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2011年9月

2011年9月30日 (金)

小林英雄「日中戦争 殲滅線から消耗戦へ」

15年戦争と一括りにして昭和初めの満州事変から太平洋戦争までを一緒くたに見てしまうことが多いため、意外と日中戦争の経過ですら知られていない。新書版ですが、それを丹念に追いかけ、それを知ること以上の読み応えがありました。著者は、近代戦争を殲滅戦(決戦)型と持久戦型の2つのタイプに分けます。それぞれの内容は本書を当たってもらうことにして、日本は殲滅戦型の戦争しか行ってきておらず、日中戦争は持久戦型の戦争となったため、無理に殲滅戦型の戦争を仕掛けようとした日本が自滅したというのです。

日本は、歴史的に四方を海で囲まれ、対外侵略をすることがなく、戦争といっても国内に限られていたことから、兵站の必要性に迫られることなく、周囲の国々との外交調整をしながら戦争を続けるという経験に乏しかったといます。日清・日露戦争は期間も短く、終始列強の力関係などが日本にとって有利に働き、短期決戦で決着がついた。だから、日本の軍隊は個々の戦闘に勝つことが最優先された。だから、個々の兵士の戦闘力が高く、下士官以下の強さは世界有数といえたが、指揮官は広い視野での戦略を考えるということがなく、将官レベルで中国に精通した者が皆無であると、軍隊全体としては猪突猛進しかできない。

それに対して、中国は面積が広く、春秋戦国時代から三国志の時代も、戦闘は広範囲で行われ、遠征距離は長く、兵站や遠征先の住民との関係(占領統治)は戦闘以上に重要で、外交交渉を含めた状況判断が重要になってくる。だから、中国の軍隊は個々の戦闘には弱く、下士官以下の兵隊の能力、モラルが低いが、指揮官は広い視野で全体を見渡しながら戦略的判断ができるという、日本の軍隊と正反対といえる。そこでの戦争は、短期決戦で決着をつけることより、被害を最小限に止めながら、最大限の効果をいかに得るかということが優先される。極端にいえば、勝ち負けよりメリットを優先する。

それゆえ、個々の戦闘では、日本軍が圧倒的な勝利を収めながら、焦土作戦により補給を断たれ、外交面では国際的な孤立に追い込まれて、戦争の長期化とともに日本軍は疲弊していった。結果的に、蒋介石の掌で踊らされたというわけです。

著者の視点が客観的かとうかは分りませんが、この有り様は、何か現代の日本企業の有り様に通じていて、現在の日本企業の苦闘も、同じような要素が強いように思えます。だから、安易な海外進出への警鐘とも読めると思います。

2011年9月29日 (木)

あるIR担当者の雑感(51)~共感のIR?(続き)

前回の続きです。

少し視点を変えて考えてみます。投資家が企業に共感するということ、それが動機付けとなって投資(株式の取得)に結びつけるという議論でした。と言っても、言うは易し、行うは難しというところでしょうか。

実際に、投資家に共感してもらうということは、前回分析してみた「感動」という受動的なパターンであれば、出会いがしらのように何らかの強烈なメッセージとか目を惹くビジュアルという手段により可能となってくるでしょう。何しろ、相手は受け身であるので、強いインパクトを与えることにより関心を惹くことは十分可能です。しかし、それとは異なり、主体的で、参加するという性格が強い場合、投資家の側にも共感するための姿勢というものがあるのではないか、と思うのです。そこで、会社とのやり取りを通じて少しずつ、それを満たして行って、一定レベルを越えたところで共感が進むというイメージで考えています。これは、一時的なインパクトによる熱狂のような場合と異なります。息の長いプロセスがかかるため、一時的な熱狂なら冷めてしまうのです、そこでは、冷静に見極めもあるでしょうし、それこそ投資家の個人個人が自分の独自の評価や判断で進められるものではないかと考えます。

だとしたら、企業の側では、どうすればいいのか。実際のIR活動の中で、何をどうして行こうとしているのか。

ここではっきりと、具体的に、これが有効だ、というものを提示することはできません。現に、いま、私も、試行錯誤の中にいるわけですから。しかし、ここで、ヒントとして次のようなことが考えられるのではないでしょうか。

話は少し変わりますが、現在、この会社のIRについては、担当者は私1人ということでやっています。社員規模が300人に満たない中小企業では、人員を割くことは難しく、珍しくもないことです。年2回の説明会を行い、資料を作成し、短信や有報、株主通信などのツールを作成し、ホームページのIRサイトを運営し、機関投資家とのミーティングを行う、あとはアナリスト等の市場関係者の問い合わせに答えたり、といったところが代表的なことです。これをだいたい一人でこなしているわけです。しかし、かといって独りで完結して、すべてを完全に行っているわけではありません。そこでは、社内の他の部署に協力を仰いだり、IR支援の社外のコンサルティングにお願いしたり、ホームページはウェブ関係の外注業者に依頼しています。そこでの彼らとの関係について、物事を依頼する⇔依頼に応える、という関係にとどまらないことを求めています。

こういうことを言うと傲慢に聞こえるかもしれませんが、物事を依頼する⇔依頼に応える、というやり取りが、それを契機にして、その当事者がその関わりによって何らかの成長できるようなことになる、ということを考えています。彼らの一人ひとりとの関係において、関係を作るということにより、彼らの将来にコミットする、そのことに対して、私は責任を持たなくてはならない。当の彼らにしてみれば、「何のこっちゃ?」ということになるでしょう。まず、言えることは、彼らを何かしてもらうための道具とか手段としは、絶対に見ない。

例えば、決算説明会の開催について会場やそのセッティング、当日の受付や案内状の送付といった開催に関する諸事は幹事証券会社に委託しています。この場合、これらはルーティンワークとして、無難にやってくれれば、それでいいという見方もあります。しかし、証券会社の担当者にしてみれば、一応のフィーを受け取れるからと言って、学生アルバイトでもできてしまうような作業では物足りないはずです。彼らも、何社もの面倒を見、それなりの経験はあり、想いやスキルの蓄積はなされているはずです。その彼らが、よりパフォーマンスできるように持っていくことはできないか、という視点で、彼らにコミットしていくことはできると思います。時には、敢えて彼らに重いハードルを課すことがあってもいいはずです。具体的にいえば、この会社とよく似た会社の説明会に出席して、この会社の説明会に出席していないアナリストに声をかけてみるとか、また、どうしてこの会社の説明会には出席する気にならないのかを聞いてみるといったことは、発行会社ではなかなかできないことです。そこで得られる情報は、説明会に限らずIR活動を続けていく際に有意義なものになるはずです。このようなものを、彼らが自発的に引き出すことになるためには、自発的に参加してもらわなくてはならない。そこで生きるのが「共感」ということになるのではないかと思います。

これは、発行会社とアナリストとの関係にも言えることです。実際に、IR担当者として、取材していただいたアナリストの方々のおかげで、成長させていただきました。本人が言うのも烏滸がましいところはありますが。そして、これだけにとどまらず、アナリストの側でも、この会社を取材することや、追跡する、分析する、担当者や経営者と話をすることで、彼ら自身が成長できるようなステージを提供できないか。その先に「共感」というものが、こちらから意識的に仕掛ける場合には、そういうあり方しかないのではないか。そこに会社の経営理念やビジネスモデルへの理解があって、「共感」に達するということではないか。要は、経営理念なりビジネスモデルなりを前向きに理解しようとする深い意味での動機付けを仕掛ける必要があるのではないか、と思うのです。

だからこそ、なおさら、コミュニケーションの重要性というところに戻ってしまうのです。

港徹雄「日本のものづくり 競争力基盤の変遷」(14)

3.外注依存度と輸出特化の回帰分析

(1)分析に用いたデータ

(2)1971年データの分析

1970年代以降、日本の機械工業を中心とする輸出産業は急速に国際競争力を強化し、その輸出拡大テンポは加速するとともに、輸出産業の収益性を好転させた。こうした大企業部門を中心とする輸出産業の好調が下請企業にも波及し、下請企業の収益性も改善された。さらに、60年代末からの長期安定的取引の継続によって、下請企業の側では、その焦点の絞られた専門加工分野での生産技術の進歩が着実に進展した。この結果、70年代末になると下請企業のなかにはその加工技術水準において、親企業である大企業の水準を上回るものも増加した。70年代を通じた下請取引の量的拡大と質的向上によって、下請分業システムは輸出産業の起用走力基盤としての基礎を固めたと評価できる。

(3)1980年代の国際競争環境

1980年代後半は、プラザ合意以降の急激な円高と深刻な対外経済摩擦とが進行し、輸出企業にとって極めて厳しい経営環境にあった。しかし、こうした厳しい試練に直面した輸出企業は、コスト削減と非価格競争力の一層の強化に向けた協力を下請企業に要請した。親企業からの激しいコストダウン要請に直面した下請企業では、VA(Value Analysis)/VE(Value Engineering)手法を駆使してプロセス・イノベーションを推し進め、生産コストの大幅な削減を実現した。こうして達成されたコスト削減による利得分の配分については、すでに取引慣行化していた。つまり、VA/VEによるコスト削減効果の内、次期の契約分については2分の1だけ納入価格を削減し、それ以降はコスト削減効果のすべてを納入価格低減に反映させるというものである。このように下請企業へのコスト削減効果の配分比率は少ないが、コスト削減成果の高い下請気企業には発注量が重点的に増大されるため、下請企業はコスト削減に傾注せざるを得なかった。また、1980年代においては、数値制御(NC)工作機械類の性能が一段と向上しその価格も低下したことから、下請中小企業でも、こうした最新の生産設備を積極的に導入して労働生産性を向上させることによって、生産コスト削減を実現させている。

(4)1980年代のデータ分析

(5)1990年代の国際競争環境

1990年代に入ると、経済のグローバル化と生産技術のデジタル化が一層進展した。こうした国際競争環境変化の影響は、産業ごとに濃淡は見られるものの日本の企業間分業システムに根本的な変質をもたらし始めた。とりわけ、90年代後半以降の3DICT革新は、第二の産業分水嶺の終焉をもたらした。

3DICT革新によってもたらされた国際的な競争構造変化の影響は、1990年代末の段階では一部の業種に限定されていた。しかし、21世紀以降になると競争環境変化の影響は広範な産業に波及するようになり、日本の分業システムは重大な岐路に立たされている。

このあと、海外投資や研究開発投資などの細かな分析がまだまだ続きますが、個々の指摘に興味深いものもあり、一読を薦めるに吝かではありません。ただ、姿勢が静観的なので、この分析をもとに、これからを考える参考にするというものではないようです。生産技術の革新により生産量が爆発的に拡大し受給バランスが崩れて、調整のために不景気が発生するという分析はうまい説明とは思いますが、あくまでもこれまでの説明には有効ですが、このスケールが今後に向けて使えるかというと、そこまでの普遍性はないように思います。

というのも、この著者なりのパラダイムというのか仮説設定の前提が明確に示されていないので、データを分析しているのに終始しているかのような印象をうけてしまい。それを理論化し、展開するという本来の学問の部分に弱いように思います。読書の対象としては、秀才のよくできたレポートで、まとまっているが、面白味のない本でした。

2011年9月28日 (水)

港徹雄「日本のものづくり 競争力基盤の変遷」(13)

第4章 日本産業の競争力要因分析

1.1960年代の競争力要因

1960年代初頭まで、日本の輸出の50%以上は中小企業製品によって占められていた。中小企業の輸出製品はワンダラー・ブラウスに代表されるような低価格の繊維製品、洋傘や玩具類の雑貨類のほか、ミシン、自転車、カメラ、音響機器等の軽機械工業部門でも輸出専業の中小企業が多数存在した。こうした輸出構造は、均質で整備された義務教育の就学率がほぼ100%であり、かつ1960年中頃までは有効求人倍率が1.0以下で余剰労働力が存在していたため、良質で賃金水準の低い労働力が豊富に供給されていたことによる。とりわけ、中小企業部門では「日本経済の二重性」といわれるような大きな企業別規模別賃金格差が存在していたことによって、大企業部門よりも低賃金労働者を多く雇用しうる環境にあった。

1960年中頃までの日本の輸出企業は、新々貿易理論が説くような高い生産性を持つ企業ではなかった。むしろ、60年代初頭までは、生産性の高い大企業部門では輸出比率が低く、成長を続ける国内需要への販売に注力していた。日本の国内市場は大企業による流通系列化が進展しており、中小企業にとって最終製品の国内販売チャネルを確立することは容易ではなかった。当時の中小企業にとって、国内市場に参入するよりも輸出市場に参入する方が参入障壁は低かったのである。

2.1970年代の国際競争環境変化

(1)ブレトンウッズ体制の変質

1970年代までの世界の自由貿易体制を支えた戦後の国際経済秩序は、大量生産システムがもたらすアメリカの圧倒的な国際競争力を前提に構築されていた。ところが、フォード生産システムの本格稼働から半世紀を経過した1960年代になると、米国型大量生産システムの絶対的な競争優位性は揺らぎ始め、70年代に入るとアメリカの貿易収支は赤字に転落した。これに伴い、アメリカの生産力とイニシアティブによって支えられてきた戦後の国際経済秩序、すなわち、IMF・GATT(ブレトン・ウッズ)体制は、1970年代に入ると急速に変質し始めた。まず、GATTは71年から発展途上国を原産国とする産品の輸入関税を減免する一般特恵関税制度を導入した。これにより、当時途上国に区分され工業化が始動し始めた韓国、台湾、香港、シンガポールなどが工業製品を無関税で先進諸国に輸出できるようになったのに対して、日本はすでに先進国グループにあり関税を支払わなくてはならず、これらの国との価格競争で劣位に立たされることとなった。

また、1971年にニクソン大統領は金とドルの交換停止を発表した。いわゆるニクソン・ショックである。この後、世界の外国為替市場は変動相場制に移行し、円高基調が続くことになった。

さらに原油生産はメジャーと呼ばれた米系中心の巨大石油企業が支配し、1バーレル3ドル前後の安定した価格で供給され、「資源供給の無限の弾力性」神話を生み日本の経営者の強気の投資を意欲を支え、高い設備投資が続いた。しかし、1970年代には、そのメジャーの支配力が低下し中東の産油国が力を獲得しオイルショックを契機に原油価格が高騰した。

以上の三つの出来事は、主に価格競争力に依存してきた日本の輸出中小企業に決定的な打撃を与え、中小企業は直接的な輸出産業からの撤収を余儀なくされた。

(2)日本の輸出構造の転換

1970年代は中小企業性製品の輸出額の縮小に対して、非価格的競争力を大幅に強化した大企業性製品の輸出が著増したため、日本の輸出額は増加した。実際、70年代半ばになると日本輸出総額の約70%が資本と技術を集約した高度組立型機械類で占められるようになり、繊維製品等労働集約的産業は輸入産業化した。

このように輸出の大部分が大企業によって担われるようになり、国際競争力が大きく低下した中小企業は、内需への転換にその活路を見出した。その典型的なケースは、1970年代に拡張期を迎えていたスーパーマーケットへの納入企業となることであった。ここでの旺盛な国内需要が、比較優位性をなくした輸出中小企業の産業調整に伴う摩擦を緩和させた。また第二に、国内市場と輸出市場の両方で需要が拡大した自動車、家電、精密機械工業等の大手完成品メーカーの下請企業となることであった。

(3)競争力基盤としての下請分業システム

日本の下請分業システムは、戦後の高度経済成長期に拡張されたが、1960年代中頃までその取引関係は不安定であり、試行錯誤を経て60年代末以降には安定し、下請分業システム利用の効率性は上昇するようになり、70年代になると、機械工業部門の持続的な成長に支えられて、下請取引関係はさらに安定化し長期継続契約が一般化した。

このような下請取引関係の長期継続性の一般化は、取引企業間の信頼財蓄積を促した。この信頼財蓄積を背景に、リスクの高い取引特定資産投資が下請企業によって積極的に実行されるようになり、下請分業システムがもたらす企業間生産性はますます上昇するようになった。この結果、日本の機械工業は下請分業システムをその競争力基盤として輸出を伸長させることとなった。

2011年9月27日 (火)

PINK FLOYD「The Piper At The Gate Of Dawn」

Pink 独断と偏見に満ち満ちていると思いますが、今さらながら、Rockという音楽について、その特徴を肯定的にシンボリックに露にしているナンバーとして、私が真っ先に思い浮かべるのは、ZEPGoodtimes Badtimesというファーストアルバムに入っている曲です。これは、メロディとかアレンジとか、歌詞とか、上手いとかいうこと以前に、この曲がかかると、何も考えることなくステレオのボリュームを最大にしてしまうような曲なのです。そして、それを、周囲の大人に「うるさい!」と言われたら、叱られるのを分かっていても反射的に言い返してしまい、その責任を引き受けざるを得なくなる衝動に駆られる曲です。あまり工夫もないようなジミー・ペイジのギターのシンプルなリフが繰り返され、ジョン・ボーナムのドラムが力強く入ってきて、キンキンするような金属的なロバート・プラントのボーカルがシャウトしだすと、冷静になれば、そんなにいい曲ではないのかもしれないのだけれど、音を大きくしたくなる。そして、大きな音にして、はじめて、その魅力が湧き上がってくるような曲だと思います。基本的に、Rockというのは喧しいものです。ただ、この曲が際立っているのは、他の曲のような単に大音量で聞いていればいいというのではなくて、大音量でなくてはダメな曲だということなのです。へんな言い方ですが、喧しいことで、はじめて音楽となっているというのでしょうか。

で、PINK FLOYDと関係ない話がつづきましたが、久しぶりにこのアルバム、邦題は「夜明けの口笛吹き」という何とも風情のあるタイトルでしたが、以前聞いたときには、ビートルズのサージャント・ペッパーズあたりのアルバムの音作りに近い印象ばかりでした。いま、この年になって、そんなこと関係なく、これだけをきいていて、おもわず携帯プレーヤーのボリュームを上げている自分に気がつきました。ドラムもベースも単に大きな音を出そうとしまくっていて、それに乗ってか乗り外れてが分からないような微妙なシド・バレットのギターが変なことやっている。それが、スタジオで遊んでいるようなのが、耳にぶつかってくるような音楽です。後年の「狂気」のような洗練されたアルバムからは想像できないような暴力的な音楽、いや、音楽になっているのか。当時は物議をかもしたのではないだろうか、想像できる内容です。ライブはもっとヒドかったと思います。喧しくて、猥雑で、胡散臭い、というRockではほめ言葉ですが、そういう形容がいっぱいつけられるアルバムです。

港徹雄「日本のものづくり 競争力基盤の変遷」(12)

5.市場創造なき新事業創出

3DICT革新によって出現した第三の産業分水嶺が、第一・第二の産業分水嶺と大きく異なるのは、その影響が非製造業部門にも重大な影響を与えていることである。とりわけ、流通業、出版業および広告業のような先進経済諸国の主要なサービス産業部門の付加価値成長にネガティブな影響を与えている。このことが先進経済諸国での経済停滞を長期化させている要因でもある。例えば、流通産業部門でe-コマースの拡大による競争激化で付加価値率が低下している。また、出版業のような情報提供サービス産業部門の一部では、付加価値を生み出す有償のサービス提供が、インターネットによる無償の情報提供サービスにとって代わられることによって付加価値を生まなくなっている。

インターネットは様々な分野で新たな情報提供サービス事業を創出させ、人々の利便性を飛躍的に高めた。しかし、インターネット関連の新事業の多くは、新市場を創造するのではなく、既存市場でのパイの争奪に終始している。インターネットによる新事業の創出は、金銭的対価を伴う経済価値(市場)創造効果が小さく、既存市場の代替にとどまっている。GDP統計に計上される生産額は、利便性向上など経済効用そのものの向上ではなく、経済取引に伴う金銭的な付加価値額の増加である。したがって、インターネットによって人々の利便性がいかに向上しても、それが金銭的対価を伴わず、既存の経済活動の代替であるとすると、経済成長への貢献はほとんどないのである。こうしたインターネットによる市場創造なき新事業創出こそが第三の産業分水嶺への移行に伴う構造不況の根源であるといえる。

6.世界市場の一体化とデフレ圧力

流通部門においては、インターネットの発展は取引当事者間の情報の非対称性を緩和させ、市場競争を古典的な経済学が想定したような完全競争市場に近づけた。このため価格競争が激化し、デフレ圧力を強める結果となった。

インターネットのブローとバンド化によって、多くの販売サイトを時間をかけて比較検討できるとともに、大容量の画像情報伝達によって、商品情報があたかも現実の店頭で見るように詳細になり、商品ごとの販売価格の比較も容易に行われるようになり、最安価製品を容易に発見できるようになったため、電子商取引での販売金額は急速に拡大している。そして、既存の商業の営業基盤を揺るがすばかりではなく、既存商店の販売価格をインターネット価格に引き寄せ下落させる傾向にありデフレ圧力を強めている。

21世紀以降、インターネット通信のブロードバンド化、通信料金の定額化によって、インターネット関連サービス業が次々と誕生し、また、電子商取引(e-コマース)の取引高も急増を示した。しかし、これらのインターネット関連事業は、そのサービス提供が多くの場合無償で行われており、新事業創出が経済価値創出と結びつかないという、これまでの経済が経験したことのない状況を生じさせている。また、インターネット関連事業で金銭的対価を伴うものも、多くは既存のサービス産業や流通産業の経済活動をより低いマージン率で代替するものが少なくない。このため、既存産業の付加価値率は低下した。

第一の産業分水嶺が大量生産方式の確立による供給量の著しい拡張と製品価格の急速な下落とによって世界恐慌を引き起こしたのと同様に、第三の産業分水嶺も、新たな大量生産システムのグローバルな移転・拡散による製品供給量の著増と製品価格の大幅な下落を招き、世界的なデフレ圧力強めている。

日本経済は第二の産業分水嶺がもたらす便益をもっとも享受し、「ものづくり大国」として世界経済に大きな存在感を示してきた。しかし、それゆえに第二の産業分水嶺の終焉と第三の産業分水嶺への転換によって最も大きな打撃を受けている。

2011年9月26日 (月)

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(23)

第7節 第一次大戦とヨーロッパ精神空間

前節までのところで、ハイデッガーが1916年に到って、自覚的に真正面から、そうした問題設定を破る形而上学的態度を打ち出し、そこに初めて真の意味での己の哲学の出発点を保ったことは、明らかである。しかし、それから金字塔的な『存在と時間』が出現するまでには、実はさらに10年間の歳月が必要であった。しかもこの歳月におけるヨーロッパ精神世界の昏迷の時代状況が、論理学的問題設定の取毀しの方向に拍車をかけ、存在問題への徹底的接近を促し、ハイデッガーをして独自の実存哲学の樹立へと促したと思われる。事実、ハイデッガーは、この時代の動乱と破局の中で、益々存在問題への関心を強くし、彼独自の思想へと深まって行く態度を示している。この苦闘の歳月が、16年の結語における態度を磨き上げ、現実の混乱の中での主体的なハイデッガー自身の哲学への覚悟を深めさせ、そこに、あの画期的な『存在と時間』を成就せしめたのだと言わなくてはならない。

1.昏迷の状況の中から

1910年代から20年代にかけての時代は、第一次大戦によるヨーロッパの破壊の中で、全欧が苦悩の嵐に見舞われていた時であった。

こうした現実世界の動乱を前にして、最も深く文化を支えるべき哲学が、この解体と不安の文化の危機、人間存在の支えのなさ、一言にして言えばこの暗黒のニヒリズムの現状に対して、何事かを語らないで済ませることはできないであろう。しかし一体何を語るのか。古き日の神を再び語るのか、それとも人間をか、世界をか、はたまた、人間存在の児の根本的な生存という現実の徹底的な露呈をか。或いは、昔日の如く、意識一般に基づき認識や論理的問題を語れば、それですべては事足りるのであろうか。新しき転身の苦悶は、要らざる苦悶にすぎないのであうか。だが、しかし、恐らくは破局の現実の中で、もはや古い哲学の形態は維持し難くなっているであろう。あるものは、破局の中での人間存在の裸の現実であり、その存在の中に根ざして、新しく世界像を再建すること、そのことのみであろう。確かに、ヨーロッパ大戦後の昏迷の暗い翳の射したこの状況の中で、哲学は、何事か新しきことを決意し、そして何ものかを捉え、語り出さねばならない事態へと追い込まれていた、言わなくてはならない。そしてそれを反映するように、その当時の哲学の世界にも、変貌と混乱の新しき萌芽か動き始めていた。

第一次大戦の混乱を契機として、近世的な認識論的論理学的問題群が瓦解され、具体的な生の現実、或いは存在の下降の道が求められ、人間の理性的意識一般的側面よりも、根本の人間存在という、動かし得ない、知的なものに先行する、端的なその事実性、現実性というものへの注目が、今やあらゆるものの破壊の体験と相まって、漸く起こりつつあったということであろう。

ハイデッガー自身は、破局の状況の中で、人間存在への凝視を方法的には現象学に学び、内容的にはキルケゴールに示されるような実存的なものを目指していたのであろう。そこに、16年の結語の形而上学性を具体化する方法を発見し得ると考えたのであろう。しかしその形而上学性を、伝統的なキリスト教に合流させることには、彼は違和を感じていたのだろう。ただ、混乱と破局の中で迷いつつも、何らかの光を求めてあがかざるを得ない己の姿、ひいては人間存在の現実に、先ず自覚し、そのあり方へと考察の眼を向けて行ったものであろう。大戦後、『存在と時間』を出すまで、ハイデッガーの思索の関心は、明らかに、認識論的論理学的問題を超え破局の中で、暗さも明るさをも含んだ人間存在そのものへと向かっていったことは、容易に洞察されよう。悪魔性と頽落と罪とを背負い、不安と無と深き淵辺にさすらいながら、何か一条の存在の光を求めてあがく人間存在の姿、そうしたものに、彼は、恐らく、現代ヨーロッパの運命性を見届け、かつはまた己の姿を見届けたに違いない。そうした論理学的問題を取毀した領域に、彼は新しい哲学の根づくべき問題を発見し、これをぎょうししてゆき、そこに、あの形而上学的志向を定着させてゆくこと、それが、ハイデッガーのその当時の苦悶のすべてであったと思われる。そうしたいわば「無神の神学」が、その頃のハイデッガーの課題であったろう。

