あるIR担当者の雑感(52)~あるファンド
ある人に教えられて、鎌倉投信というファンドの存在を知りました。「いい会社」を応援するということで、短期的な数字だけにとらわれない長期的な視野で投資をおこなっていくという姿勢のようで、証券会社などを通さず直接投資家からの投資を受け、投資先の企業を投資家たちと訪問したれ、ウォーレン・バフェットを意識した投資家とのミーティングを行うなどのユニークな活動により注目され、雑誌やテレビなどのマスコミにも盛んに取り上げられているファンドです。私に、このファンドの存在を教えてくれた人は、初期のさわかみファンドに通じる感じがする、といっていました。
それで、ホームページを覘いてみると、その人と同じような印象を受けました。そして、発行会社のIR担当者に向けて、我こそはいい会社と自負する者は、連絡すべしとでもいうようなメッセージと連絡フォームがありました。こういうのは初めてです。企業に向けて、このように直接呼びかけるという姿勢には、少し驚きましたが、考えてみれば、こういうのはあってもいいものだと思いました。企業のIR担当者としては、少なくとも自分の会社はいい会社であると、当然のように思っているわけで、挑発ともとれる、このメッセージは「やってやろうじゃねえか」というファイトをかきたてずにはいられないものです。(これで挑発されないような担当者でしたら、その人はIRという仕事に向いていないのか、その会社が自他共に認める悪い会社であるか、どちらかでしょう。)ファンドが直接、このように企業に呼びかけるという姿勢は、素晴らしいと思いました。それで、早速、フォームを通して、メッセージを送りました。検討のうえ、回答が来るそうですが、どうなるか、楽しみです。
そして、このファンドの代表が『日本でいちばん投資したい会社』という本を出しているのを知り、早速取り寄せ、読んでみました。最新の金融工学を駆使した外資運用会社で働いているうちに、マネーゲームとして思えない人間が働いているという実態から離れ、短期的な投機によるもうけに奔走することに疑問を感じ、日本という社会に必要とされ、これに応えながら社会と共棲し、幸せを積み重ね経済発展につながるように投資を通じて参加していこうという趣旨が主張されています。実際には、「いい会社」を厳選し、毎日コツコツ投資するというものです。その「いい会社」というのが、「これからの日本に本当に必要とされる会社」「社員とその家族、取引先、顧客・消費者、地域社会、自然・環境、株主などを大切にし、持続的で豊かな社会を醸成できる会社らなろうと努力をしている会社」で「人・共生・匠」を投資基準にするといいます。
そして、実際に投資している「いい会社」を投資の代表の手で紹介していきます。で、どのような点で「いい会社なのか」をそれぞれの会社で説明していきます。
で、私が読んだ印象ですが、まず、この本の出版の性格について、よく分からないので、単純に感想だけを語ることができるのか、判断に迷うところがありますが、一般の流通ルートで出版されているのだから、普通の出版物として感想を言います。というのも、これが鎌倉投信の勧誘パンフレットのようなものとして読む場合と、一般の出版物として読む場合とでは、この場合、言うことが違ってくるからです。勧誘パンフレットの場合は、勧誘するわけですから、勧誘する立場でつくるので、それに対して、どうこうとコメントするのではなくて、出来上がったものが好きか嫌いかということになります。となると、何もいえなくなるので、普通の出版物で客観性のあるものとして考えてみます。そうすると、ファンドの代表者の主張する「いい会社」というのが、イマイチはっきりしてこない。というのも、主張している人が、論理的なところと倫理的なところ、そして感情的な気分というようなものが切り分けられていないのです。だから、結果が先にたってしまうようなことになってしまっている。つまり、「いい会社だから投資している」というのと、「投資したからいい会社だ」というのが、一緒になっているのです。というのも、この本で述べられている「いい会社」とは何かというのが、結局はどうにでも取れることになっているので、「いい会社」かどうかは、オレが選ぶからいい会社なのだ、ということになってしまう。とくに「いい会社」という言い方が、「いい」という価値判断そのものともいえるものなので、「良いか悪いか」、とどのつまりはAとBがあった場合にどっちをとるかというような個人の選択になってしまうことになる。人が「良いか悪いか」を選ぶのは、客観的なものさしに当てはまる、ということからはみ出てしまう。実際の「いい会社」の定義としてなされているのは、複数の人が同じ会社に対して別々の結論を出せるようなものです。
