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2011年10月13日 (木)

松原誠一郎「経営革命の構造」(7)

第2節 製鉄王アンドルー・カーネギー

アンドルー・カーネギーとジョン・ロックフェラー。この二人は、当時最先端であった鉄道の様々なパワーを最大限に利用したハイテク人間であった。そして、彼らこそ19世紀アメリカに出現した「規模の経済」の意味をもっともよく理解したビジネス・マンであった。

貧しいスコットランド移民の一家に一員として幼くしてアメリカに渡った彼は、1853年17歳のときにペンシルバニア鉄道のピッツバーグ管区長トーマス・スコットと出会う。そこで12年間勤務し、あらゆる意味での「ビジネスとは何か」を学んだ。ペンシルバニア鉄道はエドガー・トムソン社長の下で、資産・雇用・運転資金・投下資本・支出などあらゆる指標においてアメリカで最大の企業に成長しつつあり、もっとも進んだ管理機構を持たざるを得ない企業であった。カーネギーはこのペンシルバニア鉄道がまさに大きく成長するときに入社し、複雑で巨大な企業組織の経営管理と財務戦略を眼前に学び、多くの知己縁故を得た。急成長企業にたくさんの才人が集まる。この時期のペンシルバニア鉄道にも多くの優れた才人や企業家たちが集まっていた。巨大企業の運営にとってあらゆるコストを委細漏らさず理解することが、利益を上げる原則であり、そのコストを理解した上で、最大の積荷、最高の運転本数といった規模の経済を追求することがペンシルバニア鉄道の成功の本質だった。鉄道において規模の経済性を実現するということは、多くの積荷を積んだ貨車を大量に運行することであり、そのためには、厳格な組織運営と迅速な意思決定が必要となる。カーネギーはこの原則を徹底した。

カーネギーのキャリアにとってペンシルバニア鉄道はビジネスの原則以外にも、貴重なものを学ばせた。「投資の魔術」である。1856年にカーネギーはスコットの誘いで、はじめて投資を行った。

彼は35歳までにアメリカでも有数の投資家となっていたが、投機ではなく、きちんとした投資によって利潤を上げること、効率的な組織と適切な経営があれば、企業は初期投資に十分に見合う利潤をあげられるはずであるという強い信念を実現しようとした。彼はベッセマー転炉を導入して大規模な製鉄工場を建設することを決意する。その背景には銑鉄に代わって鋼鉄が鉄道レールの主流になるのは時間の問題であり、その最大の得意先はペンシルバニア鉄道のであるという読みがあった。その意味でカーネギーの製鉄業進出は確実な計算に基づくものだった。カーネギーは新しい製鉄所を建設するに当たって、二つの原則をたてた。ひとつは、資本金は株式でなくパートナーシップで調達し、常に絶対異数を維持すること。もう一つが、鉄道で学んだ「コスト、規模そして迅速性」の原則を製鉄工場で実現することである。とくに鉄道の原則導入こそカーネギーがアメリカいや全世界にもたらした経営革命であった。カーネギーは、当時の製鉄業がイギリスの綿工業と基本的に変わらないスタイルで経営されていることに気づいていた。原料採掘から銑鉄、鋳造、錬鉄、加工、販売などの各工程がそれぞれバラバラの企業や個人によって担われ、しかもその各工程間に中間業者が存在するという状況だった。こうした形態のためにだれも正確なコストを把握していない。彼は世界最大の製鉄企業を創り上げるに当たって、あらゆるコストを把握する手法と組織を鉄道から移入した。確実なコスト計算に基づき、生産の流れに従ってよどみなく設計された世界でもっとも効率的な工場は、彼の尊敬するペンシルバニア鉄道社長の名にちなんで、エドガー・トムソン工場と名付けられた。カーネギー・スティールの成功は彼の資金力と人的ネットワークによるものだけではない。何よりも、最新鋭の巨大工場を建設し、世界でもっとも効率的な組織を構築することによっても「規模の経済」を実現したことによるものである。彼は鉄道で開発された大規模組織の運営原理というイノベーションを製造業に応用することによって、いまだかつてないほどの成功を実現したのである。

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