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2011年10月

2011年10月30日 (日)

あるIR担当者の雑感(53)~個人投資家施策のセミナー

東京株式懇話会という上場会社の株式事務や会社法の担当者の団体のセミナーに行ってきました。テーマは『個人株主対策の現状と今後の検討課題について』で新日鉄の担当の方が講師になっての報告を聞きました。

2005年ころ、鉄鋼業界はミッタルという風雲児が積極的に買収を仕掛け、業界再編の動きが活発化しました。当時、世界第2位のアルセロールがミッタルに買収され、日本の鉄鋼メーカーも狙われるのではないか、という話が現実味をもって語られる状況ではありました。当時の日本は長期低迷の真っ最中で、各企業や金融機関が持ち合いで保有していた株式を持ち続ける余裕がなくなってきて、そういう株式が市場に出回り、日本企業の割安感が高まっていました。他方、政府の規制緩和策により三角合併による買収が可能となり、企業の危機感は高かった時です。新日鉄は、そのころから、個人株主対策を積極的に行い始めました。ちょうどのその時、NHKで三上社長(当時)が率先して株主と語り合おうとする取り組みが紹介されたのを覚えています。その時の当事者の話が聞けるので、興味を持って出かけました。

その時まで、新日鉄は個人株主に対して特に何かするということは、何もしていなかったそうです。そのため、個人株主施策を始めるといっても、何もデータがないので具体策をたてられない。個人株主に対して何を求めるのかを限定できない、だからこそ有効性に対する不安があったそうです。最初は株主名簿の分析から始めたそうです。といっても株主名簿からは住所、氏名と持株数程度しか分らず、IR担当役員の熱意でとにかくスタートしたらしいです。当時の新日鉄は個人株主施策の他にも、取引先持株会を新たに始めたり、鉄鋼会社どうしの株式の持ち合いを始めたり、JPモルガンから高額のコンサルタントを招いたり、と買収防衛にやっきになっていたはずです。そんな時、当の担当者がこんなことやっていて効果があるのか、という社内の声があったとか言われると、外側から見るほど会社に危機感はなかったのだろうか、と不思議に思いました。想像するに、効果があるかどうかは分からないが、とにかくできるものは行うくらいの危機感というのか、切迫感を当の最前線にいる担当者は感じなかったのか。

そして、実際に新日鉄が行った施策は、製鉄所見学会、経営概況説明会、新規株主や買増株主への礼状、カレンダーの送付、株主通信の強化などだという。製鉄所見学会は希望者が多く、抽選であたるのは希望者の1割くらいだそうだ。参加した株主には好評で、アンケート結果にも反映される。工場見学が一種のブームにあるし、広い製鉄所の中をバスで移動し、高炉周辺パイプの折り重なる様や真っ赤な鋼鉄の塊が流れ出て板状に成形されていく様を実際に見ると、すごい迫力だろうから、見学者には好評だろうし、会社に強烈にアピールできると思います。担当者としても、バスに株主に同乗して、案内などしていれば、互いに親近感が湧いてくるし、達成感もあると思います。この効果として、担当者だけでなく、製鉄所の現場や役員も含めて、社内に株主の存在が強く意識されるようになったというのは、正直なところだと思います。製鉄所見学会をはじめとしたイベントでアンケートを行い、そこでデータを集めて、少しずつ株主の顔が見えるようになってきたそうです。

個人的には、それらの施策を毎年行っているのは評価すべきことで、担当者をはじめとした関係者の苦労には頭が下がりますが。例えば製鉄所見学会をそれほど苦労して行ったはいいけれど、それだけで終わらせて勿体ないと、感じてしまったのです。例えば、製鉄所見学会の参加者に対して、アフター・フォローをなぜ行わないのか。参加者に礼状を送るだけで、全然違うだろう。礼状でなくても、メールでもいい。参加者を事後的に再度集まってもらって製鉄所の印象を語り合う会のようなものを開いてもいい。なぜ印象を定着させないのか。また、それぞれの施策が同じ年に始まっているのも気になります。その後、新たなイベントや施策が追加されていないのではないか。各イベントの後でアンケートを行い、意見を徴収し、株主の顔も見えてきたというのなら、そのデータを基に新たな試みが加わって充実度を高める。情報の施策へのフィードバックが為されているのか。2005年から始められているとして5年続けていれば、イベントもルーティン化するはずです。それでいいのかという疑問があります。そして、最も気になるのが、イベント等の施策や株主通信や新規株主への礼状といった個々の施策がそれぞれ行われているのは素晴らしいことなのですが、何かそれぞれが単発的に行われていて、個々の施策が有機的に連繋して、総合的な個人株主への姿勢とか防衛策となっていないように見えるのです。講師となったのが総務部の方で全体を取りまとめる役員のような人ではないから、かもしれませんが。しかし、ある程度の年齢の人で経験を積んだ人であると思うので、しかも株主に対して会社のことを説明している人が、全体(経営)への目配りが感じられないのは淋しい思いがしました。以前に、株懇の集まりの中でも、個人株主に対しては多くの会社の担当者がポリシーは分らないと言い、コストや効果測定ということばかりを話題にし、ホームページに出されている建前とは別に、実は個人株主が嫌いなのではないか、と思われる中で、新日鉄の場合は、実行しているのは立派です。

セミナーでは触れられませんでしたが、そこには経営者のリーダーシップがあるのではないかと思います。それらを含めて参考になったセミナーでした。

小林英夫「日中戦争 殲滅戦から消耗戦へ」(5)

蒋介石はかなり早い段階から消耗戦的な戦略を、強力な軍事力と産業力を有する日本と戦うためには、中国は道徳的優位性で勝負する以外に方法がないと考えていたようだ。盧溝橋事件から1か月後、日本への対応策を述べているが、それはつぎの五つに集約できるものであった。

第一     持久消耗戦

第二     防衛を中心とする。敵が来たら殲滅する

第三     後退せず陣地を固守する

第四     十分に民力と物力を利用する

第五     工事や人員を隠蔽し、戦車壕や防毒方法等を活用する

ここで蒋介石は、「持久戦」という発想をはっきり打ち出し、そこに中国の勝利への光明を見出している。これほど早い時期から対日戦略を明確持っていたことに、驚かざるを得ない。そして、抗戦の決意と勝利の確信の理由として次の三点をあげる。

第一、抵抗を通じて敵の兵力を内地に吸収し消耗する戦略を行う。日本が四川省まで侵略するには三年間以上の時間が必要だが、日本内部の状況はこうした長期間の用兵を許さない

第二、日本は国際的に多くの敵を作っており、持久できる条件が少ない。これまでの中国の抗戦は国際形勢をも転換させる役割を果たした。今後も抗戦を続ければ、各国は連合戦線を形成して中国を支援し、日本を孤立に導くに違いない。

第三、中国は国土が広く奥行が深く、民衆の抵抗意識は強い。とくに内陸の抗戦意識は強い。これらを基盤に政府、党と三民主義が続くかぎり、抗戦を続けていくことが可能である。

蒋介石の戦略の根底には、日本人と中国人についての彼ならではの分析があった。両国の国民性をも考慮したうえで導かれた戦略であったといえる。彼は、日本軍が規律を守ることに優れ、研究心が旺盛で、命令完遂能力が高いという長所を持つ反面、視野が狭く、国際情勢に疎く、長期持久戦には弱いという弱点を持っていることを指摘している。一方の中国軍は、広い視野と長期的展望をもって持久戦を戦うことには優れているが、戦闘心は旺盛でなく、研究心が足りないとしている。そして、日本軍の長所は兵士や下士官クラスにおいて発揮されやすいものであり、彼らはよく訓練されて優秀だが、士官以上の将校レベルになると、逆に視野の狭さや国際情勢の疎さといった短所が目立って稚拙な作戦を立案しがちであることを喝破していた。こうした日本軍の特質は、局所が単純な短期決戦向きといえるだろう。一方で、中国軍は対照的に指揮官レベルの人間は国際経験も豊富で視野も広いが、兵や下士官は資質が低く、訓練が行き届いていないことも承知していた。これは、中国軍にとっては戦局が長期化、複雑化するほど有利であるということにほかならない。戦争に勝利するためには、敵の長所を殺し、味方の長所を生かさなくてはならない。そうしたことまでも見越したうえで、彼は日本軍を消耗戦に引きずり込む戦略を打ち立てたのであった。

蒋介石の日本人に対する卓越した観察眼は、青年時代の日本への留学経験によって養われたものだった。そこでの留学体験と実習入隊を通じて、兵卒や下士官を規律正しく教育していることこそが、日本軍の強さの秘密であると総括した。いわば下士官教育の徹底が、日本軍の戦闘力の源泉となっていると考えたのである。しかし、彼は同時に上官の部下に対するいじめが、兵営内でしばしば行われるのを見ている。強制的な支配によってもたらされる規律は、短期的には忍耐力の範囲内で持ちこたえられるだろうが、それが長期に及べば必ずや破綻し、長所が災いに転ずるに違いないからである。蒋介石の日本理解は中国と日本の地政学的特色を比較することでいっそう明確になっていく。中国のように広い国土と、長年にわたる異民族との戦争の経験は、必然的に、広い情勢と綿密な情報の収集、それらにもとづいた外交を得意とする軍をつくりだす。中国における戦いでは、さまざまな勢力との合従連衡の成否が戦局を決定し、個々の兵隊や下士官よりも指揮官の情勢判断が、戦況に大きな影響を与えることとなるのである。これに対し、中国とは比較にならない狭い国土とか持たず、兵站の必要もないほどの狭小な地域での戦闘しか経験してこなかったのが日本軍だった。その戦いにおいては、指揮官の総合的な判断力よりも、個々の兵や下士官、とりわけ下士官の優秀さが戦局を決定してきた。このことも、蒋介石は留学経験を通じて熟知していたのだった。

思えば蒋介石が喝破した両国の長所と短所は、なによりも日中戦争当時だけに限られたことでなく、現在までも続く両国民の特徴となっている。一例を企業活動にとってみよう。日本企業の特徴はなんといっても、従業員の優秀さにある。彼らはよく訓練され、研究熱心で、共同作業に長じ、目標達成能力が高い。与えられた課題は確実にこなし、さらにその先まで読んで改善や改良を提案する。そして、そのような従業員たちを、係長・課長クラスの中間管理職がうまくまとめあげている。軍にあてはめれば下士官から準将校に該当する彼らの能力は、たしかに世界に冠たるものがある。彼らが戦後、軍事力から産業力にシフトして展開された日本の戦いを根底から支えたのである。しかし、その上の社長や取締役の経営者レベルになると、必ずしも優秀な人材が揃っているとは限らない。少なくとも平均値を他国と比較すれば、確実にその点数は劣っているだろう。総体的に個性ある経営者が少なく、独創性に優れ、柔軟な思考で状況に応じたユニークな戦略を展開できるような経営者は数えるほどである。まさに日中戦争期の軍人社会と変わらぬビジネス社会が継続しているのである。こうした弱点は右肩上がりの好調期には表面化しないが、ひとたび右肩下がりの不況期になるとたちどころに欠陥を露呈し、企業を危機へと追い込むのである。この日中両国の特徴は、外交にも一脈通ずものがある。狭い地域の殲滅戦略型の戦いであれば、外交が作用する余地はすこぶる小さい。しかし、広大な地域における、しかも異民族がいの混じる国際戦ともなれば、各国間との駆け引きの出来いかんが勝敗を決定づけることになる。成功のためには自国の基準だけで事を運んではならず、他国との文化の相違を認め、それを尊重しつつ柔軟な発想で相手と交渉する必要がある。そして決定的なポイントとなるのが、どの線で妥協するかを見極める総合的な判断力である。長い歴の中で、こうした外交戦を繰り返し、国民的文化といえるレベルにまで仕上げた中国と、そうした経験をついぞ持たずに来た日本では、国家の営みのなかに占めるその重みにも、力量にも、大きく差があるあるのは当然とも言える。これからの日本の将来像を考える上でも、このことは十分に意識しておくべきだろう。

一方、日本の軍事・産業力の特徴は、日中戦争を契機に急速に強化されたところにあった。国民総動員体制の進行である。38年5月中国派遣軍が総力を挙げて徐州占領作戦を展開したが、中国側に決定打を与えられないまま、戦線はさらに拡大していき、強大な一撃を与えれば中国は容易に屈服する、との希望的観測は完全に潰えていく。蒋介石を重慶に逃したことにより日本がめざした短期決戦は絶望的となり、以後は蒋介石の思惑通り、未経験の消耗戦略戦争へとはまり込んでいくのである。日中戦争の第一期の終わりとは、日本の殲滅戦略の終焉に他ならなかった。

2011年10月28日 (金)

小林英夫「日中戦争 殲滅戦から消耗戦へ」(4)

第2章 破綻した戦略

戦線の拡大は急で華北の拠点を次々と制圧していった。この地方は大半が地方軍閥軍の寄せ集めだったため、強大な日本軍の軍事力の前に後退を続けた。軍事力を主体とする日本の殲滅戦略は成功を収めたかに見えた。しかし、8月中旬からの上海を中心とした戦闘が、日本に大きな誤算をもたらした。上海には中国中央軍の精鋭が駐留し、日本軍は苦戦を強いられる。しかし追加増援部隊をもって攻撃を継続し、防衛線は崩れる。しかし、その後日本軍が首都南京の攻略に向かうと蒋介石指導部は南京を脱出し、遠く四川省の重慶まで遷都して抗戦続行の意志を宣言する。長期消耗戦に引きずり込もうという戦略に沿った行動であった。こうして戦線は華北にとどまらず華中に拡大していき、正確に言えば華中が主戦場となっていくのである。

短期で決着する殲滅戦の遂行という意味では、日本にとってこれが致命傷となったといえる。つまり、上海地域には外国勢力と結びついた、その意味では中国の中で最も日和見主義的な、最も動揺的な勢力が集中していた。彼らはそれ故、最も日本側に取り込まれやすい勢力といえた。にもかかわらず日本は、ここを主戦場にしただけでなく、彼らの基盤を徹底的に破壊したことで彼らを蒋介石側に追いやり、蒋介石の消耗戦略による徹底抗戦に厚みを与えることとなったのである。

このような日中戦争の初期に発生したのが、南京事件である。日中戦争をハードパワーとソフトパワーの相克としてみるならば、この事件は彼我のソフトパワーに決定的な差をもたらすものであった。中国人兵士のみならず一般市民までが大量に虐殺されたこの事件は、日本の軍隊がいかに残虐であるかを国際社会で証明するに十分な材料を提供し、日本のソフトパワーを著しく減退させるとともに、中国のそれを大きく増大させたのである。

戦略の次元でみれば、この事件の背景には、日中両軍の根本的な戦略思想の相違が横たわっている。上海攻略から息つく間もなく南京攻略を企図した日本軍中央と出先の指揮官たちは、殲滅戦略戦争的な視点で兵を動かした。南京が陥落すれば国民政府は降伏すると確信していた。その性急な用兵が、将兵たちが暴徒と化す原因になった。対するに中国側は、消耗戦略戦争的な視点でこれに応じた。徹底抗戦による殲滅を避け、南京から分散遷都して後退しながら、空間を時間に替えて軍事力を鍛錬・再編していく戦法を採用したのである。これらの結果、無防備な市民に膨大な数の犠牲者が出た。南京事件は、二つの戦略がもっとも不幸な形で遭遇した帰結といえるかもしれない。

2011年10月26日 (水)

小林英夫「日中戦争 殲滅戦から消耗戦へ」(3)

第1章 開戦への歩み

1931年の満州事変に関して留意すべきことが三つある。一つは、満州事変は日本にとって、英米などの峡谷の事前諒解なくして大規模な領土拡張戦争を開始した最初のケースだということである。近代以降の日本は日清・日露戦争から第一次世界大戦に至るまで、戦争開始前に英米などの国際的承認を取り付けてから作戦を開始していた。ところが、満州事変ではそうした手続きを無視したのである。そのため諸外国との間に軋轢が生ずるのだが、関東軍はそれを強引に押し切り、日本政府もまた関東軍の行動を事実上黙認した。この成功は、軍の中外交軽視の風潮を作り出すことになり、ひいては日本の外交力衰退を招く結果となった。したがって外交力を持った敵にはその弱点を徹底的に衝かれることとなっていく。二つ目は、関東軍と比較して奉天軍閥の軍事力は圧倒的だったにもかかわらず、関東軍が短期間に満州を制圧できたことである。蒋介石率いる中国中央軍と比較しても遜色のない奉天軍をわずかな兵力で打ち破ったこの成功は、「寡よく衆を制する」という譬えに似せて、作戦を巧みに展開すれば数倍あるいは数十倍の中国軍でも撃破できるという根拠のない確信を生むこととなる。のちの日中戦争では日本軍は自軍の数十倍の、しかも会戦のたびごとに近代化され洗練されていく中国中央軍と対峙することになるが、その際もこの満州事変における成功を絶対視したため、手痛い敗北を喫することとなるのである。三つ目は、満州国において関東軍が、これまで朝鮮や台湾で行ってきた総督による直接軍政という統治形態を放棄し、実態はともかくとして溥儀を湿性に据えた独立国という形態をとったことである。満州事変が起こると奉天軍閥傘下の領将が張学良のもとを去り関東軍側加担するものが現れた。彼らの協力があって満州国はスタートできたわけである。しかし、彼らが協力的だった理由は、日露戦争から満州で培ってきた日本軍と中国人指導者との深い交流にあったのだ。にもかかわらず日本軍は、この満州での経験を絶対化して中国人をいつでも利用できると信じ、華北・華中でも同様の政権ができると思いこんだ。この確信は、日中戦争で厳しいしっぺ返しにあうことになる。満州事変から満州国の建設までのプロセスを見ればたしかに、中国はすべて関東軍の意のままにできるかにも思えた。しかし、これらの成功体験が過信を生み、その後、大きな誤算となって関東軍の前途に立ちはたがって来る。

