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2011年9月21日 (水)

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(18)

第4節 教授資格論文について

1.論分の内容

学位論文に次いで若きハイデッガーのものしたものは、1915年の春に既に完了し、その年の夏学期フライブルク・イン・ブライスガウ大学哲学科に大学教授資格論文として提出された『ドゥンス・スコスゥスの範疇及び意義論』である。この論文は、人格的な独自の思索に基づいて哲学史を生かし返す問題史的哲学史観に則って、ドゥンス・スコトゥスの範疇及び意義論を解釈しようとする西南学派的著述であると言ってよいであろう。

本論文の意図は、スコトゥスの『思弁的文法学』を意義論として解釈することにあり、それを論究するに先立って、意義領域は何であり、また諸学の体系の中でどのような位置を占めるものかを明らかにするために、予め、対象領域の構造と組織を明らかにする範疇論を展開しようとするのである。そこで第一部でスコトゥスの超越概念を援用しながら範疇問題が論ぜられ、第二部で『思弁的文法学』を手懸りに意義論が展開されるが、第一部ではリッケルトの、第二部ではフッサールの影響が強くみられる。

先ず第一の範疇論はどのようにして展開されるのであろうか。範疇論とは根源的な対象領域の構造の考察のことだが、対象領域は、それが対象となっている限り、常に共通して或るものがその根本に横たわっている。それは存在である。範疇論とは存在という対象領域の解明である。存在とはその意味で対象領域一般の謂いであり、いわば範疇の範疇である。

しかし、存在は対象性一般として、これからでは何も始まらない。しかるに、実は、この対象性一般の根底には、「一と他」の指定、即ち「異定立」がある。何故なら、或る対象が措定されたときには、それが一つの対象として他ならざるものとして措定されているから。従って範疇論の問題は、具体的には、この「一」という超越概念の問題になる。それでは一というものは、範疇論的に見て、一体如何なるものなのであろうか。一には先ず二義があり、第一は存在と換置できる意味でのもの、第二は数の原理としての一である。第一の意味については、或る対象が措定されれば、それは一つの対象として、他ならざる対象として措定される。既に、一つということ、同一的なるものという規定性が与えられている。但しそれは、対象の内容的本質には何物も附加せず、ただそれが他のものではないというように、欠如的に規定するだけである。更に、一には多が対立する。多は一ではないということであるから、一は多ではないということは、一は一ではないものではないということであり、即ち欠如の欠如である。一とは、このように対象に欠如的な意味附与を行う。いずれにしても、対象が措定される限り、常に一の措定がある。

第二の数の原理としての意味には、二つの場合がある。ひとつは「純粋な数」で、他は「数えられた数」の場合である。まず、「純粋な数」が可能であるためには、一に「計算の概念」が加わらねばならない。即ちこれは量の概念であり、しかも偶有的な量ではなくて非感性的な量である。従って純粋数をとしての一は、超越概念の一の如く対象性一般ではなくて、非感性的量的対象であり、より制限的なものである。しかし、量と非感性的ということだけでは数の本質は未だ充分に規定されない。数が連続する多くのものに亘ってもつ「統一性」が、ここで理解されなければならない。即ち量とは、それ自身量ではなく、その本質は、まことには、同一の視点からする分割の可能ということである。ここから純粋数の系列法則性ないし統一性が出て来る。かくして数としての一によって、対象性一般としての一とは異なった、量と同質的媒体に基づく非感性的数学的領域が成立することになる。

次に「数えられた対象」とは、感性的自然のことである。その解決には、自然的現実性の領域が何であるかが、先ず理解されなければならない。スコトゥスに従えば、それは個体であり「鳥瞰し得ぬ多様性」、「異質的連続」がある。ところでこれらが数えられるためには、それらが同質的視点で考察されることが必要である。しかるにこれらは異質的だとされた。しかし現に自然的事物に数えられており、従って同質性の要素を持たねばならない。実は、まさしく自然的現実性の領域は、全くの異質性の世界ではなく、そこには同質性が潜んでいる。即ち中世的思考に従えば、感性的世界は、超越論的世界とのアナロギアの秩序の下にある。そこでは多様の中に統一があり、統一の中に多様がある。それ故にここで同質性の見方が可能になる。しかしそれはもはや数学的領域の如き純粋計算ではなく、価値判定、価値規定的なものである。何故なら、現実性は被造物と考えられており、その現実の度合いが価値的に計られるからである。そして体験的現実性とその個体における歴史的なものは、純粋数によっては到底把捉され難い独立性をもつ。ここに全くの独自の自然的現実性の領域が剔出されるわけであり、それは、超感性的世界という形而上学的領域というアナロギアの秩序の下にあり得るものなのである。このようにして「一」を手懸りに、対象性一般、数学的現実、自然的現実、形而上学的現実の諸領域が、範疇的に取り出され、区分されるのである。

ところで、次に論理的現実の領域が取り出される。何らかの対象であるものは、常に認識の対象であるから、対象は真の問題と絡み合う。ところで、その反対が偽である如き真なる認識は判断である。判断は分肢せる統一であるが、統一はコプラに依っている。これは妥当ということであり、これが真の担い手である。真は対象的なものに結合しているが、判断内実は対象とは違う。かつまた判断内実、意味内実は、判断作用とも峻別される。判断の領域は妥当の世界であり、実在的世界から独立した存立を保持するものである。判断領域は非感性的かつ同質的であるが、だからとて数学的領域とは同じではなく、後者が量の上に成立するのに対し、前者は指向性の上に成立している。このようにして、認識可能なものの領域、即ち対象性一般の領域は、自然的現実の感性的(物理心理的)領域、超感性的形而上学的領域、及び論理的領域として見出されたわけである。それ゛はこれですべての対象領域が見出されたのであろうか。否である。ハイデッガーにここに更に、意義領域というものを認めようとする。

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