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2011年9月25日 (日)

あるIR担当者の雑感(50)~共感のIR?

ようやく50番目となりました。このブログが約1年ですから、だいたい1週間に1回に少し足りないくらいのペースでしょうか。

先日、雑感(45)でも書きましたあるIRセミナーの参加者特典として、IRツールの診断結果が出ました。それ自体に関しては、別の機会に書き込みすることがあるかもしれません。今回は、そこで診断してくれた人が、投資家の共感を得て投資してもらうという意味合いのことを盛んに主張していたのが印象に残ったので、そのことについて、少し考えてみたいと思います。というのも、このところ、私の勤め先の説明会の出席者、とくにアナリストや機関投資家関係の出席者が定着から少しずつ増えてきたり、とか機関投資家訪問がほぼ定期的にできるようになってきたり、と少しずつ関係が出来上がってきているのではないか、というようなことを担当者として実感してもいいのではないか、と思える状況になってきたということが思えるようになりました。私の勤め先の場合は、ここで何度も書きましたように、投資先として決して魅力的といえる会社ではなく、アナリストやファンドマネージャーという投資のプロの人たちとの関係ができつつあるのは、投資先として魅力というだけでなく、別の面として、例えば、共感とか関心という要素がかなりあるのではないかと感じているからに他なりません。

成長した企業の創業経営者の話を、テレビのインタビューや講演などで聞くと、魅力に惹きこまれて、この人と一緒に仕事をしたいという思いに駆り立てられることがあります。それが、ここで話そうとしている「共感」といったものの、理想の姿のひとつといえるかもしれません。そこで、投資家は投資をするという行為を通じて経営者と一緒にがんばるということになるのでしょうか。従業員ならば、この人と一緒に仕事をしたいと。

一方、最近、巷でよく聞いたり、目にする言葉に「感動をありがとう」というフレーズがあります。この場合、この言葉を発する人は、何かを享受した感謝の言葉として述べているようで、この人は受身の存在となります。単純な区別ですが、この場合は、さっきの「共感」の理想の姿というのは、異なるように思います。ここには、参加ということが欠けているように思います。

例えば、先日の女子サッカー・ワールドカップの日本チームです。「感動をありがとう!」という垂れ幕がメンバーの帰国した空港の通路などで見られましたが、あれなどは日本女子チームの優勝という成果を消費することで感動するということで、レストランでおいしい料理を食べたときに料理人に「おいしかった」と一言声をかけることと、変わりはありません。玉木正之というスポーツ評論家の言によれば、本来ならば、サッカーチームのサポーターというのは、12番目のプレイヤーの名のとおり、みんなでフットボールをプレーしていたころの名残で、フィールドのプレイヤーはたまたまフィールドにいるという一体感があるといいます。例えば、地域のお祭りでお神輿をかついでいる人と見ている人がいるけれど、それはたまたま、その時はそうなので、次の瞬間は、かついでいる人と見ている人は代わってしまう、という関係です。老人は、かつてはかついでいたし、子供は将来かつぐことになる。それと同じで、フィールドにいるプレイヤーと観客席とは同じという意識なのだそうです。その背景には、スポーツの底辺の広がりと地域共同体と一体化したチームという文化的背景があるそうです。これに比べて、日本の場合には、応援団というスポーツには参加せず、スポーツのプレイとは無関係にプレイヤーと役割分化するかのように応援に専念するという特異な集団があることに象徴されます。スポーツをする人と見る人に二分化され、フィールドのプレイとは無関係に客席は応援という行為自体で盛り上がるという、関係が出来上がっているといいます。だから、ゲームの結果が一番重要になってくる。それは、今回のワールドカップで繰り返し流された映像が、プレイヤーたちのひたむきなプレーや美しい身体の動きではなくて、優勝が決まったPKの蹴り終わったシーンや表彰式で優勝カップを高々と持ち上げるシーン、試合ではゴールシーンの終始していることからも分かります。

つまり、このような「感動」を得るためには、何かしらの結果が残された上で、それをある程度のまとまった人数のひとが納得し、それを享受することで何らかのメリットが受けられることが分かるようなストーリーを提供し、それをおいしく消費できて、はじめて「感動」という結果にいたることになるのだと思います。

これは、果たして、これまで私がIRの目的やIRとは何なのかと、しつこく考えてきたことには、そぐわないように思います。さきの理想といった姿のように、ここには参加という点が欠けていて、一緒に何かしようということがない。極論すれば、ここからは何も生まれないのです。投資というのは、資金を出すということを通じて、一緒に生み出す行為なのではないかと私は思います。だからこそ、投資家は金も出すけれど、口も出すわけです。それは、投資ということで関わったビジネスを、できれば発展させたいというのが、投資の本来であるからではないでしょうか。だからこそ、投資家と経営とのコミュニケーションというのは不可欠ですし、その役割を担うのがIRという、いたって建前論ですが。

だから、私が求めているのは、一方的で一時的な感情の高ぶりのようなものではない。まさに、今言ったような投資家の参加意識そのもののようなものです。それこそが、最初にいった「共感」という言葉になってくるのかもしれません。

ということになれば、最初に述べた理想的といったケースのような経営者の人となりに一瞬で魅せられてというようなことは、例外的と言わねばなりません。経営理念とか会社からのメッセージというものは企業を知る上で大切なことに違いありませんが、それを一回説明を聞いただけで株を買おうというということは、さきほど長々と説明した「感動」に通じるように思います。多分、そういう投資家は株価が少しでも下がれば、すぐに手放してしまうのではないか、とおもうのです。そうではなくて、参加してもらうというのは、息の長い、信頼の積み重ねやコミュニケーションを続けながら少しずつ出来上がっていくのではないか、と思います。

では、そのためにIRは、具体的に何をしていかねばならないか。これは、建前論で、何の面白みもないと思いますけれど、一朝一夕の効果を期待せずに、地道な努力を続けるしかないのではないか。努力しているプロセスを見てもらうことに努める。当然、会社からメッセージを発し続けることは必要です。そのことも、ふくめてもう少し考えていきたいと思います。

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