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2011年9月23日 (金)

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(20)

2.その底に潜むもの

Ⅰ 範疇論の底に潜むもの

本論文には、見逃すべからざる後年のハイデッガー哲学への糸口が潜んでいる。その第一として、第一部の範疇論という主題設定は、即ち学位論文の判断論という主題設定に既に見られた、あの「“存在”の全領域」への問いに繋がるものに他ならないからである。範疇論は、幾つかの対象領域を構造的に分肢し、例えばそれを数学的、自然的、超越的、論理的等の諸領域として摘出しているが、そうした分析の日子には「存在」という対象性一般への、即ち存在の全領域への問いが潜んでいると言ってよい。学位論文の理念は、明らかにここに生き返って来ているのである。しかもここでは、学位論文での判断論という論題そのものが、つまり論理学そのものが、一つの現実様式となるような、より広い対象領域全体の構造への考察がなされており、存在一般を根本的に領域的に区分してみようとする範疇論が試みられ、ここには学位論文の問題の深化があるとさえ言える。

ハイデッガーがここでスコトゥスの範疇論を問題にしているということは、既に朧な形で存在へと問い出しているということであろう。ただここでは、リッケルト的な枠組み、そうした新カント学派的な論理学的範疇論という枠組みにおいてであることは、依然として注目されねばならないことである。何故なら、「存在」をもとにして対象領域の構造を解明しようとしながら、具体的には、彼は、リッケルトの「異定立」の思想によって、「一」を手懸りに範疇論を展開しているにすぎず、またその結果区分された存在領域についてみても、先ず存在を対象性一般としていわば「所与性の範疇」の如く基礎におきつつ、次いで、量と同質的媒体の数学的世界や価値を含む個体的多様の自然的世界を導出しているが、これは明らかに、現実を「異質的連続」とし、そのうちの同質的側面を照らし出すものを自然科学的世界、そのうちの異質的側面、しかも個性的に有意義な価値関係的事実を取り上げるものを歴史的現実世界とした、リッケルトの有名な意見の踏襲であり、更に「真」を手懸りとして論理の世界を妥当とするなどはリッケルトそのままであり、このように、超越的形而上学的世界を認めるのが僅かにスコトゥスに即した範疇論であることを除けば、ここで範疇論という、本来は存在を問うべき議論は、実は全く新カント学派的枠組みの中に閉じ込められてしまっているのは、あまりに明らかだからである。ハイデッガーは、後に、こうした存在の全領域への問い、そうした領域への問い、そうした領域の構造分肢の問題つまり範疇の問題を、「広義で言えば存在論」だと明言し、自分の試みは、そうした存在論の試みにあるが、ただし単なる存在論でなく、通常の存在論の根拠にあるべき基礎存在論のそれであると言明する。基礎存在論は、単なる対象領域の範疇構造を問うことではなく、現存在としての人間のあり方の中で存在へとかわる実存の問題を掘り下げることによってのみ、用意されるものである。それ故そのときには、もはや範疇論という対象的な見方、物在的な存在者の領域的構造分析でなく、実存的人的あり方というより根本的な実存疇からする存在の全領域への問いへと、問題は深まってゆくだろう。

或る意味でハイデッガーは、このスコトゥス論で、無意識的に、朧に、学位論文の主題を承けて、存在と思索の眼を向けていると言ってよく、そこには強く新カント学派的枠組みが纏いついているが、それを取壊毀すとき、この論文の範疇論という主題は、後年のハイデッガーの存在への問いに深化していくことも可能なのである。

Ⅱ 意義論の底に潜むもの

また、第二に、本論の第二部の意義論の中にも、我々はハイデッガー的な思索の萌芽を見出すことができよう。というのは、意義論とは言葉への考察にほかならず、しかしハイデッガーは、後に、例えば『存在と時間』で、深く現存在の語りに定位して言葉の世界を考究し、また後期には、「言葉は存在の家である」として存在の思索に深く密に言葉の世界を絡み合わせていき、言葉の中に何かを言い述べるという問題を、後年のハイデッガーの根本的な問題をなすものだからである。そうした展開を髣髴とさせるかのように、ここでは、意義論という形ではあれ、言葉への思索的志向が、現われている。これは大いに注目すべきことであろう。

勿論、この論文では、意義論は論理学の一部であり、判断論、知識論と並ぶ論理学の一分野にすぎないとされ、論理的成体と関係している面での言語学成体という文法学の形で、言葉への関心が表面化されているにすぎず、総じて言葉への思索は、論理学的問題設定の中に閉じ込められていて、後年のように、実存や存在の只中から問われていないことは、充分注目されておかねばならない。おそらく、フッサールの純粋文法学ないしは意義の形式論の影響であろう。フッサールにあっては、言葉も、アプリオリに、心理現象から離れて、文法学的な意義の形式論を持つべきであり、それが論理学的研究の一部となっていた。それは言葉の意義機能、表現作用を論理学的問題設定の中で問おうとしたものだと言ってよい。先のハイデッガーのスコトゥスの意義論的解釈は、彼自身もそれがフッサールの理念の下に試みられていることを告白している通り、明らかにフッサール思想に導かれた、言葉への考察だったのである。

だが、そこでは、言葉は、意義の形式論ないし文法学といった形で、出来上がった「言表」の側面から、考察されているにすぎない。しかるに後の『存在と時間』でハイデッガーは、言葉を現存在の「内存在」の重要な契機と看做し、否見方によっては実存の世界の最根底の構造としてこれを解明するのだ。そこでは、このような言表に定位する物在的な言葉の論理学が鋭く非難され、言葉を出来上がった「言表」の形で捉え、そのあり方を論理的文法学的言語学的対象的に考察する仕方は否定され、フッサール的な意義論という言葉の論理学的問題設定瓦解して、言葉を生きたものとして、現存在が実存的に世界の中にあって存在了解をなしそれを語る、その「語り」の場面へと還元して考察してゆくことが必要だということである。従ってスコトゥス論での言葉の扱い方が、未熟で、フッサールの影響を蒙り、論理学的な問題設定の中で扱われているとしも、それは、後年のハイデッガー本来の思索への萌芽を秘めたものとして、重要な意味を持っていたのである。

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