満州事変は満州国の成立でひとまず終結する。それからしばらくの間は日中関係に小康状態が現れる。蒋介石は中国共産党との戦いに忙殺され、対日摩擦を回避するため関東軍の要求を甘受していたためである。しかし、1935年国民政府は幣制改革を実行し、軍閥や外国銀行の通貨の流通を禁止し、国民政府が定めた法幣を正式の通貨として流通させるという改革である。これには英米の支援があったが、中国の政治経済の統一を急速に推し進めることができた。これにより外貨は閉め出されることとなり、日本軍の華北への進出は一頓挫を余儀なくされる。それでも、日本は華北進出に執着し露骨な分離工作を続けるが、当地の実力者は曖昧な態度を取り続け、決して日本に積極的に協力することはなかった。このことは表面的に両国を覆っていた友好ムードに水を差し、中国では次第に民衆レベルでの抗日感情の高まりを見せ始める。

1937年盧溝橋事件により両国は戦闘状態に入る。

蒋介石は、開戦直後の8月21日に「中ソ相互不可侵条約」を締結し、また英米各国大使に外交戦を展開することを指示した。日本軍の主流をなす殲滅戦略構想に対して、彼が当初から消耗戦略思想で挑もうとしていた決意がうかがわれる。それは、外交力から文化的な厚みまでを駆使して国際的な支持を集めて、建軍途上の軍事力の整備に時間を稼ぎ、武力一辺倒の日本を時間をかけて孤立に追い込もうというスケールの大きな発想だったと思われる。日中の戦略の相違は、初発の段階からすでに現われていたのである。

小林英夫「日中戦争 殲滅戦から消耗戦へ」(2)

序章 殲滅戦争と消耗戦層

殲滅戦力戦争と消耗戦略戦争という概念を日本の近代戦争史当てはめてみると、日本は絶えず殲滅戦略戦争を繰り返し、消耗戦略戦争の経験が極めて乏しかったことに気づく。近代最初の対外戦争である日清戦争は、日本軍と清国軍閥軍との主力どうしの衝突による短期殲滅戦争だった。10年後の日露戦争も、陸にあっては遠く満州の平原でロシア軍を迎撃してこれを撃滅し、海にあってはバルチック艦隊を補足殲滅する殲滅戦略戦争であった。世界の趨勢を見れば第一次世界大戦が殲滅戦略戦争から消耗戦略戦争への転換点だったと言われるが、そのとき日本は極東の片隅にあって、本格的な戦争には関わることなく終わっている。つまりは本場の消耗戦略戦争を経験せずに過ごしてしまったのである。満州事変にしても殲滅戦略戦争の典型とも言えるものであった。こうして近代の日本軍は殲滅戦略戦争のみを繰り返し。消耗戦略戦争に関しては未体験のまま、日中戦争を迎えることになる。当時、日本軍首脳の過半は、日中戦争を満州事変同様、数カ月で終了する殲滅戦略戦争と位置付けていたふしがある。しかし、殲滅戦略が唯一の戦争の手段ではないということに気づくのに、日中戦争勃発からさほどの時間を要しなかった。

だが、日本軍とて、もっと早く気付くチャンスがなかったわけではない。一つの機会は日露戦争であった。この戦争は、「消耗戦略戦争の典型」と称された第一次世界大戦の予兆を様々な意味で現していたからである。例えば陸戦では戦線が膠着・長期化し、海戦では大艦どうしの砲撃戦が展開されるなど第一次世界大戦の戦闘の先駆けのようなものが既に現われていた。さらに大きな意味を持つのは、国家総動員体制が不完全ながら準備され、産業や思想の統制と動員が重視されたこと、戦争展開から終結まで外交交渉が大きな比重を占めるようになったことである。「国家総動員体制」をどう定義するかはいろいろ議論があろうが、単純に国家の総力を政争に動員する制度や仕組みと考えるなら、日露戦争は、日本の国家総力を挙げた戦争の最初の体験だったといってよい。そして。工業力が未熟ながらもそれなりに全力を傾けた日本と、革命の危機に脅かされたロシアと差が、この政争の勝敗を分けたのである。この戦争を日本軍首脳部は殲滅戦略戦争の一類型として絶対化していった。

消耗戦略戦争では、軍備や産業に裏付けられた武力よりも、政治や外交、さらには国際世論の支持を集めるための国家の文化的魅力がものを言う、殲滅戦略戦争でも、布施力のみならず政治力や外交力が必要になるが、そのウェイトは消耗戦略戦争の比ではない。作戦を決定し推進する場合でも。殲滅戦略戦争であれば軍事・産業動員を集中して武力で敵の主力を包囲戦殲滅すれば事はすむが、消耗戦略戦争となれば、戦争が長期化し泥沼化するなかで外交交渉やメディアをも活用した宣伝戦で如何に有利に和平を勝ち取るかを第一に考慮した作戦を考えなければならない。しかも、ただ目先の有利さを求めるのではなく、世界のなかで自国の位置づけと役割、そして具体的な国家の将来像をふまえた戦争終結のあり方を追求しなければならない。その課題実現のためには何を取、何を捨てるのかを見極め、どのような手段と方法を選択すべきかを厳しく計算しなくてはならないのである。

しかし、日本の政治世界にも軍の世界にも、そうした長期的展望を持った消耗戦略型指導者はついぞ現われなかった。

その理由は、日本が置かれていた地理的・歴史的特性に由来する。明治以降の日本の近代とは、絶えずその時の超大国と連合し、日の庇護の下で世界情勢の変化も利用しながらアジアで国益の伸長を図るという歴史であった。したがって満州事変以前の、日清・日露戦争に始まる日本の戦争はたえず東アジアの一部で局地的に行われ、期間も足かけ2年、ロシア革命直後のシベリア出兵でも4年と短期間で終了していた。講和も超大国の調停を得て、その塩飽の範囲内で行われた。つまり、日本は、独力で長期間にわたって戦うという準備も経験もついぞ持たないまま、日中戦争を迎えたのであった。

たしかに日中戦争は、1937年から45年までの8年間も戦いが継続されたという意味では、まぎれもなく長期戦である。しかしその内実は、日本が鮮明戦略戦争を意図したにもかかわらず、国民政府主席の蒋介石の巧みな戦略によってそれが頓挫し、不本意ながら長期の消耗戦略戦争に引きずり込まれていったのであった。

考えてみれば、外交などを駆使した長期的・大局的な国家政略は英米など超大国に委ね、みずからはその僕として短期的・局所的な勝利の追求を国策とする明治以来のこのような日本の体質は、かたちを変えて戦後も立派に引き継がれている。ハードパワーの両翼のうち軍事という翼はもぎ取られたものの、もう片方の産業という一翼を異様に突出させて、超大国アメリカの僕としてこれに依存しつつ、自国の経済発展を追求したのである。これは手段こそ変わってはいるものの、殲滅戦略戦争の再現にほかなになかった。

21世紀に入ると、状況は大きく変化してきている。悠久の歴史に培われた独自の外交力、文化力を磨き続けて世界に冠たるソフトパワー大国となっただけでなく、現在は軍事、産業等のハードパワーも急速に強化している中国の台頭である。近代アジア史上ではじめて、ソフト、ハードの両パワーを備えた超大国が出現する可能性が高くなってきたのである。これまで、アメリカという超大国とつながってアジアでの覇権を追求してきた日本は今、アジア自体の中に超大国が生まれた時に、これとどう付き合うかという課題を突き付けられている。大きな路線選択を迫られているという意味では、現在の日本は百年以上前の日清戦争前夜と同様の状況にあると言っても過言ではない。今後、我々はどう生きるべきかを考える前提としても、70年前の日本が日中戦争を通じて経験した殲滅戦略戦争の破綻と、消耗戦略戦争と化したこの戦争の本質を見ていくことの意義は大きい。

2011年10月25日 (火)

小林英夫「日中戦争 殲滅戦から消耗戦へ」(1)

本書は、日中戦争とは何だったのかを一般読者が的確に理解できることを目的として、二つの手がかりを活用していく。

一つ目は8年間に及ぶ戦争の経過を網羅的に見ていくのではなく、大局的に両国の戦略を比較する「視点」である。戦争とは相手のあるパワーゲームであり、自国の戦略と相手国の戦略とがぶつかり、せめぎあうなかで様相が変化して行くものである。個々の戦局はその結果として決定づけられるに過ぎない。に中戦争を理解するに当たっても、日中両国がどのような戦争観、国家観のもとに、どのような戦略を立て、それがどのような結果をもたらしたかを大づかみに把握することが肝要なのである。本書では、日中両国の戦略の質的な違いをより明確にし、この戦争の構造を正確に理解するため、殲滅戦と消耗戦という二つの概念を対比させてみていくことにしたい。一般に戦争とは、短期的な決戦を目指す殲滅戦略による戦争と、長期的な持久戦をめざす消耗戦略による戦争の二類型に分類される。そして日中戦争とは、日本殲滅戦略と、中国の消耗戦略の激突であったとみるのが本書の視点である。長期的な戦いという意味ででは総力戦と消耗戦は重なる部分が多いが、「殲滅戦」対「消耗戦」という対立軸を作ってみていくことで、この戦争の様相と、両国の勝因と敗因がよりくっきり浮かび上がってくるのではないかと考えている。

そのうえで本書では、二つの戦争の根底にある二つのパワーについてもふみこんでいきたい。殲滅戦を支える原動力は、その国の軍事力や産業力などの、いわばハードパワーである。一方、消耗戦の場合は、政治力や外交力、更には国家の文化的な魅力を含むソフトパワーによる戦いとなる。日中戦争とはも究極的にはこの二つのパワーの相克であったと、みる視点を持つことで、この戦争の本質のみならず、日中両国の現在なお変わらない国家的な性格までをも見通すことができるのではないかと考えている。

もう一つは『関東憲兵隊通信検閲月報』という資料である。

2011年10月24日 (月)

松原誠一郎「経営革命の構造」(17)

第2節 20世紀モデルを超えて

競争が縦のリードタイムの短縮に加えて横っ飛びの素早さを競うものとなったとき、資金調達パターンに加えて、20世紀型企業の組織構築パターンに重要な変更が生じた。新しい製品やサービスを数カ月や半年といった単位で開発し続けるには、開発に必要な経営資源をすべて企業内部に蓄積し、維持していくことは難しい。取引費用の考え方でいえば、外部取引費用よりも内部管理費の方がはるかに高くなってしまうからである。

目まぐるしく変化する技術と市場ニーズに応えていくには、様々な分野に亘る企業間の機動的な連携がコスト的にもリスク的にもはるかに合理的な選択になった。それぞれの企業がより専門化した独自技術に特化し、それらを瞬間的にあるいは仮想的につなげることによって素早い事業展開を行う方法である。こうした方法での企業内の資源蓄積パターンは、総合的にものからその企業独自の強さ、すなわちコア・コンピタンスを集中的に蓄積していくことが有利となる。企業の連携パターンは各自がコア・コンピタンスをもちよるネットワーク型あるいはバーチャル型といったルースなものとなった。

試行錯誤を奨励する資金調達パターンとインセンティブ・システムが整うに従って、シリコンバレーには試行錯誤を支援する人材が集積するようになった。その主要な構成は、アイデアや技術を持った企業家たちであり、次に彼らに資金を提供するばかりでなく、成功の確率を少しでも高めるためにあらゆるビジネス情報やネットワークを提供するパートナーとしてのベンチャー・キャピタル、企業の経営やマーケティング手法を提供するMBA、法的手続きを手助けする法律家たちなどであった。彼らの共通項は「多くの失敗」である。このように、シリコンバレーでは多くの試行錯誤を奨励するシステムができあがった。数多くの試行錯誤を重ねるということは、わずかな成功とそれを支える沢山の失敗を繰り返すということである。この繰り返される失敗によって個々人あるいは各企業が、その中核能力を洗練していくからである。こうした新しい競争モデルにおける失敗の必要性がシリコンバレーで「失敗はよくあること」という合言葉を生み出し、地域内での人材プールの成立につながっている。

本書でいいたかったことは、一国あるいは一企業・一個人が他を圧倒するような競争力をもつということは、必ずある種の経営革命の構造を提示した時であるということである。しかし、もっといいたかったことは、こうした革命のアイデアは必ず突出した個人の努力や失敗に基づいているということである。それらは空から降ってきたようなものではない。突出は必ず構造間のインバランスを生み出し、イノベーションがイノベーションを生むという好循環を作り出す。それは人間という優れた生き物だけができる、最も想像的で創造的な行為である。その意味で、もっと突出した個人を愛してもいいしし、そうした個人の実名の入った歴史を知らなくてはならない。そして、何よりも彼らの精神の自由を尊ばなければならない。

2011年10月23日 (日)

松原誠一郎「経営革命の構造」(16)

技術と市場のめまぐるしい変化を迅速に捉えて、誰よりも先にデファクト・スタンダードを確立するということは、不確実性の高いビジネス機会をいかに素早く把握するかということである。この新しい環境下成功するには、新しい方法論が必要となった。技術と市場が分散化して激しく変化する状況では、ニーズに十分対応するべく、合理的に計画し、体系的に実行しても、成功に繋がらないのである。単発の計画合理性によって成功するよりも、多くの試行錯誤を繰り返しながら成功の糸口を発見することの方が確率が高い。すなわち、「何が当たるか分らない世界」で成功するには、「数を打つこと」が大前提となるということである。この数の中には単なる思いつきや、いい加減な事業計画も当然ながら入ってくるだろうし、その意味ではある程度の無秩序さえ生まれるのである。しかし、そのようないい加減さを事前にはチェックできないし、また、してはいけないところが「数を打つ」仕組みの重要なポイントである。それをチェックし、淘汰するのは消費者であり競争なのである。これまでの内部蓄積あるいは株式市場ましてや銀行融資を通じた資金調達パターンでは、こうした「数を打つ」といったかたちの試行錯誤を許容することはできない。一つの会社で何が当たるかも分らない開発を無尽蔵に続けることは、資金的にも人材的にも不可能である。

短期間で新規事業あるいは新商品開発に必要な資金を集め、しかも失敗したときにリスクが低い資金調達が求められ、そのニーズに応えたのがベンチャー・キャピタルであったベンチャー・キャピタルは、単に投資をするだけでなく、才能と将来性のある事業プランを探し出し、リスクを承知で資金提供し、その成功を様々な形でサポートする。ベンチャー・キャピタルは創業に当たって、起業家の参入リスクを著しく経験する役割を果たした。ベンチ・キャピタルは起業家の才能やビジネス・プランに投資するのであって、起業家から失敗のリスクとして担保を取るようなことはないからである。このようなベンチャー・キャピタルの他にも、ナスダック、ストックオプションといった一連の資金調達やインセンティブに関する新しいツールが、80年代に整い始めた。その時期に重なるようにシリコンバレーで新しいタイプの企業勃興が起こり、90年代にかけて爆発的な新産業が創出されたのである。とくにパーソナル・コンピューターが出現し、さらにそれらをつなぐインターネットが出現すると、この一連の「数を打たせる仕組み」が順調に機能し始めた。目まぐるしく変化する技術と市場が急速に拡大し、これまでの資金調達の方法に代わる新しいシステムが有効となったためである。

こうした出発したシリコンバレーの企業は次々とナスダックに上場公開して、何倍ものキャピタルゲインをベンチャー・キャピタルにもたらした。そればかりか、株式をストックオプションとして受け取っていた創業者や従業員も、上場によって莫大な報酬を得た。重要なことは、莫大な利益が上がることではなく、この莫大な利益がアイデアをもった企業や企業群が果敢にしかも何度でも新しい事業の創立に挑戦させるインセンティブとなったことである。シリコンバレーの成功は、不確実性の高い新事業分野において、数多くの試行錯誤を実行させるモデルを完成させたことにあると言っても過言ではない。

2011年10月21日 (金)

松原誠一郎「経営革命の構造」(15)

第5章 シリコンバレー・モデルの登場

第1節 情報革命がもたらしたモデル

90年代のアメリカを牽引したのは疑いなくサンフランシスコ郊外にあるシリコンバレーに誕生した企業群である。

情報革命によって技術と市場の特性が大きな変化を遂げた。技術の視点からは、次のように要約できる。

(1)この情報革命が汎用コンピューターに始まりながらも、最終的には技術革新のテンポが著しく速い個人情報端末機器(パーソナル・コンピューターという極めて分散化したレベルでの情報処理・創造にまで突き進んでいる。

(2)こうして分散化した知識・情報が通信を通じて世界規模で繋がった。

(3)そこではあらゆるミディアム(媒介。すなわち文字、映像、音声、空間など)が融合し始めた。いわゆるマルチメディア化といえる現象である。

そして、以上の技術的特徴は指示用に全く新しい次元をもたらした。

(1)技術革新の速いテンポと分散化した情報処理・創造活動は、想像を絶するような多様で変化の激しいマーケット・ニーズを生み出した。

(2)インターネットをはじめとする物理的な時空間を超越する広大な市場あるいはビジネス・チャンスが形成された。

(3)そこでは既存の事業分野を超えた事業ドメインや過去の経験や知識を超えたアイデアが新たな事業機会をもたらしている。

こうした技術と市場の変化はこれまで信じられてきた20世紀型の競争条件、資金調達、組織構築のあり方を一変した。そしてこの変化は、それまで無関連に進化してきた幾つかのシステムを有機的に結合し、新しいビジネス・モデルを形成した。

野中郁次郎の『知識創造の経営』や『知識創造企業』といった一連の著作の中で、新たな知識とは言葉にできない知識(暗黙知)と言葉にされた知識(形式知)の相互循環作用から生まれるということが主張されている。「人間は語れることよりも多くのことを知っている」というマイケル・ポランニーの言葉通り、我々の本質的な知識の多くが単純に言葉にはしにくい暗黙知から構成されている。これを伝えることは時間と手間を要する。単純なマニュアル化よりも、優れた個人と長い時間を共有することの方が暗黙知の移転には優れた効果を発揮する。この時間関数こそ日本企業の情報共有の特徴であり、日本企業の強さであったと野中氏は主張した。終身雇用とまで言われた長期勤続や現場情報を共有・マニュアル化させるQC活動、長時間勤務もこうした日本企業独特の勤務形態は決して日本企業の後進性を物語るわけではなく、個人や組織に眠る暗黙知を重層的に共有させる手段としてきわめて有効な経営方法だったという指摘である。