2.「新しい模索」の動き

ここで、著者はローゼンツヴァイクの紹介とともに、時代状況やハイデッガーとの関連性を説明しています。そして、最後に、

このように、第一次大戦をめぐってのヨーロッパ精神空間は、近世の論理学的認識論的問題設定を瓦解させ、現代への思想的転換を昏迷と模索の只中で遂行する、暗い空気を醸成していたのであり、こうした背景においてハイデッガーは、様々な思想運動や文化再建の事業に促されつつ、厳しい姿で、必然なる一事を求め、かの16年形而上学的志向を、「新しい模索」の中へ定着させ、彫琢と上げようと努めていたのであり、このようなヨーロッパ破局の状況の中における十余年の歳月に亘る苦悶と思索の中から、ハイデッガーの実存哲学、のみならず一つの現代思想の典型である『存在と時間』の稔り得たことを、我々は忘れてはならないのである。

この後、しばらく時間をもらってから、第3章をまとめてアップします。

港徹雄「日本のものづくり 競争力基盤の変遷」(11)

3.世紀末繁栄を支えたICT革新

第二の産業分水嶺期である1980年から90年末まで、世界的不況が発生しなかった、もう一つの特異な要因は、情報通信技術(ICT)革新、とりわけ、インターネットの発明とその普及による新産業への需要拡大が先進国経済をリードしたことにある。

とくに、米国シリコンバレーを中心にインタへネット関連のサーバー製造やインターネット通信関連ソフト開発、さらにインターネット検索サービス等多様な事業分野で多くのベンチャーが創出された。これらのベンチャーは90年代に急成長を遂げ、雇用を拡大させた。インターネットの発展を主導した米国経済は1992年以降2000年まで9年間にわたって安定した景気拡大を実現した。20世紀末のこうした米国経済の好調を背景に、米国エコノミストのなかに「ニューエコノミー」論が幅を利かせるようになった。つまり、ソフトウェア・情報通信産業が主導産業となった新しい経済では、低失業率と物価安定とを両立させた持続的な経済成長が実現し得るという主張である。このニューエコノミー論の論拠として、まず、情報通信産業は既存産業とは異なって、限界生産費はゼロに限りなく近く、生産規模がいくら拡大しても収益性は上昇を続ける「収穫逓増」型産業であること。第二に、情報・ソフトウェア産業は製造業とは異なって在庫そのものを必要としない産業であり、また、既存の製造業でも最新の情報技術を活用することによって在庫管理能力が飛躍的に向上し、常に適正在庫水準を維持できるようになったため、景気変動の主要因である在庫循環が生じないことを指摘している。

しかし、ニューエコノミー論者の成長持続論にも関わらず、アメリカの景気は、21世紀に入ると大きく減速した。20世紀末に米国経済の成長を牽引した情報通信技術革新が、何故21世紀に入ると急激にそのパワーを減退させたのか。その第一の理由は、インターネットの急速な普及と成熟化にある。商用インターネット人口は1990年から2000年までの10年間で爆発的な膨張を遂げたが、21世紀以降は先進諸国ではすでに成熟産業化し、伸び率が大幅に鈍化していることが成長牽引力の低下の要因として指摘される。物的財で新規の革新的製品が開発されたとしても、その導入から成熟までには20年近い期間を要することを勘案すると、ICT産業のライフサイクルは著しく短いと言える。第二の理由は、ソフトウェアなどの情報財には更新投資が存在しないことである。ソフトウェア等の情報財の経済特性が需要の鈍化と大きく関係している。つまり、通常の機械設備等の物的財は使用によって確実に減耗し、一定の耐用年数を経ると更新投資が見込まれるが、ソフトウェアのような情報財の場合には使用による減耗は生じず、したがって、同一財の更新投資は期待できない。ソフトウェア投資は、コンピュータ・システムの抜本的な変更のない限り、追加投資を必要としない。パソコンに用いられるソフトウェアについても同様であり、使用による減耗がないから、その機能が画期的に向上した新バージョンが開発されない限り、新しいソフトウェアの切り替え需要は発生しない。とくに、2000年以降に新規に開発されたソフトウェアは20世紀のWindows98などのようなものに比べると革新性は低く、買い替え需要も大きくは盛り上がらなかった。このことが世紀末成長を支えたソフトウェア産業が21世紀に入ってからは成長牽引威力を低下させた要因である。

4.3DICT革新と世界不況

2008年9月以降の世界不況の原因を、国際的な競争環境変化に伴う調整摩擦という観点から説明できる。

1990年代末頃から進展した3DICT革新は、第二の産業分水嶺において、付加価値成長の源泉であった「柔軟な専門化」による経済効果の大部分をデジタル技術で代替するまでになった。そしてこの3DICT革新によって主導される新たな生産技術体系には普遍性があり、これまで高度な機械生産と無縁であった発展途上諸国にも急速に普及するようになった。この結果、世界の競争環境は一変し、中国をはじめとする東アジア諸国の供給能力は急速に拡大した。このように、第一・第二の産業分水嶺が先進経済諸国の経済発展に有利に作用したのに対して、第三の産業分水嶺は、発展途上国の産業、とりわけ製造部門の発展にとってより有利に作用している。このことが、第三の産業分水嶺の第一の特徴であり、近年、先進諸国における経済成長鈍化と、新興工業諸国における高い経済成長という成長率の二極化を産んでいる主要な要因となっている。

また、3DICT革新が世界経済へ及ぼす影響については、第一には、製品技術の標準化・公開化と生産技術のデジタル機器による代替化は、生産活動、とりわけ、機械生産のグローバルな拡大とそれに伴う製品価格の急激な低落をもたらしたことである。機械工業は先進経済の中核産業であり、従来は技術の蓄積不足は発展途上経済が機械産業部門へ参入するうえでの高い障壁となってきた。ところが、インターネットの普及は「ネットワークの外部性」の重要性を高め、多くの機器で技術の互換性確保が求められるようになった。この結果、技術の標準化と技術情報の解放が進展した。標準化され公開された技術を用いることで、先進経済でなくても容易に高度な機械機器が生産可能となった。また、国際的な競争に耐える機械機器の生産に必要な熟練技能や生産管理技術、つまり、「ものづくり」技術も三次元CAD/CAMシステムや生産管理ソフトウェアによって代替されるようになった。この結果、ハードウェアの生産管理機能は東アジア諸国を中心にグローバルに拡大し、製品価格の累積的低下をもたらした。

第二の影響は、熟練技能や企業特定技能の必要性が低下したことによる長期雇用の縮小と雇用の不安定化が雇用者所得の減少と消費支出の低迷をもたらし、不況を長期化させていることである。

第三の影響は、第二の産業分水嶺において大きな役割を果たした特定取引関係の流動化と企業間受注競争の激化をもたらした。受注の不安定化に直面したサプライヤーは設備投資を手控え、非正規労働への依存を一層高めるようになった。

2011年9月25日 (日)

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(22)

第6節 スコトゥス論の「結語の章」の問題

以上のように、1911年の哲学的出発以来15年までの間に、ハイデッガーが続けざまに完成した、学位論文、教授資格論文、試験講義などの論述は、その底に仄かに哲学的萌芽を宿しながらも、全体としてはなお、徹底的に、新カント学派の認識論的論理学枠組みの中を動いているにすぎなかった。存在と人間のかかわり合いの世界へと焦点が合わされながらも、問題設定が認識論的論理学的であるために、存在への思索は、存在領域の範疇的考察ないしは諸学の基礎への問いとなり、人間も、判断主観、認識主観であり、従って両者のかかわる世界は、妥当的意味や言語的表現の世界であり、それらの底を破る実存的人間存在の世界への視界は、未だ切り拓かれていなかったと言わざるを得ない。

しかるに、翌16年、既に教授資格を取っていたハイデッガーは、新たに『ドゥンス・スコトゥスの範疇及び意義論』を上梓するに際して、最後に「結語の章」を書き加え、徹底的にこれまでの認識論的論理学的問題設定を破壊して、新たに形而上学的視界を開示してみせる。そこでは、先ず、範疇問題において、人は対象領域を最根源的なものにまで還元区分すべきであり、しかもそれを判断主観とのかかわり合いの中でなすべきであり、さらに範疇問題の見込み多い解決のための第三の根本要件として、論理学及びその問題は、一般にそれらが解釈される源泉の構造聯関が超論理的なものでないならば、真の光の中で見られることにはならない。哲学はその本来的な光学即ち形而上学を永久に欠くことはできないというこが強調力説されるのである。

このように先ず、対象領域を最根源的なものにまで還元し、しかも判断主観とのかかわり合いの中でそうすべきだとする要請は、対象領域の範疇的根源である存在へと深まり、しかもそれを人間的存在とのかかわり合いの中でなすべきだということであり、それは、とりもなおさず、存在と人間の交錯の地点を、認識論的論理学的存在考察や判断主観の設定を超えて、深めてゆくべきだということに他ならない。しかも、ハイデッガーは、はっきりとその地点の深化の方向を、単なる論理学的問題設定ではなく、それらが基づく超論理的な世界、形而上学的な視界の中での、範疇問題の取り扱いの方向として語っている。範疇問題とは存在への思索であり、判断主観とは人間存在に他ならず、その両者のかかわり合いの中で、問題を形而上学的な視野へと、認識論的論理核的問題設定を瓦解して深めてゆくことこそが、真の哲学的出発として語られているのである。これは、明らかに、全く新しいハイデッガーの問題深化の第一歩ではないだろうか。確かに新カント学派的な論理学者はここでは姿を消し、後年のハイデッガー哲学の内的萌芽がはっきりと現われていると言える。

第一に、ここで、哲学は、超論理的な形而上学的な光の世界の中に根づくときにこそ、真に生きるものとなる、とされている。ハイデッガーは後年に到るまで、常に、この哲学に対し光を与えるものを求めた。しかも、後年に到ると、哲学は常に形而上学の光に導かれるだけでなく、更に深く存在そのものの光によって照らされなければならないとされる。ハイデッガーにおいては、哲学は、論理学的な導きの星によってでなく、超論理的な形而上学的な光によって、そしてさらに存在そのものの光によって照らされねばならないと、立場が深められてゆく。ここには哲学する態度に決定的な変革がある。論理学的なものを超えて、形而上学的な光学に基づいて哲学を展開させようとする態度、しかもその光は存在の方向へと朧げに向かっているのであるが、そうした形而上学的態度が、かつての認識論的論理学的問題設定に代わって、明確に打ち出されていると言わなくてはならない。

しかも第二に、その存在の光へと目指す形而上学的世界が、後年の「存在史」を聯想させるような生ける精神の歴史的世界として、広大な展望の下に、聖なる神の精神への没入を希求するような精神態度の中で志向されている。存在者の生起の豊饒さの中で、存在の聖なる世界が望まれるのであり、その世界の時間的な贈与の地平が、朧げながらここに設定されているのである。ここに聖なる時間的地平への予感が、ヘーゲルの通俗的な時間概念への対決的な意識の下に現われている。

さらに第三に、そういう形而上学的なものを目指す哲学は生から遊離した理論的態度ではなく、単に現実を文字に綴ることを止め、今日の感性的世界への内容的拡がりへの自己喪失から己を取り戻した、真理なる現実及び現実なる真理の中へと突破していく、一種の世界観的な、人間の実存的生き方にかかわるような生ける哲学であるとさえ、考えられているのである。ハイデッガーは世界観としての哲学を正面から主張したことはないが、後年の存在の思索には、一種の世界観の色彩が強く附着しているとも見得る。それは世界観という特定の体系を目指すという意味ではなく、厳しい実存的主体的な生ける思索であるという意味である。そしてそうしたものの萌芽がここにはっきりと現われている。

確かに、学位論文、教授資格論文、試験講義にも、ハイデッガー時な思索の萌芽は潜んでいた。しかし、そこでは、哲学する態度が、明瞭に新カント学派的な論理学的問題設定の中に止まっており、そこから如何ようにしても実存的思想への道は開けていない、固く鎖された思索の萌芽を伸ばすためには、そうした論理学的問題設定そのものの瓦解が起こらねばならない。そしてまさしく16年の「結語の章」は、ハイデッガー自らが、そうした態度を抛棄して形而上学的な哲学態度を採るに到る、宣言の書であったと言える。しかも、その形而上学的志向は、そのうちに存在への思慕、時間的地平、実存的核心というものを含蓄した、明らかに論理学的哲学の根底を瓦解させた生ける哲学、人間そのものにかかわる実存的哲学への萌芽を、はっきりと宣言しているのである。これは、明らかにハイデッガー自身が、自覚的にここで己の立場を決定づけたことを証明しているものと言わなくてはならない。その意味でこの「結語の章」は、単に『ドゥンス・スコトゥスの範疇及び意義論』への結語たるに止まらず、ひいては1911年から16年までのハイデッガー自身の準備的修業時代そのものへの結語でもあったと言うべきである。

あるIR担当者の雑感(50)~共感のIR?

ようやく50番目となりました。このブログが約1年ですから、だいたい1週間に1回に少し足りないくらいのペースでしょうか。

先日、雑感(45)でも書きましたあるIRセミナーの参加者特典として、IRツールの診断結果が出ました。それ自体に関しては、別の機会に書き込みすることがあるかもしれません。今回は、そこで診断してくれた人が、投資家の共感を得て投資してもらうという意味合いのことを盛んに主張していたのが印象に残ったので、そのことについて、少し考えてみたいと思います。というのも、このところ、私の勤め先の説明会の出席者、とくにアナリストや機関投資家関係の出席者が定着から少しずつ増えてきたり、とか機関投資家訪問がほぼ定期的にできるようになってきたり、と少しずつ関係が出来上がってきているのではないか、というようなことを担当者として実感してもいいのではないか、と思える状況になってきたということが思えるようになりました。私の勤め先の場合は、ここで何度も書きましたように、投資先として決して魅力的といえる会社ではなく、アナリストやファンドマネージャーという投資のプロの人たちとの関係ができつつあるのは、投資先として魅力というだけでなく、別の面として、例えば、共感とか関心という要素がかなりあるのではないかと感じているからに他なりません。

成長した企業の創業経営者の話を、テレビのインタビューや講演などで聞くと、魅力に惹きこまれて、この人と一緒に仕事をしたいという思いに駆り立てられることがあります。それが、ここで話そうとしている「共感」といったものの、理想の姿のひとつといえるかもしれません。そこで、投資家は投資をするという行為を通じて経営者と一緒にがんばるということになるのでしょうか。従業員ならば、この人と一緒に仕事をしたいと。

一方、最近、巷でよく聞いたり、目にする言葉に「感動をありがとう」というフレーズがあります。この場合、この言葉を発する人は、何かを享受した感謝の言葉として述べているようで、この人は受身の存在となります。単純な区別ですが、この場合は、さっきの「共感」の理想の姿というのは、異なるように思います。ここには、参加ということが欠けているように思います。

例えば、先日の女子サッカー・ワールドカップの日本チームです。「感動をありがとう!」という垂れ幕がメンバーの帰国した空港の通路などで見られましたが、あれなどは日本女子チームの優勝という成果を消費することで感動するということで、レストランでおいしい料理を食べたときに料理人に「おいしかった」と一言声をかけることと、変わりはありません。玉木正之というスポーツ評論家の言によれば、本来ならば、サッカーチームのサポーターというのは、12番目のプレイヤーの名のとおり、みんなでフットボールをプレーしていたころの名残で、フィールドのプレイヤーはたまたまフィールドにいるという一体感があるといいます。例えば、地域のお祭りでお神輿をかついでいる人と見ている人がいるけれど、それはたまたま、その時はそうなので、次の瞬間は、かついでいる人と見ている人は代わってしまう、という関係です。老人は、かつてはかついでいたし、子供は将来かつぐことになる。それと同じで、フィールドにいるプレイヤーと観客席とは同じという意識なのだそうです。その背景には、スポーツの底辺の広がりと地域共同体と一体化したチームという文化的背景があるそうです。これに比べて、日本の場合には、応援団というスポーツには参加せず、スポーツのプレイとは無関係にプレイヤーと役割分化するかのように応援に専念するという特異な集団があることに象徴されます。スポーツをする人と見る人に二分化され、フィールドのプレイとは無関係に客席は応援という行為自体で盛り上がるという、関係が出来上がっているといいます。だから、ゲームの結果が一番重要になってくる。それは、今回のワールドカップで繰り返し流された映像が、プレイヤーたちのひたむきなプレーや美しい身体の動きではなくて、優勝が決まったPKの蹴り終わったシーンや表彰式で優勝カップを高々と持ち上げるシーン、試合ではゴールシーンの終始していることからも分かります。

つまり、このような「感動」を得るためには、何かしらの結果が残された上で、それをある程度のまとまった人数のひとが納得し、それを享受することで何らかのメリットが受けられることが分かるようなストーリーを提供し、それをおいしく消費できて、はじめて「感動」という結果にいたることになるのだと思います。

これは、果たして、これまで私がIRの目的やIRとは何なのかと、しつこく考えてきたことには、そぐわないように思います。さきの理想といった姿のように、ここには参加という点が欠けていて、一緒に何かしようということがない。極論すれば、ここからは何も生まれないのです。投資というのは、資金を出すということを通じて、一緒に生み出す行為なのではないかと私は思います。だからこそ、投資家は金も出すけれど、口も出すわけです。それは、投資ということで関わったビジネスを、できれば発展させたいというのが、投資の本来であるからではないでしょうか。だからこそ、投資家と経営とのコミュニケーションというのは不可欠ですし、その役割を担うのがIRという、いたって建前論ですが。

だから、私が求めているのは、一方的で一時的な感情の高ぶりのようなものではない。まさに、今言ったような投資家の参加意識そのもののようなものです。それこそが、最初にいった「共感」という言葉になってくるのかもしれません。

ということになれば、最初に述べた理想的といったケースのような経営者の人となりに一瞬で魅せられてというようなことは、例外的と言わねばなりません。経営理念とか会社からのメッセージというものは企業を知る上で大切なことに違いありませんが、それを一回説明を聞いただけで株を買おうというということは、さきほど長々と説明した「感動」に通じるように思います。多分、そういう投資家は株価が少しでも下がれば、すぐに手放してしまうのではないか、とおもうのです。そうではなくて、参加してもらうというのは、息の長い、信頼の積み重ねやコミュニケーションを続けながら少しずつ出来上がっていくのではないか、と思います。

では、そのためにIRは、具体的に何をしていかねばならないか。これは、建前論で、何の面白みもないと思いますけれど、一朝一夕の効果を期待せずに、地道な努力を続けるしかないのではないか。努力しているプロセスを見てもらうことに努める。当然、会社からメッセージを発し続けることは必要です。そのことも、ふくめてもう少し考えていきたいと思います。

港徹雄「日本のものづくり 競争力基盤の変遷」(10)

第3章 分業システム転換と世界不況

世界規模での不況は、生産技術や需要構造の変化によって引き起こされた国際的な競争環境変化に対して、既存の域内分業システムの適合が同時並行的には進展し得ないことによる様々な摩擦が顕在化してものであると考えられる。換言すれば、産業分水嶺の移行過程に生じる現象であるといえよう。

1.第一の産業分水嶺と世界不況

1930年代初頭の世界恐慌は、1910年代からアメリカで確立された大量生産システムが欧米先進諸国を中心に本格的に普及した段階で発生したと考えられる。つまり、第一の産業分水嶺である生産システムの大規模な革新が、工業製品を大量かつ安価に供給させるようになったのに対して、需要(市場)システムや雇用システム等の経済システムが、それへの適合に遅れたことによる摩擦現象として理解刺されるべきである。

T型フォードに代表される自動車工業での大領生産システムは、1910年代中頃には確立・普及した。第一次大戦後の数年間は大量生産システムによって拡大した供給力の過剰は復興需要によって吸収されたが、1920年代になると供給力の過剰が表面化するようになり、デフレ圧力を強めるようになった。このように大量生産システムの本格的な普及による供給能力の急拡大に見合う大量消費市場は未だ確立されていなかったため、デフレ圧力が強まった。企業は過剰化した供給能力を圧縮するために、労働者を解雇したために大量の失業者が発生した。このため消費需要はさらに縮小し、失業が失業を呼ぶ悪循環を生じさせた。

したがって、この世界恐慌の原因である大幅な需給ギャップを改善しも失業の連鎖を断ち切って雇用を拡大するためには、ケインズ流の有効需要政策は効果的であった。しかし、フォード生産システムの普及による、供給能力の飛躍的拡大と大量生産された商品の急激な価格低下は、短期的な有効需要政策では解決されない問題である。より重要な課題は、大量生産システムによって急増した供給能力に対応した、新たな大量流通システムや大量消費システムが構築されることであった。また、大量生産システムが普及した産業部門の商品価格と、大量生産システムから取り残された産業部門、とりわけ、サービス産業部門での、財・サービス価格との間に生じた大きな相対価格差が調整され、新たな価格体系に消費行動が適合することが必要であった。事実、新たな産業システムへ適合するための経済構造調整は、世界恐慌を契機に進展した。つまり、1930年代には大量消費の象徴であるスーパーマーケットという新たな流通形態が生まれ、ラジオ等のマスメディアを活用した広告事業も活発化し、マーケティング技法も大きく進歩した。これにより大量生産された製品の大量流通・大量消費の基礎が築かれたのである。

2.第二の産業分水嶺と世界不況

第二の産業分水嶺の始発期である1970年代初頭には、産業システム転換摩擦による世界規模での不況は発生しなかった。

この第一の要因は、第二の産業分水嶺は、生産規模の急速な拡大を伴うシステム転換ではなかったことにある。つまり、第二の産業分水嶺は、技術革新や需要構造変化の加速化という国際競争環境に対して、高い適応能力を発揮する柔軟性の高い企業間分業システムが先進経済諸国を中心に普及したことによって生じたといえる。したがって、第一の産業分水嶺のように、生産技術体系の大変革による供給能力の大幅な拡大や破壊的な製品価格下落を伴うものではなかったためである。

第二の要因は、第二の産業分水嶺の特色は、コミュニティ的な長期継続取引を重視することにある。したがって、景気循環による不況期でも、安定的な取引関係の維持が優先された。また、長期雇用を前提にした熟練形成が重視されたために、景気変動による雇用量の調整は原則的に実施されなかった。さらに、賃金や生産物価格を引き下げるような激しい市場競争を、製品差別化によって回避しようとする傾向が認められたためである。

第三の要因は、柔軟な専門化は参加メンバーが制限された特定の地域(コミュニティ)内で実現され、その地域特有のネットワーク形成を前提にしている。いわば、地域(立地)特定資格蓄積による経済効果である。このため、こうした経済効果は地域外へのスピル・オーバーは限定的であり、その模倣も容易ではない。同様に、日本の下請分業システムは、日本の特異な産業発展過程でその取引慣行が形成された側面があり、そのシステムを直截に海外に移転することは困難である。

このように第二の産業分水嶺における企業間分業システムは、それを育んだ各国(地域)の特異性によるところが大きい。したがって、こうした企業間分業システムが、世界各国で定着するためには一定の時間経過を必要とするため、産業システム転換の世界的影響も分散的となる。このように第二の産業分水嶺の特色である柔軟な専門性を実現し得る企業間分業システムが確立し、それによる恩恵を享受し得た国は限定的であった。

このため、柔軟な専門化を実現する域内分業システム編成が進捗した諸国(地域)と、第二の産業分水嶺に乗り遅れた諸国(地域)とでは国際競争力格差が拡大した。

2011年9月24日 (土)

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(21)

第5節 試験講義について

教授資格論文を提出したそのころ、ハイデッガーは講義許可所得のために、『歴史学における時間概念』を1915年7月27日フライブルク大学で試験講義している。

ハイデッガーは先ずこう言う。「学とは、諸原理によって秩序立てられ基礎づけられた、理論的認識の聯関である。認識は判断の中に書きつけられる。これらの判断は真であり妥当する。しかも、厳密に言えば、個々の探究者が認識獲得の際になす判断作用が妥当するのではなく、判断の意味が、即ちその内容が、妥当するのである。すべて学とは、その完成されたイデーにおいて見れば、それ自体で存立する妥当的意味の聯関である」と。ところで学には、その「基礎概念」があり、それの「論理的構造」を明らかにすることが、学の方法論的認識として必要である。それは、「論理学の究極の根本の要素たる範疇」の問題に帰着する。「個別科学における探究方法の論理的基礎を摘出することが、それ故、学問論としての哲学の主要問題なのである」そして時間概念は、特に史学におけるそのような基礎概念ないし基礎範疇であり、そこで、「歴史学の時間概念は、それがこの学の目的にふさわしく時間概念として役立ち得るためには。どのような構造をもたねばならないか」と問われ、そこにこの試験講義の根本問題が立てられるわけである。さらに、歴史学における時間概念を明らかにするために、まず物理学的な時間を分析し、これに対して歴史学は。本来「人間」を対象にし、「文化のイデー」をもち、「人間精神の客観化」を基礎として、しかもそれを「価値関係」の面で見ることを主眼とする。このために資料がその事実性において確かめられ、更に事実間の聯関が注目されてゆく、従って、歴史の時間は、単に量的な位置の順序でなく、それぞれ独自の充実をもった質的なもので、物理学的時間とは区別される。このような論じ方は、リッケルト的、西南学派の学問分類にしたがって、それらの学の基礎概念として時間概念を考察しているに過ぎない。

港徹雄「日本のものづくり 競争力基盤の変遷」(9)

7.第三の産業分水嶺へ

3DICT革新時代の到来によって第二の産業分水嶺が終焉し、21世紀以降には第三の産業分水嶺に突入した、第三の産業分水嶺の特徴の第一は、「柔軟な大量生産の時代」である。少量生産から大量生産まですべての生産がデジタル化された汎用的生産機器によって遂行されるようになり、大量生産であっても専用資産を必要としないために生産活動の重要性が容易に実現できるようになった。