だから、代表が「いい会社」と声高に主張することに内容が伴っていないので、空疎に響いてしまっているのです。仮に、鎌倉ファンドが投資をしないとした会社について、この基準でいえば「いい会社」ではないということになるわけで、我こそは「いい会社」と思うところは応募せよ、という姿勢からすれば、そのような投資しなかった会社に、あなたのところは、こうゆうことから「いい会社」ではありません、ということができるのか、ということになりかねないわけです。そのことに対して、自分の発言に責任を持てるのか。ということです。このような、本来主観的なものが混じり込んでしまうことを避けられない、「良い悪い」ということを基準とし、公然と出版してしまうことによって、あたかも客観的であるかのような外観を装ってしまうことで、「良い悪い」という客観的判断をする神様のようになってしまう。そこに、私はカルト的な信仰宗教の臭いを少し感じてしまうわけです。
これは、言い過ぎかもしれません。起業する人というのは、大体において自分のビジネスに対して強い思い入れがあり、その発露があり、そのこと自体はその経営者の魅力として周囲の人々を惹き込んでいくちからともなるものです。しかし、これは自分で何かの物を作ったりするような場合で、人々から資金を集め、しかも、従来のファンドビジネスの倫理性を批判しているこのファンドのスタンスを考えてみると、微妙な綱渡りとなることは当たり前のことであり、そのことに対してこの著作を見る限り鈍感であることは、言っても言い過ぎではないように思います。
それともう一つ気になるのが、代表の主張していることの、もともと出てきたところが、ネガティブであることです。つまり、このファンドの最初の成り立ちが、こういうことをやりたいから、ということで始めたのではなくて、それまでやってきたことが嫌になったからこのファンドを始めたというのが、そもそもの起因となっていることです。いわば、現実からの逃げです。そのこと自体は悪いこととはいえず、私もそのことを批判するつもりは全くありません。ただ、このファンドの姿勢が倫理性を前面に打ち出し、信頼ということを強く打ち出し、投資する企業などにも、そのようなことを強く求めている姿勢からして、どうなのかということです。そして、このような姿勢によって投資家から資金を引き出しているわけです。そのなかで、自らに対する問い詰めを中途半端にして、そして、あたかも「いい会社」という客観的基準を事業会社に求めている。じっさい、あまりに倫理的にすぎるかもしれなませんが、そこを等閑しているのを見ると、彼らの姿勢というのは、表面的なものに映ってくる。つまり、この著作の中で、嫌悪しているマネーゲームと同じ線にいることになってしまうわけです。つまり、マネーゲームが嫌だから、別のことをするというのは論理的には、そのマネーゲームの文脈にとどまっていることであり、そこで、かれらが打ち出している信頼とか「いい会社」というのは、単にマネーゲームの競争の中で、他のファンドよりも優位に立つための戦術的な差別化ということになってしまうわけです。
もしかしたら、私の言っていることは、単なる言いがかりにすぎず、この著作の完成度が低くて、ここまで私が言ってきたことが誤解に基づいたものかもしれません。
また、それはともあれ、IR担当者としては、このファンドにメッセージを送っているわけで、このファンドの姿勢云々は別として、彼らなりに会社を理解してもらって、「いい会社」とおもってもらって、長期的な投資をしてもらうことは、歓迎すべきことであるので、そのことに全力を尽くすつもりでいます。
« 橘玲「大震災の後で人生について語るということ」(4) | トップページ | 港徹雄「日本のものづくり 競争力基盤の変遷」(14) »
「あるIR担当者の雑感」カテゴリの記事
- 決算説明会見学記~景気は底打ち?(2020.01.25)
- 決算説明会見学記─名物経営者の現場復帰(2019.07.29)
- 決算説明会見学記~名物経営者も思考の硬直が?(2019.04.25)
- 決算説明会見学記─誰よりも先にピンチに気付く?(2019.01.23)
- ある内部監査担当者の戯言(18)(2018.12.22)
« 橘玲「大震災の後で人生について語るということ」(4) | トップページ | 港徹雄「日本のものづくり 競争力基盤の変遷」(14) »
コメント