アメリカ企業やアメリカの大学は日本企業の強さを徹底研究した。その膨大な研究のエッセンスがきわめて読みやすい本として形式知化され、アメリカ社会に発信された。この形式知化を受けてアメリカやヨーロッパのコンサルティング会社が、日本企業の強さをコンピュータを中心とした情報技術によって様々なパッケージに落とし込んでいった。それに伴い、優れたアイデアや時間のかかる価値共有をいち早く形式知化してそのオペレーションを情報技術にのせていくことが、競争の主戦場になったのである。さらに90年代後半になると、新たな競争の次元が付加された。製品やサービス開発の時間いわゆるタイム・トゥ・マーケットを短縮するだけでなく、他分野にわたる新製品・サービスの開発あるいは事業展開の速さを競う必要が出てきたのである。タイム・トゥ・マーケットを短くしたのは日本企業であったが、情報革命下における事業展開に新たにモデルを提示したのはアメリカ企業であった。コンピュータ技術が分散化しそれらをつなぎ合わせる技術革新が進行した結果、技術進歩が加速化されただけでなく、多様化した市場ニーズが時空間を超えて顕在化した。この多様化したマーケット・ニーズに対応するかたちで、新製品や新サービスのコンセプト開発も分散化した。開発競争は、あらかじめ標準化を決められるようなものではなく、それぞれが事実上の標準(デファクト・スタンダード)を目指して同時多発的に行われる。様々な製品を様々なニーズにぶつけ、より多くの支持を受けたもの、あるいは多くの支持や参加を募る仕組みを考えたものが市場を制覇するという競争となった。とくにこの傾向は、国民総生産に占める比率が20%前後に低下したアメリカで顕著になった。ソフトウェア開発、情報通信、金融、保険、流通、小売などサービス産業主体の経済では、事前に計画された合理性よりは、マーケット・ニーズや技術変化に事後的あるいは瞬間的に適応する能力が重要なのである。企業にとっては、一つの製品のタイム・トゥ・マーケットを短縮するだけでなく、変化する技術とマーケット・ニーズに対応するいくつもの製品を次から次に開発し続けることが、競争優位に結びつくようになった。縦のリードタイムを短縮するだけでなく、横への対応すなわち全く新しい製品、サービス・コンセプトへの転換の早さが勝敗の決定要因になった。

2011年10月19日 (水)

松原誠一郎「経営革命の構造」(14)

第2節 ニクソン・ショックと石油ショックによる主役交代

大型設備投資は時に資本の論理を越え、激しい同質的競争を加速させた。そのため、銀行を中心とした日本独特の企業集団やグループを形成し、株主の利益を抑えても投資を先行させることが必要となった・利益なき拡大を前提とした、同質的過当競争を日本中に蔓延させることになった。そのしわ寄せは1980年代後半から噴出する。

第3節 ポスト・フォーディズムとしてのカンバン方式

ニクソン・ショックに始まる円高と第一次・第二次石油ショックは戦後日本経済を揺るがす経済危機であった。しかし、この経済危機からの回復過程でもっとも意外な事実は、大方の予想とは逆に日本が豊かになったという事実である。物質的には以前にもまして豊かな社会が実現した。そして、その豊かさの内容は、さまざまな電化製品や自動車、食料品や衣料品の氾濫といったフロー型消費社会の到来であった。例えば日本の自動車メーカーのモデル数は、アメリカやドイツの三倍近い数字になった。こうした変化は60年代の高度経済成長期に豊かになった国民所得水準が70年代以降はより個性化・多様化した商品を求めた結果ということができる。しかし、経営者の視点からすれば、この変化は所得水準上昇の結果ではなく、それを的確に捉えた企業戦略の結果である。上昇した所得をめぐって、多くの日本企業が消費者の選択肢を広げ、更なる購買行動へと誘導するような製品差別化戦略と新型モデルの導入競争を展開した結果に他ならない。

日本の自動車や電気機械の競争力を決定づけたのは、多品種を少量生産してもコストアップを生じないという画期的組織革新である。この革新の中核に位置するのがカンバン生産方式とそれを構成する系列生産グループであった。フォードが20世紀の消費社会を変えたのは、「大量生産・大量販売」という新しいビジネス・モデルを確立したからである。フォードに取って代わったGMも、フルラインという多車種生産モデルを提唱したが、一車種については十分に規模の経済が達成される台数を生産していた。

日本の自動車メーカーはアメリカの大量生産とは比較にならないほどの少量多品種生産を産業化の初期から強いられた。この市場規模と多様な車種を要求する日本市場の特性が、日本における下請け生産の進展を促進した。資金的にも技術的にも未発達であった日本の自動車メーカーは、数万点にも上る部品をはじめから内製化する資金も技術力もなかった。したがって、部品供給を外部メーカーに大きく依存した。もし、資金的にも技術的にもアメリカのように内製化が進んだかもしれない。日本の下請け生産は、中小企業を温存する二重構造あるいは品質管理不徹底の温床ということで、60年代までは日本の後進性と考えられていた。しかし、石油ショック以降、この後進性は「高品質な多品種少量生産を可能にするシステム」にパラダイム・チェンジされたのである。そのイノベーターはトヨタ生産方式の生みの親である大野耐一である。

あらゆるムダを排除するというトヨタ生産システムには日本の柱がある。「ジャスト・イン・タイム」し「自働化」である。「ジャスト・イン・タイム」とは、一台の自動車を流れ作業の中で組み立ててゆく過程で、組み付けに必要な部品が、必要なだけ、必要な時に、生産ラインのわきに到着するということである。「自働化」とは、狭義には「自動停止装置つきの機械」であり、異常があれば現場作業者が自主的判断で機械を止めるということである。しかし、広義には、生産ラインにおける問題を顕在化し、品質を生産ラインに作り込んでいくという、全従業員を巻き込んだ品質改善運動のことであった。ジャスト・イン・タイム方式は当然のことながら製品組立企業と部品供給業者の密接な協力関係を前提とする。部品が必要な時に、必要なだけ、必要な所に届くには。部品納入業者との情報や品質意識の共有が必要不可欠である。これが後に世界中の自動車会社が模倣することとなった系列生産システムを必然化した。日本という特殊性の中でやむなく展開してきた下請システムが、70年代後半の市場ニーズの多様化と低コストの実現という二律背反状況で極めて効率的なシステムとして花開いた。これは大野がフォード以来常識となっていた既存の生産システムに、「脱常識」としてチャレンジし続けた結果である。彼の「脱常識」は、従来の「前工程が後工程へものを供給する」という生産の流れを、「後工程が前工程に、必要なものを必要な時、必要なだけ引き取りに行く」と考える逆発想から生まれた。「アメリカ式の量産方法をいたずらに真似ていたのでは危険であることを、私どもは一貫して念頭に置いてきた。多品種少量で安く作る、これは日本ひとでなければ開発できないことではないか」、フォードによって確立されたアメリカン・パラダイムを超えるために大野は必死になって考え出したのである。

ジャスト・イン・タイム方式大量生産方式を以下の三点において凌駕する経営イノベーションだった。

(1)多品種少量生産

フォードが単一車種に固執したのは、コストを下げるためであった。自動車生産において日本のような小さなマーケットでアメリカの三倍のモデル数を生産するなどということは、問題外の発想であった。しかし、部品在庫をアッセンブラーを持たないジャスト・イン・タイム生産方式は、市場変動幅をゼロ在庫管理と多品種の一ラインへの混入などによって平準化し、コスト上昇を最小化しながら多品種生産を可能にした。これは、20世紀前半を支配してきた規模の経済に基づく対利用生産パラダイムを根底から覆す新発想である。

(2)開発リードタイムの圧縮

多品種少量生産を可能にしたジャスト・イン・タイム方式は、次第にもう一つの特徴を明らかにし始めた。新製品開発時間を短縮できる能力である。国内市場を拡大する一方で海外市場に急速に浸透した開発期間短縮の最大の要因は、組織内と組織間における経営革新に基づいていた。組織内の革新では、アメリカで高度に発達した職能別組織に風穴を開けた職能横断的な研究開発チームの編成があげられる。研究開発から製造、販売、マーケティングなど複数職能を一つの新商品開発チームに編成して、市場や生産・販売プロセスのニーズを製品設計段階から絶え間なくフィードバックする仕組みである。組織間の革新としては、前述の新商品開発チームに設計段階から部品供給業者を参加させたり、部品性能のスペックだけを部品業者に渡して部品開発を行うことで、製品開発・製造プロセスを大幅にスピードアップしたことである。この組織間のイノベーションに関しては、系列と呼ばれる下請け関係が功を奏した。かつては、下請として部品を機械的に納入するだけであったいわゆるパーツ・サプライヤーを、カンバン方式を進展させる過程で技術や納入情報ばかりでなく、新製品開発情報も共有するパートナーとして見なすようになったのである。こうした質的変化に従って下請企業は「協力会社」と呼ばれるようになる。

(3)中間組織

ジャスト・イン・タイム生産方式は、部品納入業者との密接な関係が形成されない限り実現不可能なシステムである。そして、後に系列生産として有名になったアッセンブラーとサプライヤーの関係は、アメリカのビッグ・ビジネスに代わる新しいビジネス・モデルを提供することとなる。イギリスに起こった産業革命では、16世紀から発達した市場機能を利用して生産、販売、原料購入などの単一機能に特化した企業が事業展開を行った。しかし、広大な市場と急速に成長する市場を抱えたアメリカでは、市場組織も未発達であったために、自社の内部に購買や販売という複数の機能を抱え込むことによって大量生産・大量販売を実現してきた。いわゆる、ビッグ・ビジネス・モデルである。但し、この二つの取引形態は背反するものでなく、同時共存するものである。規格品で価格志向が強い製品に

関しては市

場を通じて取引を行い、規格外で自社独自の製品あるいは競争力に密接に関係する部品については内製するという方法である。

カンバン方式がジャスト・イン・タイム方式に進化する過程で、日本企業は新たな組織モデルを提示した。それは組織の利点と市場の利点を相互に浸透させながら、安くて高品質の製品を調達・生産するモデルである。ビッグ・ビジネス型部品内製の利点は、技術や市場情報を内部的にフィードバックした競争力ある部品を安定的に生産できることであった。逆にその弱点は、市場購買に比較してコストが高くなるだけでなく、組織の肥大化を招くことである。一方、市場を通じた購買の最大の利点は、競争を通じた価格の透明性であり、業者を替えるスイッチングコストの安さである。しかし、市場購買では市況によって足元を見られたり、売り惜しみされたりするために、安定的にしかも独自性のある部品を調達することは不可能である。ジャスト・イン・タイム生産方式を行う日本の系列生産はこの二分法に新しいディメンションを付け加えた。中間組織という考え方である。日本の系列生産は、部品取引業者との関係を技術的・人的・資金的にきわめて長期的な相対関係で行うことによって、部品の共同設計や安定供給をあたかも組織内部で行っているかのようにすることを可能にした。その一方で、同一部品を複数の供給業者に発注して、納入業者間での厳しい競争を併存させてコスト上昇を最小化した。現在でいうマルチ・ベンダーの考え方である。

この優れたシステムも良いことばかりではない。在庫を持たないジャスト・イン・タイムとはいえ、部品や商品を頻繁に運ぶトラックの上に在庫は存在するわけで、街や工場周辺には交通渋滞が蔓延した。また、厳しい競争圧力は常に協力企業に転嫁され、成長の中では可能であった短期的犠牲も経済成長鈍化の中で限界に達した。その意味では、アメリカに渡ったジャスト・イン・タイム方式の方が、より平等な企業間関係に根差しており、優れて方向へ進化したという印象を受ける。

2011年10月18日 (火)

松原誠一郎「経営革命の構造」(13)

1950年9月、西山弥太郎率いる川崎製鉄が千葉に大規模な銑鋼一貫製鉄所を建設することが明らかになると、日本経済界からは一斉に非難の声が上がる。1950年の日本の鉄鋼器用の将来は不安定で、250万トン程度の粗鋼生産しかない業界に、一挙に50万トンの生産力を持つ一貫工場を、資本金6億円の川鉄が163億円を投じて建設するというのは無謀に映った。操業していない高炉も多かったことから、これは枯渇していると言われた資本の二条投資であるという批判を受けた。たしかに、ドッジライン下のデフレ経済状況や不安定な原料事情からすれば、休止中の高炉の再開あるいは圧延段階の改善から始めるのが当時の常識だった。西山はそうした古びた高炉の再生や段階的な改善などには、何の興味もなかった。カーネギーがそうだったように、規模の経済を達成するためには新しくて大型の設備が必要であることを身をもって確信していたのである。使い古しの設備ではいつまでもアメリカの後塵を拝しているだけである。

終戦後の日本鉄鋼業の存続に関する予測は、必ずしも明るいものではなかった。軍需という鉄鋼業最大の需要先を失い、鉄鉱石もない日本で本格的鉄鋼業が世界市場の中で存続し得るのかという疑問は当然のことであった。しかし、西山は鉄の将来に対して楽観的で、鉄は木材より材料として優れコストでも安くことができると、鉄鋼業の中心が軍需から民需へ移行しようとも、鉄の必要性・有益性について疑問を持たなかった。一方の、この将来有望な轍をいかに生産するかに関しても西山には明確なビジョンがあった。「日本の鉄鋼業は、これまでの欧州式の小規模生産方式から、米国式大量生産方式に切り替え、コスト・ダウンをはかり、国際競争力をつけていかなければならない。大規模生産を行うには、溶鉱炉をもつ銑鋼一貫製鉄所の建設が必要だ。」彼は敗戦の最中にあって、銑鉄や輸入屑鉄に依存する平炉メーカーから銑鋼一貫体制しかもアメリカ型の大規模製鉄メーカーへの飛躍を計画していた。戦前の川重製鉄部門は、米国からの輸入屑鉄に加えて半官の日鉄から供給される銑鉄を購入して製鋼を行う、いわゆる「単独平炉メーカー」だった。その部門でいかに優れた技術をもっていても、米国から良質のスクラップの輸入が途絶し、日鉄の銑鉄供給も質量ともに不足してくれば、単独平炉ではろくに鉄もつくれないのである。西山は優秀な技術者ゆえに原料を他社依存する単独平炉の限界を見極め、新たな事業展開の必要性を認識した。しかも敗戦後のGHQからもたらされた経済改革は、統制一色であった鉄鋼業界に競争を復活させるという大変革をもたらした。日鉄の分割民営化である。戦前の国家によって「民器用を圧迫しない」と規制されていた日鉄をGHQは八幡、富士という純民営企業に再編した。この新しい民間企業は、単独平炉会社にとって競争相手になるばかりか、高い銑鉄占有率をもって平炉企業の死命を制する企業となったことを意味した。この危機をとくに強くもったのは川重であった。

千葉に建設された侵攻時要は、単に新しい工場というだけではなく、その後の日本経済のあり方を規定するような重要な三つの革新性をもっていた。

(1)競争的寡占構造

第一の革新性は、川鉄の千葉工場建設・一貫生産参入という決断が日本鉄鋼業の産業構造を一変し、戦前にはなかった一貫メーカー6社による寡占的な競争形態を生み出したことである。日本の戦後発展を支えた産業の多くが、数社による寡占的な競争構造を有しているように、川鉄の千葉工場はその構造を鉄鋼業に持ち込んだ、川鉄が神鋼、住金の一貫化をも促したと言ってよい。寡占的競争関係は、鉄鋼業ばかりでなく日本企業の国際競争力を高めることとなった。造船、家電、自動車、コンピュータ、半導体など国際競争力のある企業では、ほとんどが数社による寡占体制であり、ヨーロッパで主流となったナショナル・チャンピオン的な一社独占を採らなかった点に大きな特徴がある。その先駆けが川鉄千葉の一貫化であった。

(2)最新鋭設備

第二の革新性は、建設しようとした千葉工場がそれ自体技術的にも戦略的にもきわめてイノベーティブな工場だったことである。川鉄千葉で実現された臨海型新鋭工場は単に高性能であっただけでなく、世界のモデルとなるようなコンパクトで効率的な工場だった。技術経営者は段階的な改善とは全く異なる、当時誰もが予想していなかった鉄鋼業の将来像を描いていた。

(3)オーバー・ボロウィング

第三の革新性は、千葉製鉄所建設の資金計画の大胆さとその調達方法である。第三の革新性とは、他人資本の活用による設備投資のすいしんである。戦後日本の設備投資は明らかに銀行からのオーバー・ボロウィングによって成り立った。自己資本が少ないという戦後事情の中で、大胆な設備投資を実現するために考えられた特殊性である。西山の計画は戦後企業の資金戦略の先駆をなすものであり、銀行のバックアップを得るために銀行からの役員派遣も受け入れた。明確に資本調達を意識したメインバンクの形成であった。

この最新技術によめ大型工場と借入金という二つの要素は、それぞれが激しい競争を呼ぶ原因となる。新しい技術革新と大型設備は大量かつ迅速な生産を可能とし、激しい販売競争とマーケットシェア争いを展開させる。一方、借入金依存度の高さは投資の損益分岐点を押し上げ、高い操業度コストぎりぎりのシェア争いを強制する。最新工場をペイさせるには、少しでも高いシェアが必要である。しかも、一貫六社は特殊製品や需要セグメントごとに棲み分けすることをせずに、全社同じような製品系列を採ったため、シェア競争はきわめて同質的かつ熾烈なものだった。鉄鋼業で先駆的に始まった設備投資の特徴は、実は他の多くの産業分野で踏襲されていった。大型の最新鋭設備投資を借入金主体で先行させ、その結果激しい同質的競争を展開するというのが戦後日本の産業発展の特色といっても過言ではない。その意味で、西山弥太郎の決断はまさに戦後日本の競争パターンを規定した決断だった。しかし、こうした決断を下したのは西山に限らない。さまざまな分野で技術と経営にビジョンをもった企業家たちが、同じような意思決定をしていったのである。

日本の戦後発展は決して偶然にもたらされたものではない。あの困難な時代にあって、自分たちの技術と未来への信念を持った新しい企業家たちの、当時の常識からはけた外れの企業行動から築かれた。それは、徐々に生産力を回復するといった従来の後進国開発モデルではなく、一挙に新技術を世界から導入して国際競争力を獲得するといった大胆なものであった。だからこそ、短期間の間にここまで国際競争力を築き得たのである。ただし、この日本の戦後パターンの構築は、当時日本の技術力や経営力が世界最高の技術導入に耐えられるだけの蓄積と能力に裏付けされていたからこそ可能だったことも忘れてはならない。