第一の産業分水嶺では、大量生産のためには専用化された生産設備(企業特定資産)投資が必要となる。そして、企業特定資産は完成品メーカー自らが投資を行い、外注するサプライヤーが取引特定資産を必要とする場合には、メーカーがサプライヤーに貸与するか、その投資費用を負担するのが一般的であった。また、中・少量生産のためには熟練工がマニュアル操作する汎用的な生産設備が用いられた。第二の産業分水嶺では、大量生産のためには、第一の産業分水嶺と同様に専用的な生産設備が用いられた。しかし、外注先のサプライヤーが大量生産のために特定資産投資を必要とする場合には、サプライヤー自身が取引特定資産投資を実行するケースが一般化した。また、中・少量生産ではNC工作機械等汎用的な生産機器が用いられ、生産の柔軟性と労働生産性の向上とが両立されるようになった。

これに対して第三の産業分水嶺では、三次元での開発・設計が可能となり、完成品メーカーと部品サプライヤーとが同時並行的に開発・設計を行い、部品要素間の「摺り合わせ」もサイバー上で実施することが可能になった。そして、完成した三次元設計図面はそのままマシニング・センター(MC)のような汎用的な生産設備に送られてほぼ自動的に生産がなされる。このため取引特定資産や取引企業間の緊密なコミュニケーションの必要性を大きく低下させ、企業間取引関係が流動化した。第一と第三の産業分水嶺は、共に大量生産における生産性の飛躍的な向上である。そして、第一の産業分水嶺では生産機器は高度に専用化されることによって、熟練労働に代替し、第三の産業分水嶺では、デジタル制御された生産機器が熟練労働に代替した。この結果、長期雇用に基づく熟練形成の役割が低下したため、雇用は流動化した、第一の産業分水嶺と第三の産業分水嶺とのもう一つの共通点は、企業間で分業されたものを統合するシステムが基本的には市場(価格)メカニズムを通じてなされることである。これは第二の産業分水嶺においては、企業間分業が長期継続取引を前提にしており、その取引が準内部的なメカニズムによって統御されるのとは対照をなしている。第一の産業分水嶺と第三の産業分水嶺の3番目の共通点は、グローバル規模での生産拡大と競争激化である。第二の産業分水嶺では、電子機器をはじめとするハイテク機械製品の生産は、高度な生産技術と製品開発技術を必要としている。このため、その生産の多くは先進経済諸国に限定され先進経済諸国間での競争に終始した。しかしながら、3DICT革新によって、熟練技能や生産管理技術がデジタル技術によって代替されるようになり、ネットワークの外部性を獲得するために先進技術の多くが公開され、技術の標準化が進展するようになると、それまで先進諸国以外の参加を阻止していた技術的な参入障壁が大幅に低まり、新興工業諸国をはじめ世界的規模で新規参入が拡大した。この結果、技術標準が確立した製品は、パソコンのようなハイテク製品であっても製品差別化は困難となり、価格での需要量が決定される市況商品(コモディティ)化が進展し、世界的規模で価格競争が激化した。コモディティ化した商品は急速な価格と付加価値率の低下に直面するようになり、先進経済諸国の企業がこうしたコモディティ化した産業部門で利益を確保することが困難となった。実際、コモディティ化を回避できない企業は収益性の低下に直面している。製品のコモディティ化を回避するほとんど唯一の方法は、基礎段階からの研究開発の効率性を高め、革新性の高いプロダクト・イノベーションを実現して製品差別化を図ることである。したがって、第三の産業分水嶺は、価値の源泉としての知的資産蓄積が決定的に重要となる段階でもある。

第三の産業分水嶺の重要な特徴は、第二の産業分水嶺で見られたような、企業間連携による知的生産性向上わりも、直接的に知的資産をよりも、直接的に知的資産を獲得するM&A(企業の買収・合併)が選好される傾向が強いことである。また開発者個人間のネットワークの重要性が格段に高まったことも大きな特徴をなしている。技術のオープン化・標準化の進展によって、ものづくり、とりわれ完成品レベルでの高付加価値率を実現するためには、革新的な機能部品(デバイス)や新機能を持った素材の開発がより重要になっている。また、第二の産業分水嶺を主導した組立型工業よりも、ファイン・ケミカル(医薬品等)のようなプロセス型産業がより高い付加価値を生み出す時代へと変化している。組立型機械工業が経済成長を主導した第二の産業分水嶺では、企業間の知的連携が知的生産性の向上にとって最も重要であった。なぜなら、組立型機械製品は比較的自己完結性が高い多数の部品によって構成されており、それらの部品メーカーと完成品メーカーとが共同開発連携を行うことによって、高付加価値が新機能部品や新素材そのものの開発に移るようになると、企業間の知的連携の余地は狭められるようになった。第三の産業分水嶺においては、高い付加価値を生む新機能部品や新素材、あるいは医薬品等の開発では開発プロセスの相互連関性が強く、企業間連携よりも統一した管理機構の許で一体的な技術開発を推進した方がより効率的である。なぜなら、こうした産業部門で技術開発に必要とされるのはテクノロジー(技術)よりもサイエンス(科学)に近い基礎的研究である。基礎的研究は技術開発に比較して、その応用領域が広いという特徴を有している。このため、企業間連携による共同開発の場合、その研究成果が共同研究課題以外に転用されるリスクは高く、企業間連携よりも企業買収(M&A)による研究開発プロセスの統合化が選好される。

また、第三の産業分水嶺で高い研究成果を達成するのは、累積(Incremental)型開発というよりは突破(Breakthrough)型開発である。こうした突破型技術開発では、開発者個人によって遂行される部分の重要性が高く、組織(チーム)の役割が相対的に低下している。そして、開発者個人の知的生産性の高さが企業の開発成果に直結しており、開発者個人の知的生産性は、その個人の資質と共に、その個人が形成する知的ネットワークの質にも依存している。実際、シリコンバレーの知的生産性が他の知的クラスターに比較して圧倒的に高いのは、開発者個人間のネットワークが高度に発展しているからである。

2011年9月23日 (金)

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(20)

2.その底に潜むもの

Ⅰ 範疇論の底に潜むもの

本論文には、見逃すべからざる後年のハイデッガー哲学への糸口が潜んでいる。その第一として、第一部の範疇論という主題設定は、即ち学位論文の判断論という主題設定に既に見られた、あの「“存在”の全領域」への問いに繋がるものに他ならないからである。範疇論は、幾つかの対象領域を構造的に分肢し、例えばそれを数学的、自然的、超越的、論理的等の諸領域として摘出しているが、そうした分析の日子には「存在」という対象性一般への、即ち存在の全領域への問いが潜んでいると言ってよい。学位論文の理念は、明らかにここに生き返って来ているのである。しかもここでは、学位論文での判断論という論題そのものが、つまり論理学そのものが、一つの現実様式となるような、より広い対象領域全体の構造への考察がなされており、存在一般を根本的に領域的に区分してみようとする範疇論が試みられ、ここには学位論文の問題の深化があるとさえ言える。

ハイデッガーがここでスコトゥスの範疇論を問題にしているということは、既に朧な形で存在へと問い出しているということであろう。ただここでは、リッケルト的な枠組み、そうした新カント学派的な論理学的範疇論という枠組みにおいてであることは、依然として注目されねばならないことである。何故なら、「存在」をもとにして対象領域の構造を解明しようとしながら、具体的には、彼は、リッケルトの「異定立」の思想によって、「一」を手懸りに範疇論を展開しているにすぎず、またその結果区分された存在領域についてみても、先ず存在を対象性一般としていわば「所与性の範疇」の如く基礎におきつつ、次いで、量と同質的媒体の数学的世界や価値を含む個体的多様の自然的世界を導出しているが、これは明らかに、現実を「異質的連続」とし、そのうちの同質的側面を照らし出すものを自然科学的世界、そのうちの異質的側面、しかも個性的に有意義な価値関係的事実を取り上げるものを歴史的現実世界とした、リッケルトの有名な意見の踏襲であり、更に「真」を手懸りとして論理の世界を妥当とするなどはリッケルトそのままであり、このように、超越的形而上学的世界を認めるのが僅かにスコトゥスに即した範疇論であることを除けば、ここで範疇論という、本来は存在を問うべき議論は、実は全く新カント学派的枠組みの中に閉じ込められてしまっているのは、あまりに明らかだからである。ハイデッガーは、後に、こうした存在の全領域への問い、そうした領域への問い、そうした領域の構造分肢の問題つまり範疇の問題を、「広義で言えば存在論」だと明言し、自分の試みは、そうした存在論の試みにあるが、ただし単なる存在論でなく、通常の存在論の根拠にあるべき基礎存在論のそれであると言明する。基礎存在論は、単なる対象領域の範疇構造を問うことではなく、現存在としての人間のあり方の中で存在へとかわる実存の問題を掘り下げることによってのみ、用意されるものである。それ故そのときには、もはや範疇論という対象的な見方、物在的な存在者の領域的構造分析でなく、実存的人的あり方というより根本的な実存疇からする存在の全領域への問いへと、問題は深まってゆくだろう。

或る意味でハイデッガーは、このスコトゥス論で、無意識的に、朧に、学位論文の主題を承けて、存在と思索の眼を向けていると言ってよく、そこには強く新カント学派的枠組みが纏いついているが、それを取壊毀すとき、この論文の範疇論という主題は、後年のハイデッガーの存在への問いに深化していくことも可能なのである。

Ⅱ 意義論の底に潜むもの

また、第二に、本論の第二部の意義論の中にも、我々はハイデッガー的な思索の萌芽を見出すことができよう。というのは、意義論とは言葉への考察にほかならず、しかしハイデッガーは、後に、例えば『存在と時間』で、深く現存在の語りに定位して言葉の世界を考究し、また後期には、「言葉は存在の家である」として存在の思索に深く密に言葉の世界を絡み合わせていき、言葉の中に何かを言い述べるという問題を、後年のハイデッガーの根本的な問題をなすものだからである。そうした展開を髣髴とさせるかのように、ここでは、意義論という形ではあれ、言葉への思索的志向が、現われている。これは大いに注目すべきことであろう。

勿論、この論文では、意義論は論理学の一部であり、判断論、知識論と並ぶ論理学の一分野にすぎないとされ、論理的成体と関係している面での言語学成体という文法学の形で、言葉への関心が表面化されているにすぎず、総じて言葉への思索は、論理学的問題設定の中に閉じ込められていて、後年のように、実存や存在の只中から問われていないことは、充分注目されておかねばならない。おそらく、フッサールの純粋文法学ないしは意義の形式論の影響であろう。フッサールにあっては、言葉も、アプリオリに、心理現象から離れて、文法学的な意義の形式論を持つべきであり、それが論理学的研究の一部となっていた。それは言葉の意義機能、表現作用を論理学的問題設定の中で問おうとしたものだと言ってよい。先のハイデッガーのスコトゥスの意義論的解釈は、彼自身もそれがフッサールの理念の下に試みられていることを告白している通り、明らかにフッサール思想に導かれた、言葉への考察だったのである。

だが、そこでは、言葉は、意義の形式論ないし文法学といった形で、出来上がった「言表」の側面から、考察されているにすぎない。しかるに後の『存在と時間』でハイデッガーは、言葉を現存在の「内存在」の重要な契機と看做し、否見方によっては実存の世界の最根底の構造としてこれを解明するのだ。そこでは、このような言表に定位する物在的な言葉の論理学が鋭く非難され、言葉を出来上がった「言表」の形で捉え、そのあり方を論理的文法学的言語学的対象的に考察する仕方は否定され、フッサール的な意義論という言葉の論理学的問題設定瓦解して、言葉を生きたものとして、現存在が実存的に世界の中にあって存在了解をなしそれを語る、その「語り」の場面へと還元して考察してゆくことが必要だということである。従ってスコトゥス論での言葉の扱い方が、未熟で、フッサールの影響を蒙り、論理学的な問題設定の中で扱われているとしも、それは、後年のハイデッガー本来の思索への萌芽を秘めたものとして、重要な意味を持っていたのである。

港徹雄「日本のものづくり 競争力基盤の変遷」(8)

4.第二の産業分水嶺

需要が多様化し技術進歩が加速すると、より柔軟性の高い生産システムが求められるようになる。つまり、ピオリ・セーブルの言う柔軟な専門化を実現させる企業間分業システムが硬直的な大量生産方式に取って代わるようになった。

セーブルの柔軟性とは、生産要素の再配置によって、生産工程を絶えず改造する能力である。また、企業(その多くは中小企業)は、それぞれ専門分野に生産を特化しており、その専門的生産活動を担うのは、長期的な雇用慣行のもとで形成された企業特定的熟練技能を持つ技能工である。そして、これらの専門特化した多数の企業による分業のネットワークによって柔軟な専門化が実現されるのである。

さらに、この柔軟な専門化の組織的な特徴は、その参加メンバーが限定(制限)されていることであり、技術革新を推進するような競争は奨励されるが、要素費用(とくに賃金と労働条件)の引き下げにしかつながらないような競争は制限される。

1970年代以降、柔軟な専門化が競争優位性を確立した技術的背景には、専門分野に特化した中小企業の分業ネットワークが70年代から急速に技術が進歩したコンピューター制御の工作機械(NC工作機械)の普及によって、一層その柔軟性を強めたことによる。ピオリ・セーブルによると、コンピューター技術の場合、装置(ハードウェア)を作業に合わせるにはプログラミング(ソフトウェア)を使う。したがって物理的変更なしに─単にプログラムの変更によって─機械を新しい用途に使える。このような事情の下では、理論的に言って、生産量の多い場合よりも、生産量が少ない方が、あるいは注文生産の方が有利であると指摘する。さらに、本格的な大量生産では専用機械の方がコスト的には有利になり、生産量が少なく注文生産に近いような場合には、手動によるクラフト的生産の方がコストが低くなることを指摘し、NC工作機械を用いた生産のコストは、多品種・中ロット生産で最も効率的であるとしている。また、現場労働者の熟練技能も、一品生産のような受注品生産やNC工作機械のプログラミング作成で活かされる余地が大きく残されていることを指摘している。

NC工作機械の普及によって生産の柔軟性は高まり、技術革新の加速化によって製品のライフサイクルの短縮化が顕著になった。しかし、第二の産業分水嶺では、依然として大量生産においては専用機械のコスト優位性が持続しており、同時に、クラフト的技能も重要な役割を維持している。これが第二の産業分水嶺の技術面での大きな特徴である。

5.第二の産業分水嶺と下請システム

クラフト的熟練労働と、専用機械投資が同時に重視される第二の産業分水嶺では、下請システムを基軸とする日本の分業システムがその有効性、効率性を最も発揮できた産業発展段階であった。ピオリ・セーブルは、日本産業の場合の柔軟な専門化は、下請企業と輸出指向型大企業との間の取引関係を通じて学習した成果として捉えている。この日本型企業間分業システムでは、親企業が直接取引する下請企業の数は、米国型生産システムに比較して少数であり、数次にわたる階層的な下請構造を形成している。また、各階層における親企業は、その管理能力の範囲内に限定された数の下請企業と長期・継続的な取引関係を結んでいる。こうした、下請取引構造を通じて、親企業と下請企業とは密接に連携し、濃密な情報交換を実現してきた。そして、この日本型企業間分業システムこそが、日本の製造業、とりわけ、機械工業の生産性を著しく向上させ、その品質管理水準をPPM単位まで高めさせ、価格低下と品質向上を両立させた。

このように台の産業分水嶺における米国企業と第二の産業分水嶺における日本企業とのアプローチの違いについて、次のようなことが言える。米国企業では、生産調整の柔軟性を確保するためには生産工程を内部化(垂直統合化)することが不可欠であり、外部のサプライヤーへの依存は生産調整の柔軟性と対立関係にあるという態度を示してきた。また、高品質な製品を生産するためにはコスト上昇が避けがたく、高品質と生産コストの関係も対立的であるとしてきた。これに対して日本企業は、生産コストの低減は主要な経営指標であり、品質管理水準を高めることは、生産コスト削減の手段であるとする生産アプローチを追求してきた。実際、品質管理水準の向上は、無駄の根源である不良品を減少させ、販売後のアフターサービス費用も低減させることを通じてコスト削減の有力な手段となった。また、外部のサプライヤーに生産工程の多くを依存しても、完成品メーカー(アッサセンブリ)と下請企業との間の準内部的な取引関係と濃密な情報交換とによって、生産調整の柔軟性をあまり損なうことがない。外部依存と生産の柔軟性の確保とは、米国企業のように正反対(180度)の関係できなく、30度程度の差でしかない。

6.3DICT革新と第二の産業分水嶺の終焉

1990年代央までのIT革新の段階では、数値制御の工作機械は単一の加工に特化されており、熟練労働者の判断を必要とすね作業は少なくなかった。また、二次元で製図された設計図をもとに三次元の加工を行うには、高度な熟練が必要とされた。さらに企業間の分業によって製造された各パーツやコンポーネントが正確に結合し機能するためには、設計段階での綿密な打ち合わせと、試作段階でのたびたびにわたる摺り合わせが必要とされた。日本型下請生産システムは、こうした生産過程で必要とされる濃密な情報交換を、効率的に実施し得る利点を有しており、このことが日本の高度組立型機械工業の国際競争力の源泉の一つであった。

ところが、20世紀末になると、情報通信技術革新のレベルが閾値を支えた企業間分業システムの優位性を根幹から揺るがすまでになり、第二の産業分水嶺の終焉をもたらした。

3DICT革新によって、サイバー上でも現実世界と同様に三次元で設計等が実行できるようになると、まず、二次元での設計で必要とされた試作過程の多くが省略されるようになった。試作品の製作は1品生産であり、納期はごく短期間であったため、大都市近郊の中秋企業のとっては有力な存立基盤の一つであったが、3DICT革新はこうした試作品生産や試作用金型製造に特化した中小企業の存立基盤を脆弱化した。また、設計図面が二次元の段階では設計段階や試作段階でり完成品メーカーとサプライヤーとの間での摺り合わせが重要であったが、3DICT革新段階では完成品メーカーとサプライヤーとは同一の三次元設計画面を共有し、遠隔地間であってもサイバー上で設計の同期化が実現するようになった。この結果、サイバー上で繰り返してシミュレーションすることによって不具合をなくすことが可能になり、メーカーとサプライヤーとの摺り合わせの必要性を大きく減少させた。

さらに、三次元の自動加工を可能にする多機能の工作機械であるマシニング・センター(MC)も、1990年代以降には急速に普及するようになり、同時にMCの加工精度も電子制御機器の発達によって大幅に向上し、仕上がり精度が数ミクロン単位の加工が半熟練労働でも実現するようになった。この結果、長期雇用を前提にした熟練形成の必要性を低下させ、雇用の流動化(不安定化)をもたらした。

また、第二の産業分水嶺では、日本の下請企業は発注企業のため専用機械投資を行い、生産性上昇(コスト削減)と品質水準向上とを両立させてきた。この取引特定資産を保有する下請企業は、発注元である親企業にとっても不可欠な存在であるから、その取引関係を半固定化する役割をも果たしてきた。したがって、3DICT革新によって、取引特定資産投資の必要性が低下したことによって、下請取引関係は流動化(不安定化)を強めることとなった。このことは、長期雇用関係によるクラフトマンシップと企業間の安定的な取引関係という、第二の産業分水嶺の競争優位の前提を覆すものである。

第二の産業分水嶺の終焉をもたらしたもう一つの要因は、これまで柔軟な専門化は、簡単には地域外、とりわけ、海外に移植できないものであり、特定国(地域)産業に固有の国際競争力要因となってきた。しかし、3DICT革新の進展によって、高度な熟練労働の層が薄く、有機的な企業間取引ネットワークが形成されていない国(地域)でも、柔軟な専門化と同様の高い生産性を獲得できるようになったのである。

2011年9月22日 (木)

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(19)

この領域は、上述のもののうち、特に論理的領域と深い関聯を以て成立している。というのは、「論理的成体」は「言語的成体」によって言表されるからである。論理的成体と言語的成体とは差し当たっては先ず区別される。何故なら(1)論理的成体は言語表現をもたなくともその現実性を確保している、すなわち論理の基礎は言葉ではなく対象的価値の担い手たる意味内実である。(2)また言語として発せられる命題そのものは真でも偽でもない。真偽は命題に附着する判断において始まり決定される。(3)言語は感性的に知覚され、実在的世界に属し、時間的に発生消滅するが、論理的意味内容は変化を蒙ることなく、無時間的に同一的であるからである。だが、それにもかかわらず、一度人が認識の表現の中に入るや、この差異は止揚される。そこでは、言語的成体はその非論理的性格を消失し、意味成体の担い手として、かつ意味成体の対象関係的性格に従って、客観に対する「符牒」として、登場する。言語的成体は意味の符牒であり、また意味は対象の符牒である。かくて言葉は、それが直接に指示する論理的成体に対する符牒であるとともに、それが間接的に指示する対象に対しても符牒である。このような符牒という性格において、言語形態は論理的内実と実は深く絡み合っているのである。このようにして、意義領域が極めて深く論理的領域と関係しつつ、或る特異な位置を諸々の対象領域の中で占めるものであるということが、帰結されてくる。そこで問題は範疇論を離れて、「意義様相」の具体的分析、即ち第二の意義論に立ち入ることになる。

意義様相は、これを二つの方向において考えることができる。第一は意義附与の作用の面で、第二は作用の相関、作用の内容の面である。この両者は、作用と質料、形式と内容の如く相関的である。ところでこの場合、内容とは結局「存在様相」である。「存在様相」とは、単に実在的な自然的現実ばかりでなく非感性的論理的なものを含むもの、即ち広く認識されるもの一般、対象性一般、つまり存在という原範疇のことである。この存在一般が意義の内容をなす、即ち第二の面の内容を構成する。しかしこれが意義の内容になるためには、それは、それは予め認識されていなければなるまい。従って意義様相には、ものの対象の認識の様式が、即ち「認識様相」が先行されていなければならない。意義は直接的に対象に関係するのではなく、認識された対象に関係するのである。意義と対象との間には「認識様相」が介在する。ところでこの介在者にも「能動」と「受動」の二つがある。即ち前者は認識による対象化作用であり、後者は対象的に認識されたものである。換言すれば、「存在様相」にほかならない。従って、存在様相と意義様相の第一の面と第二の面とは、その内容に関してみれば、結局同じものである。ただ第一の場合にはそれが体験されたもの一般としてあり、第二の場合には認識された現実性としてあり、第三の場合は意義として表現されたものとしてあるということが、違っているだけである。即ち、所与性、認識、意義という観点の相違がそれらに含まれている。そしてこのことは作用の側面も同様であって、所与性としての「存在様相」に対し、認識として第二の面が働き、これをもととして第一の面が成立する。従って意義形式は、認識された所与性を導きとして作られるのである。

このように意義様相はこの領域に一定の秩序を規整する。だがこれは文章法的価値であって妥当的意味を未だ構成しない。そこでは未だ真理の価値は実現されていないからであり、この役割は判断にある。しかし意義構成は妥当的意味一般の中に入る。それは、真理の価値に関して評価される対象を、初めて規整するからである。そこで論理学は、(1)意義論(2)判断論(3)知識論の三つにならなければならないとハイデッガーは結論し、ここで論理学と意義論の関聯を明示するのである。

港徹雄「日本のものづくり 競争力基盤の変遷」(7)

第2章 分業システム転換と国際競争力

1.100年の三度の大転換

2010年までの1世紀の間に、世界は三度の大きな域内分業システムの転換を経験してきた。こうした域内分業システムの大転換を、ピオリ・セーブル(1984年)に倣って産業分水嶺(Industrial Divide)と呼称すると、第一の産業分水嶺は、ヘンリー・フォードによって創案された1908年のT型フォード車の生産開始によって具体化されたフォード型大量生産システム(フォーディズム)によってもたらされた。

1970年以降になると、イタリアや日本等の産業集積地域(産地)で発展した、高度な技能労働力を有する専門化された企業(その大部分は中小企業)間の分業システムが、高い競争優位性を発揮するようになった。こうした企業間分業のあり方を「柔軟な専門化」と名付け、この柔軟な専門化が競争優位性を発揮する時代を第二の産業分水嶺とした、

ところが1990年代後半以降になって、急速な進歩を遂げていたコンピューターの心臓部であるMPUの能力がギガ・レベルになると新たな閾値に入り、三次元の情報処理が高速で可能となった。この3DICT革新によって域内分業システムは大きく転換を始めた。これを第三の分水嶺とする。

何れの時代にあっても、国際的な競争優位を勝ち取る、国、産業および企業は、それぞれの時代区分において特徴的な国際的な競争環境、これは技術的環境と市場的環境によって構成される、にもっともよく適合する域内分業システムを構築し得たものである。

2.第一の産業分水嶺

20世紀初頭の自動車メーカーでは、その素材や部品の大部分を外部の専門メーカーから購入し、自動車をどのように作るかという生産の意思決定は、現場のクラフトマンシップを持った熟練工の裁量に委ねられていた。外部から購入された部品は不揃いで互換性がなく、生産現場で熟練工がその不具合をいちいち調整しながら、汎用的な機械設備を用いて組立生産をしていた。

ヘンリー・フォードはそれまで効果で娯楽目的として限られた富裕層を対象にした自動車販売を、大衆が必要とする便利な移動手段と位置づけ、大衆が購入可能な価格での自動車生産を目指した。そのために、生産工程の変革を実施した。フォード生産システムの最大の特徴は、従来の固定生産方式ではなく、移動式の組み立てライン方式の採用にあった。そして、この移動式ラインを用いて企業間分業を徹底した。また、T型フォードはそれまでの自動車に比較すると、高張力のバナジウム鋼を用いることによって強度を維持しながら軽量化され、また、装備も簡素化されたが部品数はそれでも5千点を数えた。こうした多数の部品の大部分をフォード工場内で内省する高度な垂直統合型の生産方式が採用された。それは、従来のように専門部品メーカーからの購入に依存した生産では、品質のばらつきが大きく、また、フェード社の大量発注に安定的にサプライヤーが少なかったためである。フォードは特定の部品生産に専用化された工作機械を大量に投入し、また、マイクロゲージ゜を用いて品質精度を確保し、部品の互換性を確かなものとした。

