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2011年8月19日 (金)

宮川敬之「和辻哲郎─人格から間柄へ」(4)

一方、『正法眼蔵』に対しては人格は別の扱い方をされている。道元の人格は内面性に収縮することなく『正法眼蔵』や他の語録の行間に、表面に、躍如として現われていると言われる。ここで示されているのは、表現される「もの」すなわち個人的な内面性に限定されることなく、表面化している表現される「こと」の集積として道元の人格を扱うやりようである。表現─人格における「もの」と「こと」との引きはがしは、まさしく、この「沙門道元」において起こっている。この論考こそが和辻哲郎の表現─人格の変容の嚆矢であると著種は言う。

和辻は『正法眼蔵』等の著作を道元における真理の表現であるとする。通常の禅宗の伝統に反して、和辻は真理は言葉によって、あるいは論理的表現によって表現されることが可能である、そうでなければ道元が多量の説教の書を書き残すわけはない、と断言する。つまり、『正法眼蔵』などに表現されている「こと」は、真理の表現であり、さらに真理の具現としての道元の人格である。このような主張は、二つの疑問点を導く。

一つは、道元の著作や語録に現われている事柄を、道元の人格といい、真理だという場合、それは書物の位置付け読解によって限りなく恣意的に変更を蒙ってしまわないかという点である。『正法眼蔵』自体も、何のバイアスもかけられていない単純な所信表明の書なのではない。ましてや文章の読解自体が、千差万別で、限りなく恣意性に揺られ続ける。となると、人格も真理もそうした恣意的なものなのか。もしそうではなく、何かしら確固としたものであると主張するならば、こうした恣意性を何かの方法で処理しておく必要がある。もう一つは、道元の人格に真理が現われている、具現しているということの問題である。道元にとって仏の悟りでしかありえない。だが、仏の悟りを具現するとはそこに仏が現われるということである。これは仏身の問題を掘り起し、その問題と道元との関わり合いについて論究することを和辻に迫ることになるだろう。また、人格という用語自体がキリスト教に深く影響されたものであって、その場合真理の発現とは神の発現とほぼ同義である。そのため神すなわち超越者そのものが現実世界に発現するという問題系に触れ、キリスト教と仏教における差異を問う思考を誘うことになるだろう。これらの疑問点は、文献の解釈における恣意性の問題と、超越者の発現の問題にまとめることができる。

和辻は、道元の思想の特徴を次のように捉えてみせる。道元においては超越的な法は人に憑いて働き現われる。ここで注意すべきなのは、超越的な仏を人としての肉体によって表現していくことでもあると言っていることである。それは親鸞のような、人とは隔絶した阿弥陀仏という超越者への帰依なのではなく、今この場に現われている人に顕現し働き現われるという主張なのだという。この法と人との関連について注目しておかなければならない。注意すべきなのは、こうした法が人に憑いて働き現われることとは、超越的な仏を人としての肉体によって表現していくことであると言っていることである。表現される「こと」としての法は、表現される「もの」として肉体離れることはない。ここでは「もの」と「こと」の引きはがしということがらは未だ明らかにされていない。だが、真理が表現されるのは人の肉体や人格においてだけではなく、ことばにおいても十分に現われるのである。それは、『正法眼蔵』や他の著作に道元の真理が表れていると断言したことの当然の帰結であった。和辻は「道得」の解説において、ことばによる真理の表現のさなかに、表現される「もの」である人格や人が剥ぎとられ、表現される「こと」のみが自律していくさまを描くのである。道元は「道得」という言葉を重んじた。和辻はそれを、真理を表現することその「こと」の重視であると見る。表現はもはや特定の人格に限定されない。人格の特定性は取り除かれ、表現される「こと」自体が自律し、逆に人格を呑み込んでしまう。和辻は、「道得」をロゴスの自己展開と呼ぶ。この言葉は、理性・精神といったなにか内在的なものが歴史的に展開していく事柄として理解されてはならない。ロゴスとはまず言葉であり、真理であり、表現である。ロゴスの自己展開とは、主格的な人格に従属するべき言葉・真理・表現が、人格の支配を振り払って自律していくこと、さらには逆に人格を覆い、人格を規定してゆくさまとして捉えなればならない。「もの」と「こと」の引きはがしが、ここで、ロゴスの自己展開という言い方で和辻に明確に意識されていたことは重要である。表現される「こと」から抜き去られる主格とは、あきらかに、個人的な内面性なのであり、主格として働く人格を指している。つまりそれは、かつての『偶像再興』時に語った人格、すなわち「精神、統一的自我、個体、叡知的性格」に特徴づけられる人格なのである。ここで注意しておきたいのは、こうした図式を示すのには、単なるギリシャ精神たけではなく、ギリシャ精神の精髄を吸収したキリスト教であり、またそのキリスト教に近似しているとする親鸞の考え方であった。このように「道得」の解説によって主格の抜き去り、ロゴスの自己展開という呼び方で表現される「こと」の自律を主張した和辻は、さらに「葛藤」の解説において、表現される「こと」の自律が招いてしまう問題について考察の糸口を得る。つまり、表現には、当然ながら複数の表現がありえ、それらは互いに矛盾して衝突してしまう。人格が表現を統率する場合には、表現の複数性は複数の人格の差異に解消してしまうが、表現を統率する主格的な人格を排除して表現される「こと」それ自体が自律するとなると、これらの相互の矛盾や衝突は自己矛盾であり、自己衝突としか言えないことになる。この表現される「こと」同士の矛盾や衝突は弁証法的に止揚される。和辻はそれをイデーの弁証法的展開と呼んだ。このことばもロゴスの自己展開同様に、内面的な観念が歴史的に展開してゆくこととして捉えてはならない。それは表現される「もの」ではなく、自律する表現される「こと」同士が抗立否定し合い、自体が止揚していく様を指している。この止揚こそが、和辻にとって「脱落」なのだった。道元の考えの根幹とされる「脱落」は、アウフヘーベンと言い換えられる。

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