松原誠一郎「経営革命の構造」(12)

第4章 日本型組織革命の進展

第1節 高度経済成長と大型設備投資

戦後日本の経済復興あるいは高度経済成長に関する研究は数多くあり、傾斜生産方式に始まる政府の産業政策あるいはマクロ経済政策の妥当性を説くものから、年功序列賃金。終身雇用・企業内組合といった企業経営のミクロ的要因を強調するもの、あるいは戦時経済下での経済運営システムが花開いたという見方などさまざまな見解が存在する。強調しておきたいことは、戦前の経済と戦後の経済のあり方は目に見える形で大きな変化が生じていることである。輸出入のパターンで見ると、戦前の日本はGNPの約20%を輸出または輸入し、これに依存していたことを示している。しかし、戦後の日本は輸入依存は10%前後で推移しており、驚異的な経済成長は輸入依存でない形で実現した。これは資源のない日本の事情を考えた時、不思議な数字であるが、この数字にこそ戦前と戦後を分かつ重要な意味を持っている。戦後日本経済の大躍進の背景には、鉄鋼業、造船業、電気機械工業、自動車工業等の高付加価値産業の著しい発展があった。

戦後の日本経済はまさに「なたもの」づくしであった。当時の日本縮小再生産の悪循環スパイラルに突入しつつあった。この危機的状況にあって、その脱出の糸口は「資源の一点集中全面展開」というセオリー通りの手法である。八方ふさがりの状況を打破する手立ては、全方位的な戦略展開を避けて、限りある資源を「勝てそうな」あるいは「勝たねばならない」分野に重点配分することである。具体的には、米国から重油の輸入を懇請した上で、そのすべてを鉄鋼業に集中投下し、そこで増産された鋼材をすべて石炭産業に回して石炭増産はかる。増産された石炭は再び鉄鋼業に投入して鋼材増産をはかり、それをまた石炭業に振り向けるというように、この二つの基幹産業を資源の傾斜配分によって再建し、その基幹産業が軌道に乗った段階で他産業を再建していくというものである。

傾斜生産方式採用の経緯で重要なことは、こうした一部集中的な政策を採るに当たって政府がその結果生じる不平等に対して責任を取ろうとしたことである。日本政府は当初日本経済の解体を目的としていたGHQに対して、鉄鋼業再建のために重油の輸入を懇請した。この時日本政府は、鉄鋼業に重点配炭をして犠牲になる企業が出ても救済せず、一時的に国民生活水準が低下してもそれを耐え忍ぶという強い決意をGHQに表明した上で、懇請したことである。この声明のもつ大きな意味は二つある。一つは日本が縮小再生産の道を不退転の決意で遮断し、そのためには一時的にでも国民に「耐え忍ぶ」ことを強制するという強固な意志をもって日本の復興が出発したことである。もう一つは、その基幹産業に鉄鋼業が選択されたことである。

日本の戦後発展とくに重化学工業部門のそれを鉄鋼業の驚異的発展抜きで考えることはできない。傾斜生産における石炭の増産、造船の競争力、家電から自動車に至る主要輸出製品、これらすべてが日本の鉄鋼製品の優れた品質と加工性に支えられていた。優れた日本の鉄鋼業が存在しなければ、造船業も自動車工業の発展もあり得なかったと言っても過言ではない。しかも、日本の鉄鋼業の発展は、産業が如何なる困難な時代にあっても企業家の信念に満ちた行動によってダイナミックに発展し得るという興味深い事例を提供している。

戦後日本の鉄鋼業の銑鋼一貫化と大型投資を考える上で、重要な出来事は二つある。一つが日本製鉄の分割てあり、より重要な他の一つが川崎製鉄の独立と一貫化への進出である。日本製鉄は1934年に官営八幡製鉄所と有力民間企業の合同によって成立した戦前日本最大の半官半民企業であり、GHQは日本の軍事力破壊と経済民主化を進める中で、財閥及び巨大軍需会社の解体を進め、1950年4月に八幡製鉄、富士製鉄、日鉄汽船、播磨耐火煉瓦の4社に分割された。一方、この分割とほぼ並行して川崎重工は、解体を免れたにもかかわらず、造船を中心とした重工部門と製鉄を中心とした製鉄部門との分割を敢えて選択し、1950年4月に川崎製鉄を誕生させた。これによって、戦後の日本には、八幡、富士、日本鋼管、住友金属、神戸製鋼そして川崎製鉄という6社の比較的大型の鉄鋼企業が登場した。

2011年10月16日 (日)

松原誠一郎「経営革命の構造」(11)

第3節 自動車産業の組織進展─フォードとGM

20世紀に入ると自動車が登場し、鉄道以上のインパクトをアメリカの社会経済に与えた。1925年には、自動車産業は、製品の価値、原材料、付加価値、賃金の支払いのすべてにおいて全産業の第一位となり、また鉄鋼やゴム、板ガラス等の最大の市場となった。自動車産業は流通や技術進歩にも様々な影響をおよぼした。

1908年にヘンリー・フォードが完成したT型フォードは、それまで金持ちの遊び道具であった自動車を、大衆の最も便利な輸送手段に変えてしまった。フォードが作り上げたのはT型フォードという車だけではない。その後、現在に至るまでの「自動車の時代」を創始し、ベルトコンベアーによって安価で良質品を大量生産する、いわゆる「アメリカン・システム」を創出したのである。ヘンリー・フォードは1863年ミシガン州の裕福な農家に生まれ、機械いじりが好きな少年だったとう。機械工として修業した後、1891年デトロイトで内燃機関に出会う。1899年にはデトロイト自動車会社の製造部門長となったが会社はあえなく倒産。技術的にもマーケティング的にもきわめて複雑な自動車を大量に生産販売するには、さらにいくつかのイノベーションと確固たるビジネス・モデルが必要だったということが言える。その後、フォードは自動車レースの世界に身を投じ、勝利を収める。フォードはアレックス・マルコムソンの出資を受けて本人にとって3社目のフォード・モーター会社を設立

、A型が好評で利益を1年目からあげた。しかし、フォードの大衆化路線はマルコムソンと対立し、会社を買い取ることとなる。その後N型を開発、互換性部品による大量生産方式をより洗練することによって、安くて丈夫で、より性能の高いT型を1908年に開発した。一方で、ジェームズ・カズンズによって、全国各地の支店にディーラーという新しい形の販売網を築いた。そりまで車を売っていた鍛冶屋や農機具販売者や自転車のディーラーの中から信用力があり、やる気にあふれた人間を見つけ出してフォード車のみを専属に扱うディーラー組織を作り上げた。この後、フォードの効率の良い生産を達成するため、生産車種をT型一本に絞り、生産における四つの原則で効率を追求するようになった。「人間を仕事のある場所に行かせる代わりに仕事を人間のいる場所にもってくること」「人間の腰から上で仕事をすすめること」「機械であれ人間であれ無駄な動きを最小化すること」「仕事はもっとも単純化したものに絞り込まれること」これがベルトコンベアーやロールウェイによる移送式組立ラインの発想である。彼の移送式組立ラインは熟練工でも非熟練肉体労働者でみない新しいタイプの労働者を生み出した。フォードは他の誰よりもこの種の労働者の確保と欲求に対して細心の注意を払った。そのもっとも有名なものは1914年の経営革新「5ドル日給」政策と1日8時間労働である。これにより、労働者を単なる労働者ではなく「自動車の購買層」に変えた。ここにフォードが大衆自動車ばかりでなく「大衆自動車の時代」を築いた人物と言われる理由がある。こうして、フォードがT型モデルを通じて20世紀に持ち込んだビジネス・モデルが完成した。安くて高品質な耐久消費財を大量に生産し、大量に販売する。そしてそれを購買するのは、まさにそれを作り出す労働者であった。このモデルは後に「フォーディズム」とまで呼ばれるようになり、効率的物質文明の代名詞となる一方で、物質至上主義、資本家対労働者の対立、労働者の非人間化など、今日にいたる基本的問題点を人類に持ち込んだ。

フォードが技術者から出発して、「できるだけ安い単一モデルをより多くの人に」という革命的考えで車に取り組んだのに対して、GMの創始者ウィリアム・デュラントは「より多くの人々に色々な種類の車を」という発想は当時はなかなか理解しにくい考えだったが、結局現在にいたる自動車業界の主流の考えになった。

デュラントは馬車の製造会社の経営から出発し、1904年にビュイック・モーター社の経営を引き継ぎ、経営を軌道に乗せると、ジェネラル・モーターズを設立し、オールズ社、オークランド社キャデラック社と立て続けに合併により巨大自動車帝国を築き始める。その後、デュポンの財政的後援を得て、シボレー社を買収し、その後も次々と買収を行い、巨大自動車帝国を建設した。しかし、第1次世界大戦後の不況は、相次ぐ合併で寄り合い所帯になっていたGMを直撃し、巨額の在庫を抱えて倒産の危機に見舞われた。その再建を任されたのが、アルフレッド・スローンであった。

スローンはGMが外部の経済不振とともに、内部の経営管理上で大きな欠陥を抱えており、急激に買収された事業が組織としての体裁をまったくなしていないこと、各事業部あるいは子会社が過度に分権的な状態に置かれていることを問題とし、ばらばらな組織を一つの統一された企業体へと編成し直すことを提案した。そして、投資収益率(ROI)をもとに分権的組織を管理する方法を作り上げた。スローンのもう一つの革新は組織と需要予測、生産、マーケティングを合致させたことである。自動車の需要には「需要のピラミッド」が存在し、それぞれの生産とマーケティングに対する計画的戦略が必要だということを明らかにした。これに応じたのが、すべての顧客セグメントに応じた商品を取りそろえるフルライン戦略であった。これによって、GMを世界最大の自動車企業に押し上げていった。

第2次世界大戦中から戦後にかけて技術が一層進歩すると、木々用は多角化の速度をさらに進めた。戦後アメリカ経済の伸びも企業活動に大きな与えた。広大な消費市場がつくりだされ、オートメーションの普及、コンピュータの発達、プスティックや合成繊維の出現は商品の幅を広げるとともに、生産と流通の速度を増加した。アメリカの大企業は戦後の製品の多角化に伴って製品別事業部制組織を採用し、世界を席巻した。また、多角化を進めた企業群は、複雑な組織管理のために一層の厳密な経営階層を構築し、俸給によるトップからローワーに至る管理の専門家を生み出していった。まさに、アメリカの黄金の時代であった。

しかし、アメリカの苦境は、1960年代に成熟期に入った産業に兆候が始まっていた。成熟産業では事業部制の変種である持ち株会社に類似したコングロマリットが登場した。コングロマリットとは財務や法律部門など現業とかかわりのない部門からなる小さな総合本社のもとに、非関連の企業を買収して傘下におさめた大企業である。コングロマリットにおける本社は成熟段階で成長率を高めるために多角化を進めたが、その経営方針は傘下企業の財務諸表を中心に資源配分や産業分野への進出撤退を決めるものであった。ここで確約したのは数学的分析能力の高いMBA出身者であり、買収に詳しい法律家である。彼らの財務諸表中心の企業経営あるいは企業買収は、技術革新や製品改善を進めることよりも、短期的な投下資本収益率を高めることに注がれ、結果として技術蓄積を弱めるとともに産業の空洞化の一因となった。こうした経営方針は、複数事業部制を採用した巨大企業においても次第に深刻な問題となった。現場を知らずに数字的判断に頼る総合本社と、新しい技術革新のために長期的な資本投下や技能訓練を必要とする事業部の間に、大きな乖離が生まれた。また、縦割り組織としての事業部制と全社的な判断の間に矛盾が生じ始めた。各事業部のセクショナリズムが強くなって全社的統一が難しくなったのである、こうした管理上の問題を解決するために、既存の事業部に戦略レベルでのマネージャーが重ねられた多元的なマトリックス組織や既存事業部を横断的に再組織する戦略的組織形成が出現した。しかし、アメリカ企業のダイナミズムは1980年代における大企業のスリム化、ベンチャー・ビジネスによる新規事業開発という産業主体の分業体制が整うまでは基本的には回復しなかった。

2011年10月15日 (土)

松原誠一郎「経営革命の構造」(10)

第2節 多角化戦略と組織革新

第1次世界大戦においてアメリカ経済は急成長した。その中で、ビッグ・ビジネスは地理的にも製品的にも急速な拡大を遂げる。その結果、巨大企業ではさまざまな取引を内部化すると同時に、それらをいっそう効率的に運用する組織を備えるようになった。その基本戦略は三つの類型に分けることができる。第一に既存製品系列の販売拡張、第二には新しい製品の開発による新市場の開拓、第三としては国内外の遠隔地に新市場を開発すること、すなわち既存商品市場の地理的な拡大であった。この中で、アメリカ型組織変革に重要な影響を与えたのは、第二の新製品開発による多角化戦略と第三の海外進出につながった多国籍企業化である。企業が持続的な成長を遂げるためには、従来の製品の販売拡張に加えて新しい製品開発によって新市場を開拓する戦略がある。すなわち多角化戦略である。多角化戦略は、企業内に蓄積された経営資源不均衡を解決しようとした結果生じたことが、理論的にも歴史的にも明らかにされてきている。垂直統合を遂げた企業は、成長する過程で企業内に経営資源を次々と蓄積していく。しかし景気変動や競争等によって需要が変化したり、科学技術が進歩することによって、蓄積された経営資源の間に不均衡や未利用という事態が生じる。全国的に販売網を築き上げた企業が厳しい競争や景気変動に見舞われ、製品の売れ行きが鈍化するとせっかく築き上げた販売網が十分活用されなくなり、生産と販売の間に不均衡が生じる。このような未利用販売網を一層活用するために企業は新製品を開発して多角化を進める必要がある。化学工業や電機産業においては、科学技術の進歩によって同一の設備から副産物が発生したり複数商品の大量生産が可能となり、生産プロセスで未利用資源や非活用設備が蓄積される。この不均衡を解消するために製品の多角化が図られたのである。こうして同一の施設をさまざまな用途に利用して経済性を達成すること、あるいは経営資源を多重・多角的に利用して経済性を上げることを「範囲の経済」と表現する。

垂直統合を果たした集権的複数職能組織を採用したデュポンは、第一次世界大戦におけるヨーロッパの無煙火薬需要によって急成長を遂げた。デュポンは火薬を主製品としていたが、化学工業製品という技術特性とGEを見習って設立された開発部門によって早くから火薬以外の火薬以外の化学製品の多角化が模索されていた。それは、戦争終結後に火薬需要に応じて大きく膨張した経営資源をどう活用するかが経営課題だった。デュポンの本格的な多角化が始まり、もっとも友好的な多角化の事業分野として、(1)染料及び関連有機化学製品、(2)植物性油脂、(3)ペイント及びワニス製品、(4)水溶性化学製品、(5)セルロース及び綿事業に限定された。1921年、これに対応して単一の製品系列の生産から販売までの責任と権限をもつ事業部が限定された。これは、業種の異なる多数の工場、営業所、技術開発を一社内で進めるということは。想像以上に複雑な手続きをデュポンに強いることになった。各職能の評価や資源配分さらには中長期にわたる需要予測などについて、各製品によってすべて異なった評価基準や専門的知識が必要になり、本社の業務は複雑を極めた。こうした状況は大幅な赤字を計上するという結果を招いた。デュポンは、調査委員会を組織し、検討を重ねた。その結果、調査委員会は解答として事業部制という考え方を提示し、単一の製品系列の生産から販売までの責任と権限を持つ事業部を多角化した製品ごとに設置し、各事業部の集合体すべてを管理する総合本社を各事業部の上位に位置づける組織形態が提案されたのである。デュポンの組織改革において参考になるのは、過去の成功体験がいかに変化を妨げるかという事実である。この組織は、その後の大恐慌の中でも有効に機能した。このようなデュポンの戦略と組織の歴史的発展は「組織は戦略に従う」という有名な命題が導かれた。

松原誠一郎「経営革命の構造」(9)

第3章 ビッグ・ビジネスの組織革新

第1節 経営階層の出現

20世紀初頭のアメリカでは多くの巨大企業が出現した。しかし、そのすべてが成功したわけではない。アメリカに出現した大企業が原材料の購入から生産と販売までを社内に内部化したのは、規模の経済を追求するためであった。しかし、規模の経済すなわち大量に生産すればするほど単位当たりのコストが下がるという現象は、ただ規模を大きくすればうまれるというものではなかった。生産から販売に至るプロセスを設計し、そこを流れる原材料から中間製品そして最終製品にいたる材の流れを周到に計画・調整できて、はじめて規模の経済は達成される。垂直統合戦略による規模の経済性の達成は、技術の問題というよりはきわめて組織の問題であった。購買と販売を統合すれば、財務、人事、法務といった全社にわたる責任を持つ職能も必要となる。こうして、規模の経済性を追求する統合戦略は、企業が物を作るだけという単一職能組織から複数職能を備えた組織に発展することを必要とした。

デュポン社は1802年、フランスから移住したデュポン一族によって火薬製造を行うパートナーシップの企業として発足した。南北戦争の兵器需要では急成長を遂げ、その後の不況と過当競争の中でライバルの株式所有を通じて大規模化していく。1902年ユージン・デュポンが亡くなると、アルフレッド・デュポンは株式を買い取り近代的な組織に埋まり変わらせてて行った。それは製造部門を合理化し、主製品の黒色火薬、高性能火薬ダイナマイト、無煙火薬ごとの生産部門を設置し、全国に亘る販売組織を作り上げることだった。まさに垂直統合戦略であり、出来上がった組織は、各種火薬の製造と販売さらに法律や開発という職能が中央本社のもとに隼連化された複数職能別組織だった。そして1914年の第一次世界大戦により莫大な利益を上げるとともに巨大企業に成長した。

