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2011年9月 5日 (月)

あるIR担当者の雑感(48)~IRとしての株主総会(株主総会は何のためにあるか)

先日、ある信託銀行(日本で一番規模の大きいところです)の証券代行の担当者と話していたところ、必要な打合せが終わり雑談をしていたところ、ESOPを勧められたり、株主優待の話をしたりしているうちに、どうして上場会社である私の勤め先に必要だと思いましたか、と少しばかり青臭い本質論のような議論を吹っ掛けたのですが、マニュアルに書かれたような受け答えで、法的にも認められていますから。と言ったので、どうしてですか。と、かれらにとっては理不尽のような質問には、法的には有効としか答えられないようでした。

では、とちょっと思いついて、株主総会ってどうしてやらなければ、いけないのですか、きいてみたら。返ってきた答えは、会社法で決まっているから。というものでした。多分、かれらは、この答えをおかしいという感性に欠けているのかもしれません。何で、そんな理不尽なことを質問するのか、というように戸惑っているようだったので、もっと噛み砕いて説明したのですが、どうやら理解してもらえなかったようです。説明したのは、こういうことです。

数年前に株式会社は誰のものかという議論があったけれど、今から20年くらい前の一連の商法改正が進められる以前、つまり旧商法の時代、株主は会社に出資し会社の期間損益を経営者と配当という形式で分け合うということが、建前として残っていました。期間損益とは事業年度に会社があげた利益です。利益は期間中の売上から原価や経費を引いた、いうなれば残りです。だから、株主と従業員のどちらが大事かという議論が、会社は誰のものかという議論が盛んに行われた時に、派生してでてきましたが、ここであるように、人件費は経費に数えられますから、株主は会社から従業員への給与を経費として支払った残りを受け取ることになります。だから、原則でいえば、株主と従業員とどちらが大事かというような、同じ天秤の上ではかることはできないはずなのです。劣後益とも言われますが、株主が受け取ることができるのは、会社の最後のおこぼれになるわけです。しかも、例えば従業員の給与は給与債権というように支払わなければならないことになっています。つまり、給与の支払いはある程度保障されているわけですが、株主の受け取る配当というのは、そのような保障がなく、従業員に比べると保護されていない、つまり、リスクを多く負っているわけです。だから、保護されていない分自己防衛しなければならない。だから、自分が受け取る配当に関して、会社の不当に低くしていないかを自分で監視することができるのです。

その公式の場が株主総会なのです。だから、株主総会で最も重大な議論というのは、決算承認なのです。それは、この一年の企業活動がちゃんと行われて、劣後益である自分の受け取る配当がきちんと受け取れるだけの利益を上げたかをチェックし承認する場なのです。そこで、かりに従業員に不当に給与を払い過ぎたとか、不正があったとなれば、自分受け取るべき配当が受け取れなくなったことを追求するわけです。実際に、どのような団体のあつまりでも、政府の国会も含めて、総会なんかを行うときに一番大事な議題というのは、決算と予算の承認であるはずです。株主総会だって例外ではありません。だから、会社の決算というものはそのために行うもので一本化されていたというものです。また、期間損益に限定しているのは、法律でいうと配当可能利益といって、会社からいうと会社の体力を積み上げ蓄えていくためと、株主というのは流動するわけですから、長く保有している株主と昨日今日株主になった株主の実質的な平等を確保するため、一年間の損益を期末時点の株主で分け合うようになっていたわけです。つまり、何年もかかって蓄えた過去の利益の蓄積である内部留保を配当に回すということは、最近株主になった人が配当として受け取るのは不当利得ではないかという常識があったのです。これがいわゆるタコ配です。

ところが、現在の株主総会では決算承認というのは、ほとんどの場合行われません。その代わりに報告が行われます。そして、その報告について分りやすくビジュアル化したり、質問に丁寧に答えると、それは株主に対して親切な“開かれた総会”ということになるわけです。そして、IRの視点からもそういった総会が推奨されるということになるのです。しかし、旧商法において株主の自らのリスクを自覚して、場合によっては会社の決算を認めないという伝家の宝刀を以て会社に対して正面から堂々と自己の権利を主張することのできたのと、単に報告されるだけで、その報告が取敢えず丁寧になったというのと、どっちが株主に対して“開かれた”ということになるのか。本質的なところで議論がなされたということはきいたことがありません。まして、今では、株主総会で配当が決められることもなくなりつつあります。会社法では、一定の条件を満たすことによって取締役会で配当を決めることができるのです。株主は、自分が受け取る配当を決める場に直接参加できなくなってきているのです。

実際のところ、会社の株を買うというのは、会社に出資して期間損益の最後の分け前である配当を受け取るということから、株式市場での株式の売買を通じて、その差額を稼ぐということに重心が変わってしまったことから、株主にとって、配当はそれほど大切なものではなくなったのかもしれません。

だとしたら、そういう株主にとって会社に出資する一番大切なものは何か、ということが建前でも明らかにして、それを株主が権利行使することによって、経営者と議論し、あるいは決定に参加する、というのがリスクを負って会社に出資している株主があつまる株主総会の目的とすべきなのではないかと、考えます。それがあって、はじめて“開かれた総会”ということが議論されるべきで、ビジュアルなビデオを使って説明したとか、パワーポイントを使ってビジュアル化したというのは、そのためのツールにすぎない、いわば刺身のツマです。いま、その刺身のツマを取り出して議論をしているのは、私には目的と手段の取り違えとしか思えないのです。

それは、株主総会を実際に行う企業の責任が大きいかもしれません(建前から言えば、経営者を選任するのは株主であるわけですから、株主と本質的な議論をすることを真剣に考えるのは、取締役の本来の仕事のはずです。だから、形式的に今述べたような、取り違え、偽悪的に言えばごまかしを行っているのは、取締役としての義務を果たしていないとも言えるかもしれません)が、本質的な、何のためにやるのかという理論的な検討を行わない法律学者や法務当局といった専門家が重箱の隅をつつくようなタコツボ化してしまっていることと、証券代行のような企業を指導する側にも見識がないためではないかと思います。私の勤め先も含め(自戒の念もこめて)本質的な意味で、総会を意識して行っている会社はないのでとはないか思います。

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