渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(15)
第2章 論理学的問題設定の瓦解
第1節 準備的初期の哲学的意義
ハイデッガーの哲学は、先取的に我々はこれを、実存に基づく存在の哲学として想定したが、その思想的な唯一の核心は、ハイデッガー思想の準備的初期の中にも既に認められ、確かめられ、そして唯一の萌芽が彼独自の体系へと成長してゆく過程が、捉えられねばならないであろう。彼の思想に変化ないし発展があるとすれば、それは、その同じ唯一の思想を、それにより適した仕方で語ろうとしたその点にのみ求められねばならないであろう。果たして事実そのようなことは可能であろうか。我々はこのことを明らかにするためにも、ハイデッガーの最も早い頃の思索について、即ち1911年から16年にかけての、そしてそれ以後大戦中及び後の時期に独自の思索へと沈潜しつつあった、あの準備的初期について、少しく解明の試みを企ててみなければならない。
ところで、この時期の思想は、一言で言い表わすとすれば、論理学的問題設定の瓦解ということである。この場合、論理学的というのは、具体的には、新カント学派なかんずくリッケルトによって代表されるような思想のことであるが、新カント学派が広い意味では近世以来の認識論的意識内在主義の哲学の系譜の上に成立した学派である限り、ハイデッガーのこの思想は、広義には、近世的な認識論的哲学の瓦解を試み、そのような発想においては常に取り残されざるを得なかった新しい問題群への新しい接近、ということを意味するだろう。まさしくそれが実存的問題群にほかならない。
ハイデッガーが新カント学派に最初学びつつやがてそれを批判克服していくということは、彼が最初20世紀初頭ドイツ学界を風靡したいわば学界の通年であった新カント学派の思想を需要摂取しつつ、それへの批判対決へと進んだということであり、言い換えればそれは、彼が近世哲学の伝統の中に先ず根ざし、それの一つの帰結でもあった認識論的論理学的問題設定に自らを定着させ、次いでそれへの批判とそれからの脱出を試みることによって、近世的な問題群を克服して、新たな現代哲学への端緒を切り拓くべく、まさしく哲学的伝統の中に定着して格闘しつつあったということにほかならないであろう。その意味でハイデッガーの準備的初期は、彼自身の哲学のその後の展開への萌芽をも含むと同時に、それ自身として近世的問題群と現代哲学的問題群とが噛み合い争い合う、極めて深い交錯点をも含んでいると言えるのである。
新カント学派をその一つの帰結とするような近世の認識論的論理学的方法とは、主客分裂というものを初めから前提し、その主観の意識内在的な認識原理をもととして客観世界の構成を企てようとするもの、と言ってよかろう。ところで、実存的端緒というものは、こうした主客分裂の思考法を、その底において突破るときにのみ現われる。総じて実存の領野はねこのような認識論的問題設定の瓦解と密接に結びついている。このことは勿論ハイデッガーの場合においても変わらない。
ハイデッガーは後の『存在と時間』において、近世の主客分裂に基づく認識論的論理学的意識内在主義に、以下のような批判を加えている。即ち、主客分裂という認識論的思考法では、認識は「内部」にあると考えられ、認識主観がその内的領域を超えて他の外界の領域へと到達するないしは合致するときに、認識が成立すると考ええられている。この内的領域がどう解釈されるにしても、ともかく認識は、その内的領域を超えて外へ超越するときに可能とされる限りでは、主観は初めから意識内在的なものとして前提されてしまい、そうした内在の基礎となっている主観の存在様式への問いが、問われずに済まされてしまっている。ハイデッガーは、こうした不充分な主客分裂の思考に反対し、積極的にむしろこう言う、「認識とは世界内存在の一存在様式である」と。主観はその内的領域を超えて外へと到るのではなく、もともと既に世界の許に、いわば「外部」にあり、様々な存在者とかかわりつつ世界の中に存在しているものだ、というのである。認識論的な機能性において主観はあるのではなく、存在者として世界の中に実存しつつあり、その一様式として、認識が可能になるにすぎない。認識は、内的な主観の外に出て客観に達し、そこで獲物をもってまた意識の内在という内部に戻るというものではなく、世界内存在という根源的な存在のあり方の中の、特に傍視的側面が肥大し、拡大したときに、成立するものなのである。ハイデッガーは、このように近世の認識論的思考法を批判している。主客分裂以前の、両者が一つの世界の中で交渉している、その存在の世界に、哲学は還らねばならないということであろう。ハイデッガーの言い方を借りれば、認識論から基礎存在論へ、認識や意識内在主義によって世界解釈を構成する考え方から、認識さえもがそれ基づいて可能となる人間的現実存在のあり方の考察へという、より根源的な存在の世界への還帰の方向だと言えよう。そしてここに、実存という主題が、はっきり、あたらしい発想の中で登場して来るのである。
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