垂直統合に戦略によって企業の内部に複数の職能が統合され大量生産と大量販売が達成されると、「財の流れ」や「通量」を管理調整するトップやミドルといった階層的な秩序が必要となる。従来の小規模かつ単一の企業は一人ないし二人の企業者が数人の事務員をアシスタントにしてすべてを切り盛りできたため、経営階層の必要性に関心が払われなかった。経営階層出現の歴史を見てみると、現実の業務を行うミドル・マネジメントの確立が、全社的な経営判断を行うトップ・マネジメントよりも先行した。

このようなミドル・マネジメントは内部成長によって垂直統合を果たした創業者企業であった。これらの企業は内部の資金によって垂直統合を推進したため創業者やその一族や仲間が企業を所有すると同時に経営に責任を持ち続けた。これらの木々用は専門の俸給経営者をトップ・マネージャーとして雇う必要はなかった。しかし、生産を新しい技術革新によって合理化して巨大な全国市場あるいは海外市場を建設し、しかも原材料購買部門を後方統合する組織を効率的に運営するにはとても少人数の家族ではまかなえず、俸給によって雇用されたより多人数の専門的管理者すなわちミドル・マネージャーが必要となった。このような新しいミドル・マネージャーはビッグ・ビジネス形成過程で原材料の確保から販売に至る大量の財の流れを近代的に管理調整する様々な革新を遂行した。これらは競争の戦略に含まれる。巨大垂直統合企業数社がその市場シェアを争う近代的寡占市場では、価格は競争要因のごく一部にしかすぎない。新しい寡占市場では価格に加えて、新製品の開発、広告活動、販売員の訓練、迅速な配送、信用条件そして満足のいくアフター・サービスなどが欠かせない。これには現在の業務と財の流れを管理調整するための会計方法や統計的手法の確立が伴わなければならなかった。

一方、ミドル・マネジメントが現業に対して詳細な責任を持つようになるにしたがって、トップにある者は企業が将来に向けて発展していくように経営資源を全社的に配分するという責任を持つ必要がある。こうしたトップ・マネジメントの確立にとっては、合併によって成長した巨大企業が重要な役割を果たした。次に企業が効率的に運営されるには、有能なミドル・マネジメントを雇用し、各職能を一層強化させて市場競争に立ち向かわさせる必要があった。この段階でのトップ・マネジメントの重要な役割は現業に関わることではなく、職能部門の責任者であるミドル・マネジメントを適切に評価し、全社的な資源配分を行うことである。そのために原料から生産・販売に至る財の流れを全社的に把握し、どこに欠陥や失敗があり、その原因は何かを究明するさまざまな手法が完成された。その中心は原価計算、減価償却等を含む会計システムであり、内部取引や業績評価から発生する情報の集中統制システムであった。また、そのための指標として、デュポンのドナルド・ブラウンによって開発された投資利益率計算法がある。これにより、経営者は、職能部門に配分した投資が効果を上げているかを把握して現業部門を評価すると同時に、後に述べる多角化戦略に当たっては将来性のある分野に投資を重点配分していくことができた。ROIは財務会計、資金会計、原価会計のすべてをトップ・マネージャーが統一的に把握することを可能にした。このようなトップとミドル・マネジメントによる集権的職能別組織は長い期間をかけて1917年ごろまでには一応の確立をみた。この人材の育成制度として、ビジネススクールが整備されていく。

1880年頃までの工場は、直接生産に関わる労働者を「内部請負制」と呼ばれる方式で管理した。そこでは工場主と請負人との間で一定の生産高に関する契約が結ばれ、工場主は設備、原料、運転資本を提供し、請負人は自ら労働者を雇用して日の作業を管理した。請負人の収入は、工場主から支払われた金額と、配下の労働者に支払う分との差額である。この差額を大きくするために、請負人は労働者を管理して効率的生産を図ることになる。これは、工場主にとっては、労働者の作業を直接管理する必要がなく、管理コストや労務費を固定化しなくてもいいというメリットがあった。こうした状態を一新したのが19世紀末にアメリカ東部の機械工業や金属加工業に普及した「体系的管理」である。工程管理、原価計算、在庫管理等の手法を導入し、作業現場の反復する管理過程を定型化して、原価削減を図った。このように作業管理の内部化が起こると内部請負制は廃止されていく。テイラーの唱えた「科学的管理法」もこの流れ中に位置づけられる。

2011年10月14日 (金)

松原誠一郎「経営革命の構造」(8)

第3節 ロックフェラーとスタンダード・オイル

1839年ニューヨークの片田舎で生まれたロックフェラーは高校を卒業すると穀物商社に就職する一方、商業学校で簿記を学ぶ。そこで彼の障害変わらぬモットーである「規律、秩序、そして厳密な貸借計算」であった。そして、1858年クラーク&ロックフェラー社を設立し、灯油の輸送や委託販売を始めた。南北戦争の勃発によるブームとロックフェラーの堅実でありながら拡大を志向する商才によって大きな利益を上げた。このころ西部ペンシルバニアで油田が発見され石油関係の起業がブームとなっていた。かれらも63年製油業を始めた。65年には地元クリーブランドで最大の製油所にまでなった。そして、経営権を握ると株式会社に組織を改めスタンダード・オイルが70年に誕生した。

彼らの大規模な創業は数々の競争力をもたらした。その最大のものは「規模の経済」である。装置産業の特徴であるが、初期投資が変わらないため、通量が増えれば増えるほど、精製コストはガロン当たりで低下する。アメリカで最大の製油所であるということは、アメリカで最も安い石油精製を可能にするということである。同時に彼はこの規模の利点を生かすために同製油所内に、樽製造所や硫酸工場を併設する後方統合、さらには直接販売を行う流通チャンネルの前方統合と、いわゆる垂直統合戦略も積極的に進めていった。また、この規模は資金調達にも大きな影響を与えた・クリーブランドの銀行は、この規模を信用してロックフェラーたちの短期融資にいつでも応じた。さらに重要なことは、この規模によって鉄道に対して強い交渉力を持ちえたことであった。製油業者にとって輸送費は価格競争力を左右する重要な要因である。輸送量が大きくしかも定期的であれば、過当競争に直面していた鉄道に対して輸送費削減の強い交渉力を持つことができたのである。70年代なると、彼は規模の経済性と鉄道会社との交渉力を相乗的に利用することによって、更なる規模を達成できることに気づく。そして、他の製油業者の自分たちの傘下に入れば同じ低運賃を鉄道に適用させるといってスタンダード・オイルへの参加を強要した。そして、株式交換を利用した全国的なトラストを形成していった。そして、同産業の90%にあたる投下資本を配下に組み入れた。さらに彼は組織改革を行い、協定破りや闇取引を抑え、全国に散在する設備の合理化をあたかも中央本社がするように推進できるようになった。このトラスト協定によってロックフェラーは散在していた製油所を三か所に集約し、世界の四分の一から五分の一の精製を可能にし。1880年代には販売網拡充のための前方統合をさらに積極化した。

一方で企業のトラスト化の動きに対して消費者側は激しい反対・抗議を表明し、議会もそちらに付いた。1890年シャーマン反トラスト法が成立、独占の排除が政府の政策となった。そのため、スタンダードをはじめとしたトラストは、他の会社の株式を所有する持ち株会社制を模索し始める。しかし、反トラスト法の解釈は持ち株会社に対する規制も可能とした。このため、単一の事業会社のもとに統合された事業形態だけが、アメリカのビッグ・ビジネス形態の基本となっていく。しかし、実際的な理由からも、アメリカという広大な市場にあって合理的な製造と販売を行えるビッグ・ビジネスとなるためには、ゆるやかな連合を中心とするトラストや持ち株会社組織形態では経済的に取引費用・管理費用を削減することはできない。集権化した単一の本社が重複する取引を内部化し、それらを厳密な責任と権限に基づいてトップからミドル、ローワー・マネジメントにいたる経営階層が管理する組織が完成されてはじめて、巨大組織は持続的な成長を遂げることができるからである。ロックフェラーが率いたスタンダード・オイルも例外ではない。

2011年10月13日 (木)

松原誠一郎「経営革命の構造」(7)

第2節 製鉄王アンドルー・カーネギー

アンドルー・カーネギーとジョン・ロックフェラー。この二人は、当時最先端であった鉄道の様々なパワーを最大限に利用したハイテク人間であった。そして、彼らこそ19世紀アメリカに出現した「規模の経済」の意味をもっともよく理解したビジネス・マンであった。

貧しいスコットランド移民の一家に一員として幼くしてアメリカに渡った彼は、1853年17歳のときにペンシルバニア鉄道のピッツバーグ管区長トーマス・スコットと出会う。そこで12年間勤務し、あらゆる意味での「ビジネスとは何か」を学んだ。ペンシルバニア鉄道はエドガー・トムソン社長の下で、資産・雇用・運転資金・投下資本・支出などあらゆる指標においてアメリカで最大の企業に成長しつつあり、もっとも進んだ管理機構を持たざるを得ない企業であった。カーネギーはこのペンシルバニア鉄道がまさに大きく成長するときに入社し、複雑で巨大な企業組織の経営管理と財務戦略を眼前に学び、多くの知己縁故を得た。急成長企業にたくさんの才人が集まる。この時期のペンシルバニア鉄道にも多くの優れた才人や企業家たちが集まっていた。巨大企業の運営にとってあらゆるコストを委細漏らさず理解することが、利益を上げる原則であり、そのコストを理解した上で、最大の積荷、最高の運転本数といった規模の経済を追求することがペンシルバニア鉄道の成功の本質だった。鉄道において規模の経済性を実現するということは、多くの積荷を積んだ貨車を大量に運行することであり、そのためには、厳格な組織運営と迅速な意思決定が必要となる。カーネギーはこの原則を徹底した。

カーネギーのキャリアにとってペンシルバニア鉄道はビジネスの原則以外にも、貴重なものを学ばせた。「投資の魔術」である。1856年にカーネギーはスコットの誘いで、はじめて投資を行った。

彼は35歳までにアメリカでも有数の投資家となっていたが、投機ではなく、きちんとした投資によって利潤を上げること、効率的な組織と適切な経営があれば、企業は初期投資に十分に見合う利潤をあげられるはずであるという強い信念を実現しようとした。彼はベッセマー転炉を導入して大規模な製鉄工場を建設することを決意する。その背景には銑鉄に代わって鋼鉄が鉄道レールの主流になるのは時間の問題であり、その最大の得意先はペンシルバニア鉄道のであるという読みがあった。その意味でカーネギーの製鉄業進出は確実な計算に基づくものだった。カーネギーは新しい製鉄所を建設するに当たって、二つの原則をたてた。ひとつは、資本金は株式でなくパートナーシップで調達し、常に絶対異数を維持すること。もう一つが、鉄道で学んだ「コスト、規模そして迅速性」の原則を製鉄工場で実現することである。とくに鉄道の原則導入こそカーネギーがアメリカいや全世界にもたらした経営革命であった。カーネギーは、当時の製鉄業がイギリスの綿工業と基本的に変わらないスタイルで経営されていることに気づいていた。原料採掘から銑鉄、鋳造、錬鉄、加工、販売などの各工程がそれぞれバラバラの企業や個人によって担われ、しかもその各工程間に中間業者が存在するという状況だった。こうした形態のためにだれも正確なコストを把握していない。彼は世界最大の製鉄企業を創り上げるに当たって、あらゆるコストを把握する手法と組織を鉄道から移入した。確実なコスト計算に基づき、生産の流れに従ってよどみなく設計された世界でもっとも効率的な工場は、彼の尊敬するペンシルバニア鉄道社長の名にちなんで、エドガー・トムソン工場と名付けられた。カーネギー・スティールの成功は彼の資金力と人的ネットワークによるものだけではない。何よりも、最新鋭の巨大工場を建設し、世界でもっとも効率的な組織を構築することによっても「規模の経済」を実現したことによるものである。彼は鉄道で開発された大規模組織の運営原理というイノベーションを製造業に応用することによって、いまだかつてないほどの成功を実現したのである。

2011年10月11日 (火)

松原誠一郎「経営革命の構造」(6)

第2章 アメリカにおける経営革命

アメリカはイギリスとは、その前提条件が大きく違っていた。イギリスから独立し、未開拓の領土を拡張して多数の移民を受け入れながら急成長を遂げた。しかし、東部、南部、中西部はそれぞれ分離分断されたような状態で、一つの国家として成長を開始したというわけではなかった。その一方で、常に新たなフロンティアと新しい実験の場を提供し続けるという活力に満ちていた。そのような精神的・地域的・経済的特殊性が、それまでに存在しなかったような企業組織をアメリカに出現させることになる。ビッグ・ビジネスと呼ばれる巨大組織である。こうした組織は従来の組織に対して単に規模が大きくなったということだけでなく、それまで信じられてきた組織や経営のあり方に質的な変更をもたらした。広大で未発達の領土、しかしその一方で急速に拡大する人口とフロンティアをかかえたアメリカにおける事業展開は、イギリスでは考えられなかったような無経営のイノベーションを必要とした。アメリカに出現した企業組織の特徴をより具体的な形で述べるとすると、次のような三点に集約できる。

(1)市場メカニズムに代わる内部取引の実現

(2)その内部取引を効率的に達成するための複数機能を持った組織の完成

(3)職能別組織を流れ内部取引や経営資源を管理調整する経営階層や本社機能の出現

第1節 アメリカにおける鉄道の影響

アメリカにおける大きな変化は1815年に始まった。第一の変化は、先進工業地域としての東部(ニューヨーク、フィラデルフィア、ボストン)が経済圏として確立する一方で、ヨーロッパに対する綿花供給地としての南部が経済基盤を強固にし、これら東部・南部の興隆がより多くの移民の流入を招いて西部フロンティアのさらなる開拓を促すという構図を完成させたことであった。第二の変化はヨーロッパにおける平和の訪れである。この結果、一時停滞していたヨーロッパ経済と貿易を復活させた。アメリカ経済のダイナミックな変化を加速するヨーロッパ資本の活動が再開された。イギリスの工業製品が大量に流入すると、それとの競争やイギリスからの先端技術の伝播によって、東部諸都市は先進工業地域として、一層の進展を遂げた。また、イギリス綿工業の生産能力の急激な上昇により植えた狼のようにアメリカ南部の原綿を輸入した。この原綿需要の増大は南部での綿作展開を促進すると同時に南部への人口拡大をもたらした。一方、中西部の豊かな農産物は、その経済的価値を十分に生かせずにいた。その要因は商品輸送コストのたかさであった。従って、西部が発展を遂げるにはこの輸送コストを削減するような技術革新が必要だった。このボトルネックを解消したのが蒸気船の登場で、運河の発達にとあいまって西部の発展にとって重要な契機となった。

こうして、1815年以降三つの地域がそれぞれの市場を形成し、ゆるやかに結びつきながらアメリカの国内市場を形成し始めた。そして、さらに、これらの地域が本当に一つの市場を形成するようになったのは鉄道と電信の発達であった。確実で安価な輸送手段と迅速な情報手段は経済発展を飛躍させる最も重要な要因である。これが、アメリカにおけるビッグ・ビジネス形成の重大な前提となった。

アメリカにおける鉄道の発達は、単に国内市場の創出や企業活動の基盤形成を整備したばかりでなく、鉄道会社自身が現代企業の組織モデルを提供したことが重要である。鉄道はそれ自体がアメリカに出現した最初の現代企業なのである。また巨大鉄道の建設は株式会社制度の発展や金融機関あるいは建設事業といった周辺産業の整備をもたらした。

鉄道がそれまでの交通体系や企業組織に決定的な革新をもたらすのは1840年代以降である。技術革新が進み鉄道への関心の高まりとともに鉄道網が延長され、東部と西部を結ぶニューヨーク鉄道、ボルティモア=オハイオ鉄道、ペンシルバニア鉄道、そしてニューヨーク・セントラル鉄道という四大幹線鉄道が完成しも鉄道網の成長に伴って鉄道企業の規模も急速に拡大していった。こうした急激な鉄道網の拡大は操業費、営業費の増大をもたらすと同時に、業務を複雑化させ、鉄道企業自身に近代的な管理運営を実現するための組織的対応を強制することとなる。組織的な対応を要求する第一声は、物理的な安全を求める声として湧き上がった。

ウェスタン鉄道では旅客列車の正面衝突という大事故により、適切な管理の必要性を認識させ組織改革を行った。その結果、各管区の権限と責任が明確化され、報告義務、事業統計などの情報フローも確定された。こうして萌芽的な現代企業の組織形態をとるに至った。また、トップ、ミドルの役割分担が出来上がり、これら専任の俸給経営者からなる経営層も出現した。ウェスタン鉄道は比較的短距離の鉄道会社であったが、より巨大な長距離の幹線鉄道の機構改革は安全に加えてより現実的な要請からであった。1850年ころ、長距離の幹線鉄道は1マイル当たりの操業費が小鉄道に比べてはるかに高く、経営者は走れば走るだけ赤字になりかねない状態だったのである。巨資を投下して運営される鉄等が規模のメリットを生かせず、1マイル当たりの操業費が小鉄道よりはるかに多くかかるということは、幹線鉄道の経営危機を意味していた。各幹線鉄道は一体どこに問題があるかについて徹底究明を開始し、その結果判明したことは、この根本原因は距離の違いではなく、採用されたシステムの完成度に比例して生じたということだった。距離が長いから操業費が高いというわけではなく、巨大で複雑な運行業務を効率よく運営する内部組織の未発達が経営悪化を招いたのである。この機構改革に立ち向かい近代的な複数事業単位組織を完成し、それを管理するのに重要な制度的革新を遂行した代表的人物はペンシルバニア鉄道社長のエドガー・トムソンなどであった。彼ら鉄道経営者が行った革新の共通点は次のようなものだ。(1)責任と権限のラインと範囲を明確にしたこと、(2)実際の運行業務を行う現業部門と会社全般の経営方針を考える本社部門との分離、(3)社内情報を経営管理手段として認識すること。まさに現代に通じる組織と管理の基本的アイディアが結実したのである。また、トムソンは会計制度の発展にも大きな貢献をしている。

