなどする内面的本質を人格とするリップスのような考えを斥ける。それは単に経験我ないし個人我としての自我を人格と同定しているに過ぎないからである。シェーラーはこうした自我とは別様のところに人格を開こうとした。それが種々な作用の具体的な存在統一を人格とする定義である。だが、和辻の見るところシェーラーの定義にも問題があった。すなわち、人格を経験我に限定することをやめ、それを具体的な作用の統一へと開くシェーラーの考えには画期的なところがあるにしても、見逃されているのは、そうした経験我や諸作用が、なぜ我として認識され統一的に把捉されるのか、と言う点である。和辻によれば、自我を人格とするには経験我だけではなくもう一つの側面がある。それは超越我ないし普遍我と呼ばれるものである。経験我が個人的側面に終始するのに対して、普遍我はそれを超越し、自身は実体化しない。だが経験我において数多の経験の中心に我が据えられ、それらを統一することができるのは、この普遍我によるのである。統一の根拠としての普遍我が働いているのはたんに経験我においてだけではない。シェーラーがいう諸作用の統一という人格においてもまた、それを統一し我へと連結する根拠として普遍我が働いていると言うべきである。シェーラーは経験我を人格とする考えを斥けようとしたが、和辻の考えでは経験我を排除するだけでは人格は自我から解放されない。そこには普遍我の問題が残されているからである。人格を自我から完全に解放するには、普遍我とは別の仕方で人格に統一を与えられなければならない。シェーラーの論点を受け継ぎながら、和辻がその不十分さを指摘したのはこの点であった。

和辻によれば、シェーラーも不十分であったこうした自我の抜き去りを徹底させた思想こそが仏教思想であった。『原始仏教の実践哲学』においては、原始仏教の論理的中心が、普遍我と経験我とをともに離脱することにあったと論じられ、和辻によればそれこそが原始仏教の根本的立場なのだった。では両者からの離脱とはどのようになされるものだったのか。普遍我と経験我とをそれぞれ主張する二つの思想は、その対立にもかかわらず二つの思想は、その対立に関わらず二つの共通点を持つ。一つは理念を実体化するという点であり、もう一つは認識の対象としてはならないものを対象とする点である。仏教が、この二つの立場を同時に離脱するとは、これらの共通点に対して逆の主張をしていくということである。まず、理念を実体化しないこと、さらに認識の対象としてはならないものは対象としないこと。言い換えれば、認識において経験と理念とを区別し、認識─経験の限界を決めること、また、認識の対象としてはならないような問いに対しては、「答えない」という態度をとることである。つまり、両者の立場に対して超越論的な立場に立つこと、それが仏教の立場、「決然たる転回点」であると和辻は考えるのである。ここで、問題は、こうした超越論的な見方をする仏教が自らの説として何をあげたかということだ。和辻が原始仏教思想の中心としてあげるのは「この世は無常である」という前提のもとに示された五蘊説であった。

五蘊説とは、一般的には、五蘊、すなわち五つ要素の集まりの意味であり、我々個人の存在を構成する色・受・想・行・識の五つの要素のことをいう。「色」とは肉体、身体のこと。「受」は感覚もしくは感受作用、「想」は表象作用すなわち想像すること観念を抱くこと、「行」とし意志あるいは衝動的欲求のこと、「識」とは認識作用あるいは判断のことであるとされる。五蘊説はまず我々の認識の世界を対象にする。「世は無常である」とは、変遷し変化していく認識の世界のみを対象にし、究極の永遠なるものなどは扱わないということの言い換えである。認識を超えた事柄、例えば我や世界の起源と終焉について、あるいは世界の有限性無限性についてなどの議論にはくみしない。「答えない」

という態度は、認識の世界に領域を限定し、超越的な普遍我は考察の対象から外すことを意味する。和辻は、これを原始仏教の明確な思想的判断であると力説する。だが、認識の世界に限定し、普遍我を相手にしないと、経験我を擁護することになる。それに対して和辻は、五蘊説であげられるのは実体的な要素なのではなく、実体性のない範疇であると論じる。つまり、五蘊説は範疇論であり、範疇すなわち理念でとどまっていると主張する。わたしが花を喜ばしく思う。このとき、わたしという主体が花という客体を受容し、それを喜ばしく感受するとするならば、花は主体側と客体側とに、たとえば認識された像とその実体という具合に、少なくとも二つ存在しなければならない。だが実際にはそうではなく、花は、美しい花としてただ一つあるばかりだ。とはいえこのただ一つの「ある」とはどういうありようなのか。和辻によれば、それは「一つの特殊ないろかたちが楽受において存する」だけである。つまり、この「ある」とは、わたしの認識と客観的な実体とが分裂する手前にあるありようなのであって、経験と存在の仕方が一つになったものだというのだ。和辻は、このようにして「我」とその反面の客体化を、すなわち、いわゆる主体と客体とを、同時に回避しようとする。問題となるのは、この認識でも客体でもない、あるいはそのどちらでもあるものとは、結局何か、ということである。和辻は、このありようを「存在するものの法」と名付ける。和辻はこれを「かた」と解釈する。「かた」とは、「もの」を「もの」たらしめる「こと」である。言い換えれば、認識その「もの」や実体その「もの」ではなく、認識や実体をそのようにあらしめる範疇あるいは形式の「こと」、それが「かた」なのだ。「かた」としての法は、存在するものの範疇・形式であり、存在そのものからは逃れる。それが存在するものの法である。「もの」と「こと」との引きはがしは、このように五蘊説の検討において明確に形式化され考察されるのである。

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