第一の産業分水嶺を導いたフォード生産システムの特徴を要約すると、移動式生産ラインの採用、生産工程の細分化による作業の単純化・熟練労働者の必要性の低下、高度な内製化と専用機械・機器の多用である。

換言すれば、第一の産業分水嶺において、重要とされる生産要素は、大量の専用機械投資に必要な資本調達力、大量の半熟練労働力とそれを弾力的にとうにゅうするための雇用システム、生産管理を担当する技術者および大量生産された商品を販売する営業担当者であった。

3.第一の産業分水嶺の終焉

1910年代初頭にヘンリー・フォードによって創案された大量生産システムは多くの製造業で応用され米国産業生産力を飛躍的に拡大させ、世界恐慌の数年間を別にすると、半世紀にわたりアメリカに富みと繁栄をもたらした。しかし、1970年代入るとその行き詰まりが明らかになり始めた。

なぜ米国型大量生産システムが1970年代に限界に達し、70年代後半には日本型生産システムが競争優位を確立できたのであろうか。フォーディズムの限界は、実はその効率性の源泉と密接に関係している。つまり、工場内での生産性を高めるために、あらゆる部品が内製され、工場内分業を極限までに細分化し、各生産工程には特定車種の加工だけに専用化された各種生産機器が用いられた。また、現場労働者の課業も細分化され、単純作業が中心となり熟練形成や生産現場の知恵を活かす発意の機会はまったく与えられなかったのである。この結果、生産車種の多用かはほとんど困難となり、生産は黒塗りのT型フォード1車種に限定された。このようにフォード生産システムの原型では、技術や市場の変化に対応するための柔軟性が犠牲にされていたのである。こうした雇用・分業システムのもとでは、プロセス・イノベーションは起きにくく技術進歩も停滞的になる。また、技術や市場変化に迅速に対応した新商品の開発・生産も困難になる。

このようにアメリカの生産システムが優位性を発揮したのは、大量で同質的な需要がある場合、また、技術進歩がやる屋化で同一製品を長期間生産する場合に大きな成果を達成した。しかし、経済がさらに発展し人々の需要が多様化し、技術進歩が速くプロダクト・サイクルが短縮されるように競争環境が変化すると、その競争優位性を低下させた。アメリカ型生産システムの競争優位性が低下するにつれて、アメリカの貿易収支は悪化した。

2011年9月21日 (水)

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(18)

第4節 教授資格論文について

1.論分の内容

学位論文に次いで若きハイデッガーのものしたものは、1915年の春に既に完了し、その年の夏学期フライブルク・イン・ブライスガウ大学哲学科に大学教授資格論文として提出された『ドゥンス・スコスゥスの範疇及び意義論』である。この論文は、人格的な独自の思索に基づいて哲学史を生かし返す問題史的哲学史観に則って、ドゥンス・スコトゥスの範疇及び意義論を解釈しようとする西南学派的著述であると言ってよいであろう。

本論文の意図は、スコトゥスの『思弁的文法学』を意義論として解釈することにあり、それを論究するに先立って、意義領域は何であり、また諸学の体系の中でどのような位置を占めるものかを明らかにするために、予め、対象領域の構造と組織を明らかにする範疇論を展開しようとするのである。そこで第一部でスコトゥスの超越概念を援用しながら範疇問題が論ぜられ、第二部で『思弁的文法学』を手懸りに意義論が展開されるが、第一部ではリッケルトの、第二部ではフッサールの影響が強くみられる。

先ず第一の範疇論はどのようにして展開されるのであろうか。範疇論とは根源的な対象領域の構造の考察のことだが、対象領域は、それが対象となっている限り、常に共通して或るものがその根本に横たわっている。それは存在である。範疇論とは存在という対象領域の解明である。存在とはその意味で対象領域一般の謂いであり、いわば範疇の範疇である。

しかし、存在は対象性一般として、これからでは何も始まらない。しかるに、実は、この対象性一般の根底には、「一と他」の指定、即ち「異定立」がある。何故なら、或る対象が措定されたときには、それが一つの対象として他ならざるものとして措定されているから。従って範疇論の問題は、具体的には、この「一」という超越概念の問題になる。それでは一というものは、範疇論的に見て、一体如何なるものなのであろうか。一には先ず二義があり、第一は存在と換置できる意味でのもの、第二は数の原理としての一である。第一の意味については、或る対象が措定されれば、それは一つの対象として、他ならざる対象として措定される。既に、一つということ、同一的なるものという規定性が与えられている。但しそれは、対象の内容的本質には何物も附加せず、ただそれが他のものではないというように、欠如的に規定するだけである。更に、一には多が対立する。多は一ではないということであるから、一は多ではないということは、一は一ではないものではないということであり、即ち欠如の欠如である。一とは、このように対象に欠如的な意味附与を行う。いずれにしても、対象が措定される限り、常に一の措定がある。

第二の数の原理としての意味には、二つの場合がある。ひとつは「純粋な数」で、他は「数えられた数」の場合である。まず、「純粋な数」が可能であるためには、一に「計算の概念」が加わらねばならない。即ちこれは量の概念であり、しかも偶有的な量ではなくて非感性的な量である。従って純粋数をとしての一は、超越概念の一の如く対象性一般ではなくて、非感性的量的対象であり、より制限的なものである。しかし、量と非感性的ということだけでは数の本質は未だ充分に規定されない。数が連続する多くのものに亘ってもつ「統一性」が、ここで理解されなければならない。即ち量とは、それ自身量ではなく、その本質は、まことには、同一の視点からする分割の可能ということである。ここから純粋数の系列法則性ないし統一性が出て来る。かくして数としての一によって、対象性一般としての一とは異なった、量と同質的媒体に基づく非感性的数学的領域が成立することになる。

次に「数えられた対象」とは、感性的自然のことである。その解決には、自然的現実性の領域が何であるかが、先ず理解されなければならない。スコトゥスに従えば、それは個体であり「鳥瞰し得ぬ多様性」、「異質的連続」がある。ところでこれらが数えられるためには、それらが同質的視点で考察されることが必要である。しかるにこれらは異質的だとされた。しかし現に自然的事物に数えられており、従って同質性の要素を持たねばならない。実は、まさしく自然的現実性の領域は、全くの異質性の世界ではなく、そこには同質性が潜んでいる。即ち中世的思考に従えば、感性的世界は、超越論的世界とのアナロギアの秩序の下にある。そこでは多様の中に統一があり、統一の中に多様がある。それ故にここで同質性の見方が可能になる。しかしそれはもはや数学的領域の如き純粋計算ではなく、価値判定、価値規定的なものである。何故なら、現実性は被造物と考えられており、その現実の度合いが価値的に計られるからである。そして体験的現実性とその個体における歴史的なものは、純粋数によっては到底把捉され難い独立性をもつ。ここに全くの独自の自然的現実性の領域が剔出されるわけであり、それは、超感性的世界という形而上学的領域というアナロギアの秩序の下にあり得るものなのである。このようにして「一」を手懸りに、対象性一般、数学的現実、自然的現実、形而上学的現実の諸領域が、範疇的に取り出され、区分されるのである。

ところで、次に論理的現実の領域が取り出される。何らかの対象であるものは、常に認識の対象であるから、対象は真の問題と絡み合う。ところで、その反対が偽である如き真なる認識は判断である。判断は分肢せる統一であるが、統一はコプラに依っている。これは妥当ということであり、これが真の担い手である。真は対象的なものに結合しているが、判断内実は対象とは違う。かつまた判断内実、意味内実は、判断作用とも峻別される。判断の領域は妥当の世界であり、実在的世界から独立した存立を保持するものである。判断領域は非感性的かつ同質的であるが、だからとて数学的領域とは同じではなく、後者が量の上に成立するのに対し、前者は指向性の上に成立している。このようにして、認識可能なものの領域、即ち対象性一般の領域は、自然的現実の感性的(物理心理的)領域、超感性的形而上学的領域、及び論理的領域として見出されたわけである。それ゛はこれですべての対象領域が見出されたのであろうか。否である。ハイデッガーにここに更に、意義領域というものを認めようとする。

港徹雄「日本のものづくり 競争力基盤の変遷」(6)

8.域内分業と企業間生産性

域内分業基盤の主要部分である企業(組織)間の分業システムは、特定製品の生産に特化した産業集積地域(クラスター)内で完結するものもあれば、全国規模で分業システムが編成されることもある。そして、それぞれの地域や国には固有の競争力要因が埋め込まれておりその固有の競争力要因を国際的に移植することは簡単ではないため、国の競争力要因として機能することとなるのである。

我々は、分業を担う企業間システムのあり方、つまり、企業間の情報共有のあり方や企業間の結合関係、および取引統御(ガバナンス)メカニズムの特異性が、どのように国や産業の国際競争力を高めるのかに焦点を合わせている。つまり、企業間生産システムが、物的生産および知的生産の正面でもたらす高い企業間生産性の起源、国際競争力に及ぼす効果、およびその変遷に関心が集中しているのである。

この企業間生産性は、基本的には多くの生産を多数の企業によって分担させる専門家から引き出される効果である。分業による効果は、アダム・スミスによって『諸国民の富』の源泉であると指摘されている。そして、具体的な分業の効果について、分業によって同じ人数が働いた時の生産量が大幅に増加するのは、三つの要因のためである。第一に、個々人の技能が向上する。第二に、一つの種類の作業から移る際に必要な時間を節減できる、第三に、多数の機器が発明され仕事が容易になり、時間を節約できるようになって、一人で何人分もの仕事ができるようになる。さらに、現代において企業間生産性を高める上でより重要な役割を果たしているのは、分業システムを構成する企業間で、情報(知的)財を創出し共有するメカニズムである。なぜならば、今日の先進経済諸国における国際競争力は、持続的なイノベーション能力を高めることが決定機に重要であり、そのためには域内分業基盤内部にイノベーションの連鎖反応を引き起こすメカニズムが組み込まれているかどうかが、企業間の知的生産性の高さを決定し、その産業の国際競争力を規定しているのである。

2009年の研究では、製造企業の相互依存性、とりわけ基軸部品サプライヤーの集積効果を「産業コモンズ」と名付けている。そしてこの産業コモンズの浸食がアメリカのハイテク産業の競争力低下に結びついているという指摘がある。その原因は、製造工程の海外へのアウトソーシングにあるという。

1990年代末以降の3DICT革新の進展によって競争構造は大きく変容し、生産基盤のうち重要性の低い部分的な海外移転であっても連鎖反応を引き起こすことによって、生産基盤全体の海外移転に繋がる事例が増加している。例えば、日本のパソコン生産のうち最初に海外にアウトソーシングされたのは労働集約的な基盤組み立ての部分だけであった。しかし、海外アウトソーシングの範囲はどんどん拡大され、最終的には全工程がアウトソーシングされるようになった。この結果、電子機器の生産に必要なすべての生産技術を獲得した企業、例えば台湾の鴻海精密工業は世界最大のEMSへと発展し、パソコンに限らずあらゆる書類の電子機器の包括的な受託生産を大規模に進めている。

9.競争力基盤としての要素供給基盤

産業の競争力基盤を構成する第二の要因は、生産要素の供給システムである。現代の精神諸国間において、質の高い労働力を供給する教育システムや人的資源の質を高めるような雇用システム、ヒューマン・ネットワークは、イノベーションを促し、産業の知的生産性を高める要因である。また、リスクを伴う投資資金の円滑な供給を実現する資金供給システムは、イノベーションの重要な担い手であるベンチャーの成長・発展にとって不可欠の要因である・

こうした質の高い人材を供給する教育システムや技術者や研究者の間の知的情報交流を活発にするヒューマン・ネットワークは、地域(国)に固有の競争力基盤であり、リスク・マネーを円滑に供給し、かつ高い投資収益率を実現するようなベンチャー・キャピタルの能力も同様に国際的に模倣が容易ではない地域(国)に固有の競争力基盤である。

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(17)

Ⅱ 特殊な判断形式の底に潜むもの

ところで、このことは、第二に、ハイデッガーがこの論文でも心理主義者の様々な判断規定を先ず一般的に検討しながら、次いで特殊な判断形式に関する彼らの見解を糺し、その点に彼らの見解の破綻を看て取る、という論の進め方をしている点に、更に明らかに看取することができる。

(1)実在判断

実在破断とは、元来ブレンターノが提唱したものであるが、それの含む問題は、判断のコプラをどう解釈するかという、判断における“存在の意味”への問いのことなのである。ブレンターノは、判断は表象に初認や拒否が加わるときに成立するとし、例えば、「或る人が病気である」というということは「一人の病人がいる」と承認することであり、「如何なる石も生きていない」とは「生ある石はない」と拒否することであり、判断の本質は、こように、承認、拒否を意味するコプラの部分にあるとした。これに対しハイデッガーは、承認、拒否といっても、一体その際何が承認、拒否されるのかと問い直し、そこにSとPの妥当が承認、拒否されているのだとして、コプラのistというgiltの意味であるとしている。この考え方は、この論文でのハイデッガーが新カント学派的である限り、特に異とするには当たらない当然のことであろう。しかし、意味の妥当という考え方に制約されているとしても、ここでハイデッガーが少なくとも判断における“存在の意味”への問いに興味を示していることは、甚だ暗示的である。この問題は、ある意味では、ハイデッガー哲学の根本問題である存在の問題が、いわば判断論という形態を採って現われてきたときの一つの設問の仕方であった、とも解釈できる。

事実1927年の『現象学の根本問題』という講義録では、ハイデッガーはコプラとしての存在という一章を設けて、改めてこの問題を問い直している。そこでは、主としてアリストテレス、ホッブス、ミルそれにロッツェの考え方が引き合いに出される。しかし、ハイデッガーは、これら一切の見方は、「言表」を手懸りとして存在の意味を問うているにすぎないとし、一般には、言葉があってそれの連結として命題や言表があり、その繋辞としてコプラがあると考えられているが、これらの諸見解にもそうした一般的通念がその底にある、しかし言葉や意味や命題は、実は出来上がった成果として考察されるよりも前に、深くそれらが成立する根拠において、即ち人間が世界内存在として存在者を有意義的全体において捉えているその存在了解の次元において、考察され返されなければならない、と主張する。言表から出発すれば、istはSPの結合であるという結論以外には出ようがないが、むしろistは、そうした論理学的問題よりも存在論的問題を意味しているのであり、現存在が存在了解をなしつつ実存し、以て各自が捉えている存在意味を「解釈」し「言表」した結果、そこに初めてistというものが成立する、というのである。Istwahrにかかわるというのも、現存在が世界を根源的に開示させるものであり、その意味で現存在の存在了解こそが世界を露呈させる根源として真理であるからこそ、そうなのである。

この学位論文での、判断における“存在の意味”への問いは、後の思想に繋がる重要な萌芽を含んでいることになる。しかしそこには、論理学的問題設定の瓦解がなければならず、それを通しての実存思想への接近という哲学態度の変化がなければならないことは、言うまでもない。

(2)否定判断

否定判断について、この論文の中で、ハイデッガーは「SはPでない」ということは、「SはPではないことが妥当する」という意味と解され、この見解も、学位論文全体の思想からすれば極めて当然であるが、ハイデッガーが、否定ということに、たとえ論理学的問題設定の中においてであれ、興味を示していることは、暗示的である。というのは、ハイデッガーは後に『形而上学とは何か』で、否定の問題を取り上げ、それを無の方向へと深めてゆくからである。

ハイデッガーは『形而上学とは何か』では、こうした妥当的意味の世界で成立する「否認」として否定を考えるような論理学的問題設定を取毀し、むしろ否認ということが可能であるためには、予め先ず「非」が了解されねばならず、非とは「無の無化」が、それ故に無そのものが秘匿性から取り出されてこそ、初めて可能であるとして、無こそ最根源的なものだとしている。論理学的な否定のその無自体は、もはや論理学的な設定では解決がつかず、それは、実在判断の批判の時と同様、そうした命題や判断が成立する根源の、現存在の存在了解の中へ降りてゆき、その中で現存在が、存在者全体の脱落を経験するとき立ち現われる、あの無というものにまで、深まって行ってこそ、初めて考えられるというのである。そうしてそのときもはや問題は、判断内実の妥当的意味ではなく、人間現存在が実存しつつ存在にかかわるその世界がどのようなものであるか、という設問に、変貌してゆくであろう。無の問題は、ハイデッガー哲学の後の一つの重要な契機となるのだが、そうした問題へと発展する糸口をこま学位論文は含んでいると、ここで言うこともできるわけである。

(3)非人称判断

非人称判断についてみると、19世紀末の論理学者の間では、非人称判断には、S、P、コプラの三者が明確に存在するとは見難いところから、それは判断ではないとされる傾向が強かった。それに対し、ハイデッガーは、この学位論文では非人称判断をも充分独立した意味を持つ判断として扱おうとした。ハイデッガーは、或る全体的な存在の背景の中で、或る瞬間、或ることが現実存在として突如生起したそのことを如実に言い当てるものが、非人称判断にほかならないという。

ハイデッガーが、言表に即した論理学的問題設定でなく、言表が可能になる根源の、人間的現存在の存在了解の方向に思索を進めてゆこうとする萌芽が認められるということであり、或る意味で『存在と時間』の「了解」「解釈」「言表」等についての思想の糸口が、こうしたところに垣間見られると言っていいかもしれないのである。

以上の如く、特殊な判断形式に関するハイデッガーの見解を取り上げてみると、それらが後年の思想の重要な糸口を萌芽的に孕んでいることが明らかとなり、のみならず、前述の如く、この学位論文の判断論の主題化という問題の取上げ方の底に、全存在領域への問いが潜んでおり、その意味で、この論文全体が、すでに朧な存在追究の姿勢を示していたのである。この頃の思索と後の思索との差は、論理学的認識論的問題設定と、そうした問題そのものがそもそも可能になる人間的実存への下降との差に、等しい。存在全体を判断の面で問題にするとは、存在に対して我々の認識的接近がどのよう構造においてあるか、問うことであるが、そうした論理や認識の基礎構造を、単なる意識一般や論理的悟性の地平においてでなく、人間全体のあり方と関係させて問い出てゆくとき、そこに基礎存在論の立場が可能になる。この論文が新カント学派的であるために、存在は認識論的な学の基礎づけという形で問題化され、判断主観はまさしく認識論的論理学的主観であって、実存にまで深められておらず、従って両者のかかわる世界は、実存と存在のかかわる後年のあの世界でなく、妥当的意味の純粋世界であり、故に判断の言表形態の中に現われているコプラやニヒトやエスも、専ら論理学的意義においてしか受け取られず、後年の存在、無、エスにまで展開していない。しかしそうした諸点に興味を寄せているということは、無意識的にではあれ、彼が存在へと問い始めていることを証拠立てていることであり、ここにハイデッガーの一貫せる思想の萌芽がある、と言っていいのである。

2011年9月20日 (火)

港徹雄「日本のものづくり 競争力基盤の変遷」(5)

6.競争力基盤と生産性

(1)マイケルE.ポーターの競争優位性

国際競争力の根源と国際分業パターンの決定要因を分析する場合に最も重要な課題は、国際的な競争優位を獲得する場合に最も重要な課題は、国際的な競争優位を獲得することができるような高い付加価値生産性が、どのようなメカニズムで創り出されるのかということである。また、その高い付加価値生産性を創出してきた要因が、どのような国際的な競争環境変化によって変質するのか。さらには、変化した国際競争環境に適合するための条件はどのようなものかを明らかにすることである。

マイケルE.ポーターは1985年の『国の競争優位』において、競争力を鵜も出す四つの要因である「要素条件」「需要条件」「関連産業・支援産業」「起業戦略及び競争環境」をあげ、彼がダイヤモンドと呼ぶ図の各頂点に位置し、それぞれ相互に関連することが示唆されている。

ポーターの競争優位論では、各要因がどのようにして特定国の産業の国際競争力を高めるかについては明確に示されている。しかし、それぞれの競争要因がどのような経緯で編成されたのか、また、それがどのような要因によって変遷するのかについてはほとんど説明されていない。さらに、こうした競争要因が特定の産業に属する企業に均等に寄与することが暗黙の前提になっているようである。

(2)競争力の複層構造

我々の分析は、企業の国際競争力は、企業固有の競争能力と、産業レベルの競争力の二層から形成されている。産業レベルの競争力は、第一に、当該産業における企業間分業によって実現される企業間生産性の高さであり、第二に、当該産業に必要とされる生産要素(資本、労働力)の質を高める要素供給システムに依存している。従って、産業の競争力基盤は、この企業間分業システムと生産要素供給システムから構成されている。

競争力基盤はその地域(国)に立地するすべての企業が利用可能であるが、その基盤から供給される企業間生産性向上効果をどの程度享受できるかは企業ごとに異なっている。つまり、競争力基盤からの受益性が高い企業は、その企業の総競争能力を高めることができるが、競争力基盤を有効に活用できない企業は、その効果を企業の総競争能力に少ししか反映することができない。このように、産業の競争力基盤がもたらす効果は、各企業の受益能力によって伸縮している。

他方、企業固有の競争能力は、その企業が生産する製品の差別化の程度によって規定されていると言っても過言ではない。なぜなら、競争的市場では同質的な商品は激しい価格競争に巻き込まれて、限界費用以上の価格を維持することが困難であるからである。製品差別化を実現するのは各企業のイノベーション能力であるが、それは各企業の保持する知的資産の蓄積度に依存している。従って、国際化によって規模が拡大した企業は、その蓄積した知的遺産を追加費用なしに利用範囲を拡大できるから、その企業の生産性は一層向上することとなる。

また、国際競争力を企業固有の競争力と産業レベルの競争力基盤との複層構造から把握する試みは、企業レベルでの国際化を分析するより現実的な枠組みであるばかりでなく、産業間貿易の説明にとっても有用である。なぜなら、競争力基盤から派生する企業間生産性の高さは、国ごとに、また産業ごとに異なっており、企業間生産性が高い産業が輸出産業化するからである。つまり、ある国の産業が国際競争力を強めて輸出産業化してということは、企業固有の競争能力とともに、その産業レベルで企業間生産性が国際的な水準以上に高まったことを意味している。

(3)国際競争環境と競争力基盤の相互依存

在る国の競争力基盤から派生される企業間生産性の効果は、長期にわたって安定的に推移するものではなく、その有効性は国際的な環境変化によって大きく変動している。近年、日本のモノづくり能力に陰りが見られるのは、日本の競争力基盤の主要な構成要素である下請分業システムによって実現されてきた高い企業間生産性が、3DICT革新という国際環境変化によって相対的に低下した結果でもある。

国際的な競争環境変化は、技術体系の大きな変革や根菜的な市場(需要)構造の転換等によってもたらされるが、この国際競争環境変化は各国の競争力基盤を変化させ、それは各国産業の企業間生産性を変化させることを通じて、その産業別の国際競争力序列に変化を与える。国際分業構造は各国の産業別の国際競争力序列の集合であるから、各国の競争力序列変化は国際分業構造変化をもたらす。国際分業構造変化は、同時に国際市場構造の変化を促すから、再び国際競争環境変化を導く。このように、国際競争環境変化、国内競争力基盤、国際分業構造は相互に関連し、累積的な影響をもたらすのである。

7.移行経済国の域内分業基盤

域内分業基盤が各国の競争ポジションを変化させ、その変化が国際分業構造に影響を与え、さらに、国際競争構造を変化させるという連鎖的な動きを、社会主義計画経済体制から市場体制に移行した中国とロシアを事例に検討したい。

中国とロシアは、それぞれ市場経済体制に移行して年月が経過した。この間、両国は高度に垂直統合的な企業経営を改め、域内分業基盤の整備に注力してきた。結論から述べると、中国経済は多種多様な支援産業や関連産業が簇生し、強固な域内分業基盤の形成に成功、工業製品の強固な国際競争力を獲得した。他方。ロシアでは、支援産業・関連産業の発展が進展せず、依然として垂直統合的な生産システムを変革できずにいる。この結果、工業製品の国際競争力は脆弱なままで、ロシアの貿易構造は、工業部門の国際競争力が脆弱な開発途上国の構造に類似している。

このようにロシア経済で、域内分業基盤の形成が容易でないのは、①社会主義計画経済体制が70年間も持続し、市場経済を経験した世代が存在しないこと、②地方(省)分権的な経済統制システムの中国と異なって、中央で一元的な経済計画・統制が実施されていたこと、③中央での一元的経済統制を実行するために統制すべき企業数を徹底的に減らす必要があり、ほとんどの業種で1企業から数企業に集約されていたこと、④この結果、企業規模が巨大化し、関連産業部門を内部化した高度な垂直統合型の生産体制となったことが上げられる。ソビエト連邦時代、各企業が関連産業部門まで巨大化した背景には、計画経済のもとで、各企業が必要とする様々な中間財は計画当局の指示によって配分される建前であったが、現実には中間財や生産設備の配分は不十分であり、また、しばしば遅延したことがあげられる。このため、各企業はその生産に必要な中間財や治工具ばかりでなく生産設備さえも企業内部で製造するようになり、内部に長大なサプライ・チェーンを形成した。各企業に内部化されたサポーティング・インダリストリー部門はその企業にのみ製品を供給するものであり、その生産規模は小さく技術進歩も限られていた。このため生産性は低位にとどまっていた。しかし、いったん、自給自足型の巨大な企業体制が確立した経済で、サポーティング・インダストリー部門を担う企業を育成することは容易ではない。

他方、中国で域内分業基盤が比較的速やかに形成された背景としては、以下の五つがあげられる。①社会主義計画経済の期間が30年とロシアに比べ短く、市場経済を経験した世代かが現存していたこと。②ソビエトのような強力な中央集権的計画経済ではなく、各地域(省)にかなり裁量権を残した地域分権的計画経済であったこと。③農村部は人民公社を中心とした自給自足的生産体制で、その公社が必要とする農機具や肥料および一部の消費財を生産していたこと。この生産を担ったのが人民公社内の社隊企業であり、社隊企業は上部機関の命令ではなく、かなり独自な経営管理を行っていたこうした自主的な経営管理の経験が改革開放後に農村地域で設立された郷鎮企業(中小企業)の経営に活かされた。④社会主義計画経済時代に設立された国有企業は、多くの生産工程を内部化した垂直統合型の生産体制であったが、旧ソ連の計画経済とは異なって、同一業種企業が統合されることなく各地に多数の中小規模企業が存在していたことが市場経済移行後の中国機械工業における企業間分業システム構築に寄与した。⑤アリババ・ドットコムのようなB to B取引サイト運営企業が急速に発展したことによって、企業間取引が活発化するのに必要な取引ネットワークが形成されたことも、中国の域内分業基盤の発展に寄与している。この意味で、3DICT革新は、中国の生産活動に寄与したばかりでなく、企業側で分業されたものを統合するための取引システムの発展にも寄与しているのである。

2011年9月19日 (月)

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(16)

第2節 哲学以前の形而上学的志向

このような準備的初期における哲学的出発に関し、その背景となっているハイデッガーの哲学以前的な形而上学的志向について、最初に注意を促していこう。恐らく、その論理学的問題設定の受容以前に、彼には形而上学的実存的志向が朧に伏在し、それが修行期の学的訓練によって一時背後に隠れるが、再びその時期の終わりに姿を現わし、かくして後年の実存思想へと結晶してゆくと見なければならないように推察されるからである。ハイデッガーは『野の道』のなかで故郷の少年の日の思い出話の形で、自己のこのような傾向を説明している.