鉄道が必要とした資金は、それまでのものとは比較できないほど膨大であった。1850年代、アメリカの鉄道企業による資金需要とヨーロッパ資本の要求が合致し、大量の資金がアメリカに流入した。この両者のニーズに応えるため、それまでヨーロッパの為替業務を中心としていたニューヨークの輸入商社が鉄道証券の取引業務に専門化し始めた。アメリカの資本市場はこのようにしてニューヨークに集中し、ニューヨーク証券取引所が制度として定着した。この膨大な取引活動によって、今日ある金融手段や制度のほとんどすべての原型がニューヨーク証券取引所において完成されたのである。この鉄道投資を通じて完成された株式市場や金融機関も、アメリカにおける現代企業台頭の基本的条件を整備した。多くの企業がニューヨークを通じて資本や社債を調達することができるようになったのである。

2011年10月10日 (月)

松原誠一郎「経営革命の構造」(5)

第3節 産業革命期の企業家像

1780年代になると繊維産業の機械化と蒸気機関の開発が進展し、大量生産の事業をもたらすようになった。市民革命を経て豊かになった市民たちの需要と、機械を作る機械としての工作機械の進展、アークライトやクロムプトンたちによって開発。改良された自動機械、そしてそれらを相互に結び付けていく蒸気機械の発明が、相乗的に爆発的な市場を出現させた。さくに繊維工業は製鉄業や金属加工と違って、初めに大規模な投下資本を必要としないだけに、新しい事業として大きなチャンスを意味した。

例えば、1810年代1000人の従業員を擁する大紡績工場を経営していた、ジェームス・マコウネンとジョン・ケネディは徒弟から身を起こした。間後年は機械製作の修行を積み綿糸商人に雇用され、機械の知識に加えて、紡績業の知識をそこで学び2台の紡績機を手に独立した。ジョン・ケネディは機械製作を学んだ技能者で1791年に二人はパートナーシップを結び、出資者を得た。当時のケネディは、自分の親方がもとは一介の労働者であった事実に、「自分もいずれは親方になれるのではないかという勇気を与えてくれた」と述べている。中世を通じて支配的であった階級社会が市民革命を通じて崩壊しただけなく技術を利用して社会的上昇を遂げるチャンスが新たな産業の興隆とともに拡大していた。それまでの産業構造が変わり、新たな革命が始まろうとするとき、従来の精神世界の秩序崩壊は常に大きな勇気をもたらす。誰もが企業家となれる夢を持てる時代だったと言える。

彼らの事業が業績を伸ばしたのは、他社とは異なる成長戦略を採っていることも見逃してはならない。彼らが機械製造とくに紡績機械の製造・修理から事業を始めた。彼らは紡績機械を製造したり修理する傍らで、自らも紡績業に携わっていった。その過程で、彼らは番手数の多い糸、すなわち細い糸を製造する機械の製作が難しいことを実感していた。確かに、繊細な糸を自動機械で紡ぎ出すのは機械製作上、より複雑で繊細な技術を要求した。一方、紡績業者の競争は番手の低い糸すなわち太い糸ほど厳しく、高番手の糸ほど競争者が少ないことも機械修理から理解していた。従って、彼らは、ごく初期の段階から高番手の生産が行われた。彼らの競争優位は、機械製作と紡織業を兼営することによって、早い段階から利益率が高く競争の少ない高番手生産に特化したことにあった。

こうした高番手の専業化に加えて彼らの競争力を決定づけたのは、当時やっと市場に現われた全く新しいイノベーションである蒸気機関を積極的に導入したことにあった。二人はミュール機製造を行ううちに、ミュールの効率性を上げるのはいかに1台のミュールから多くの錘数を稼働させるかということに気づいた。錘数を増やすということは、人力では追いつかない労働力を前提に操業するということを意味する。しかし、そのことがすぐに蒸気機関の採用に結びついたわけではない。安定した水力が得られるのであれば、かれらは水力も同様に評価している。その点では、極めて現実的である。但し、錘数が多い機械はそれだけ複雑になり、熟練工を必要としたことが水力利用の障害となった。複雑な機械を操作できる熟練工は都市に集中しており、都市部ではもはや安定した水力を確保することが難しくなっていた。こうしたことを前提にすると、紡績業における蒸気機関の利用は彼らにとって必然的でさえあった。

以上見てきたように、初期における彼らの競争力は、情報結節点に立つ技術者としてのものであった。しかし、彼らがイギリス最大の紡績業者として名を残すのは、技術情報の背後にある産業革命の本質を素早く見抜き、それを体現したからに他ならない。1800年ごろに、彼らは大きな方針転換を図ったと考えられる。それは、少量で比較的高価な機械生産よりも、安くて大量の綿糸を大規模経営で生産することへの転換であった。有能な機械製作者であった彼らであれば、熟練を要する機械製作によって十分な利益を上げて行くことは可能であった。しかし、彼らは動力を利用した機械制工業がもたらすものは、そうした少量生産は比較にならないものだとこの段階で理解した。動力に基づく産業革命はこれまでの延長線上ではない、まったく新しいビジネス・モデルを彼らにイメージさせた。それは集中的な動力を一か所に用いて大規模経営をはかるとてつもない優位性であった。

彼らの競争力は、その後のマーケティング戦略の展開にもあったと言われる。かれらのマーケティング戦略を規定したのは、為替による信用取引と紡績業の景気変動=ビジネスサイクルであった。産業革命による近代資本主義の成立指標の一つに、ビジネス・サイクルすなわち景気循環の始まりを上げる場合がある。機械制大量生産によって過剰生産、物価下落、信用収縮といった恐慌が起こって初めて産業革命による資本主義が成立したという議論である。イギリスでは機械制工場生産が拡大するにしたがってビジネス・サイクルが発生し、1810年の恐慌を始まりに紡績業界は定期的な恐慌に見舞われるようになっていた。このビジネス・サイクルが為替利用をいっそうリスクの高いものとした。為替をロンドンの割引業者に落とさせるまでの間に、卸売業者・小売業者が倒産してしまうということがしばしば起こった。しかも、このビジネス・サイクル自身が価格差を狙った投機や投げ売りを呼び、いっそう需要の上下動を大きくした。こうした状況で安定した取引を行うには、販売業者を組織化し、不必要なリスクを抑えるとともに、当期が起こりにくい為替の条件等を整備する必要があった。彼らが採用したのは、各主要マーケットに専属の代理店を組織化し、リスクを伴わない現金取引ではある程度の手数料は認めたが、リスクはすべて代理店が負うというものであった。一手販売権を与えた少数の代理店に販売組織を絞っていくということは、彼らのような高級製品に特化した大メーカーにとっては重要な戦略であった。当時の需給バランスは崩れやすく、多くの代理店をかかえると市況によっては投げ売りに走りやすいため、価格維持が難しかった。少数の代理店であれば、価格の崩壊が始まる初期の段階で資金回収がしやすく、リスクを蔓延させることもない。ハイエンド機を量産し、しかもプライス・リーダーであり続けるためには、販売代理店のしっかりした管理が大切だったのである。

産業革命期の企業の経営形態について、19世紀に入ってイギリスは世界の工場として資本主義をリードしていく。その中心は、ロンドンのシティーであり、マンチェスターの綿工業である。とくに生産力の源はまさに動力と結びついた機械制工場生産となった綿工業であった。当時のイギリスでは企業規模を拡大するということは、一つの工場の機械化をいっそう進展させたり、購買部門や販売部門に進出するといった垂直的な統合よりも、いくつもの工場を横に保有したり一手販売業者を組織するなどといった水平的な拡大であった。垂直的な拡大すなわち何万人規模の企業家税率するには、経営組織に関する新たな改革が必要であり、それは次なる「アメリカの時代」を待たねばならなかった。

2011年10月 9日 (日)

松原誠一郎「経営革命の構造」(4)

第2節 蒸気機関の完成

自動織機は18世紀を通じて様々な発明や発見を組み合わせながら、紡糸と織布においてかなりのスピードと品質を達成した。この機械が工場制機械工業に展開していくには、これらの機械を絶え間なく動かす動力が出現する必要性があった。しかし、その動力自身もさまざまな発明や関連する産業の発達なしに実現しなかった。

当時、大規模な動力を必要とした産業は鉱山業だった。とくに石炭と鉄鉱石の発掘である。石炭は15世紀以降のヨーロッパにおける最も重要な燃料であり、イギリスでは輸出も盛んで、18世紀には国内製造業で幅広く石炭が燃料として普及し、需要が増大し、石炭採掘の生産性向上が社会的な課題となっていった。とくに鉱山業の生産性向上は、深く掘ることを可能にすることにかかっており、そのためには坑道の湧き出る水を効率的に汲み出す必要があった。大量の鉱石を持続的により深い場所で掘り続けるためには、どうしても水をくみ上げるための持続性のある動力が必要になっていた。

蒸気を用いることは早くから注目され、幾多の発明家たちによって試行錯誤が為されていった。蒸気により人工的に真空をつくり、その作用により水を吸い上げるという工夫や、ボイラーの上に蒸気を充満させるシリンダーを置き、シリンダーにピストンを取り付け、そのピストンに天秤棒のような揺棹の一方の先をつないで動力とする方向に行き、ここではシリンダーに蒸気を入れたり止めたりを人間の手で栓の開け閉めで調節していたのが、後に自動開閉のシステムが発明され、と徐々に改良が進められていった。

そこに出現したのがジェームズ・ワットだった。かれは、それまでの発明家たちが職人的な経験や思い付きで機械を改良していったのは異なり、科学的知識に基づいた理論的な発明家だった。彼は、従来の蒸気機械の欠陥を解決するところからスタートした。一度温めた蒸気を無駄にしないように、常に蒸気を蓄えて十分圧縮できる圧縮機を別に備え付け、また、ピストンの下降について自然に任せるのではなく、蒸気を双方向の運動に変えることによって強力なピストン運動を生み出した。さらに、このピストン運動を上下動から円運動にかえることによってエンジンとしての機能の効率化を進めた。そして、彼にはビジネスの才覚をもち、彼の技術を理解したパートナーを得て、幾多の試練を克服し、1769年に最初の特許を申請した。機械への注文は1775年ごろから出始め1780年代には名声も高まっていった。

回転運動は蒸気機関の用途を途方もなく増大した。ポンプとしての蒸気機関が、炭鉱産性向上をもたらし、石炭を燃料とする製鉄業の増産をもたらした。さらに、回転運動はとなった動力は製鉄・製鋼さらにはその加工の生産性向上に飛躍的上昇をもたらした。この両者の関係は革命の火が爆発的に広がっていく

2011年10月 8日 (土)

松原誠一郎「経営革命の構造」(3)

ケイの飛び杼が織布工程を著しく効率化したのに対して、紡糸工程の効率化すなわち紡ぎ車に代わる紡績機は、まず、ジョン・ワイアットとリュイス・ポールによる発明があったが、機械自身のもろさや故障の多さから、事業化には失敗した。そして、ハーグリーブスのジェニー紡績機が発明される。ハーグリーブスはブラックバーンに住む織布工兼大工だった。このころ紡績と織布の不均衡の問題はますます大きくなり、紡績業が集積していたランカシャーに住む織布工の間では、職にあぶれたり原料不足に喘いだりすることが多くなった。彼は、ワイアットとポールの機械の製作にも携わり、紡ぎ車を原理として簡単な工夫を加えたものだった。しかし、動力という限界がなければ錘を稼働させる数をいくらでも増やせると、大増産が可能になるものだった。しかし、彼も紡糸工の憎悪の対象となり、災難に遭った。

ハーグリーブスと同時期に水力紡績機を発明したのがアークライトであった。彼は、それまでの発明家と異なり、発明を一大事業にまで昇華させた。彼は、それまでの発明家たちとは違って織布工や機械工ではなく、床屋であり村を巡回する商人だったと言われている。このことを利用し、豊富な情報を手にし、元々備えていたビジネスマンとして資質により、この技術の変革期にあって、あちこちに点在する発明を利用して一つの機械にまとめ上げた。さらにいえば、それを実用化して綿工業における工業制度にまで完成させた。アークライトの水力紡績機は、手動のジェニー紡績機に比べて速いだけでなく、より細くて丈夫な糸を紡ぎ出せる点できわめて優れていたからであった。こうして織物業者たちはアークライトの糸を使うことによって、インド綿布に負けない薄く丈夫な綿織物を作ることが可能となった。これは亜麻糸を使わざるを得なかった交織布に対して、革新的な商品の国産化であった。当然のことながら、このイノベーションは既得権益者の利害を侵害した。

そして、ジェニー紡績機と水力紡績機をさらに巧みに組み合わせたクロムプトンのミュール紡績機が登場するに及んで、ジョン・ケイの飛び杼以来の紡糸と紡織生産の不均衡は解消したばかりか、逆に防止の生産性が紡織を上回るまでになった。しかも、ミュール紡績機はジェニー紡績機・水力紡績機に代替したばかりでなく、その極細の綿糸によって織布工程にも大きな影響を与え、インド労働者の熟練をしのぐ繊細な綿の国産化を可能にしたのである。

このように1790年にはミュール紡績機の出現によって、今度は織布工の数が不足するようになった。こうした状況に対処するため、過剰生産分の紡糸の輸出が論議されるようになったが、イギリスにとって輸出は他国の織物業の発達を助けるというジレンマがあった。そのため織機のさらなる改良が急務となった。再び、技術のインバランスが顕著になったのである。そして、こま要請に応えたのが、カートライトであった。彼の力織機は、横糸に落下する筬と縦糸を駆け抜ける飛び杼が交互に連続運転するというものだった。彼自身の事業は失業を恐れた周囲の織布工によって度重なる脅迫を受け破産に追い込まれるが、力織機は19世紀半ばまでには各地の工場に普及しもより大規模な動力を得ることによって、大工場を生んでいく。

このように、産業革命前後における紡績機械の発達史から引き出されるポイントは、以下の三点に集約できる。

第一に、発明が事業化や産業発展にダイレクトに結びつくことは稀で、多くの場合、新しい機械は職を奪い、雇用を減らすものとして労働者による激しい憎悪の対象となることである。インベンション、イノベーションは既存の体制を創造的にであっても破壊する。その意味で、変化を嫌う人々の必死の抵抗に直面してしまう。よほどの不屈の精神や事業の才能のない発明者たちは、革命の第一矢を放ちはするが、その返り血の中で不遇な生涯を終えるものが多い。しかし、彼らの試みや挑戦があったからこそ歴史が展開した。そのことを可能にするのは、先駆者たちの失敗や不遇があってのことである。もし、こうした先駆的なイノベーターたちを駆り立てる社会的なインセンティブや、失敗に対する社会的寛容がなければ、経済の新たに次元は生まれない。

第二に、関連する工程間の不均衡は、相互補完的にその発展を促進し合うということである。工程間のインバランスがイノベーションを誘発し、結局一つの技術体系の完成を促進することである。このことが可能となった背景には、現状を変革するような突出や逸脱を許容する社会の自由が必要である。当時のイギリスには特許制度に加えて、商人、機械工、農民が新たなことをはじめられるインセンティブと自由度が限定的とはいえ存在した。また、技術のインバランスに関する知識を共有する市場と技術の集積が存在したことも重要である。

第三に、発明が実用化されるためには、技師や承認とは別のタイプの人間、即ち企業家の出現が必要だったということである。その意味では、繊維工業の機械発明史に登場する他の多くの人物にもまして、アークライトの存在はとくに重要である。

2011年10月 7日 (金)

松原誠一郎「経営革命の構造」(2)

第1章 イギリス産業革命の技術と企業家

第1節 産業革命前後における機械の発達

ジェームズ・ワットに代表される蒸気機関に代表される動力革命こそが産業革命の本質といえるが、動力だけが出現しても革命は起こらない。動力につなぎさえすれば動き出す自動機械が先行していなければならない。そこで、現代に通じるような自動機械が出現したのが18世紀のイギリスにおいてであった。それは偶然ではなく、安くてより良い製品を望む消費者の要請に応えるために、鉄鋼生産や工作機械といった周辺機器の発達に、新たな知識を組み合わせてみようという企業家たちの試行錯誤の結果であった。

歴史上、最初に近代的な産業機械を取り入れた産業は繊維工業である。近代的工業の古典的な形態を持ち、その後の産業革命の原動力となってイギリスのみならず世界に多大な影響をあたえたのは、繊維工業であり、それこそが機械制工業のさきがけと呼ばれるのにふさわしい。

中でも産業革命の中核になったのは綿工業である。もともと、イギリスには羊毛工業が特権的な国民産業としてあり、イギリス・ウールは国の象徴であった。しかし、17世紀のインド貿易の発展により、それまでのごわごわして毛織物に代わって、インドから輸入された綿布が大流行した。輸入綿布・綿織物は急速に普及した。これに対して羊毛業者は雇用を守るという名目で外国織物の輸入禁止を議会に要求した。しかし、羊毛に比べて薄くて軽くしかも扱いの簡単な綿の魅力は、金持ちばかりでなく多くの庶民も綿製品を強く求めた。議会は毛織物業者保護のため輸入綿布の売買や所有を禁じた。

この規制は、インド綿布を模倣し、国産品を製造することが、大きなビジネスチャンスとなることを意味し、商機に敏感なものにとって綿布生産は新たなチャンスであった。その中心地はランカシャー地方であった。当時のランカシャーでは、商人たちが原料の麻糸や原綿を購入し綿布工に貸し付けることによって商業生産を行った。いわゆる問屋制家内工業である。そのため、生産は小規模なものにとどまっていた。

そこに登場したのが、ジョン・ケイの飛び杼だった。ケイは織物業務にあたって、ある一定以上の幅の布を織りあげるには二人以上の労働者が必要であり、そのことが生産性を下げていることに気が付いた。ある一定の幅以上にかると横糸につないだ杼を、だれかもう一人が他の端に移す必要があったからである。一人の労働者ではどうしても織り幅を腕の長さに制限しなければならない。そこでケイは織機の一方から他方へ杼を飛ばす方法を考え、そのために杼をはじいて滑り溝にそって滑走させる機械を発明した。これが飛び杼である。この発明の結果、布の幅が広くなっただけでなく、当然布を織る速度も速くなった。しかし、発明者であるケイは飛び杼の使用料の支払いをめぐる、いわば特許権裁判に巻き込まれ、職を奪われると織布工の憎悪の標的とされ、不遇に終わった。しかし、飛び杼は繊維工業の織布工程に画期的な革命をもたらし、後々のイノベーションを次々と誘発することになった。

