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2011年9月 4日 (日)

下川浩一「自動車産業の危機と再生の構造」(6)

3.日本自動車メーカーのグローバル戦略

先行した欧米企業に比べて、グローバル戦略では出遅れた日本の自動車メーカーは、海外ビジネスで高い収益性を上げるに至っている。日本の自動車メーカーがグローバル戦略で出遅れた直接の原因は、1990年代前半にリストラに取り組んでいたことと、第二次円高で収益性が極端に低下したことである。それと並行して、1980年代に始まる日本の主要自動車メーカーの海外生産、なかんずく北米の現地工場がまだ完成途上で、それまでの追加投資による累積が重荷となるとともに工場稼働率が上昇せず、そのため日本本社の負担が重くなっていたことも、これと関係している。

つまり、バブル好況のために国内市場での販売台数の販売台数が飛躍的に伸び、車種の上級移行で高級車や高級仕様車がよく売れるようになり、各メーカーは先を競って新鋭自動化工場に新規投資を行い、能力増強をはかった結果、国内の設備が過剰となり、損益分岐点が高くなってしまった。また、高級車や高級仕様のモデル数を増やしたり、同一車種でもバージョンの数を増やしたりししために、開発コストと生産コストを押し上げる結果となった。1992年にバブル景気に終止符が打たれると、自動車メーカーはおしなべてその高コスト体質を露呈するに至った。

このような内憂外患に直面した日本自動車メーカーは、それぞれ思い切ったリストラに着手した。バブル好況時の高コスト体質を改め、車種、車型の削減や部品点数の削減と共通化を進めるには、そりまで企業の中では聖域となっていた設計開発にまで遡った見直しが必要になる。これに加えてサプライヤーを巻き込んだ共同VA、共同VEに取り組む必要がある。このほか従業員の削減については、事務系を中心とする削減に重点を置き、工場現場の多能工として育成してきた基幹工についてはあくまで雇用を維持し、これがその後の日本自動車メーカーのカムバックに多大な貢献した。

なかでもトヨタとホンダは、トップから従業員の末端までグローバル競争の危機感、緊張感が浸透するともに、経営者の意思決定責任とマネジメントの質を追求するTQMに積極的に取り組んだ。このことと並行して、両社は設計開発の初期段階に思い切って踏み込み、設計工数の削減、三次元デジタル設計を活用したシミュレーションによるテストの簡略化、部品の共通化と共用化などを迅速に進めた。また、リストラの一翼を担うサプライヤーに対しても、厳しいコスト削減を一方的に押し付けるのではなく、その技術力や設計能力を高めるとともに、自動車メーカーの設計開発への参画と、源流に遡った設計の簡素化や合理化の提案能力を高めるやり方で大幅なコストダウンを実現していった。

このようにリストラの戦略的効果がすぐにあらわれ、国内事業の損益分岐点の切り下げに成功したことは、海外現地工場の支援と自立化を促進し、グローバルな競争力を高めることにもなった。日本の自動車メーカーは同時に、緊急避難的なリストラだけでなく、省燃費のエンジンや環境対策技術、基幹部品の開発も工場生産システムのフレキシブル化など、戦略的な投資にも資源配分を考慮した戦略行動を定着させていった。

1990年代後半になると、リストラの進行と歩調を合わせるように日本の自動車メーカーの海外事業から高い収益性を上げるようになってくる。かつての海外工場は、重い設備投資がかかるだけでなく、生産、調達、そして開発に至るまで日本本社の支援を仰ぎ、そのため莫大なコストがかかっている。しかし海外工場の現地化が進むにつれて現地工場が利益を上げ、そりまでの輸出で稼いた利益を現地工場につぎ込む段階から、現地生産車が海外市場で稼ぎ、為替の変動に左右されずに確実に利益が出せる体制に移行してきたのであった。

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