第3節 学位論文について

1.新カント学派的体裁

我々は、ハイデッガーの準備的初期における思索を、具体的にその内容まで立ち入って考察するために、先ず、彼の学位論文『心理主義における判断論』を取り上げてみよう。この100頁余の小論は、当時やや衰退していたとはいえ、19世紀以来非常に盛んであった心理主義的判断論を、その代表者である、W・ヴント、H・マイヤー、F・ブレンターノないしはA・マーティ、及びT・リップス等のそれぞれにつき、批判検討をなし、以て心理主義の徹底的瓦解を試み、論理学は純粋論理学的に打樹てられなければならないことを周匝に論究する好著なのである。この論文でハイデッガーが如何に新カント学派的であるからは、更に、心理主義的判断論を批判検討しながら、結局心理主義は論理学的現実を知らないとし、しかもそれは単なる誤認ではなく本来的無知であり、要するに判断の問題群は心理的なものの埒外にあるのであって、判断は純粋論理学的に考察されるべきであり、実は判断の現実形式は妥当であり、論理学の判断とは意味であると結論する、その判断即妥当的意味という見解に、最も明瞭に現われているだろう。

2.その底に潜むもの

Ⅰ 判断論という提題の底に潜むもの

しかしながら、我々は、こうした心理主義的判断論の批判的検討という論題の根底にある、見えざるハイデッガーの思索の重要な萌芽を、見逃してはならない。というのは第一に、判断論という論題を取り上げるということのうちに、どういうことが秘められているであろうか。

判断とは、ものを認識したその成果を言表の形に齎したものにほかならないが故に、判断を問題にするとは、その以前に、認識の問題を含み、従って判断論の根底には認識論の問題があることになろう。ハイデッガーによれば、判断とは判断対象に意義内容が妥当するところに、形成され、従って、判断とは関係である。しかも対象と規定的意義内容との間の妥当の関係であると言われる。「一冊の本は黄色い」という判断は、「黄色いということが一冊の本に妥当する」という意味を述べるもので、それは、物理的心理的形而上学的存在様式とは別物の妥当という形式においてあるものである。しかしながらハイデッガーは、判断の本質が妥当的意味にあると言いながら、同時に意味など捉え難いものはなく、従って彼は、妥当的意味という事態についても、実は明確で詳細な問いへの萌芽を感じながら、これを切り捨てて、未解決のまま放置している。だが、ハイデッガーは、このように問題を打ち切りながら、ともかく判断が妥当的意味の述定だとすれば、それは諸学問の内容にも関係するはずだと言い、判断の問題は学問の可能的根拠の問題へと拡がってゆくべきものであることを主張する。だから、彼は、この論文の最後で、意味の問題を諸学の場合に即して考え、認識論、学問論へと発展し、以て存在の全領域の様式の考察へと視点を究極的に向けるべきであることを暗示するのである。このように、判断論という問題の背景には、認識とはそもそも何か、或いは、存在の全領域のあり方は一体如何なるものであるか、という問いが根本的には匿れているのであり、しかも同時にハイデッガーは、そうした問題を、妥当的意味の判断世界を手懸りとしてなそうとする試みを行い、しかもその際、意味というものに究極の疑問符を突きつけてさえいるのである。

この第一の認識の問題は、ハイデッガーが論理学の問題を通して、実は近世以来の認識論的伝統の問題にぶつかっていることを証明しているが、また見方を変えれば、認識論とは、上に言わせているように、存在の全領域をその様々な現実形式において分肢し、存在へと知識的に人間が接近してゆくその知識的認識的接近のあり方がどのようなものであるかと問うことにほかならないから、実は、広義に、存在への人間のかかわり方、もっと端的に存在への人間の追究がどのようなものかを、ハイデッガーがここで既に問題にしているということに他なるまい。しかし第二の点が示しているように、ハイデッガーはこの思索の萌芽を、少なくともここでは、新カント学派的な論理学的問題設定の中でしか取り上げていない。人間と存在のかかわる場面の、特に認識の、しかも言表化された論理的な妥当的意味というものを問題の中心に据えて、そこから、こうした根本問題の一端を垣間見ているにすぎないというべきである。

だが、ハイデッガーのこうした問題の取上げ方は、後々までも糸を引き、後年の思想は、こうした問題設定を瓦解させてゆくところに、その重要な筋道を浮き上がらせて来るとも、言い得るのである。というのは、第一の存在の全領域のあり方の自覚化という問題は、この論文では、我々が認識によって存在を知的に支配し対象的に規定し、諸学によってそれを学的に探究する、その諸学問の基礎には必ず対象的存在世界の構造の問題が含まれてくる。いわばこうした学の認識論を通して存在へと到ろうとすることが、実は近世認識論のやり方であり、それはカント以来古典化された思考法であり、新カント学派もそうした問題設定の中を動いていたといっていい。ハイデッガーはここではそうした思考法に則っている。まさしくハイデッガーは後年この認識論的問題設定を打毀した新しい端緒を開こうとするのである。出来上がった成果としての学や認識を通してでなく、むしろ学や認識がそもそも可能になる人間的なあり方を問うという方向へと、認識論を瓦解させてゆく。そのことによって端的に、人間的実存と、人間がかかわる全存在領域のあり方とを、問い出そうと試みるに到る。それが『存在と時間』でのいわゆる「基礎存在論」の道である。このような意味で、ハイデッガーが、ここで認識とは何かとか、学の基礎とは何かとか、存在の全領域のあり方は如何なるものなのか、とす、問い出しているということは、実は彼が論理学の底の近世的認識論的問題群にぶつかり、その伝統と確執し、もう一度根本的にそれらを問い直そうとし、やがてそれらを、認識や学そのものがそれに基づいて可能になる人間的あり方全体への問いへと瓦解させていく、実存思想の端緒に立っていることを示したものにほかならないのである。

そして第二に、もしそのようになれば、ここで試みられているように妥当的意味の判断世界を手引きとして存在の全領域の認識を行おうとする試みは瓦解せざるを得なくなるであろう。果たしてハイデッガーは、『存在と時間』に到ると、妥当の思想に批判を加えて、意味について全く新しい見方を立てるべきことを説く。我々が判断において了解する世界の中の様々なものの意味捕捉が如何なるものであるかは、哲学の重要な根本問題であるが、それを言表の形態において出来上がった判断形式の中の純粋意味として立てることをハイデッガーは後に不充分な発想として否定し、判断をそれ以前の実存の存在了解の中に解体させ、従って妥当的純粋意味をも実存が世界の中で被投的企投においてあるその根源的な存在意味の捕捉了解において捉えられるものとして解体させてゆくのである。後には、判断論という論理学的問題設定は、その底の人間のあり方全体への問いよって瓦解されてゆくと見ていい。

このように、判断論という問題提起の底には、朧な形であれ、後のハイデッガーの問題群へと繋がる面がひそかに伏在しており、表面確かに新カント学派的ではあるが、底を割れば、後の思想へと一筋の道が続いているのである。しかもその道は、ここで採られた論理学的問題設定の瓦解を通して初めて拓かれ、そこにやがて実存思想が稔る地平が展けてくる。その意味でハイデッガーは、ここで近世的認識論的思考法の限界に朧に突き当たっていると言えるのである。

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(15)

第2章 論理学的問題設定の瓦解

第1節 準備的初期の哲学的意義

ハイデッガーの哲学は、先取的に我々はこれを、実存に基づく存在の哲学として想定したが、その思想的な唯一の核心は、ハイデッガー思想の準備的初期の中にも既に認められ、確かめられ、そして唯一の萌芽が彼独自の体系へと成長してゆく過程が、捉えられねばならないであろう。彼の思想に変化ないし発展があるとすれば、それは、その同じ唯一の思想を、それにより適した仕方で語ろうとしたその点にのみ求められねばならないであろう。果たして事実そのようなことは可能であろうか。我々はこのことを明らかにするためにも、ハイデッガーの最も早い頃の思索について、即ち1911年から16年にかけての、そしてそれ以後大戦中及び後の時期に独自の思索へと沈潜しつつあった、あの準備的初期について、少しく解明の試みを企ててみなければならない。

ところで、この時期の思想は、一言で言い表わすとすれば、論理学的問題設定の瓦解ということである。この場合、論理学的というのは、具体的には、新カント学派なかんずくリッケルトによって代表されるような思想のことであるが、新カント学派が広い意味では近世以来の認識論的意識内在主義の哲学の系譜の上に成立した学派である限り、ハイデッガーのこの思想は、広義には、近世的な認識論的哲学の瓦解を試み、そのような発想においては常に取り残されざるを得なかった新しい問題群への新しい接近、ということを意味するだろう。まさしくそれが実存的問題群にほかならない。

ハイデッガーが新カント学派に最初学びつつやがてそれを批判克服していくということは、彼が最初20世紀初頭ドイツ学界を風靡したいわば学界の通年であった新カント学派の思想を需要摂取しつつ、それへの批判対決へと進んだということであり、言い換えればそれは、彼が近世哲学の伝統の中に先ず根ざし、それの一つの帰結でもあった認識論的論理学的問題設定に自らを定着させ、次いでそれへの批判とそれからの脱出を試みることによって、近世的な問題群を克服して、新たな現代哲学への端緒を切り拓くべく、まさしく哲学的伝統の中に定着して格闘しつつあったということにほかならないであろう。その意味でハイデッガーの準備的初期は、彼自身の哲学のその後の展開への萌芽をも含むと同時に、それ自身として近世的問題群と現代哲学的問題群とが噛み合い争い合う、極めて深い交錯点をも含んでいると言えるのである。

新カント学派をその一つの帰結とするような近世の認識論的論理学的方法とは、主客分裂というものを初めから前提し、その主観の意識内在的な認識原理をもととして客観世界の構成を企てようとするもの、と言ってよかろう。ところで、実存的端緒というものは、こうした主客分裂の思考法を、その底において突破るときにのみ現われる。総じて実存の領野はねこのような認識論的問題設定の瓦解と密接に結びついている。このことは勿論ハイデッガーの場合においても変わらない。

ハイデッガーは後の『存在と時間』において、近世の主客分裂に基づく認識論的論理学的意識内在主義に、以下のような批判を加えている。即ち、主客分裂という認識論的思考法では、認識は「内部」にあると考えられ、認識主観がその内的領域を超えて他の外界の領域へと到達するないしは合致するときに、認識が成立すると考ええられている。この内的領域がどう解釈されるにしても、ともかく認識は、その内的領域を超えて外へ超越するときに可能とされる限りでは、主観は初めから意識内在的なものとして前提されてしまい、そうした内在の基礎となっている主観の存在様式への問いが、問われずに済まされてしまっている。ハイデッガーは、こうした不充分な主客分裂の思考に反対し、積極的にむしろこう言う、「認識とは世界内存在の一存在様式である」と。主観はその内的領域を超えて外へと到るのではなく、もともと既に世界の許に、いわば「外部」にあり、様々な存在者とかかわりつつ世界の中に存在しているものだ、というのである。認識論的な機能性において主観はあるのではなく、存在者として世界の中に実存しつつあり、その一様式として、認識が可能になるにすぎない。認識は、内的な主観の外に出て客観に達し、そこで獲物をもってまた意識の内在という内部に戻るというものではなく、世界内存在という根源的な存在のあり方の中の、特に傍視的側面が肥大し、拡大したときに、成立するものなのである。ハイデッガーは、このように近世の認識論的思考法を批判している。主客分裂以前の、両者が一つの世界の中で交渉している、その存在の世界に、哲学は還らねばならないということであろう。ハイデッガーの言い方を借りれば、認識論から基礎存在論へ、認識や意識内在主義によって世界解釈を構成する考え方から、認識さえもがそれ基づいて可能となる人間的現実存在のあり方の考察へという、より根源的な存在の世界への還帰の方向だと言えよう。そしてここに、実存という主題が、はっきり、あたらしい発想の中で登場して来るのである。

2011年9月18日 (日)

港徹雄「日本のものづくり 競争力基盤の変遷」(4)

1章 競争力基盤と国際分業

1.国際競争力のランキング

日本の国際競争力の低評価の原因は、政権の不安定性、財政赤字及び効率の税額などによると指摘されている。

2.伝統的貿易理論

何が国の国際分業(貿易)パターンを規定するのかという問題は、古くから多くの経済学者によって研究されてきた。

1817年のデビット・リカードの『経済学および課税の原理』において、たとえ生産コストの面で絶対的な優位な産業がなくても、相対的に優位性があれば国際分業の利益が存在することを示した。この比較優位論に根本的修正を加えたのが、ヘクシャー=オリーンの国際分業論であった。各国の生産要素(土地、労働、資本)の賦与状態の相違が国際分業の要因であるした。即ち、ある生産要素、例えば労働が豊富に賦存している国ではその投入コストである賃金率は低くなるから、労働という生産要素を多く投入する材の生産コストは低くなる。そのため労働集約型産業が比較優位産業になると説明した。

3.産業製貿易と新貿易論

1970年代、欧米諸国や日本等先進経済諸国では、いずれの国でも自動車や電気機器等組立型機械産業が高度に発展し、その生産能力が拡大した。そして先進諸国で、同一の産業カテゴリーに属する製品の輸出と輸入とが同時に行われるという産業内貿易が活発化した。

ポール・クルーグマンは、1979年に規模の経済性を享受する生産規模の大きな企業が、規模の経済性を享受しえない企業を淘汰して独占的競争状態となること。そして国内市場競争で勝ち残った企業は生産規模をさらに拡大することによって、その生産コストが輸出に伴う輸送費用を差し引いてもなお国際的な価格競争力が獲得できるまでに低下させることができるとした。つまり、貿易は、技術や生産要素賦存の国際的な相違を必要とするものではなく、それに替わって、貿易は単に市場を拡大し規模の経済性を享受させるものであり、この貿易の効果は労働力の増加及び地域的な産業集積がもたらす効果と同様である。さらに、クルーグマンは1980年に、同一産業内で国際貿易が行われる理由として、自由貿易によって市場規模が拡大し、生産規模が一層拡大した輸出企業ではその製品ラインを多様化することが可能となる。他方、経済成長によって豊かになった消費者は、差別化されバラエティに富んだ商品群の中から選択することにより大きな効用を得ようとするようになる。この結果。消費者は同一の商品群の中から、購入する商品であっても、輸入された商品群と国内メーカーの商品群の中から、購入する商品を自由に選択するようになる。このように独占的競争と製品差別化とが今日の先進国間貿易の主流である産業内貿易の要因であるとした。この理論は特定国の大企業によって生産された製品が貿易市場を支配する可能性を示唆している。

4.企業間生産性格差と「新々貿易理論」

企業データを用いた分析によって、輸出産業に属する企業でも、過半の企業が輸出を行っておらず、相対的に生産性の高い企業だけが輸出を行っていること、また、輸出を行うことによって企業レベルおよび産業レベルで生産性が上昇することが実証されるようになった。

また、統一産業部門に属する企業であっても、輸出や海外直接投資を行っている国際化された企業と、輸出や海外直接投資を行っていない非国際化企業とが併存している事実を説明する理論として新々貿易理論が登場した。メリッツは2003年に、同一の産業内に生産性の異なった異質な企業が存在することを前提に、生産性の高さによって国内市場に製品を供給する企業にとどまるものと、輸出を行う企業とに分かれ、生産性の最も低い企業は退出を余儀なくされるとする貿易モデルを提起した。このように生産性の高い企業だけが輸出企業化する理由として、高生産性企業だけが輸出チャネル形成等に必要とされる固定的な輸出コストを支払うことが可能であることを指摘している。

このように新々貿易理論では、企業の生産性格差を国際化企業と非国際化企業とが併存する主要因としている。しかし、これらの理論では輸出企業の生産性が非輸出企業の生産性に比較して高いという事実を確認しているが、企業間の生産性格差がどのような要因によって派生するのかについては、直接的には論じられていない。

5.新々貿易理論の実証研究

港徹雄「日本のものづくり 競争力基盤の変遷」(3)

6.モジュール化とアジア系EMS企業の台頭

日本企業の国際競争力に大きなインパクトを与えている技術的要因の一つが、モジュール化の進展である。モジュール化とは各機能製品(デバイス)間を連結するインターフェイスを標準化することを意味しているが、これによってモジュール化が進展している電子機器の生産プロセスは大幅に変容し、日本の電子機器下請企業の存立基盤は大きく揺らいでいる。

電子機器産業でのモジュール化は部品の互換性と製品の標準化を進展させたが、このことは同時に製品レベルでの差別化の余地が大きく狭まったことをも含意している。この結果、パソコンやオーディオ機器等ではブランド間での製品差別化が困難になっている。

電子機器のモジュール化の進展は、製品間の製造技術の独自性をも小さくしている。例えば、モジュール化が進展する以前では、パソコンと電話機あるいはビデオゲーム機の製造工程はそれぞれ相違があり、企業はそれぞれの製品を別個の工場で製造してきた。ところが、モジュール化が進展するとこうした製品間の製造工程の差異は大幅に狭まり、これらを別個の工場で生産する意味はなくなり、生産工場の統合が進展した。この結果、これまで特定の製品を生産する工場から仕事を受注してきた下請中小企業のなかには、親工場の統合に合わせて整理淘汰されたものも少なくない。

モジュール化の進展に伴って1980年代に入ると、生産工程の一部を請け負う伝統的な下請企業に代わって、電子製品の設計から最終組み立てまでを大規模に請け負うEMS(Electronics Manufacturing Services)業態が登場し、電子製品の製造がこうしたEMS企業に一括発注されるようになった。21世紀に入ると、電子製品部門では販売量が販売水準によってのみ決まるという、一般商品(コモディティ)化が一層進み製品価格低下が加速した。このためEMS企業は大幅なコスト削減要請に直面するようになり、人件費の高い先進諸国での生産では採算を確保することが困難となった。また、デジタル化された生産機器がより高性能化し機器価格も下落したため、中国に巨大規模の生産子会社を有するアジア系EMS企業が急速に台頭するようになった。

EMS企業はなぜこのように急激な成長を実現させたのであろうか。まず第一に、電子機器産業でのモジュール化の進展によって電子製品の製造プロセスが、メーカーや機種が異なっても同質性が高いため、多くのメーカーから受注しても生産ラインを大きく変更する必要が少なく効率的に生産を行うことができることである。しかも、受注から生産・出荷に至る全工程が最新の情報通信技術によって的確に管理されるため、規模の経済性が最大限発揮できるようになっている。さらに、桁違いの大量受注によって半導体等デバイスの資料調達において強いバイイング・パワーが付与され、有利な価格で資材を調達できることもコスト競争力を強めている。

7.基盤型産業の凋落

自動車産業をはじめ、あらゆる量産品の生産にとって金型工業は最も重要な基盤型産業である。日本の量産型機械工業の品質面での競争優位性のかなりの部分は、金型工業の高い技術・技能水準によって支えられてきたといえる。ところが、その金型工業が2000年以降相次いで経営悪化に陥った。というのも、金型は、その設計や製造に必要とされる高度な熟練技能の多くがコンピューターによって代替された典型的な産業であった。つまり、3DICT革新によって三次元のCAD/CAMがパソコンレベルでも容易に実現されるようになり、金型設計ソフトも急速に進化した。このため、それまでは効果で操作性も悪かった三次元での金型設計作業が、比較的安価となり操作性も向上した。日本の金型技術者は、二次元の設計図面から三次元の金型をイメージして加工する高い技能を蓄積してきたが、三次元CADが普及するとこうした技能の重要性は相対的に低下した。また、コンピューター技術の進化は、金型を加工する工作機械(MC)の加工精度を飛躍的に高めた。さらに仕上がった金型の精度を測定する三次元測定機も急速に普及するようになった。この結果、三次元CADによって制作された金型図面は、そのままコンピュータ制御の工作機械類によって製造されるという三次元CAD/CAMが普及するようになった。

8.高度化する中国の生産技術

金型工業をはじめ日本の基盤型産業がその国際競争力を低下させているのに対して、中国の基盤型産業の実力が2005年以降急速に向上している。中国の金型企業では、2000年以降になって積極的に先端的な生産機器を導入するようになっており、05年以降ではそれまで中国国内の金型企業では生産が困難と考えられてきた大型金型が生産されるようになっている。

事例を見ると、これまで移転性の低かった技能や暗黙知がデジタル化されることによって国際的に移転(拡散)可能となったこと、とりわけ、三次元CAD/CAMの導入が高精度な先端的生産技術移転に大きな役割を果たしていること、デジタル化が困難な技術や技能に関しては、資本・技術提携あるいは日本人熟練技能者の直接雇用によって移転されているという主張を確認させるものである。

20世紀の産業界においては、国際競争力を備えた工業製品の生産に必要とされる生産技術の習得や基盤型産業の育成には、20年程度の期間が必要とされてきた。実際、戦時経済下での機械工業の技術遺産を継承した日本においても、機械工業部門が国際競争力を確立し得たのは1960年代後半以降である。しかし、3DICT革新以降の世界では、生産技術習得、基盤型産業育成に必要な時間は大幅に短縮され10年前後で国際競争に耐える生産技術水準を確保し得るように変化している。

9.生産技術移転と資本財輸出

中国では、体内直接投資を始め様々なチャンネルを通じて生産技術移転が進展し、域内分業基盤も急速に強化されている。しかし、工業生産の急激な量的拡大と生産・輸出品目の高度化のテンポに比較すると、分業基盤を構成する支援産業の供給能力は不足しており、こうした需給ギャップを埋めるために日本からの中間財輸入は拡大を続け、また、基盤型産業で必要な高精度の輸入も増大している。こうした中国の資本財、中間財の日本からの輸入は拡大を続けており、その経済成長見通しからすると今後も持続することが期待されるが、輸入代替工業化が進展するにされて資本財輸入依存度は低下すると考えられる。

他方、韓国では、域内分業基盤の形成・強化が進展しており、金型や鋳物、プレス加工等の基盤型産業部門では輸出が輸入を凌駕する優位産業へと転化している。しかし、輸出品目の高級化・高付加価値化に伴って、高機能部材、例えば、液晶テレビ用の偏光フィルム等の輸入需要が拡大している。韓国政府は、日本からの輸入に大きく依存している中間財の輸入代替工業化を産業政策の重点の一つにしている。ここ3年は韓国の輸出が急拡大したため対日赤字は拡大したが、韓国政府のこうした政策努力は徐々に結実してきている。

10.脱「黄昏」は可能か

以上のように21世紀以降の3DICT革新は、日本産業の競争優位の源泉であった企業間の緊密な分業に基づく高度な「ものづくり」能力や長期雇用によって形成された熟練技能の多くをデジタル技術によって代替させた。この結果、中国をはじめ東アジア諸国の機械生産能力を量的にも質的にも急速に向上させている。同時に、これまで日本製品に比較して品質面で劣位にあったアメリカの自動車産業でも、急速な品質改善が進展している。日本産業では一部の高級品分野と高機能中間財部門では依然として強い国際競争力は維持されているが、普及品分野では競争力は低下している。こうした分野では、これまでのような品質優位性に基づく非価格競争力が低下したため激しい価格競争に直面し、従来のように円高による影響を輸出価格値上げにやって転嫁できなくなり、円高が輸出採算悪化に直結している。日本産業、とりわけ輸出の大部分を占める機械産業では、付加価値率低下に直面している。

日本産業は、その競争力が維持されている高機能・高品質を備えた高級製品分野と、近年輸出が急速に拡大している高機能中間財分野へ一層のシフトを図るべきである。また、医薬品、医療用機器のように高付加価値であるが、必需品的な特性をあわせもち、したがって、世界景気の変動に需要が左右されにくい商品分野、つまり、必需的高付加価値産業分野の国際競争力確立を優先すべきである。こうしたバイオ関連産業等の高付加価値産業部門で国際競争力を高めるには、その競争力基盤である知的生産要素供給能力を強めなければならない。先進諸国は、こぞって産業の知的生産性向上に最も注力している。

日本がその産業の「黄昏」を回避するためには、高級品分野、高機能中間財分野、とりわけ必需的高付加価値産業分野で国際競争力を強化することが、ほとんど唯一の道筋であると考えられる。そらには、これまで物的生産で高い企業間生産性を達成してきた日本の分業システムの、知的生産面での企業間生産性を高めることが不可欠の条件である。

2011年9月17日 (土)

港徹雄「日本のものづくり 競争力基盤の変遷」(2)