産業の飛躍的発達にとっては、二つの重要な要素がある。一つは、産業自体がさまざまな工程あるいは部門から成り立っていて、その依存関係がお互いのペースを規定していることである。もう一つは、産業の発展を支える技術自体も様々な構成要素から成り立っていて、それらのバランスを取ろうとすることによって進歩が促進されることである。綿工業は大きく言って五つのプロセスから成り立っている。綿花を摘み取るプロセス、綿花をワイヤーブラシで梳きあげるプロセス、それらを均等の緩やかな束にそろえるプロセス。この粗糸を撚りあげる紡糸プロセス、最後にできあがった撚糸を織る紡織プロセス、という五段階である。ケイの飛び杼は綿工業の最終工程で、それまでの倍以上の幅でしかも何倍ものスピードで綿布を織りあげることを可能にした。このスピードと効率は前工程である糸を撚りあげる紡糸工程との間に大きな不均衡を生み出した。この不均衡は工程間のばらつきを生み、品不足や職工の仕事あまりなどを引き起こす。しかし、このばらつきこそが大きなビジネス・チャンスを創りだし、技術的なインバランス(不均衡)を何とか解消しようという強いインセンティブを生むことになる。この意味で、インバランスこそが産業や技術を前進させる原動力である。一つの技術が突出することによって不均衡が生じ、それを解消させるために他の工程の技術が進歩し、またそこで新たな突出が生まれる。こうして技術が進歩していく。つまり、技術が進歩するときには、安定的な調和ではなく、いかに突出や逸脱が重要かを物語る。逆に言えば、突出や逸脱を許さない平均的価値観が支配的になると、技術の進歩やダイナミズムはうまれないことになる。

松原誠一郎「経営革命の構造」(1)

41vzhvxz5bl__ss500_ 技術と市場が変化するたびに、人間は新たなビジネスを考え出してきた。小さな共同体が交易を開始し、新たな市場を創造するには馬車や船が必要であり、馬車や船が長距離に耐えるには、鉄や羅針盤など新しい技術が必要であった、この技術と市場の関係に加えてさらに重要な役割を担ってきたのが、組織であった。とくに、技術が人間の能力を大きく超えてしまった後には、人間は人間の個人的な能力を超える実体すなわち組織を作り上げなければならなかった。

イギリスの技師ジェームス・ワットは、起業家マシュー・ボルトンの後援を得て蒸気機関を完成、商業化していった。この二人の試みは、それまでに進展していた様々な技術とビジネスを統合して、ついに産業革命というかつて経験したこともない世界に人類を導いた。蒸気機関の存在によって、人類は工場制度や鉄道を手に入れた。これによっていままでの生産力や地域といった限界を一挙に拡大した。しかし、この力を適切に発揮するには、人類にはもう一つの挑戦があった。個々人の能力を超えた生産力や地域を制御したり管理したりする組織構築という課題である。本書は、こうした技術と市場の変化の中で、人間がどのように事業機会を発見し、さらにその夢を実現するためにどのように組織や経営の革新を遂行して来たのかを歴史的に追うことを課題としている。この技術・組織・経営革新の歴史は、科学革命に対抗するような経営革命の歴史でもある。

このような視点に関連し、本書では技術とはきわめて社会的な存在であると前提している。例えば、蒸気機関に関して言えば、蒸気とその圧力の存在については古代ギリシャの時代には発見されていた。それが持続的な動力機関となるまでは2000年以上の時が経っている。その18世紀のイギリスにおいてこの動力革命が遂行されたのだが、それはなぜだったのか。蒸気や圧力の存在に気づいても、蒸気機関が実現されるには強力な圧力を閉じ込めることのできる強靭な釜、加工しやすく耐久性のある物質、鉄が必要であった。強度、価格、量産性から言って、当時のイギリスはウェールズに存在した鉄鉱石を木炭路を使うことによって錬鉄として大量に産出した時期にあった。さらに、鉄という素材をかなりの精度まで加工する技術がなければ、圧力を効率的に力に変えることはできない。機械を作る機械、個遺作機械において、当時のイギリスは抜きんでた蓄積を行っていた。とくに商業的なプレッシャーを感じない分野で、この機械の発達が進んだ。それは兵器産業である。18世紀の大砲の中削りをする技術が大きく進展した。この精度が蒸気機関のシリンダーの精度につながった。また、技術的な前提が整っても、革命は更なる前提を要求する。新たな力を必要とする市場の広がりである。当時のイギリスは植民地を大きく拡大していた。このような空間的な広がりに加えて、精神の広がりが決定的であった。

新たな技術と市場が垣間見えた時、そこにはたくさんの不均衡やギャップが生まれる。実はそれを大きなビジネスチャンスだと構想できる担い手がいなければ革命は遂行されなかった。産業革命とは、こうした様々な社会的変化の中で、様々な要因が複合的に重なり合って実現したのである。

技術とはこのようにきわめて社会的な存在であり、いくつかの要素が複合的に実現しないと進歩しない。しかし、同時に、それまで誰も気が付かなかったような点在する要素を、新しい変化をまとめ上げる人間がいなければ進歩の契機は見出だせない技術とは社会的な存在であると同時に、人間ときに企業家と呼ばれる人々の所産である。この意味でイノベーションは、ある時期のある地域に群生する。イノベーションが次々に技術革新を引き込んでいき、集積が集積を呼ぶという好循環が繰り広げられるからである。

2011年10月 6日 (木)

Wishbone Ash「Argus」

318hd30z3cl__sl500_aa300_ 1970年代初頭、主にイギリスから後にハードロックと称されるスタイルのバンドが続々と現れました。このアルバムもそのような流れの中で、ファンの前に届けられたものです。この時期のバンドを聴いていて感じるのは、ハードロックというスタイルが後のバンドと違って所与のものとして捉えていないため、一種の瑞々しさというようなものが感じられます。というのも、このころのバンド、たとえば、このウィッシュボーン・アッシュだったり、ユーライア・ヒープだったり、ディープ・パープルなんかを聴き比べてみると意外とバラエティに富んでいて、一つのスタイルに括ってしまっていいのか迷うほどです。しかも、ディープ・パープルのようなバンドは、初期のフォークソングのようなスタイルから、オーケストラと共演してみたり、様々なことを演っている。それは節操もないほどで、後の世代でバードロックバンドとしてデビューしたクィーン等に比べてみても、クィーンが守るべきスタイルを基本にした上で様々な試みをしていて一貫性があるのは対照的です。視点を変えれば、クイーンの場合は当初から一定範囲の縛りのなかで模索している窮屈さがあるのも確かです。

ディープ・パープルなどのハードロック第一世代といってもいいバンドたちは、ハードロックといわれるスタイルは結果としてそうなったというもので、当初からそういう音楽に縛られていたという感じはありません。ただ、彼らにしても、後には自分で作ったスタイルに自分が縛られていくこともありましたが。

で、前置きが長くなりましたが、このウィッシュボーン・アッシュのこのアルバムも、ハードロック第一世代のそういった性格を色濃く漂わせた作品になっています。かりに、後のヘビー・メタルのバンドの作品と比較してみると、彼らのスタイルとあまりに違うのに驚くほどです。最初の曲の冒頭はフォークソングのようなアコースティックギターの音色でのアルペジオから始まり、ボーカルはシャウトせず高音を澄んだ声で歌い、曲全体を通して歪んだ音は、あまり入って来ません。全体に楽器の音を足して塊のようにしてぶつけてくるといった典型的なハードロック=ヘビメタのサウンドは作ろうとはせずに、それぞれの楽器の線の流れが融け合わずにどっちかというと織り合い、絡み合うというサウンドが志向されています。だから、ハードロックに特徴的なパワフルさというのは希薄で、これに比べると繊細さのようなものが相対的に際立ってきます。そこで、このバンドの代名詞ともなったツインリードギターが、それぞれにメロディが2本の線となって絡み合うのに、当時、よく使われた奏法であるフィードバックのような音を歪ませることはせずにストレートな音で、メロディがよく聞こえるようなサウンドを追求していたと思われます。とはいっても、フォークソングやアコースティックギターのような生楽器の繊細さには及ばず、かれらもエレキギターを手にしてロックという、どちらかというと乱暴な音楽のなかで、相対的にそう聞こえるという範囲内ですが。だから、乱暴で音を人工的に歪ませるロックでありながら、メロディの絡みを繊細に際立たせる相矛盾するようなことをやっていたもので、この作品の中で唯一、ハードロックの定型に近いのが「worrier(戦士)」という曲で、コードをかき鳴らすリフが終始リードする曲で、音量の大きさを一番感じさせる曲ですが、それすらも中間部では一転してやさしい曲調になり、強引に曲を進めることはしていません。

たぶん、この作品は結果としてうまくいったというもので、想像するにエレキギターという楽器を手にした若者が、周囲の人々がみんなロックをやっていたような状況もあって、その中でバンドを始め、最初はその楽器とであった嬉しさで音楽をやっていたが、かれらの本来志向しているというのか、自然と演ってしまう音楽が、そういうものとは少しずれていたために、典型的なハードロックにはならずに、結果としてハードロックとして聞かれることになってしまったが、彼らの音楽をやっていたというのが、この作品だったように思います。だからこそ、このアルバムの収録時間は短いのです。このような作品は例外的なものだから、そんなにたくさんの曲をいれることはできなかった、これで精一杯だった。後から見ればですが。だから、後にCDで復古されたときにボーナストラックが入っていましたが、それは余計で、もともとの作品の例外的な輝きに比べると、ボーナストラックは聴き劣りがして無様です。このバンドは、その後長く活動を続けましたが、絶頂期といわれたライブ盤なども含めて、この作品の他は、あまり聴く気がしません。

2011年10月 5日 (水)

港徹雄「日本のものづくり 競争力基盤の変遷」(14)

3.外注依存度と輸出特化の回帰分析

(1)分析に用いたデータ

(2)1971年データの分析

1970年代以降、日本の機械工業を中心とする輸出産業は急速に国際競争力を強化し、その輸出拡大テンポは加速するとともに、輸出産業の収益性を好転させた。こうした大企業部門を中心とする輸出産業の好調が下請企業にも波及し、下請企業の収益性も改善された。さらに、60年代末からの長期安定的取引の継続によって、下請企業の側では、その焦点の絞られた専門加工分野での生産技術の進歩が着実に進展した。この結果、70年代末になると下請企業のなかにはその加工技術水準において、親企業である大企業の水準を上回るものも増加した。70年代を通じた下請取引の量的拡大と質的向上によって、下請分業システムは輸出産業の起用走力基盤としての基礎を固めたと評価できる。

(3)1980年代の国際競争環境

1980年代後半は、プラザ合意以降の急激な円高と深刻な対外経済摩擦とが進行し、輸出企業にとって極めて厳しい経営環境にあった。しかし、こうした厳しい試練に直面した輸出企業は、コスト削減と非価格競争力の一層の強化に向けた協力を下請企業に要請した。親企業からの激しいコストダウン要請に直面した下請企業では、VA(Value Analysis)/VE(Value Engineering)手法を駆使してプロセス・イノベーションを推し進め、生産コストの大幅な削減を実現した。こうして達成されたコスト削減による利得分の配分については、すでに取引慣行化していた。つまり、VA/VEによるコスト削減効果の内、次期の契約分については2分の1だけ納入価格を削減し、それ以降はコスト削減効果のすべてを納入価格低減に反映させるというものである。このように下請企業へのコスト削減効果の配分比率は少ないが、コスト削減成果の高い下請気企業には発注量が重点的に増大されるため、下請企業はコスト削減に傾注せざるを得なかった。また、1980年代においては、数値制御(NC)工作機械類の性能が一段と向上しその価格も低下したことから、下請中小企業でも、こうした最新の生産設備を積極的に導入して労働生産性を向上させることによって、生産コスト削減を実現させている。

(4)1980年代のデータ分析

(5)1990年代の国際競争環境

1990年代に入ると、経済のグローバル化と生産技術のデジタル化が一層進展した。こうした国際競争環境変化の影響は、産業ごとに濃淡は見られるものの日本の企業間分業システムに根本的な変質をもたらし始めた。とりわけ、90年代後半以降の3DICT革新は、第二の産業分水嶺の終焉をもたらした。

3DICT革新によってもたらされた国際的な競争構造変化の影響は、1990年代末の段階では一部の業種に限定されていた。しかし、21世紀以降になると競争環境変化の影響は広範な産業に波及するようになり、日本の分業システムは重大な岐路に立たされている。

このあと、海外投資や研究開発投資などの細かな分析がまだまだ続きますが、個々の指摘に興味深いものもあり、一読を薦めるに吝かではありません。ただ、姿勢が静観的なので、この分析をもとに、これからを考える参考にするというものではないようです。生産技術の革新により生産量が爆発的に拡大し受給バランスが崩れて、調整のために不景気が発生するという分析はうまい説明とは思いますが、あくまでもこれまでの説明には有効ですが、このスケールが今後に向けて使えるかというと、そこまでの普遍性はないように思います。

というのも、この著者なりのパラダイムというのか仮説設定の前提が明確に示されていないので、データを分析しているのに終始しているかのような印象をうけてしまい。それを理論化し、展開するという本来の学問の部分に弱いように思います。読書の対象としては、秀才のよくできたレポートで、まとまっているが、面白味のない本でした。

2011年10月 4日 (火)

あるIR担当者の雑感(52)~あるファンド

ある人に教えられて、鎌倉投信というファンドの存在を知りました。「いい会社」を応援するということで、短期的な数字だけにとらわれない長期的な視野で投資をおこなっていくという姿勢のようで、証券会社などを通さず直接投資家からの投資を受け、投資先の企業を投資家たちと訪問したれ、ウォーレン・バフェットを意識した投資家とのミーティングを行うなどのユニークな活動により注目され、雑誌やテレビなどのマスコミにも盛んに取り上げられているファンドです。私に、このファンドの存在を教えてくれた人は、初期のさわかみファンドに通じる感じがする、といっていました。

それで、ホームページを覘いてみると、その人と同じような印象を受けました。そして、発行会社のIR担当者に向けて、我こそはいい会社と自負する者は、連絡すべしとでもいうようなメッセージと連絡フォームがありました。こういうのは初めてです。企業に向けて、このように直接呼びかけるという姿勢には、少し驚きましたが、考えてみれば、こういうのはあってもいいものだと思いました。企業のIR担当者としては、少なくとも自分の会社はいい会社であると、当然のように思っているわけで、挑発ともとれる、このメッセージは「やってやろうじゃねえか」というファイトをかきたてずにはいられないものです。(これで挑発されないような担当者でしたら、その人はIRという仕事に向いていないのか、その会社が自他共に認める悪い会社であるか、どちらかでしょう。)ファンドが直接、このように企業に呼びかけるという姿勢は、素晴らしいと思いました。それで、早速、フォームを通して、メッセージを送りました。検討のうえ、回答が来るそうですが、どうなるか、楽しみです。

そして、このファンドの代表が『日本でいちばん投資したい会社』という本を出しているのを知り、早速取り寄せ、読んでみました。最新の金融工学を駆使した外資運用会社で働いているうちに、マネーゲームとして思えない人間が働いているという実態から離れ、短期的な投機によるもうけに奔走することに疑問を感じ、日本という社会に必要とされ、これに応えながら社会と共棲し、幸せを積み重ね経済発展につながるように投資を通じて参加していこうという趣旨が主張されています。実際には、「いい会社」を厳選し、毎日コツコツ投資するというものです。その「いい会社」というのが、「これからの日本に本当に必要とされる会社」「社員とその家族、取引先、顧客・消費者、地域社会、自然・環境、株主などを大切にし、持続的で豊かな社会を醸成できる会社らなろうと努力をしている会社」で「人・共生・匠」を投資基準にするといいます。

そして、実際に投資している「いい会社」を投資の代表の手で紹介していきます。で、どのような点で「いい会社なのか」をそれぞれの会社で説明していきます。

で、私が読んだ印象ですが、まず、この本の出版の性格について、よく分からないので、単純に感想だけを語ることができるのか、判断に迷うところがありますが、一般の流通ルートで出版されているのだから、普通の出版物として感想を言います。というのも、これが鎌倉投信の勧誘パンフレットのようなものとして読む場合と、一般の出版物として読む場合とでは、この場合、言うことが違ってくるからです。勧誘パンフレットの場合は、勧誘するわけですから、勧誘する立場でつくるので、それに対して、どうこうとコメントするのではなくて、出来上がったものが好きか嫌いかということになります。となると、何もいえなくなるので、普通の出版物で客観性のあるものとして考えてみます。そうすると、ファンドの代表者の主張する「いい会社」というのが、イマイチはっきりしてこない。というのも、主張している人が、論理的なところと倫理的なところ、そして感情的な気分というようなものが切り分けられていないのです。だから、結果が先にたってしまうようなことになってしまっている。つまり、「いい会社だから投資している」というのと、「投資したからいい会社だ」というのが、一緒になっているのです。というのも、この本で述べられている「いい会社」とは何かというのが、結局はどうにでも取れることになっているので、「いい会社」かどうかは、オレが選ぶからいい会社なのだ、ということになってしまう。とくに「いい会社」という言い方が、「いい」という価値判断そのものともいえるものなので、「良いか悪いか」、とどのつまりはAとBがあった場合にどっちをとるかというような個人の選択になってしまうことになる。人が「良いか悪いか」を選ぶのは、客観的なものさしに当てはまる、ということからはみ出てしまう。実際の「いい会社」の定義としてなされているのは、複数の人が同じ会社に対して別々の結論を出せるようなものです。

だから、代表が「いい会社」と声高に主張することに内容が伴っていないので、空疎に響いてしまっているのです。仮に、鎌倉ファンドが投資をしないとした会社について、この基準でいえば「いい会社」ではないということになるわけで、我こそは「いい会社」と思うところは応募せよ、という姿勢からすれば、そのような投資しなかった会社に、あなたのところは、こうゆうことから「いい会社」ではありません、ということができるのか、ということになりかねないわけです。そのことに対して、自分の発言に責任を持てるのか。ということです。このような、本来主観的なものが混じり込んでしまうことを避けられない、「良い悪い」ということを基準とし、公然と出版してしまうことによって、あたかも客観的であるかのような外観を装ってしまうことで、「良い悪い」という客観的判断をする神様のようになってしまう。そこに、私はカルト的な信仰宗教の臭いを少し感じてしまうわけです。

