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2011年9月19日 (月)

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(16)

第2節 哲学以前の形而上学的志向

このような準備的初期における哲学的出発に関し、その背景となっているハイデッガーの哲学以前的な形而上学的志向について、最初に注意を促していこう。恐らく、その論理学的問題設定の受容以前に、彼には形而上学的実存的志向が朧に伏在し、それが修行期の学的訓練によって一時背後に隠れるが、再びその時期の終わりに姿を現わし、かくして後年の実存思想へと結晶してゆくと見なければならないように推察されるからである。ハイデッガーは『野の道』のなかで故郷の少年の日の思い出話の形で、自己のこのような傾向を説明している.

第3節 学位論文について

1.新カント学派的体裁

我々は、ハイデッガーの準備的初期における思索を、具体的にその内容まで立ち入って考察するために、先ず、彼の学位論文『心理主義における判断論』を取り上げてみよう。この100頁余の小論は、当時やや衰退していたとはいえ、19世紀以来非常に盛んであった心理主義的判断論を、その代表者である、W・ヴント、H・マイヤー、F・ブレンターノないしはA・マーティ、及びT・リップス等のそれぞれにつき、批判検討をなし、以て心理主義の徹底的瓦解を試み、論理学は純粋論理学的に打樹てられなければならないことを周匝に論究する好著なのである。この論文でハイデッガーが如何に新カント学派的であるからは、更に、心理主義的判断論を批判検討しながら、結局心理主義は論理学的現実を知らないとし、しかもそれは単なる誤認ではなく本来的無知であり、要するに判断の問題群は心理的なものの埒外にあるのであって、判断は純粋論理学的に考察されるべきであり、実は判断の現実形式は妥当であり、論理学の判断とは意味であると結論する、その判断即妥当的意味という見解に、最も明瞭に現われているだろう。

2.その底に潜むもの

Ⅰ 判断論という提題の底に潜むもの

しかしながら、我々は、こうした心理主義的判断論の批判的検討という論題の根底にある、見えざるハイデッガーの思索の重要な萌芽を、見逃してはならない。というのは第一に、判断論という論題を取り上げるということのうちに、どういうことが秘められているであろうか。

判断とは、ものを認識したその成果を言表の形に齎したものにほかならないが故に、判断を問題にするとは、その以前に、認識の問題を含み、従って判断論の根底には認識論の問題があることになろう。ハイデッガーによれば、判断とは判断対象に意義内容が妥当するところに、形成され、従って、判断とは関係である。しかも対象と規定的意義内容との間の妥当の関係であると言われる。「一冊の本は黄色い」という判断は、「黄色いということが一冊の本に妥当する」という意味を述べるもので、それは、物理的心理的形而上学的存在様式とは別物の妥当という形式においてあるものである。しかしながらハイデッガーは、判断の本質が妥当的意味にあると言いながら、同時に意味など捉え難いものはなく、従って彼は、妥当的意味という事態についても、実は明確で詳細な問いへの萌芽を感じながら、これを切り捨てて、未解決のまま放置している。だが、ハイデッガーは、このように問題を打ち切りながら、ともかく判断が妥当的意味の述定だとすれば、それは諸学問の内容にも関係するはずだと言い、判断の問題は学問の可能的根拠の問題へと拡がってゆくべきものであることを主張する。だから、彼は、この論文の最後で、意味の問題を諸学の場合に即して考え、認識論、学問論へと発展し、以て存在の全領域の様式の考察へと視点を究極的に向けるべきであることを暗示するのである。このように、判断論という問題の背景には、認識とはそもそも何か、或いは、存在の全領域のあり方は一体如何なるものであるか、という問いが根本的には匿れているのであり、しかも同時にハイデッガーは、そうした問題を、妥当的意味の判断世界を手懸りとしてなそうとする試みを行い、しかもその際、意味というものに究極の疑問符を突きつけてさえいるのである。