3.価格転嫁力の低下

日本の自動車メーカーは、これまで円高による円建て輸出価格低下を、その非価格競争力を背景に、外貨建て輸出価格を値上げすることによって転嫁することが可能であった。ところが、2008年末以降の円高局面では輸出価格への転嫁はほとんど実現していない。

2000年代半ばまでは強靭な非価格的競争力を維持してきた日本の主要輸出産業である輸送用機器は、2000年代後半になると、品質優位性の程度は、諸外国のライバル・メーカーの品質向上によって相対的に低下した。このため円高の影響を輸出価格引き上げによって転嫁することが困難となっている。

4.日本車の品質評価低下

自動車産業は日本のものづくりの高い能力を全面的に体化し、日本の経済成長を主導するリーディング・セクターであった。実際、日本の自動車メーカーは1980年代には、その効率的な企業間分業システムと高いものづくり能力によって圧倒的な品質の優位性を確立し、強い非価格的競争力を実現させてきた。しかし、こうした圧倒的な品質の優位性は2005年までであり、近年その競争力は大きく変質している。そして、1980年代には日本車に比べて競争劣位にあった韓国自動車メーカーの現代自動車は、日本メーカーを超える高い品質評価を獲得するようになっている。日系自動車メーカーの品質評価は総じて低下傾向にある。これは、日系自動車メーカーの品質水準が低下したというよりも、米国系自動車メーカーや韓国系自動車メーカーの品質水準が21世紀以降、急速に向上しているためである。このように近年の、海外の自動車メーカーの品質水準が向上した背景には、1980年代後半以降に日本のサプライヤー・システムの利点を、各国の産業風土に適合するように変容させながら移植する努力が奏功したこと、また、前項の3DICT革新を積極的に生産システムに導入した結果であると考えられる。

5.生産技術の国際拡散

1990年代末以降、日本産業の国際競争力の中核をなしてきた生産技術の、海外、とりわけ東アジア諸国への移転・拡散が急速に進展している日本の生産技術の国際的拡散を促す要因として、次の4点が指摘される。

第一の要因は、生産技術の多くが高性能のデジタル化された生産設備によって代替されたことによって、生産技術の国際移転性が高められたことである。かつて日本の生産技術は暗黙知の部分が多く、技術者や技能者個人に体化されているために、その生産技術の拡散はせいぜい国内企業に限定されてきた。このように、日本の産業社会に固有で国際移転性が低いという生産技術特性が、20世紀末までに日本産器用の持続的な国際競争力に寄与していたと言える。ところが、暗黙知化されてきた技能のかなりの部分が生産機械の高度な発達によってデジタル化され、国際移転性の高い形式知化されるになったためである。

第二に、先進的な生産機器をもってしても代替されない暗黙知については、日本の技術者や熟練労働者を直接雇用することで移転しようとする現地企業が、韓国、台湾ばかりでなく、中国やタイでも増加しており、日本人技術者や熟練労働者需要が東アジア全域で高まっている。同時に日本人技術者や熟練労働者の現地企業への供給を促進する要因も1990年代以降高まっている。日本輸出産業、とりわけ、大手電気・電子機器メーカーは90年代以降、長期的な経営不振によって大規模なリストラを実施してきた。そうして事実上解雇された従業員が新たな雇用先を現地企業に求めたのである。

第三に、生産技術や技能集約型産業での海外企業との合弁事業や、技術提携の増加による生産技術の国際移転が進展していることである。こうした提携を通じて、現地企業に日本企業から技術者や技能労働者が派遣されている。国際提携の増加も生産技術移転の重要なチャネルとなっている。

第四に、これまで中間財メーカーや生産設備メーカーの多くは、日本企業の生産系列傘下にあり、系列外企業への販売が制約されてきた。しかし、1990年代以降になると系列解体の動きが強まり取引の自由度が増したため、中間財メーカーや生産設備メーカーは海外企業への販売を拡大し始めた。この背景には、国内の完成品メーカーの成長鈍化によって、系列メーカーからの購買が落ち込んだことにある。また、液晶テレビのように製品イノベーションによって、従来のアナログ製品の時代とは異なった中間財や生産設備サプライヤーへの需要が増加した。こうした新たなサプライヤーは従来の系列傘下ではないため、海外企業にも自由にその製品を供給できた。液晶テレビや半導体生産にとって生産設備の性能は競争力に直結する。日本の生産設備メーカーは、90年代末以降に技術開発によってその製品の高性能化を一段と進展させたが、日本のメーカーは設備投資意欲が冷え込んでおり、こうした最新鋭の高性能機器は日本企業よりも韓国・台湾などの東アジア地域の企業によって積極的に導入された。この結果、これらの企業で半導体生産や薄型テレビの国際競争力が高まった。

2011年9月15日 (木)

港徹雄「日本のものづくり 競争力基盤の変遷」(1)

序章 ものづくり大国の黄昏

1.競争力としての分業システム

1970年代中頃から90年代中頃までの約20年間は、日本の製造業、とりわけ、多数の部品から構成される高度組立型機械工業の黄金期であった。そして、80年代中頃にはその絶頂期に達し、高品質で多様性に富んだ製品を迅速に供給し得る日本の生産システムは世界的な称賛を受け、先進諸国の機械工業部門では、こぞって日本型生産システムを導入するジャパナイゼーション現象がみられるまでになった。この時代においては、自動車工業をはじめ日本の機械工業製品は、その圧倒的な品質優位に支えられた非価格競争力によって、数次にわたる大幅な円高シフトにもかかわらず国内生産は拡大し、輸出を伸長させてきた。こうした日本の機械工業部門の強力な国際競争力を支えてきた基本的要素は、域内分業システム(Domestic Division of Labor)にあった。

域内分業システムとは、生産要素(労働と資本)が自由に移動できる特定の経済圏内で構成される分業システムである。域内分業システムの中でも、完成品メーカーと部品サプライヤーとの企業間分業システム、ものづくりの基盤をなすものである。また、日本の下請分業システムは企業間分業の一形態であるが、限定された企業間の長期継続取引、親企業による下請け企業に対するコントロールの存在等の取引関係の特異性が存在している。こうした特異性は、さまざまな経済効果を派生させ、企業間生産性を高めている。

下請分業システムが企業間生産性を高めた要因は、第一に、このような少数企業間の長期継続取引によって、企業間の長期継続取引によって、企業間分業に必要とされる取引コストを大幅に縮減させた。とりわけ、情報伝達コストを高めることなく企業間の濃密な情報交換を可能にした。第二に、下請け企業は、生産の自動化を高める専用機械・設備等の取引特定資産への投資を積極的に行い、コスト低減と品質向上とを同時的に達成してきた。第三に、下請企業は、特定の生産工程に専門化することによって、その専門領域の加工技術を深耕させてきた。第四に、安定した取引関係によって、下請企業でも長期的雇用が可能となり、従業員は取引特定技能水準を高度化させた。

2.3D・ICT革新の衝撃

1990年代後半以降になると情報通信技術(ICT)が急激に進化した。こうした段階でのICT革新を三次元ICT革新と呼ぶと、3D・ICT(3 Dimension Information Communication Technology)革新は、日本産業の競争優位性の源泉であった企業間生産性の高さを実現させてきた諸要素を、デジタル技術によって代替させグローバル規模で普遍的に利用できるようにした。

パソコンが三次元での情報処理能力を獲得するようになると、パソコン画面上で創られるサイバー世界と、人間が生産活動を行う現実の世界とが同一次元化することを意味している。三次元でのコンピュータを活用した設計と生産(CAD/CAM)がパソコン・レベルでも実現できるようになったことで、企業間分業によって個々の企業で生産された各パーツやコンポーネントを統合するための調整(摺りあわせ)の重要性は相対的に低下した。なぜなら、各パーツが製品にうまく適合できるかは、三次元の設計図面上で繰り返しシミュレーションすることもできるからである。また、二次元設計の時代には必須であった試作品製作も省略できるケースも増えている。三次元での機械加工を行うマシニング・センサー(MC)を制御するコンピューターの能力が急激に進化したことによってMCの自動制御精度が格段に向上し、これまでは熟練した技能工でしか実現できなかった高精度加工が半熟練レベルのオペレーターでも実行可能となった。

さらに、それまでは人間の視覚機能は複雑でその画像処理能力をコンピューターによって代替することは困難であったが、20世紀末になると人間の網膜機能を代替するような高画質、高速読み取り能力を持つCCDセンサーやCMDセンサーが開発されるようになった。これらの高機能のイメージ・センサーは、スチールカメラやビデオカメラに用いられただけでなく、各種の製造設備、とりわけ、それまで肉眼に頼っていた検査工程を自動化する装置として用いられるようになった。高機能のイメージ・センサーを組み込んだ検査装置の導入によって、検査工程の省力化が図られるばかりでなく、肉眼では見落としがちな微細な不具合も検出することが可能になった。この結果、高度な品質管理が、QCサークル等によらなくても実現できるようになり、日本製品の圧倒的な品質による優位性が相対的に低下した。

つまり、20世紀末以降のデジタル技術の発展は、熟練技能や人間の五感をも代替する段階に到達している。

20世紀末になると、インターネットの世界でも革命的な変化が起きた。光ファイバー・ケーブル網の普及によって、毎秒100メガ・ビットの送受信が可能となった。この結果、三次元設計図や大量のデータが瞬時に、しかも、ほとんど追加的費用なしで世界中に送受信されるようになった。このことは、世界中に情報を伝達するための神経系統が完成したことを含意している。つまり、パソコンが三次元の情報処理能力を獲得したこと、人間の技能や語感がデジタル技術によって代替されるようになったこと、インターネットが三次元の画像情報等の大容量情報を世界中に瞬時に伝達する神経系統の役割を果たすようになったことが、3DICT革新の本質的特徴である。3DICT革新は、20世紀末に先進経済諸国で普及したが、21世紀に入ると、発展途上諸国にまで普及するようになり、国際競争環境を大きく変貌させるようになった。

2011年9月14日 (水)

あるIR担当者の雑感(49)~レポートを書いてもらったら?

何か、レポートを書かれたことを再三話題にしているので、しつこいと思われるかもしれません。まあ、それほど、担当者としては嬉しかったということで、また、我慢してお付き合いください。

アナリストの方から、出来上がったレポートを送っていただき、何度も読み返しているうちに、これを、もっと生かすことを考えたいと思いました。せっかくアナリストの方が努力を重ねて書いてくれたものです。担当者としても、それに応えるべくそりなりの努力は、やはり、してきたつもりです。これをもっと活用したいと考えるのは自然なことではないかと思います。取敢えず、担当取締役や社長、経理関係者などには写しを配布しました。

で、そのために、何か参考になるようなものはないかと探してみました。そして、結果から言うと、この数日間いろいろと探しましたが、全く参考となるようなものは見つかりませんでした。「アナリストにレポートを書いてもうためには、どうしたらいいか」というセミナーはよく行われているようですが、その後のレポートを書かれた後では何をどうするのがよいか、というセミナーは見つかりませんでした。レポートを書かれる会社は上場会社のなかでも限られているので、このようなセミナーは集客の可能性が低いというのか、このようなテーマ自体が、そもそもセミナーの対象とならないのか、分かりませんが。

各発行会社では、どうしているのでしょうか。私の勤め先のようなところはレポートを書かれるということが大事件なので、こうして大騒ぎしているのですが、有名大企業では日常的にレポートが書かれるようなので、そのこと自体、あまり騒がないということでしょうか。他の会社のことは、よく分からないのですが。

何かのアクションを起こして、ひとつの結果がでたところでその結果に対する検証などのフィードバックを求めるのは、ビジネスでは同然のことですし、結果に付加価値がついてきたとすれば、それを利用するということで、サイクルを回すというのは、あたりまえのことです。先日出席したIRセミナーでは、アナリストにレポートを書いてもらう、ということを目標の一つとして扱っていましたが、その出た結果に対して、どうするかという視点はなかったようでした。

で、参考となるようなものもないので、ビジネスの基本から自分なり、この場合はどうしていくのかを手探りで考えながら、やろうとしています。

そのひとつは、敢えて考えるまでもなく、今まで、企業の側から情報を発信してきたことに対して、アナリスト・レポートという形に残るものが返ってきたということで、これまでの情報発信の検証ができるということです。例えば、新規事業への期待の大きさとか、既存の事業で現在は苦戦している状態の事業に対する関心が会社が考える以上に高かったということ等が具体的に分りました。これにより、今後の情報発信の方向性を軌道修正していく必要性を理解できました。これは、情報発信だけに限ることではなくて、市場から会社が考えている以上に関心が示されているということは、会社が気づいていないところで事業に可能性があるかもしれない、ということになれば事業戦略について軌道修正もあり得るということになります。これは、今後のIR活動、それだけでなく企業活動を続けていくために、とても重要なフィードバックです。よくレポートを書いてもらえる会社は、こういうフィードバックによる検証作業を頻繁でできるので、IR活動なども軌道が大きくずれることもなく続けていく安全弁が備わっているようなもので、うらやましく思います。

これに関連して、IRの担当者レベルでは、取材を受けているので、取材されたことがどのようにレポートに書かれたかを追跡できるということです。多分、複数のアナリストにレポートを書かれている会社では、それぞれのアナリストの個性の違いも把握できるのではないでしょうか。そうするときめ細かなコミュニケーションが可能となります。そして、何よりも、アナリストを投資家と企業をつなぐ窓口と考えると、これまで企業からの一方的だった情報開示に対してレポートという形に残るもので返答があった、ということで双方向性の道が少し広がったということです。アナリストという人間が会社に興味を持ってくれたからこそ取材をして、企業の魅力や可能性を見出したからこそ企業の投資価値を認めレポートを書いてくれたということは、言ってみれば投資家ならば、ファンになってくれていると考えてもいいのではないか(レポートを書いてくれたアナリストの人には叱られそうですが)。こう考えると、アナリストレポートは企業がファンをつくり、広げていくための試金石、フロントランナーとも考えられるわけです。

今度は、違った側面から考えてみます。それはレポートを書いてもらった企業の側で、例えば、社員がこのレポートを読むということです。ある会社では株主通信を社員に配布しているそうですが、レポートは外部の客観的な目で、その企業を分析したものです。社員というのは、ほとんどの場合、日頃会社の中にいて、会社というものを、とくに全体像を鳥瞰的に見るということがないのです。だから、こういうレポートで改めて、自分の会社はこういう会社だったのか、ということが分かるわけです。実際、今回、レポートを一部の社員に見せたところ、そういう反応をする人が多かったです。これは、企業が社外への情報発信という点だけでなく、企業内部の社員たちを対象とした企業アイデンティティ(というと大袈裟ですが)に資するものではないか、と思いました。だから、こういう方向でレポートを活かす可能性は高いと思います。

まだ、これ以外にも私の気づいていないところで、可能性は沢山あるのではないかと思います。

レポートを書いていただいたということで、これを活かしていくという新たな課題が出てきました。IRという仕事は、拡大再生産というのか、発展性があるというのか、どんどん広がっていくものだということを感じました。

下川浩一「自動車産業の危機と再生の構造」(16)

終章 日本自動車産業再生の道

今、日本の自動車メーカーは、世界的金融危機と世界同時不況の急襲を受けて、未曽有のリストラの最中にある。これまで最大の収益源であり、金城湯地としてきた北米市場が縮小均衡に向かう中で、日本の自動車メーカーは、今後いかにして再生を図ることができるのであろうか。

この中で日本の自動車メーカーの再生は、まず、既に進行している通り、国内、海外の大量減産と海外工場の増設延期、ないしは新工場増設の見直しである。当面は雇用を含めたリストラと減産で、過剰生産と過剰在庫体質の一掃を図り、七割ないし六割操業で採算が取れる「筋肉体質」の実現を追求することが求められる。この筋肉体質の実現には、一層のフレキシブル生産の強化と、派遣労働に安易に頼らない高度な多能工育成と、それによる海外工場のサポートが必要である。

今後を展望すると、日本の自動車メーカーは、為替相場の変動の影響を受けにくい体質を確立しつつ、何にもまして環境技術で世界をリードすることが求められる。特にビッグスリー崩壊後は、北米市場で主役に躍り出る可能性も高い。場合によっては、国内の工場の生産能力を減らしてでも、海外工場の強化拡充と自立化を促進せねばならないであろうし、質の高い先行開発とそれに見合ったレベルの高い生産技術を追求し、世界に冠たる環境技術に挑戦していく必要がある。この二つの重要課題に挑戦する上でカギを握るのは、海外要員と、これをサポートできる質の高い人材開発と、そのための中長期の人材開発戦略である。真の質の高い人づくりこそ、これからの基本課題とあるとの前提に立って、人材開発戦略を急がねばならない。

この危機を何とか乗り切ることができたなら、その後には、北米市場におけるビッグスリーの縮小均衡に伴う勢力変化が起こる。そうした事態に備えることも、今から考えておくべきだ。これまでの日本の自動車メーカーは、北米の現地工場が利益を上げ、これによって曲がりなりにも日本国内、輸出、そして海外現地工場の三位一体の為替フリーの体質に近づいたとされていたが、今後は海外生産に今まで以上に力を入れることで為替フリーのグローバル生産体制確立という挑戦に活路を見出すしか、この危機を乗り切る妙策はない。そして、中長期的には新興国市場の自動車産業が世界をリードする時代がやってくる。それは予想以上に早まる可能性がある。しかもその基本動向は、世界一を誇った北米市場をあてにしたグローバルな所得移転ではなく、中国、インド、ASEANなどの中産階級の形成による内需の底上げによってもたらされる。となると、グローバルな新興需要に応えられる超廉価小型車や自動車関連の環境技術が何を置いても必要になる。特に環境技術は先進国だけでなく、新興国や途上国にも差し迫った課題になりつつある。

2011年9月12日 (月)

下川浩一「自動車産業の危機と再生の構造」(15)

第4章 環境戦略で市場をリードする

世界的金融危機が進行しつつある中にあって、これまで先進国主体で進んできた自動車産業の構図は大きく変化しようとしている。世界の自動車産業をリードする主役は新興国市場、なかんずく中国、インド、ASEANなどに移ろうとしている。これらの地域での市場戦略は、これまで先進国で通用した市場戦略の繰り返しや延長ではありえない。まず底辺の需要を底上げする超廉価小型車と、徹底した省エネルギーの環境対策車でなければならない。ところが、この二つのコンセプトは必ずしも両立しないところに自動車メーカーの悩みがある。しかし、現実にはその究極の車作りを新興国が求めているのは確かである。

これまでの120年の自動車産業の歴史は、フォーディズムとも称せられるT型フォードのような当時としては超廉価で実用主義に徹した車によって切り拓かれた。これに対してスローニズムが擡頭し、消費者の財布の大きさに合わせた高級車から中級車、そして大衆車までフルラインのセグメンテーションによるマーケティングと、大衆車「シボレー」のグレードアップで付加価値を取る戦略が功を奏しGMの覇権が成立した。その結果、先進国の自動車メーカーは自国の所得水準が上がり、中産階級が出現するのに合わせてフルラインの戦略を取って成功を収めた。だがフルラインのセグメンテーションも先進国においてすら次第に色あせたものになりつつある。これはプラットフォームの統合や共通化が進み、特定ブランドのチャネルと製品を差別化することが難しくなっていることの反映である。それだけでなく、いまや先進国ですらValue for Moneyの価値基準の転換が起こりつつあり、低燃費と省エネ、安全性能に優れた車の価値観の転換は一般の想像を超えた急速なものとなるだろう。先進国に起こりつつあるこのような価値基準の転換は新興国においても進むであろう。

新興国市場にあっては。当面は先進国型のセグメンテーション的バラエティーマーケティングで高所得層と中産階級のユーザーに浸透す戦略が現実的アプローチである。しかし、他方において開発の徹底した現地化と自立化の下で。省エネと高環境性能車としての超廉価車の投入により、二輪車等の代替需要を刺戟して底辺のマーケットを掘り起こす努力は必要である。そのような超廉価車は「T型フォード」の再来と言ってよく、それでいてその設計思想においてモジュール化と必要に応じたインテグラル・アーキテクチャーを組み合わせるという点で、またその開発でそのなかに組み込むソフトウェアによる多様な対応も可能になるという点で、各メーカーの技術力と設計能力が試されることになろう。このような戦略の下では、先進国自動車メーカーは、先進国中心の成熟市場を前提とした製品開発に力を入れ、その中で生まれた製品を新興国や途上国でも展開するというこれまでの戦略をある程度修正し、開発から調達、そして生産に至るまで、経営資源配分を転換しつつ二つの可能性を追求することになろう。こうした新興市場戦略は、20世紀の自動車産業の基本パラダイムであった大量生産、大量販売、大量消費に代わる、新たなパラダイムの創出のなかから生み出される。新パラダイムとは、脱化石燃料を志向しつつ、省エネルギーと省資源に徹した中長期の環境戦略を立てることである新興市場こそ、これからの自動車産業の成長源であると同時に新たなる環境文明創造の舞台となっていくことは間違いない。

日本では1978年に排気ガス規制が法制化された、いわゆる「日本版マスキー法」である。局地的公害対策とはいえ、当時としては世界で最も厳しい基準の目標値を制定した。このときの日本の自動車メーカーは、資本自由化による海外メーカーの日本進出の脅威にさらされつつ、ようやく国際競争力をつけ始め、米国に輸出を始めたばかりであり、とうてい排ガス対策にその経営資源を重点的に投入する余裕はなく、これに挑戦することは社運を賭けたものであった。しかしながら、多大な犠牲を払った排ガス対策の研究開発は、その後の事態を長い目でみるとプラスに作用したものがあった。排ガス対策を進めるために、どのメーカーもエンジンの燃焼技術の根本に遡った研究開発に努め、そのために、それまでの研究開発が機械工学中心だったのを化学、素材、電子などの学際化したものに改め、これらの分野の専門家を技術者として多数採用したことである。特に化学分野の研究は触媒の解明に役立ち、電子分野の研究はやがて電子制御への道を開いた。その結果、三元触媒とこれを活用した電子制御燃料噴射装置の採用に漕ぎつけた。このように日本の自動車メーカーは日本版マスキー法の規制をクリアした。これが燃焼技術におけるイノベーションを誘発し、多くの教訓とノウハウが蓄積されたのであり、車両の軽量化とエンジンの燃焼率向上、コンパクト化に拍車がかかった。その後の日本自動車メーカーの研究開発における進化能力は、このときの経験と、そのなかから芽生えた要素技術を実体化する生産技術によって高められた。

その後、アメリカのビックスリーは三元触媒などの技術や特許を日本やドイツのサプライヤーから手に入れて規制をクリアできたが、その後のビッグスリーの環境戦略の立ち遅れに直結していく。一方、EUの存立にとって環境保全は必須の価値となり、自動車産業では競争優位に結びつくとされ主導権を取ろうとしている。

かつての排ガス公害が問題となった時代のように、社会や世論から強制されて副次的課題として対策を進めていた段階から、きかせついてみると環境戦略と環境技術は、これからの自動車メーカーの生き残りをかけた主体的・中枢的経営課題となりつつあり、今はまさに過渡期の始まりといってよいであろう。そこでは20世紀までの自然環境を征服・支配する発想から、自然環境との共存と循環社会の実現へむけての発想転換=資源エネルギーの循環的活用、環境負荷ゼロへの挑戦が現実化するであろう。そのためには今まで自動車技術の視界に入っていなかった科学の領域、バイオや宇宙工学、森林科学などとの学際的連携も視野に入ってこよう。日本の自動車産業が今後アジア新時代を切り開いていくには、環境問題に直接向き合うことにより、環境文明創造へ向けての挑戦を続け、持続可能な成長を実現し、この面での競争力優位を確保することが必須になりつつあり、世界的自動車不況のなかにあってもむしろその必要性は加速された考えるべきであろう。

2011年9月11日 (日)

下川浩一「自動車産業の危機と再生の構造」(14)

3.市場としての中国とインド

同じ人口大国でありながら中国とインドの自動車産業を比べてみると、様々な点で対照的な傾向と問題が浮かび上がってくる。

①自動車産業政策の一貫性

世界経済のグローバル化とWTO加盟によって自動車産業の自由化に舵を取った点は同じでも、自動車産業政策の変更がそのたびに起こり11回にわたり国家計画の修正が試みられた中国に比べ、インドの政策は「ミッション2016」くらいである。これは、中国が統制色の強い国家管理と国有企業からスタートし、その色彩をいつまでも維持してきたこと、車の個人保有をなかなか認めず、個人が車を保有するのは贅沢だとする発想がいつまでも残ったこと、そして個人保有を認めた後も国有企業を中心に三大メーカー中心で再編成する発想がいつまでも残ったことと無関係ではない。それに比べインドは自由化政策に踏み切ってからの政策は一貫しており、独立民族系メーカーと外資系メーカーをバランスよく配置し、相互に競争させて全体としての競争力の向上を狙っている。

②メーカー数

中国では、地方政府との絡みでたくさんのローカルメーカーが群立しているのに対して、インドではメーカー数は極めて限られている。これはタタやバジャージといった純粋民族系メーカーが比較的早く力をつけ、これと競合する外資系メーカーが自由化政策以降限定された数で入ってきたことで、弱小メーカーが参入するチャンスがないからだった。

③知的所有権保護

中国にみられるようなイミテーションの製品や技術が、インドには少ない。これはインドでは知的所有権が保護されているが、中国では名目的には特許法がありながらまだまだ不十分で、抜け道がいくらでもある事情と無関係ではない。

④イミテーション

イミテーションに関しては、例えば二輪車がそうであるように、インドではバジャージのような、日本のカワサキとの技術提携が期限切れになるとすぐ自主設計に力を入れて独自ブランドを確立し、ヒロ・ホンダの幹部も一目置くほどのメーカーが存在感を示し、そのために安易なイミテーションメーカーは存立しにくい状況が作り出されている。ところが中国では、政府がイミテーションを奨励したとまではいわないが、イミテーションがやりやすい統一標準工業規格をつくったり、擬似オープン・モジュラーの基幹部品メーカーを育成したりして、イミテーションが出現しやすい条件が整えられた。これは中国がとにかく先進国に早く追いつくために量的拡大だけを追い求め、安易なイミテーションがそのための早道であることのみに目を奪われ、真のイノベーションに通じる根元の探求にさかのぼった過渡的・創造的イミテーションの道があることを忘却したために起こった現象である。