これは、言い過ぎかもしれません。起業する人というのは、大体において自分のビジネスに対して強い思い入れがあり、その発露があり、そのこと自体はその経営者の魅力として周囲の人々を惹き込んでいくちからともなるものです。しかし、これは自分で何かの物を作ったりするような場合で、人々から資金を集め、しかも、従来のファンドビジネスの倫理性を批判しているこのファンドのスタンスを考えてみると、微妙な綱渡りとなることは当たり前のことであり、そのことに対してこの著作を見る限り鈍感であることは、言っても言い過ぎではないように思います。

それともう一つ気になるのが、代表の主張していることの、もともと出てきたところが、ネガティブであることです。つまり、このファンドの最初の成り立ちが、こういうことをやりたいから、ということで始めたのではなくて、それまでやってきたことが嫌になったからこのファンドを始めたというのが、そもそもの起因となっていることです。いわば、現実からの逃げです。そのこと自体は悪いこととはいえず、私もそのことを批判するつもりは全くありません。ただ、このファンドの姿勢が倫理性を前面に打ち出し、信頼ということを強く打ち出し、投資する企業などにも、そのようなことを強く求めている姿勢からして、どうなのかということです。そして、このような姿勢によって投資家から資金を引き出しているわけです。そのなかで、自らに対する問い詰めを中途半端にして、そして、あたかも「いい会社」という客観的基準を事業会社に求めている。じっさい、あまりに倫理的にすぎるかもしれなませんが、そこを等閑しているのを見ると、彼らの姿勢というのは、表面的なものに映ってくる。つまり、この著作の中で、嫌悪しているマネーゲームと同じ線にいることになってしまうわけです。つまり、マネーゲームが嫌だから、別のことをするというのは論理的には、そのマネーゲームの文脈にとどまっていることであり、そこで、かれらが打ち出している信頼とか「いい会社」というのは、単にマネーゲームの競争の中で、他のファンドよりも優位に立つための戦術的な差別化ということになってしまうわけです。

もしかしたら、私の言っていることは、単なる言いがかりにすぎず、この著作の完成度が低くて、ここまで私が言ってきたことが誤解に基づいたものかもしれません。

また、それはともあれ、IR担当者としては、このファンドにメッセージを送っているわけで、このファンドの姿勢云々は別として、彼らなりに会社を理解してもらって、「いい会社」とおもってもらって、長期的な投資をしてもらうことは、歓迎すべきことであるので、そのことに全力を尽くすつもりでいます。

2011年10月 3日 (月)

橘玲「大震災の後で人生について語るということ」(4)

4.円神話 日本人なら円資産を保有するのが安心だ

5.国家神話 定年後は年金でくらせばいい

我々の人的資本は一定年齢を超えるとゼロになり、それ以降は金融資本だけで生きていくことになる。この金融資本には年金も含まれる。年金は金融資本の運用を日本国に委託したものだ。日本の高齢者は、不動産を除けば、年金以外の資産はほとんどが円預金である。年金は国が支払いを保証しており、円という通貨は日本という国の信用に基づいて市場で流通している。ともに、日本という国にリスクを集中させているという共通点がある。これは、国家が最も安全な投資先だと考えられているからだ。

しかし、国家にも「財政破綻」「国家破産」というリスクがある。その不安が、いま重苦しく覆っている。1000兆円という日本国の一般債務は莫大だ。経済的に見れば、国家とは再配分の機能であり、お金を吸収しては吐き出すパイプのようなもので、人間と違って寿命がないため、利息を払い続けることで、永遠に借金を借り換えていくことが出来る。しかし、それでも借金を永遠に増やし続けることはできない。小さな地震や雪崩の崩落は毎日のように起きていても、我々はそれが大惨事の前兆とは思わない。しかし、その間にも地殻や雪の斜面は臨界状態に組織化されていき、ある日突然、巨大地震や雪崩となって人々を襲う。日本の財政も、借金が増えるにつて臨界状態に近づいていることに間違いはない。

国家が債務超過になっていること自体は問題ではない。国家というのは、経済的には国民から税金を徴収して再分配するための機能でしかないから、政府が資産を持つ必要はなく、債務超過は必然とも言える。しかし、個人金融資産等を加えた国全体のバランスシートが債務超過になってしまうと、担保以上の借金をしていることになり要注意状態だ。日本は現在のところは要注意状態にないが、少子高齢化を運命づけられているため時価評価では債務超過になってしまう。

といってもキャッシュフローがプラスになっていれば、かつかつでも毎月の返済分だけ稼いでいれば、国債の利払いが出来ているうちは借り換えることが出来る。その指標がプライマリーバランスと呼ばれる、国債発行以外の収入と国債の利払いを除いた支出の比較だ。これがゼロなら、債務の増加は利払いだけになる。

このように、日本の財政状況をバランスシートで見ても、プライマリーバランスで見ても、ただちに破綻することはないとしても、現状は極めて厳しい。

自分と家族を守らなければならない一人の生活者としては、できる限りの備えをしておくしかない。国家破産の場合の経済的な帰結は、原理的に次の三つの経済事象を引き起こす。

①高金利

②円安

③インフレ

この三つが同時に、かつ異常なレベルで発生することになる。国家破産後は、今とは逆の、インフレ、高金利、円安の世界となる。

戦後の日本人の人生設計は4つの神話の上に築かれてきた。

不動産神話

会社神話

円神話

国家神話

これらを前提にしたポートフォリオは、戦後の経済成長に最適化した人生設計だった。このところの日本が急速に閉塞感を強めてきた理由の一つは、多くの人がこの経済的なリスクに気付き始めたからだ。しかし、神話が崩壊した後の新しい人生設計を見つけ出すことが出来ずに、古い設計図にしがみつき、そのことがますますリスクを高め、社会を閉塞させていった。

日本人はリスクを嫌うようになり、安定を求め神話にしがみつくように生きてきた。そのようなリスクを避ける選択が。かえってリスクを極大化することになってしまった。既得権を守ろうと必死になることによって、政府の財政健全化計画は頓挫し、ますます国家破産のリスクが高くなるという悪循環が起きている。国家破産を恐れる人々は声高に批判するが、自分自身がリスクを生む原因になっているのだから、どれほど叫んでも不安が去るはずもない。これこそが、現代の病なのだ。

橘玲「大震災の後で人生について語るということ」(3)

3.会社神話 大きな会社に就職して定年まで勤める

前回はマイホームを金融資産として個人のバランスシートを見たが、ほとんどの人は金融資本からえる収入より仕事で稼ぐお金の方がはるかに多いはずだ。この「働いてお金を稼ぐ力」は、「人的資本」ということになる。一般に、我々がこの世界で生きるために富みを獲得する方法は、次の二つだ、というより、これ以外の方法でお金を稼ぐことはできない。

①人的資本を労働市場に投資して、労賃を得る。

②金融資本を金融市場に投資して、利子・配当を得る。

①の人的資本は、人間の生物としての物理的な特性から、若い時ほど大きく、一定年齢を越えて働けなくなるとゼロになる。これに対し、金融資本は年齢に関係なく蓄積することが可能となる。そこで、年齢によって①と②の構成が変わってくる。若い時は金融資本(貯金)がほとんどないから人的資本がほとんどだが、人的資本は年齢と共に減ってきて、代わりに金融資本が増えてくる。老年になると、年金を含めた金融資本からの収益で生きていくことになる。これは、①と②の分散投資、投資のポートフォリオを適切に管理することが人生設計といえる。

人的資本の典型例として会社員の収入を考えてみると、学校を卒業してから働き始め、定年で退職金を受け取る平均的なサラリーマンの収入カーブは長期債券に投資して、定期的に配当をうけとり満期支払を受けるのと驚くほどよく似ている。サラリーマンになるということは、会社から毎月給料という配当を受け取り、退職金として元金が召喚される債券を買うようなものと、著者はいう。

日本の大手企業は終身雇用制を取っているので、会社に就職した時点で定年までの人的資本の価値が確定する。人的資本を会社に投資して、言わばサラリーマン債権を購入するというのは、有利な取引と言える。戦後の高度経済成長以後、日本では、人的資本のすべてを会社に投資することが人生設計における経済的な利益を最大化する最適戦略だった。

しかし、バブル崩壊後、この「成功の方程式」が揺らぎ始めた。サラリーマンの人生設計は「会社は潰れない」という神話を前提にしていた。

平均的なサラリーマンの生涯年収は3億円とも言われているが、福利厚生や企業年金を加えると企業が支払う人件費コストは1人5億円とも言われている。しかし、ほとんどの人は、これほどの収入があるという実感を持てない。その理由の一つは、これがグロスの収入で、所得税や社会保険料の支払いが含まれている。サラリーマンの人生と言うのは、40代までひたすら会社に貯金して、50代から回収をはじめ、満額の退職金をもらってすべての帳尻を合わすようにできている。前項で、サラリーマンが競って住宅ローンを組んでマイホームを買ったのは、若いうちにまとまった金融資本が作れない以上、それ以外に効率的な資産運用の方法がなかったからとも言える。すなわち、サラリーマンとマイホームこそが、戦後の日本人の人生設計における“最強戦略”だったと言える。定年までに住宅ローンを完済し、退職金をほぼ無税で受け取り、その後は悠々自適の暮らしをするという、たしかに計画通りなら、素晴らしい人生かもしれない。

しかし、この政略には、一つの重大な問題がある。それは会社がつぶれず、定年まで雇用が続くことが前提となっていることだ。つまり、会社が倒産するのは珍しいことではなく、大企業でも品番にリストラが行われるようになり、サラリーマンでいることのリスクが顕在化してきた。

年功序列と終身雇用の日本的な雇用制度では、中間管理職以上は転職の余地は殆どない。中高年サラリーマンは、いったん職を失うと再就職はほぼ不可能と言われている。このように労働市場の流動性がない日本では、経済的なショックで会社から引きはがされてしまうと、1億円以上あった人的資本(サラリーマン債権)がいきなりゼロになってしまう。それに加えて、住宅ローンを借りていてマイホームを購入していたとすると、心的資本は会社に依存しているから、いったん職を失えばその大半が毀損してしまい、金融資本はレバレッジをかけて不動産に投資されているので、天変地異や何らかの理由で不動産の価値がなくなれば債務超過に陥ってしまう。日本には、このようなハイリスクな人生のポートフォリオを持つ人がたくさんいる。1997年のブラックスワンで自殺に追い込まれた人は、このような人々だ。

2011年10月 2日 (日)

橘玲「大震災の後で人生について語るということ」(2)

PART1 日本人の人生設計を変えた四つの神話

1.日本を襲った二羽の「ブラックスワン」

英語ではブラックスワンは、あり得ないことの比喩で、無駄な努力をすることを、ブラックスワンを探すようなもの、という。ナシーム・ニコラス・タレブの『ブラック・スワン』では、この特徴を三つあげている。

①異常であること。つまり、過去に照らせば、そんなことが起こるかもしれないとはっきり示すものは何もなく、普通に考えられる範囲の外側にあること。

②とても大きな衝撃があること。

③異常であるにもかかわらず、私たち人間は、生まれついての性質で、それが起こってから適当な説明をでっち上げて筋道をつけたり、予測が可能だったことにしてしまったりすること。

今回の代診と、それに続く原発事故も典型的なブラックスワンだ。ひとたび、ブラックスワンが現れる、世界の姿は一瞬にして変わってしまう。だから、我々はその意味を知るのは、ずっと後のことだ。著者は、その例として1997年を指摘する。この年、タイのバーツ暴落をきっかけに東アジア・東南アジア諸国が未曽有の通貨危機に見舞われた。世界の金曜市場に混乱は波及し、日本の金融不安を再燃させ、大手銀行や証券会社の破綻が相次いだ。この翌年、日本の自殺者数が異常に増えた。の大部分が無職の中高年男性だった。その理由は失業によって人生設計の経済的基盤が根こそぎ失われてしまったことによる。

2.不動産神話 持ち家は賃貸より得だ

著者し「生きる」ということを経済的に考えるためにバランスシート(貸借対照表)を用いる。この上ではすべての資産は金銭価値に換算されて計上される。当然、不動産もこの中の重要な資産になる。国債を保有していると半年に一度決められた配当が支払われるように、不動産を誰かに貸していると、毎月、家賃を受け取ることが出来る。キャッシュフロー(現金の流れ)は国際でも家賃でも同じような流れになるため、不動産は株式や債券などと同じ金融資産として扱われる。ところで、普通は、この説明に違和感を抱く、それは、マイホームでは家賃収入を受け取ることはなく、投資用不動産とマイホームは違うもので、一緒にするのはおかしいと思うはずだ。経済学では「帰属家賃」という言葉で、マイホームとは自分で自分に家賃を支払うと考える。例えば、時価5000万円のマイホームを所有しているとして、それを賃貸に出せば毎月20万円の家賃収入が得られるとする。しかし、マイホームを賃貸に出せば、本人は別に家を借りて賃料を支払わなくてはいけない。それを考えれば差引ゼロだ。ということは、マイホームでは、家主し賃借人が同じで自分で自分に家賃を支払っていると考える。つまり、マイホームの所有者は帰属家賃と言う見えない収入を受け取っていると考える。つまり、マイホームとは不動産投資であり金融資産そのものということになる。

そこで、金融資産として考えてみると、普通、資産投資ではリスクを考え分散投資が一般的だ。しかし、一般的には、住宅ローンを組んでマイホームを購入すると言う場合には、手持ちの自己資本に借り入れによるレバレッジをかけ、すべてをマイホームという不動産に集中投資することになる。

経済学的には、マイホームと賃貸の違いは不動産投資のリスクを引き受けるかどうかにある。マイホームの場合、不動産価格が上がればその利益は自分にものになるが、その一歩で地価が下がったり、想定外の出来事で不動産が価値を失ってしまうと、その損失をすべて個人で負うことになってしまう。逆に言えば、それだけリスクが高いからこそ、そこから得るリターンが大きくなる。だから、マイホームは金融資産としてみれば、レバレッジをかけたハイリスクな不動産投資なのだ。しかし、これまで、最も安全で有利と信じられてきた。その理由は日本の地価が80年代半ばまで年率15%で右肩上がりの上昇を続けてきたことによる。このような環境では、無理をしてでも住宅ローンを借りてマイホームを取得し、不動産価格が上がれば買い換えて、個人は急速に金融資産を増やしていくことが可能だった。しかし、90年代のバブル崩壊で地価は下落に転じ、「不動産神話」は終わりを告げた。それ以後、マイホームを買った人はひとすら損をし続けた来た。

一方、賃貸に目を向けてみると、不動産投資として首都圏の物件では一般に5%の実質利回りが目安とされている。しんし、実際には、価格の安いワンルームマンションの利回りが高く、分譲マンションや一戸建てになるにしたがって利回りは安くなる傾向にある。これは、ワンルームマンションの方が物件価格が下落するリスクが高いためだ。投資用ワンルームマンションは魅力的な利回りを維持するために高い家賃を設定しなければならない。これに対して、一戸建てやファミリー向けマンションは借り手がいなくて家賃が下がる。これは、ファミリーに持ち家志向が未だに強いためだ。さらに90年代以降、不動産価格が下がった都心部に大型のタワーマンションが建てられるなど、人口が減少しているのに不動産物件が増えているため、貸し手は慢性的な空室リスクに悩まされ、賃料は低下傾向にある。このように地価が恒常的に下落している日本では賃貸生活が有利になる一方で、マイホームはますますハイリスクな投資になってしまった。

家を持つという志向には経済的な要因以外の動機があるため、そのこと自体は否定できない。しかし、リスク分散という視点から見れば、リスク耐性の低い個人が、特定の不動産に高いレバレッジをかけて金融資本のすべてを投じるというのは極めて危険な選択だ。住宅ローンを払い続けている限りは不動産投資のリスクは顕在化しない。しかしいったん失業により収入がなくなると、マイホームを売っても住宅ローンの返済はできないから、人生の経済的な基盤を一挙に失ってしまう。我々が、マイホームのリスクから目を逸らすのは、この事実を直視するのが不快だから。

2011年10月 1日 (土)

橘玲「大震災の後で人生について語るということ」(1)

51dhdmcz6el__ss400_ 著者は、3.11の東日本大震災と14年前の見えない大災害によって戦後社会は終わり、新しい社会に移行し始めたという。しかし、ほとんどの人はこのことに気付かず、3.11によって、はじめて、これまで目をそむけていた人生の経済的なリスクに正面から向き合わざるを得なくなったと言う。

ここで、リスクについて、著者は「欲望と同様に、それによってひとびとの行動を規定するもの」と定義する。危険に遭遇すると、生き物は反射的に身を守ろうとする。同様に、我々も無意識のうちに危険を回避する選択をしていて、リスクに対する耐性(許容度)はひとによって大きく異なる。ひとは誰でも、危機に際して最悪の事態を想定し、そのなかで最善の選択肢を探そうとする。このときに、最悪事態はそのひとのリスク耐性によって大きく異なってくる。たとえば、震災のさいに買い占めに走ったひとは自分が抱えているリスクをリスクが管理できる許容範囲を超えたと感じたことから不安に陥ったためで、これを倫理的に批判しても意味はない。この問題を解決するには、一人ひとりのリスク耐性を上げるか、リスクに強い社会を作るしかない。

著者は、日本人も日本社会もリスクに対して脆弱になってきていると警鐘を鳴らす。日本社会をいま大きな不安が覆っているとすれば、そのひとつの(そしておそらくはもっとも大きな)理由は、日本人の人生設計のリスクが管理不能になってきたからだと言う。戦後の日本人の人生設計を支配してきた四つの神話が崩壊してきた。それは「不動産神話」「会社神話」「円神話」「国家神話」だという。しかし、我々は、いまだに神話なき時代の人生設計を見つけることが出来ず、朽ちかけて染みだらけの設計図にしがみついている。役立たずとなった設計図から生ずるリスクが、日本人の行動を規定している。皮肉なことに、我々はリスクを避けようとして、そのことで逆にリスクを極大化させ、それが不安の原因になっている。3.11以後を生きるとは、この神話を奪われた世界を生きることに他ならない。

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