この第一の認識の問題は、ハイデッガーが論理学の問題を通して、実は近世以来の認識論的伝統の問題にぶつかっていることを証明しているが、また見方を変えれば、認識論とは、上に言わせているように、存在の全領域をその様々な現実形式において分肢し、存在へと知識的に人間が接近してゆくその知識的認識的接近のあり方がどのようなものであるかと問うことにほかならないから、実は、広義に、存在への人間のかかわり方、もっと端的に存在への人間の追究がどのようなものかを、ハイデッガーがここで既に問題にしているということに他なるまい。しかし第二の点が示しているように、ハイデッガーはこの思索の萌芽を、少なくともここでは、新カント学派的な論理学的問題設定の中でしか取り上げていない。人間と存在のかかわる場面の、特に認識の、しかも言表化された論理的な妥当的意味というものを問題の中心に据えて、そこから、こうした根本問題の一端を垣間見ているにすぎないというべきである。

だが、ハイデッガーのこうした問題の取上げ方は、後々までも糸を引き、後年の思想は、こうした問題設定を瓦解させてゆくところに、その重要な筋道を浮き上がらせて来るとも、言い得るのである。というのは、第一の存在の全領域のあり方の自覚化という問題は、この論文では、我々が認識によって存在を知的に支配し対象的に規定し、諸学によってそれを学的に探究する、その諸学問の基礎には必ず対象的存在世界の構造の問題が含まれてくる。いわばこうした学の認識論を通して存在へと到ろうとすることが、実は近世認識論のやり方であり、それはカント以来古典化された思考法であり、新カント学派もそうした問題設定の中を動いていたといっていい。ハイデッガーはここではそうした思考法に則っている。まさしくハイデッガーは後年この認識論的問題設定を打毀した新しい端緒を開こうとするのである。出来上がった成果としての学や認識を通してでなく、むしろ学や認識がそもそも可能になる人間的なあり方を問うという方向へと、認識論を瓦解させてゆく。そのことによって端的に、人間的実存と、人間がかかわる全存在領域のあり方とを、問い出そうと試みるに到る。それが『存在と時間』でのいわゆる「基礎存在論」の道である。このような意味で、ハイデッガーが、ここで認識とは何かとか、学の基礎とは何かとか、存在の全領域のあり方は如何なるものなのか、とす、問い出しているということは、実は彼が論理学の底の近世的認識論的問題群にぶつかり、その伝統と確執し、もう一度根本的にそれらを問い直そうとし、やがてそれらを、認識や学そのものがそれに基づいて可能になる人間的あり方全体への問いへと瓦解させていく、実存思想の端緒に立っていることを示したものにほかならないのである。

そして第二に、もしそのようになれば、ここで試みられているように妥当的意味の判断世界を手引きとして存在の全領域の認識を行おうとする試みは瓦解せざるを得なくなるであろう。果たしてハイデッガーは、『存在と時間』に到ると、妥当の思想に批判を加えて、意味について全く新しい見方を立てるべきことを説く。我々が判断において了解する世界の中の様々なものの意味捕捉が如何なるものであるかは、哲学の重要な根本問題であるが、それを言表の形態において出来上がった判断形式の中の純粋意味として立てることをハイデッガーは後に不充分な発想として否定し、判断をそれ以前の実存の存在了解の中に解体させ、従って妥当的純粋意味をも実存が世界の中で被投的企投においてあるその根源的な存在意味の捕捉了解において捉えられるものとして解体させてゆくのである。後には、判断論という論理学的問題設定は、その底の人間のあり方全体への問いよって瓦解されてゆくと見ていい。

このように、判断論という問題提起の底には、朧な形であれ、後のハイデッガーの問題群へと繋がる面がひそかに伏在しており、表面確かに新カント学派的ではあるが、底を割れば、後の思想へと一筋の道が続いているのである。しかもその道は、ここで採られた論理学的問題設定の瓦解を通して初めて拓かれ、そこにやがて実存思想が稔る地平が展けてくる。その意味でハイデッガーは、ここで近世的認識論的思考法の限界に朧に突き当たっていると言えるのである。

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