⑤日本的生産システムの導入

インドでは民族系メーカーが日本的生産システムの導入、特にトヨタ生産方式の活用にすこぶる熱心であるのに対し、中国ではトヨタをはじめとする一部の日系メーカーとの合弁をスタートさせた以外、その導入はまた緒についたばかりである。

以上のように中国とインドの自動車産業を比較してみると、際立った相違が浮かび上がってくる。短期的には。量的成長という点では中国の方が成果を上げるのは早い。しかしながら、これは中国に進出している外資系自動車メーカーの戦略にもよるが、中国が真に輸出競争力を伴った自動車産業を確立するにはまだまだ時間がかかり、ともすれば国内市場の拡大に引き摺られた安易な量的拡大に走る危険性がある。それでは真の自主開発力や開発と生産にわたる技術力の向上が立ち遅れることになりかねない。特に乱立している地方自動車メーカーの整理、老朽化した生産設備や過剰能力の整理を、どこがどのように進めるのかという問題もある。これに比べてインドは、自主開発力ブランド力を備えたタタやバジャージのような民族系メーカーと、自由化政策の結果入ってきた外資系メーカーとのバランスの取れた自主的競争が、互いに創造的技術開発推進の促進剤になりつつある。またインドはしっかりした自主技術とIT技術を駆使したタタのようなメーカーもあり、自動車の電子化や安全技術の高度化と通信技術の活用、そして究極的には脱化石燃料を追求するゼロエミッション車の開発のような環境技術にも挑戦する可能性を秘めている。また外資系メーカーも民族系メーカーも、インドと輸出先国とのFTAの拡大でインドを輸出基地化する可能性もあり、輸出競争力がインド全体のグローバル競争力を高める可能性がある。こう見てくると、インドは当面の量的成長のスピードでは中国に劣るが、中長期的には技術力の質的高度化によって、環境技術を含むグローバル競争力を備える可能性は否定できない。こうしたなか、インドで熾烈化するグローバル競争の渦中における最大の焦点は、タタの超廉価車「ナノ」の登場によって発生したインドの底辺需要の開拓による市場拡大と、それに対抗する外資系メーカー、特に日系メーカーの新小型車の戦略的投入であろう。これはまさにインドで初めて可能になった新しい車作りの競争─これまでの先進国中心の車づくりとはコンセプトの違う競争─の始まりと言えるかもしれない。

2011年9月10日 (土)

下川浩一「自動車産業の危機と再生の構造」(13)

2.日印メーカーの動向と基本戦略

インドの自動車のメーカー構成は乗用車ではマルチ・スズキ・インディア、現代自動車、タタ・モータースの順で、商用車ではタタ・モータースがトップである。

タタ・モータースの超廉価車「ナノ」については、超低価格の実現には次の七つの要因があり、その相乗効果によるという、先ず第一に、徹底した小型化・機能絞込みによる製品開発・材料・生産コストの削減を行っていることだ。第二の要因は徹底したインド開発資源の活用、とくに基本設計にまで遡った開発の見直しと、インドでのVA(価値分析)/VE(価値工学)による製品・部品開発・生産コストの削減があげられる。第三の要因として、徹底した外注化によるリスク分散と生産コストの削減である。第四の要因は、セカンドソーシング制度による部品受注競争常態化を通じたコスト削減である。このセカンドソーシングはタタ独自の方式で、直接取引するサプライヤーとは別にセカンドソーシング先を決定し、納入準備させておく制度で、直接取引するサプライヤーに対する牽制とコスト削減に寄与するという。日本では系列取引ではあっても複数発注というサプライヤーの能力を競わせるやり方があるが、こりセカンドソーシングはもっと徹底した牽制作用が働く。つまり、タタ・モータースのサプライヤーになる可能性を認めてもらえて、無規制のサプライヤーに技術力で取って代わるというインセンティブとモチベーションが同時に働くのである。第五の要因として、サプライヤーパークによる部品流通コストの削減。第六に大規模生産計画を背景にしたサプライヤーのマージン率の半分ないし三分の一への削減、第七に大需要地域での組立生産を通じたせいひん物流コスト、といった要因が相互に絡んで超低価格を可能にしている。要するにタタ「ナノ」は、基本設計と組立生産工程に力を注ぎ、それ以外はできるだけサプライヤーに任せ、彼らを相互に競わせて競争力を高め、かつ最新技術の移転を速いスピードで実現しようというものである。そのために大ロットでの受注の可能性をちらつかせ、マージン率を下げても互いにwin-winの関係になる条件を追求しようとする。これを実現するには、サプライヤーに何でも丸投げするだけでは不十分で、高い設計能力とVA/VEの評価能力がともなわなくてはない。

インドに限らずホンダは、特に中東南アジアや南米、アフリカなどの途上国では二輪車の現地生産からスタートし、それから四輪車事業を展開するパターンを取っていることが多い。二輪車事業と四輪車事業は決して同一ではないが、二輪車事業で先行していることは、部品の現地調達の拡大や現地サプライヤーの力量の評価、現地の労働慣行や人材育成など、多くの経験と知識が得られるというメリットがあることは間違いない。

トヨタは、インドに限らず様々な国で挫折を経験し、時には撤退を考えたことが再三ある。北米への輸出で失敗したこともあるし、北米の現地生産でもホンダや日産に遅れをとった。ブラジル、オーストリア、そしてトルコで撤退を考えたこともあったが、いずれも踏みとどまって何とか採算に乗せてきた。このようにさまざまな挫折や失敗から多くを学び、まさに学習する組織となって、その結果、組織能力を進化させてきた。

下川浩一「自動車産業の危機と再生の構造」(12)

第2節 インド

1.インドの自動車市場と産業政策の動向

アジア新時代を迎えつつある世界の自動車産業にとって、中国と並んで大きな注目を集めているのがインドである。生産規模が急速に拡大し、需要の潜在的可能性も高い。さらにインドは中国に負けない人口大国であり、中国のように一人っ子政策という人口政策をとらなかったゆえに若年人口が多く、将来少子化が進む中国を追い越すことは間違いない。

このような中でインド経済が脚光を浴びている理由は、第一に、インドが独立後、鋭意取り組んだ農村の近代化により自給自足が実現し、いまや食糧輸出国となったこと。小型トラクターの生産量が世界一など農業生産力の向上は著しい。第二にも教育水準の全体的なレベルアップが著しく、識字率の向上が実現したこと。第三に、アグレッシブな企業活動を行い資金を豊富に有するタタやミタルといった財閥グループの存在がある。

インドは長らく国家統制経済のもとにあり、漸進的な自由化政策を進めてきたが、1991年の経済危機を契機にIMFの指導を受け入れ本格的な自由化に舵を切った。具体的には思い切った規制緩和と競争原理の導入、そして貿易と直接投資の自由化、とくに外資導入の活発化などが行われた。このような自由化生産により成長軌道に乗ったインドだが、最大のネックは全国的な交通インフラ整備の立ち遅れである。中国のような一党独裁国家と違って、政府の指令のもと、土地収用や住民の立ち退きを強権的に進めることはできないという事情もあるため、今のところ高速道路ネットワークの整備は緒についたばかりである。こうした道路インフラの立ち遅れは、インド独自の交通事情と自動車市場の成立をもたらしている。したがって、インドに渦巻いているパーソナルモビリティーの根強い要求は、富裕層主導ではなく、上位貧困層に主導が移りつつあり、中長期的には貧困層、すなわち農民層と若年層に次第に主導権は移っていく構図となる。

こうして大衆輸送手段として、先ず登場したのがオートリキシャ(三輪オートバイ)であり、スクーターやモーターバイクである。このようなインドにおける二輪車需要の拡大は、今後の四輪車モータリゼーションの潜在的な可能性の高さを予見させるものである。現在までの自動車需要は、人口の集中度が高く所得水準が高い大都市部に偏りがちであった。人口の絶対数の多い農村についてはまだ先のことになろう。それは、地方農村の自給自足経済による閉鎖性と地方の劣悪な道路事情によるところが極めて大である。また大都市の自動車需要といっても高速道路の延長距離が限られており、そのためドライブの距離も相対的に短い。そして産油国でないため、ガソリンや軽油の燃料費が高くつくあり、乗用車市場は小型で低価格のものが多くなっている。

現在のインドの自動車市場は大きな過渡期にある。年々増加の一途を辿る上位貧困層と中間層の動向もさることながら、自動車交通インフラの整備と発展に負うところが大きい。現在進行中の交通インフラ整備が進めば、自動車セグメントの上位移行起こることが考えられる。インドの自動車市場、特に乗用車市場はミニ・コンパクトの小型車市場が主力であり、例えば韓国や中国のように、中型高級車から需要の拡大が始まり、次第に大衆レベルの小型車市場の拡大に移行しつつあるのと対照的である。インドの自動車市場を展望するときに忘れてはならないのは、上位貧困層や中間層、富裕層の動向だけでなく、今後増大するであろう若年労働人口と、現在でも人口構成上大きな比率を占めている農村人口が将来生み出すであろう巨大な需要である。

2011年9月 8日 (木)

下川浩一「自動車産業の危機と再生の構造」(11)

3.中国自動車産業の課題と展望

自動車産業のグローバル化の最高到達点は、中国市場と中国自動車産業のグローバル化であり、地球環境問題解決へのロードマップの確立と実行である。環境対策技術と省エネ関連の技術は温暖化防止や大気環境保全に役立つだけでなく、中国が今や原油の輸入大国に変身し、巨額の外貨支払いを要するという現実の中で、国益にかなう道でもある。

これ以外にも未解決の問題を抱える中国でビジネスを展開する日本の自動車メーカー、さしあたりどのようなリスクを考慮していかなければならないか。まず第一に考えられるのは、「10-五計画」で打ち出された自動車メーカーの再編・統合という構想そのものの成否に関するリスクである。この時、中国に進出する外資は、この再編・統合の中で、国有大手メーカーの改革の進展と地方民営企業の自由奔放な活力のはざまに立たされ、独自の戦略が行使できないリスクを覚悟せねばならない。第二のリスクとして、同じ計画での部品メーカーの再編・統合についても多くの困難が存在している。部品メーカーと一口に言っても、その範囲と種類は多岐にわたっている。そのなかには、見よう見まねでも何とかなる分野と、自社開発力と高度な技術力を不可欠とする分野がある。中国では設備や金型などの近代的なものを安く持ち込めば容易に急速な生産拡大を行えるオープン型アーキテクチャーになじみやすい部品のほうが、量産効果と投資規模で勝負がつくので再編しやすい。とくに、イミテーション・パーツや模造品に準拠した部品などを生産して行けば、アプローチしやすい。このようなオープン・モジュラー志向の部品分野に比べ、より複雑高度なインテグラル・アーキテクチャー志向の強い機能部品やシステム部品については、まだ中国の技術水準は立ち遅れており、外資導入によるところが大きい。特にこの分野では設計開発力と精密加工のレベル、電子技術活用のソフトウェア等の点で、日本や欧米の部品メーカーの参入できる余地は十分にある。ただ、この部品メーカーの切磋系開発能力の支援は、何よりも中国の自動車メーカーがどのようなアーキテクチャーの設計思想を持つかに大きく依存しており、最終的には中国の消費者がどんなコンセプトの自動車を選択し、受容するかにかかっている。このようにさまざまな観点から見て、中国の部品産業の再編・集約は国家主導では思ったようには進まない可能性が高く、民間主導か、これに外資が加わった民間企業連合の下で進む可能性が高い。そして第三に小型経済車の行方である。現実に、当面は富裕層中心で上級の中型車やRV車を中心として拡大しつつあるが、中国がより大衆化されたモータリゼーションの国となるには、小型経済車による底辺需要の刺激と拡大が不可欠である。

中国は二輪車については世界一の生産国となっている。これはなぜなりえたか、そして自動車でも同じことが起こり得るか。まず理由については、二輪車の部品やコンポーネントの統一標準工業規格を制定し、これがイミテーションを作りやすくしたことである。そしてこの全国統一規格の制定で二輪車部品、特に主要部品の全国規模の量産メーカーが出現し、大規模投資によるコンポーネントを利用して二輪車メーカーの氾濫現象がみられた。いってみれば中国の二輪車産業はオープン・モジュラー・アーキテクチャー部品の寄せ集めによって、あれよあれよという間に生産量が増えて行ってしまった。その結果、地方の多くの農村車メーカーの参入や地方軍需工場の生産転換が起こり、基幹部品を安く仕入れての見よう見まねのイミテーション二輪車の氾濫と生産量の激増が起こり量的拡大路線をひた走った。

しかし、中国の二輪車産業が、果たして真の国際競争力のある産業にはなっていない。生産過剰気味となった二輪車の輸出は好調とは言えない。その理由は、品質に対する信頼性に欠けていたことだ。そのため、中国の二輪車産業にも家電産業と同様に整理・淘汰と集約が始まることは火を見るよりも明らかだ。

自動車の場合も類似の現象は起こり得る。

中国の自動車産業の将来を語るうえで見逃せないのは、今後の中国国民経済のマクロコントロールと自動車産業の関連である。日本のように生産台数の半数以上が輸出で、海外生産が5割に近づいている国ならいざ知らず、内需主導の中国の場合、自動車、とくに乗用車の個人所有をやたらに増やし続けることになる。これは、国内の乗用車保有が増え続けた時に、それに伴う石油の輸入増大に中国の経済と財政、そして外貨収支がどこまで耐えられるというのっぴきならない問題がある。環境問題の克服と徹底した省エネなしに、中国自動車産業の中長期的発展はあり得ない。この年代と正面から向き合うことこそ、中国に進出した先進国の自動車メーカーの試金石であり、これを乗り越えてこそ、メーカー自体の持続可能な成長の新しいパラダイムが進化するのである。

2011年9月 7日 (水)

下川浩一「自動車産業の危機と再生の構造」(10)

2.日本自動車メーカーの対中戦略

日本の自動車メーカーは中国進出にはそのリスクの大きさを考えて、極めて慎重であり、欧米勢の後塵を拝し、最近になって本格化、加速させつつある。その理由として、次のような点が考えられる。

まず、中国の自動車産業政策が、改革開放路線を展開し、市場経済化が進む中で目まぐるしく変化したことである。何よりも重要なことは、中国の自動車産業は旧ソ連の技術援助と社会主義経済減速のなかで進んだために、極めて変則的な発展を遂げたことである。中国の自動車産業の国有企業であり、生産した車は国家が買い取り、これを必要とする企業や諸機関に配給するという仕組みとなっていた

第二の問題としては、自動車工業育成をめぐる中央政府と地方政府の方針の食い違いが目立ったことである。

第三の問題点は、知友語句はたしかに「三大三小三微」の基本政策を確立したが、それは90年代に入ってからで、依然として国有企業のままで、中国に投資して合弁事業を展開しようとしても、国有企業と組まざるを得ず、そのために様々な制約が出てくる。国有企業そのものの株式会社化による改革が進まねば、迂闊には組めないということになっていた。

問題の第四は、中国はあくまで「三大三小」政策主体で考えていたことがあげられる。

そして、第五の問題点として、中国はアッセンブラーの進出よりも、部品メーカーの進出を望んでいたが、日本の部品メーカーが安心して取引できるアッセンブラーの日本からの進出なしには、徳へ刹那システム部品のメーカーでもない限り、単独進出は難しかった。また、中国は未だ部品メーカーの進出の基盤となるインフラが整っておらず、中国の安い労働コストにつられて進出したものの、工場付近の道路、水道のインフラから従業員の住宅までのコスト負担が上回ることもあった。また中国ではあちこちに散在する小自動車メーカーの工場を含め、部品をそれぞれ見よう見まねで作ったために、メーカー間の部品の規格が必ずしも統一されておらず、メーカー間の部品の規格が必ずしも統一されておらず、その標準化を今進めつつある段階である。加工精度の高い部品生産には部品や部材の規格化と標準化は不可欠であるが、従来はその条件が整っていなかった。この点も部品メーカーだけの単独進出を制約している原因となったと思われる。

しかし、2000年代に入り中国がWTOに加入し国有自動車企業の株式会社化や民営化を含めた自動車産業政策の前向きの進化に伴い、日本の主要メーカーの中国進出は急速に加速し、主要三社以外のメーカーの中国進出も本格化した。

また、部品サプライヤーの対中国戦略は、技術分野の違いや労働集約度の違い、そして特定自動車メーカーとの系列度合いや独自の戦略判断の違い等により多岐にわたっている。

下川浩一「自動車産業の危機と再生の構造」(9)

第3章 グローバル競争のカギを握る新興市場

自動車産業のグローバル競争は、急激な成長が期待される中国、インドなどを含む新興市場諸国を舞台として展開される傾向が強まっている。この傾向はこれらの国々が世界有数の人口大国であり、同時に急激な経済成長とそれに伴う外貨保有が増大していることを背景として起こっている。中国やインドに見られる、急激で前例をみない自動車市場ないし自動車生産の拡大は、次のような事情と主体的条件が重なって可能になったと言える。

①巨大な人口を抱えながら、その多くが自動車の恩恵を受けておらず、長い間封じ込められていた潜在需要が一挙に噴き出したこと

②これら諸国の経済水準が、影の面として格差問題をはらみながらも、全体として目に見えて向上したこと

③世界経済のグローバル化とWTO体制への参加により、閉鎖経済への移行が可能になったこと

④さまざまな規制があった外資導入や外資との合弁が曲がりなりにも可能になったこと

⑤外資との連携の進展の中で、自動車の多岐にわたる分野の技術移転が急速に進んだこと。とくに電子技術、プレスや金型、機械加工、自動化、設計開発の分野の移転についてこの傾向は顕著である

⑥外資だけに頼らず、国産メーカー、特に民営メーカーか外資系と競争し、生産増強をすすめたこと

⑦とくに大都市間の交通インフラの整備が急速に進んだこと

しかし、このような新興国市場が人口大国だからと言って、単に先進国がこれまでにたどったような成長パターンを繰り返すとは限らない。これは表現を変えると次のようなことになる。新興諸国は先進国のこれまでの経験、特に大量生産、大量販売、大量消費のパラダイムだけではいずれは行き詰まることになりかねず、化石燃料依存による資源高騰問題と環境問題への対処なしには根本的解決にはならない。したがって省エネルギーと環境問題をワンセットで解決する戦略こそが新興市場での競争力の決め手となる。

第1節 中国

1.中国の自動車市場と産業政策の動向

1990年代前半「三大三小」政策(吉林省長春の第一汽車、湖北省武漢の第二汽車(のちの東風汽車)、上海汽車の三大メーカーに、小型車メーカーとして外国メーカーと合弁していた北京汽車、天津汽車、広州汽車の合計六社の統合育成を重点的に図る政策で、国家主導の上からの計画経済による統合政策)から、94年の「9-五計画」にいたり個人の自動車所有を認め、50%までの外資参入を認め、自動車産業を国の「支柱産業(戦略産業)」と位置付けた。2000年代に入ると「10-五計画」により、WTO加盟を視野に入れた、競争促進と対外自由化(輸入関税の引き下げ)の政策が反映されるに至った。あわせて部品産業の振興策が図られた。

2011年9月 6日 (火)

下川浩一「自動車産業の危機と再生の構造」(8)

4.グローバル再編の帰結と今後

1990年代後半のグローバル再編は、規模の拡大に重点が置かれ、そこには大きなリスクが存在していたものの、先導者たちは見落としてしまった。これに比べ、当初は受け身に立たされ、おくれを取ったかにみえた日本の自動車メーカーは、バブル崩壊後の不況と第二次円高による困難を、開発や部品調達システムの根本に遡った見直しや生産システムの改革などの一連のリストラで乗り切り、さらにその延長であるグローバル再編に大きな危機感を持って臨んだ結果、国内の厳しいリストラと海外事業の現地化を進める中で結果としてグローバル経営の進化とその方向性を掴みとるという帰結に至った。

今後については、再編の中身の見直しは起こり得る。グローバルM&Aで傘下に入った事業分野やブランドの中での選択と集中が進む。また、必ずしも合併によらないアライアンスの可能性は残されている。特に環境技術や新しい技術開発が絡んだアライアンスや、サプライヤーの共同活用、車両の相互補完など、テーマのはっきりしたアライアンスは、拡大していく可能性がある。今後の展望の中で特に重要性を帯びるのは新興市場諸国である。この地域で成功を収めるメーカーの中にグローバル再編への新規参入が起こる可能性がある。

このような方向性を敷衍してみると、環境技術はグローバル競争の行方を左右するカギを握っていると言える。電子産業や通信産業、そして素材産業や超微細加工技術などの関連産業との緊密な連携をますます必要とすると同時に、今まで以上にサプライヤーとの連携とグローバルなサプライチェーンネットワークの構築が不可欠である。以上のことと関連して、今後は自動車メーカー、つまりアッセンブラーレベルでのグローバル再編よりもサプライヤーのグローバル再編が脚光を浴びる可能性が高い。

2011年9月 5日 (月)

あるIR担当者の雑感(48)~IRとしての株主総会(株主総会は何のためにあるか)

先日、ある信託銀行(日本で一番規模の大きいところです)の証券代行の担当者と話していたところ、必要な打合せが終わり雑談をしていたところ、ESOPを勧められたり、株主優待の話をしたりしているうちに、どうして上場会社である私の勤め先に必要だと思いましたか、と少しばかり青臭い本質論のような議論を吹っ掛けたのですが、マニュアルに書かれたような受け答えで、法的にも認められていますから。と言ったので、どうしてですか。と、かれらにとっては理不尽のような質問には、法的には有効としか答えられないようでした。

では、とちょっと思いついて、株主総会ってどうしてやらなければ、いけないのですか、きいてみたら。返ってきた答えは、会社法で決まっているから。というものでした。多分、かれらは、この答えをおかしいという感性に欠けているのかもしれません。何で、そんな理不尽なことを質問するのか、というように戸惑っているようだったので、もっと噛み砕いて説明したのですが、どうやら理解してもらえなかったようです。説明したのは、こういうことです。

数年前に株式会社は誰のものかという議論があったけれど、今から20年くらい前の一連の商法改正が進められる以前、つまり旧商法の時代、株主は会社に出資し会社の期間損益を経営者と配当という形式で分け合うということが、建前として残っていました。期間損益とは事業年度に会社があげた利益です。利益は期間中の売上から原価や経費を引いた、いうなれば残りです。だから、株主と従業員のどちらが大事かという議論が、会社は誰のものかという議論が盛んに行われた時に、派生してでてきましたが、ここであるように、人件費は経費に数えられますから、株主は会社から従業員への給与を経費として支払った残りを受け取ることになります。だから、原則でいえば、株主と従業員とどちらが大事かというような、同じ天秤の上ではかることはできないはずなのです。劣後益とも言われますが、株主が受け取ることができるのは、会社の最後のおこぼれになるわけです。しかも、例えば従業員の給与は給与債権というように支払わなければならないことになっています。つまり、給与の支払いはある程度保障されているわけですが、株主の受け取る配当というのは、そのような保障がなく、従業員に比べると保護されていない、つまり、リスクを多く負っているわけです。だから、保護されていない分自己防衛しなければならない。だから、自分が受け取る配当に関して、会社の不当に低くしていないかを自分で監視することができるのです。

その公式の場が株主総会なのです。だから、株主総会で最も重大な議論というのは、決算承認なのです。それは、この一年の企業活動がちゃんと行われて、劣後益である自分の受け取る配当がきちんと受け取れるだけの利益を上げたかをチェックし承認する場なのです。そこで、かりに従業員に不当に給与を払い過ぎたとか、不正があったとなれば、自分受け取るべき配当が受け取れなくなったことを追求するわけです。実際に、どのような団体のあつまりでも、政府の国会も含めて、総会なんかを行うときに一番大事な議題というのは、決算と予算の承認であるはずです。株主総会だって例外ではありません。だから、会社の決算というものはそのために行うもので一本化されていたというものです。また、期間損益に限定しているのは、法律でいうと配当可能利益といって、会社からいうと会社の体力を積み上げ蓄えていくためと、株主というのは流動するわけですから、長く保有している株主と昨日今日株主になった株主の実質的な平等を確保するため、一年間の損益を期末時点の株主で分け合うようになっていたわけです。つまり、何年もかかって蓄えた過去の利益の蓄積である内部留保を配当に回すということは、最近株主になった人が配当として受け取るのは不当利得ではないかという常識があったのです。これがいわゆるタコ配です。

ところが、現在の株主総会では決算承認というのは、ほとんどの場合行われません。その代わりに報告が行われます。そして、その報告について分りやすくビジュアル化したり、質問に丁寧に答えると、それは株主に対して親切な“開かれた総会”ということになるわけです。そして、IRの視点からもそういった総会が推奨されるということになるのです。しかし、旧商法において株主の自らのリスクを自覚して、場合によっては会社の決算を認めないという伝家の宝刀を以て会社に対して正面から堂々と自己の権利を主張することのできたのと、単に報告されるだけで、その報告が取敢えず丁寧になったというのと、どっちが株主に対して“開かれた”ということになるのか。本質的なところで議論がなされたということはきいたことがありません。まして、今では、株主総会で配当が決められることもなくなりつつあります。会社法では、一定の条件を満たすことによって取締役会で配当を決めることができるのです。株主は、自分が受け取る配当を決める場に直接参加できなくなってきているのです。

実際のところ、会社の株を買うというのは、会社に出資して期間損益の最後の分け前である配当を受け取るということから、株式市場での株式の売買を通じて、その差額を稼ぐということに重心が変わってしまったことから、株主にとって、配当はそれほど大切なものではなくなったのかもしれません。

だとしたら、そういう株主にとって会社に出資する一番大切なものは何か、ということが建前でも明らかにして、それを株主が権利行使することによって、経営者と議論し、あるいは決定に参加する、というのがリスクを負って会社に出資している株主があつまる株主総会の目的とすべきなのではないかと、考えます。それがあって、はじめて“開かれた総会”ということが議論されるべきで、ビジュアルなビデオを使って説明したとか、パワーポイントを使ってビジュアル化したというのは、そのためのツールにすぎない、いわば刺身のツマです。いま、その刺身のツマを取り出して議論をしているのは、私には目的と手段の取り違えとしか思えないのです。

それは、株主総会を実際に行う企業の責任が大きいかもしれません(建前から言えば、経営者を選任するのは株主であるわけですから、株主と本質的な議論をすることを真剣に考えるのは、取締役の本来の仕事のはずです。だから、形式的に今述べたような、取り違え、偽悪的に言えばごまかしを行っているのは、取締役としての義務を果たしていないとも言えるかもしれません)が、本質的な、何のためにやるのかという理論的な検討を行わない法律学者や法務当局といった専門家が重箱の隅をつつくようなタコツボ化してしまっていることと、証券代行のような企業を指導する側にも見識がないためではないかと思います。私の勤め先も含め(自戒の念もこめて)本質的な意味で、総会を意識して行っている会社はないのでとはないか思います。

2011年9月 4日 (日)

下川浩一「自動車産業の危機と再生の構造」(7)

日本の自動車メーカーはグローバル再編では受け身に立たされたので、いでもグローバル競争を意識させられ、そのため必要なグローバルなビジョンに基づく戦略の構築ないし対応を迫られた。しかし、欧米三社とは異なり、あくまで状況適合的に、国内の前向きなリストラの継続と、海外諸地域にわたる現地工場の現地化と高収益化に努める中で、世界中の事業単位のグローバル連携を図ったものとみることができる。

つまり、1970年代から80年代の貿易摩擦との関連で、海外に現地工場を建設し、これを収益事業に育成する段階では、まず工場の生産システムを労働慣行の異なる地域に根付かせること、部品の現地調達率を高めるために日本のサプライヤーとの協力関係を確立することに全力を挙げており、当初、製品開発は日本の本社にすべて任せきりであった。やがて、海外工場が輸出の補完的位置づけから性格を変え、収益事業として自立化していく過程で、生産システムの移転や現地化が進み、部品調達においても現地化がより一層進展するに及んで、日本の自動車メーカーは順を追って開発の現地化に着手し、製品設計の現地化と自立化した開発センターを確立するに至る。このように開発までをも含めた現地化が進むと、それぞれの地域市場でのニーズにいち早く適合できる新車開発が可能になるが、やがてグローバル競争が意識されるに及んで、地域別の単なる現地化にとどまらず、可能な限りそれぞれの連携を図り、グローバルな開発や部品の相互供給が始まることになる。

海外工場の生産効率の著しい向上や部品調達コスト低下の相乗効果があらわれ、とくにこの傾向が北米とアジア、わけても東南アジアで顕著となる。マネジメントの現地化と部品調達のローカル化、やがて始まるグローバルな部品の地域相互補完と調達の拡大、そしてR&Dの現地化がそれぞれ軌道に乗り、相乗効果が見られるようになる。そして、世界の自動車市場の需要構造における変化と、それに対する敏速な対応能力という日本の自動車メーカーの強みが顕著になってくる。

21世紀に入り、世界の自動車市場の需要構造は画一化するのではなく地域による相違と変化が目立つようになっている。北米市場は、石油の値上がりのため燃費の良い中型・小型SUVや中型・小型乗用車に需要が移行しつつあるし、アジア市場を個別にみると、廉価な軽自動車中心のインド、小型ピックアップ中心のタイやインドネシア、中型乗用車中心で次第に小型化比率が増大傾向にある中国といった違いがある。欧州市場は、ディーゼルエンジン搭載車の比重が高く、高級車も一定のシェアを保ちつつ、それでいて中型・小型車の比重も高く乗用車からSUVへの移行も起こっている。日本市場については、市場は頭打ちだが軽自動車が増えたりSUV化したりするスピードも速く、各メーカーが新車開発の激しい競争を繰り広げ、そのために新車投入の頻度も高い。しかもこれらの市場の特徴も時々刻々変化するのである。グローバル市場が画一化するのであれば、GMやフォードのようなプラットフォームの機械的統合と画一化による規模の経済性は期待できるかもしれない。しかし、地域による相違と変化が次々に起こるのがグローバル自動車市場の実情だとすると、画一的で硬直的なやり方ではこれに有効に対応できない。この点で、日本の自動車メーカーの対応能力は高い。

このように日本の自動車メーカーは、グローバル再編において受け身に立たされながらも、結果的にはグローバルな競争力を持つにいたったのであるが、それは基本的に欧米三社の戦略やその方法論のミスリードの轍を踏まなかったからであると言える。とはいえ日本の自動車メーカーにとっても、急激なグローバルビジネスの拡張は、いくつかの問題を生み出している。あまりにも急激な海外拠点の増大と戦線の拡張は、海外の指導員、特に国内も含めて生産技術のベテランや多能工の不足、グローバルマネジメント能力の不足、更に加えてサプライヤー、特に二次サプライヤーで目立つ海外経験の不足や開発能力の不足などを生み出している。

下川浩一「自動車産業の危機と再生の構造」(6)

3.日本自動車メーカーのグローバル戦略

先行した欧米企業に比べて、グローバル戦略では出遅れた日本の自動車メーカーは、海外ビジネスで高い収益性を上げるに至っている。日本の自動車メーカーがグローバル戦略で出遅れた直接の原因は、1990年代前半にリストラに取り組んでいたことと、第二次円高で収益性が極端に低下したことである。それと並行して、1980年代に始まる日本の主要自動車メーカーの海外生産、なかんずく北米の現地工場がまだ完成途上で、それまでの追加投資による累積が重荷となるとともに工場稼働率が上昇せず、そのため日本本社の負担が重くなっていたことも、これと関係している。

つまり、バブル好況のために国内市場での販売台数の販売台数が飛躍的に伸び、車種の上級移行で高級車や高級仕様車がよく売れるようになり、各メーカーは先を競って新鋭自動化工場に新規投資を行い、能力増強をはかった結果、国内の設備が過剰となり、損益分岐点が高くなってしまった。また、高級車や高級仕様のモデル数を増やしたり、同一車種でもバージョンの数を増やしたりししために、開発コストと生産コストを押し上げる結果となった。1992年にバブル景気に終止符が打たれると、自動車メーカーはおしなべてその高コスト体質を露呈するに至った。

このような内憂外患に直面した日本自動車メーカーは、それぞれ思い切ったリストラに着手した。バブル好況時の高コスト体質を改め、車種、車型の削減や部品点数の削減と共通化を進めるには、そりまで企業の中では聖域となっていた設計開発にまで遡った見直しが必要になる。これに加えてサプライヤーを巻き込んだ共同VA、共同VEに取り組む必要がある。このほか従業員の削減については、事務系を中心とする削減に重点を置き、工場現場の多能工として育成してきた基幹工についてはあくまで雇用を維持し、これがその後の日本自動車メーカーのカムバックに多大な貢献した。

なかでもトヨタとホンダは、トップから従業員の末端までグローバル競争の危機感、緊張感が浸透するともに、経営者の意思決定責任とマネジメントの質を追求するTQMに積極的に取り組んだ。このことと並行して、両社は設計開発の初期段階に思い切って踏み込み、設計工数の削減、三次元デジタル設計を活用したシミュレーションによるテストの簡略化、部品の共通化と共用化などを迅速に進めた。また、リストラの一翼を担うサプライヤーに対しても、厳しいコスト削減を一方的に押し付けるのではなく、その技術力や設計能力を高めるとともに、自動車メーカーの設計開発への参画と、源流に遡った設計の簡素化や合理化の提案能力を高めるやり方で大幅なコストダウンを実現していった。

このようにリストラの戦略的効果がすぐにあらわれ、国内事業の損益分岐点の切り下げに成功したことは、海外現地工場の支援と自立化を促進し、グローバルな競争力を高めることにもなった。日本の自動車メーカーは同時に、緊急避難的なリストラだけでなく、省燃費のエンジンや環境対策技術、基幹部品の開発も工場生産システムのフレキシブル化など、戦略的な投資にも資源配分を考慮した戦略行動を定着させていった。

1990年代後半になると、リストラの進行と歩調を合わせるように日本の自動車メーカーの海外事業から高い収益性を上げるようになってくる。かつての海外工場は、重い設備投資がかかるだけでなく、生産、調達、そして開発に至るまで日本本社の支援を仰ぎ、そのため莫大なコストがかかっている。しかし海外工場の現地化が進むにつれて現地工場が利益を上げ、そりまでの輸出で稼いた利益を現地工場につぎ込む段階から、現地生産車が海外市場で稼ぎ、為替の変動に左右されずに確実に利益が出せる体制に移行してきたのであった。

2011年9月 3日 (土)

下川浩一「自動車産業の危機と再生の構造」(5)

このように、グローバル再編先駆者たちは、その本国での高コスト構造を放置したまま、工場の生産システムや部品調達の改革を怠り、問題を先送りし、グローバルな数合わせのスケールメリットを過信していたといえよう。このような状況を踏まえて、フォードやGMはどのようにしてこの悪循環を断ち切るべきなのか。まず緊急に必要なことは、より少ないワランティーコストを実現できる統合品質、総合品質のレベルアップをはかるとともに、製品開発の改革による製品価値とブランド価値の再構築を図ることである。このことは従来型の先進国市場に焦点を当てた根グローバルな商品開発の最高値ということになろう。さらに緊急不可欠なことは、オールドタイプのマスプロ工場を閉鎖・集約し、新しいコンセプトのフレキシブル工場の再建を進めることである。これにより市場ニーズの変化や多様性に迅速に対応でき、供給過剰の圧力とその便宜的解決策としての巨額のプロモーションコストの悪循環をなくすことができる。加えて、これらの先駆者たちは、そのグローバル戦略の推進にあたり、IT技術を積極的に活用したが、デジタル設計や部品におけるネット調達、販売量通やサービス事業などにおいてIT技術の可能性を過大評価し、ITで何でもやれるという虚妄の世界に踏み込んでしまった。ITは明確な戦略もとではじめて有効なツールとして活用できるものであり、それ自体で戦略や意思決定を行うものではない、確かにグローバル戦略の先駆者だったこれら企業は、IT技術の本格的採用でも先駆者であり、その点では日本メーカーより数年先行していたと言えるが、IT革命への過信がリアルビジネスからの乖離をうみだしたことは否定できない。

その一つの事例としてダイムラーとクライスラーのケースで考えてみる。グローバル再編合併は、当然のことながら二つの企業文化の融合と、それぞれの特色を生かしたシナジー(相乗効果)を作り出す戦略展開上の方法論の問題に直面する。この点でダイムラーはM&Aを仕掛けた側のイニシアティブで企業文化の統合を進める、つまり自らの企業文化の色に染め上げることを重視し、それが比較的簡単に進むと考えていたように思われる。ダイムラーとクライスラー、二つの企業のそれぞれの得意分野(製造車種、購買層)ならびに市場地域が異なっており、当然ながら相互補完が可能なはずであった。再編合併の狙いはそれ自体、的を得たものだったが、二つの異なる文化を融合し、相互のシナジーを進めるかという方法論について安易に考えすぎたきらいがある。ダイムラー・ベンツ側では、新会社をダイムラー・ベンツの企業文化の色に染め上げることをすべての上に置き、クライスラーの企業文化の尊重と、その上に立つ現実的改革を主張する米国人幹部を次々と辞任に追い込んだ。それまでのダイムラー・ベンツしクライスラーとでは、自動車の設計のやり方、特に製品コンセプトが全く異なり、その結果、プラットフォームの設計やエンジン・パワートレイン、そして内装に到るまで、設計思想が違っている。そのため当然のことながら部品の設計や調達のやり方も異なっているし、製品品質についての基準や品質管理のやり方、さらにこれを承けて工場の生産システムも全く違っている。例えば品質管理ひとつをとっても、ダイムラー・ベンツが伝統的にとってきた耐久品質重視のエンジニア主導のクオリティーゲート方式は、高級車にはうってつけの品質管理方式であるが、量産車種主体で初期品質重視の現場主体の改善やQC活動に力を入れてきた、コストのかからないクライスラーの品質管理とは根本的に相容れない。また部品の設計と調達についても内製重視外注する場合でも自主設計を貫くダイムラー・ベンツのやり方と、早くから外注率重視でサプライヤーの選別と設計のアウトソーシングに力を入れてきたクライスラーのやり方では、全く違っているまた工場の生産システムについても、労働慣行が違い、現場主導の生産管理でどちらかというと現場の改善や提案、そしてジャスト・イン・タイム方式への接近を重視するクライスラーの方式と、エンジニア主導でかつ熟練工が大きな発言力を持つダイムラー・ベンツの方式では、これまた対照的である。このような相違点を有しながら二つの企業文化の融合を図ることは、お互いの長所短所の理解と相手文化の尊重なしには不可能である。しかるにグローバル再編合併後のダイムラーには、この点についての理解が欠けており、自らの文化を押し付ける傾向が強かった。これに対して融合の成功例として、日産自動車とルノーのケースを上げて説明している。

2011年9月 2日 (金)

下川浩一「自動車産業の危機と再生の構造」(4)

2.グローバル再編はなぜ暗礁に乗り上げたか

これらのグローバル戦略は、その優れた着眼点にもかかわらず、本国の事業運営が行き詰まり、それとともに全体のグローバル戦略のミスリードを誘発している。GMやフォードの本国の北米市場を中心とする経営不振は、景気動向や自動車市場の販売動向が特に悪化していたわけではないから、明らかに戦略のミスリードによる構造的な原因によるものである。

この戦略のミスリードの結果としてGMやフォードは、北米市場の市場動向の急速な変化に対応できる商品力を欠いていた。それまで、GMやフォードは、日本車との激しい競争を避け、乗用車の本格的開発に力を入れなかった。当時では、ピックアップやミニバン、SUVなどのライトトラックの分野で利益を稼ぐことを可能にし、この点で米国メーカーの収益性の向上には有効であった。しかし他方では、その後の米国市場とグローバル市場の動向の激変に対応できるブランド価値の創造や、それと並んで、ガソリン価格の高騰に伴う燃費経済性志向の高まりへの対応を遅らせることになった。競争の激しい乗用車の開発に力を入れなかったことは、膨大な開発費と工場投資がかかるエンジンの開発に力が入らないことに通じる、日進月歩のエンジン技術の停滞は、乗用車のみならず、全体として自動車のブランド価値の停滞に結びつきやすい。同時に、ライトトラックの車台がフレームシャーシー主体であるために、乗用車のプラットフォームの開発力が低下することを意味する。これが後になって乗用車のSUV化や乗用車プラットフォームの小型SUVへの流用によるクロスオーバーモデル登場という、市場の新しいトレンドに立ち遅れる原因となった。これに対してライトトラック不戦屋で出遅れた日本の自動車メーカーであるが、燃費効率の良いエンジンを搭載し、かなりの数のモデル、特に小型SUVなどと乗用車のプラットフォームを共用化したクロスオーバーモデルを次々と登場させ、成功を収めた。以上のことに加え、GM、フォードは、工場の生産システムを、ひとつのモデルを長期的にかつ大量に見込み生産する、フレキシビリティのないマスプロハイボリュームのシステムをそのまま温存した。このことは量産効果を上げるために工場稼働率を一定のレベルに保ち、常に供給能力を維持していくため、販売流通の分野で巨額のリベートやインセンティブを負担することで、実質的な値引きを定着させた。リベートやインセンティブは本来は一時的な需要調整のためにどの自動車メーカーも行うものであったが、GMやフォードの場合はけた違いに大きく、かつ構造的に定着してしまったのである。このような状況では新車のブランド力を高めることは難しく、グローバルな商品開発力を高めるための主導力を発揮することはできない。

以上のような北米事業の運営に関わる問題点に加えて、グローバル戦略が暗礁に乗り上げた大きな原因は、その前提となる基本発想それ自体にあるとみることができる。つまり、グローバル戦略において、先ず何よりも規模の経済性のみに目を奪われた、いうなれば数合わせのM&Aを前提としている。この発想はグローバル戦略の根幹をなす二つの原則、①グローバルプラットフォームの統合、②部品のグローバルソーシング戦略と密接に関連している。

グローバルプラットフォームの統合は、IT技術が発達し、デジタル設計が進み、製造工程の自動化とデザイン設計のスピードアップが進展する中で、地域ごとにバラバラだったプラットフォームの設計を機械的に統合するやり方は、製品のブランドアイデンティティーを損なうことになる。ひとつのプラットフォームを他の地域に押し付け、無理に統合しようとすれば、それぞれの地域の市場ニーズにはマッチしない車種を、規模の経済性ゆえに無理をして作らせることに通じ、逆にブランド価値を低下させかねない。また、プラットフォームの統合は、設計部門や製造部門の独自の組織文化を無理やり統合することに通じ、新しいコンフリクトを生み出しかねない。

グローバル戦略のもう一つの柱である部品やコンポーネントのグローバルソーシングについては、GMやフォードの場合、これまで部品の内製率が高かったのを、アウトソーシングを増やして外注率を高めてきた経緯があるが、グローバルソーシングとは、部品取引のグローバル化に伴い、最適地、最適調達の名の下に世界中の部品生産地域の中で最も低コストで調達でき、かつロジスティックス上問題がない地域を選び、そこから重点的にかつ大量に調達するというやり方を指している特に新興地域が焦点となる。ITの発達による部品調達のデータベース化とネット調達の広がりは、これまで困難と思われていたグローバルな調達における即時的な情報のやり取りと、購買戦略の迅速な決定を可能にするように見えたことも、グローバルソーシングの戦略に拍車をかけた。その結果、部品調達における世界的なマップの塗り替え=リロケーションが強調されるにいたった。だが、自動車技術の目覚ましい発達とグローバルな品質競争のもとでは、それを支える部品の品質や技術の動態的評価─部品メーカーの潜在能力評価─が不可欠であるにもかかわらず、欧米三社のグローバルソーシングの基本的な発想は低コスト対利用勾配が基本であり、この点でも規模の経済性だけを前面に押し出したものであった。これは、目先のコスト引き下げに貢献するが、長期的に見た場合の品質、特に総合品質や、部品メーカーの開発能力と設計能力など技術力の評価がなおざりにされがちであり、一般的傾向としてトータルでの品質の停滞と、これに伴う品質保証のためのワランティーコストの増大を招きやすく、環境や燃費などの新技術への部品メーカーの取り組みが遅れがちとなる。以上のように理由から、グローバル戦略は、いずれもいずれも一面的な規模の経済性にのみにとらわれた発想故に、表面的なコストダウン効果と裏腹に、ブランド価値の向上や設計開発の柔軟な対応、そして部品の品質や技術力の統合性や潜在能力の評価が疎かになるリスクを伴うことになる、グローバル再編はその戦略発想の根底にこのようなリスクがあることを見逃したがゆえに、暗礁に乗り上げのである。

2011年9月 1日 (木)

あるIR担当者の雑感(47)~レポートの感想

レポートを書いてもらえたことの興奮が未だ冷めていません。多少は冷静になってきたので、冷静にレポートを読み直してみました。

以前、会社紹介レポートを書いてもらった時の印象を書き込みましたが、その時のものは会社を紹介してもらうちという中立的なものですが、今回のは証券会社が発行する銘柄紹介のレポートでレーティングのような評価も入るものです。つまり、レポートを読む人が投資判断をするためのものなので、厳しさが違います。

また、大きな違いはレポートの分量です。今回のレポートではどうしても枚数の制約があり、限られた中で会社の紹介とその銘柄の可能性(あるいは、その銘柄を推奨するポイント)を理解してもらわなくてはならない、ということでかなり凝縮され煮詰められた表現になっています。あまり、以前に感想を書いたレポートと比較するのは、そもそも目的や性格が違うので単純に言えないのですが、前のは会社に興味を持った人がその会社を理解することが主な目的であったので、分量もあり、内容も盛り込まれたものでした。これに対して、今回のは、投資対象として銘柄を紹介するのが主な目的であるでしょうから、先ずはその銘柄が投資対象としてどうかという興味の対象として扱われるようにということ、その中で会社の紹介もふくめて行われるというものですから。

その点での会社の紹介も隈なくというわけにはいかず、ポイントを絞り、それが投資対象の銘柄としてどうだということに繋がるという絞込みが為されていて、このポイントの絞り方というのは、IR担当者としてはとても勉強になるものです。それも僅か200字強の限られた中で手際よくされていて、会社の強みまでさりげなく触れられているので、すぅっと読む人の中に入ってくるような感じで、よく読むと沢山の内容が詰まっているものです。それを、会社のIR資料で調べると数ページを費やしている内容です。

そして、会社が将来に向けて成長させていくドライバーとなるべく期待している事業についての説明、これが会社の将来への期待の説明という意味合いのものとなるものでしょうけれど、それ自体の説明の前に、敢えて150字くらい費やして、これまでの事業経過からどうしてその事業が会社の将来に期待されるものであるかに説明をされていて、それで、その事業の期待度、重要度、それだけでなく、会社がこれまでに堅実な経営をしながらも事業展開に対して積極的に進め、前向きな姿勢であったことが分かるような書き方になっている。この辺りの凝縮された文章表見んというのは、こんな中途半端に文章しか書けないIR担当者から見ると、プロの凄みを見せつけられた感がします。

そして、会社の将来に期待している事業に対しては敢えて多めにスペースを割いてかなり細かく、具体的な説明になっている。この細かさは前のセンテンスと比べると比較できないほどでが、事業で取り扱う製品がユーザーの現場で、どうなると単位として何台必要になるかという細かな点まで、まるで微に入り際を穿つように説明されていますが、製品自体がB to Bで普通の人にはイメージできないので、たしかにこのような説明だと、販売数はこうすれば伸びるというのが具体的にイメージできる、そして、そういうイメージができると何か伸びるように思えてくる。具体的なイメージの強さでしょうか。リチウムイオン二次電池の生産ライン向けの検査装置なのですが、昨今の電力危機で脚光を浴び始めたスマートグリッドや電気自動車の基幹部分を担う製品の品質に関わるものなので、将来性をイメージしやすいところはあります。しかし、生産ラインは未だ本格的に量産体制が確立されてはおらず、電機の規格や仕様をめぐり各電池メーカーの思惑が飛び交っているため、増産体制に向けて足踏み状態となっていますが、それでも希望が持てるものであることが、このレポートを読むと分ります。

そして、足下の状況と説明の文章は1ページに満たないスペースに充実した内容が盛り込まれ、至れり尽くせりになっていると思います。正直なところ、今まで漫然と読んでいて気が付きませんでしたが、自分の会社がレポートされているのを読んで、実際の取材を受けて、多少なりとも舞台裏がわかって読んでみると、アナリストの人が、いかに見えないところで工夫をし、普通では想像できないようなアンビバレントな要求に応えているかが、分かりました。

これだけの努力をしてレポートを書いているアナリストのことを考えれば、書いてもらう発行会社はそうしてもらえるだけの努力をしなければならないのは、当然のことだとおもいました。

下川浩一「自動車産業の危機と再生の構造」(3)

第2章 日米欧自動車メーカーのグローバル戦略

序章で説明されていたグローバル戦略の蹉跌は、とくにその面で世界をリードしていたビック3が急速な業績不振に陥ったのは、戦略面ではミスリートがあった。とはいえ、21世紀を迎えるに及んで、地球規模の環境問題をはじめ、東欧、ロシア、アジア、特に中国、インドといった新興市場の登場、そして国境や地域を越えた事業活動のグローバル展開など、世界の自動車産業を取り巻く環境が大きく変化し、先進的なグローバル戦略を必要としていたことは隠れもない事実であり、この点でこれら各社が先駆性を有していたことは否定できない。そこで、その先駆性にもかかわらず、なぜこのような戦略上のミスリードが生じたかが明らかにされる必要がある。

1.グローバル戦略の先駆性を発揮した欧米自動車メーカー

1990年代に入り、グローバル戦略を明確に打ち出して先駆性を発揮したのはフォードであった。それまでのフォードはも北米は北米、欧州は欧州、アジアはアジアというそれぞれの事業体がその地域の自動車事業について責任を持ち、自立的経営単位として機能し、相互の連携と統合、特にその製品開発や部品調達における連携と統合が欠如していたのを根本的に改め、グローバルな統合化を図ろうというものであった。しかし同時に、グローバル市場の地域的複雑性やブランドの多様性に鑑み、地域的ニーズにきちんと対応できる体制を取っていこうということもうたわれた。さらに、グローバル競争の下で市場の変化が早く、かつ複雑になる中、IT革命によるリードタイムの短縮や部品調達の効率化をはかるものであった。このようなグローバルなビジョンのもとでフォードが進めた戦略の実態としては、ます、欧州フォードと北米フォードの開発部門の統合の統合を試みた。これは両部門を一元化し、開発の重複をなくそうとするものであった。しかし、これらの施策は思ったほどの成果を上げられなかった。

フォードのグローバル戦略に対して、すぐに反応したのはGMであった。GMは富士重工に出資し、韓国の大宇やスウェーデンのサーブを100%子会社化し、フィアットとの提携をきめ、エンジンや車種の共同開発を策する等積極的なグローバル再編に向けてM&A主導の戦略を展開した。

これと前後して注目を集めたのが、ダイムラー・ベンツとクライスラーの合併であった。ダイムラー・ベンツがこれまで乗用車では高級車一筋のメーカーであり、少ない台数で高付加価値を確保できた基本路線を維持するだけでなく、量産車種やミニバン、SUVなどのダイムラー・ベンツでは生産していない車種を製品ラインに組み込み、これまでそれぞれに強かった地域市場を相互に活用する相乗効果が期待できるとされていた。相乗効果はこれらのみに限らず、プラットフォームの共同開発や相互利用、コンポーネントや部品の共同開発と共同購買などにも及ぶとされていた。さらに、膨大な経費を要する先行技術・環境対策技術飲む開発負担を軽くすることも中長期的に期待された。

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